古のフェリクシア

#07.選択の港


 独特な臭いのする潮風が鼻の下を撫でていく。はじめは苦手だったが、十年もここにいると流石に慣れてきた。
 重い荷物を下ろし、上体を上に空に向けて思い切り伸ばす。とてもいい天気だ。風も心地よい程度で荒ぶってはいない。
「セスー、こっち手伝ってくれ!」
「はいよ!」
 自分の持ち場の荷物を運び終え、セスは自分を呼ぶリドラの許へと駆け寄った。

 セスは一仕事終えた後、リンゴを絞った冷たいジュースを飲みながら散歩をするのが好きだった。海からの風が、汗ばんだ身体にひんやりと心地よい。
 小さな農村からアデーネに来た一年目は、全てが輝いて見えた。好奇心に満ち満ちた希望溢れる気持ちで、仕事の要領が分からず落ち込んでも、毎日知らない味や、知らない景色に胸を躍らせていた。二年目からは、どこか物足りない日々を送っていた。アデーネを満喫し尽くして、ずっとユリヤ大陸ではない、どこかの遠い世界を夢見ていた。五年が過ぎると、アデーネの居心地がよくなった。彼にとってアデーネは、小さな村に次ぐ、第二の故郷だ。特に目新しいものがあるわけでもないが、石畳の港町を歩いていると、心が落ち着いた。地面に足がなじんでいるらしい。リンゴジュースとバンディ大陸から輸入した芋の焼き菓子を手に、のんびりと歩く。
 そんな時、ちらほらと歩く人の中に、思いも寄らぬ姿を見つけ、セスは絶句した。なぜ彼女がここにいる。見間違いか、それとも幻を見たのか――どちらにせよ、セスにはあり得ない話であった。帽子をかぶってはいるものの、鍔の下からのぞく銀の髪はやたら滅多ら見るものではないし、幻を見るほど疲れてはいないはずだ。ではなぜ彼女がここに、しかも見るからに人相が悪く堅気とは思えない大男と歩いているのだろうか。分からない。全く持って分からない。声をかけるべきだろうか。後を追うべきだろうか。疑問はともかくとして、気になっているのは確かだ。
 よし、声をかけよう。そう決めて走り出した。しかし時はすでに遅かったようで、目立つはずの彼女の姿を見失ってしまった。
 ――でも、もしかしたらまたすぐ見つかるかもしれない。
 セスはひとつ息を吐き、踵を返した。
 彼が見た目立つ少女――フィラは、彼にとって幼なじみというか、妹のように思っている存在である。十年前、彼女が五歳で自分が出稼ぎのために村を出る十三歳の時まで、仲良く遊んでいたものだ。セスが村を出ると告げたとき、フィラは泣いて引き留めようとしていた。あまりにも幼かった彼女にその記憶があるか定かではないが、あれだけ懐いていたのだから少しは覚えてくれているのではないかという、根拠に乏しい希望を抱いていないわけでもない。
 彼女の両親も、そしてセスが覚えている限り彼女の親族にも、銀髪の者はいなかった。だからどんなに彼女の母親が否定しようと、不貞の末にできた子だとかいうようなことを噂されていた。しかしセスやセスの両親――シオやサナは、その親子にもわけ隔ててなく接していた。村長一家がまずその態度を示さなければ、フィラたち親子は孤独に生きていただろう。
 だが現状として、この港町にフィラは来ていた。もしかしたら旅行かもしれない。お使いかもしれない。ひょっとすると糾弾から守ってくれる人がいなくて、村から出て行かざるを得なかったのではないか――そんな考えすらよぎる。
 何にせよ、彼女と話さないことには憶測の域を出ない。十年という時間は、フィラやセスにとっては気が遠くなるくらいには長い時間だ、何があってもおかしくない。
 ――今日の仕事が終わったら、捜してみよう。
 改めてそう決意して、セスは仕事仲間に挨拶をした。

★☆★☆

 町が近づいてきた。楽しそうに笑いながらメリアが言った。確かに嗅いだことのない香りが鼻を触っていく。
「この香り?」
「どんな香りがする?」
「うーん……変な感じ。いい匂い……とは言えないかなぁ」
 眉根を寄せつつ答えると、メリアが白い歯を覗かせた。
「海が初めてなんだね。そういう子は、だいたいそんな反応をするよ。あたしもあんまり好きじゃなかった」
 好きじゃないという割には嬉しそうな様子なので、フィラはなんだか腑に落ちなかった。
「ディオもそうだったの?」
「俺は別に気にならねぇが、海からの風が強いから、少し冷えるな」
 あと、べたべたする。そう語る表情は若干嫌そうで、それが少しだけおかしかった。
 ディオはメリアほど明るくはないし、いつも不機嫌そうな顔をしているような印象を受けたけれど、実際はそうでもないと気が付いたのは、付きっきりで看病していた時だろうか。優しい目をするし、今みたいに嫌そうな顔もする。そのような変化は微妙だから、初対面の人やさして親しくない人には誤解されるだろう。彼自身それを訂正する素振りも見せないから、今まで何度も何度も誤解されながら生きてきたのかもしれない。
「そうなんだ」
 今のフィラにとって一蓮托生の相手と言っても過言ではないディオの微かな変化が分かるようになって、フィラは少しだけ嬉しかった。港町への良くはないイメージと共に目を細めると、ディオがさらに眉をひそめる。
「何がおかしい」
「何も」
 顔を逸らしたディオが舌打ちをしたのが聞こえた。
「まあいい悪いはともかく、船に乗るのは初めてだよね」
「そうですね」
「揺れるからね、酔うよ」
 フィラは初めて馬車に乗ったときのことを思い出した。平坦に見える道もがたがたしていて、ものすごく気分が悪くなった。馬車を降りても、しばらくは唾液が止まらなかったし、頭も痛かった。あれをまた経験しなくてはならないのかと思うと、心底げんなりした。
「あはは、まあアデーネは、セレストほど大きくはないけど、船乗りや商人が寝る宿くらいはあるよ。船に乗る前に、きちんと身体は休めたらいい。万全な体調は、乗り物酔いを軽くしてくれるよ、あとは、酔いに効くハーブを用意するとか。アデーネに売ってあればいいんだけどね」
 メリアには呪いをかじっている。戦いに傷ついたときに使うのだそうだ。
「先に船だ。切符を手に入れないことには、バンディへは行けない」
「そうだね。船が見当たらないし、いつ来ていつ出航できるのかも確認しといた方がよさそうだね」
 髪をバタつかせる風の源には、青く広大な海が広がっていた。
 三人は波止場近くにある木造の小屋に入った。そこに暇そうに舟をこいでいる男がいる。ディオが軽く机を叩き、色黒の痩せ細った男を起こした。
「おおっと、何か用ですかな?」
「バンディ大陸に行きたい。切符を売っているか?」
「ええ、ええ、売っていますとも。ここからならソフィア行きだな。さっき出航したばかりだから、最短で明後日入港する」
「分かった。先に切符は買えるか?」
「一人片道五百ベリルだ」
 五百ベリルと聞いて、フィラは息を呑んだ。村で悠に一年は暮らしていけるではないか。このユリヤを出るためには、それだけの費用がかかるということだ。ディオは金を机に置き、切符を三枚受け取った。
「仕方がないね。足止めされてる間は、満喫しようじゃないの」
 小屋を出て不機嫌そうなディオとは対照的に、メリアは嫌に陽気で上機嫌だ。
「焦っても仕方がないでしょう、ディオ。ほらフィラ、ここは港だからね、魚がおいしいんだよ。魚、食べたことある?」
「えっと……川の魚なら」
「じゃあ、海の魚を食べようじゃないか。貝とかもいるよ」
「え、カイ?」
 曰く、二枚の固い殻に覆われた生物らしい。妙なものしか想像できず、フィラの頭上にはクエスチョンマークばかりが大量に浮かぶ。
「あと、バンディの食べ物とかも入ってくるんだけど……それは今から行くから、こんなところじゃなくて現地で楽しんだ方がいいね」
「そうですね」
 メリアに触発され、フィラも少し楽しみになってきた。
「それでフィラ、どうする? みんなで回る? それとも自由に歩く?」
「えっと……」
 メリアに振られ、困ったようにディオを見上げる。観光地ではないので法外な値段で変なものを掴まされる心配は少ないだろうし、治安も悪くはない。一人で歩くのもいいかもしれない。だが、一人になることへの不安はある。その間にもしものことがあったら――。そんなフィラの気持ちを知ってか知らずか、ディオは辺りを見回し、軽くうなずいた。
「人の目があるから、危険はないはずだ」
「分かった。じゃ、宿は探しておくから、空が赤く染まったらここに集まるのよ。いいわね」
「うん」
 そこで二人に手を振り、別れた。
 商店のようなところへ行き、メリアから聞いた「カイ」とやらの串焼きを買ってみた。固い殻しか想像していなかったけれど、売っているのは中身だけのようで、コリコリとした食感の、想像より柔らかい食べ物だった。塩味がよく効いており、美味である。食べ終えて串を捨てる場所を律儀に探している時、フィラを呼ぶ声がした。男の声だ。ディオではない。キリウでもない。誰だ。声の主を捜してキョロキョロしていると、後ろから肩を叩かれた。
「フィラ、やっぱりフィラだ!」
「え、あの……」
 人懐っこく話しかけてきた相手を当然フィラは警戒する。浅黒い肌に愛嬌のある笑顔を浮かべている目の前の男性に、若干の懐かしさを抱きはするものの、はっきり分からなければ同じように対応するのも変だろう。
「久しぶりだなぁ。俺を覚えてない? 無理もないかな、十年振りだし」
「十年振りって、もしかして、セス?」
「そうだよ、フィラ!」
 その一言で、フィラは一気に警戒を解き、セスに抱きついた。
「出稼ぎに行ってたのは知ってるけど、まさかアデーネだったなんて。元気そうね」
「そっちこそ元気そうでよかった。これからどこへ行くの?」
 セスから離れ、変わらない茶色い目を見つめる。
「ソフィアって言ってたっけ? バンディ大陸への船を待っているところなの。本当はネストリアに行きたいんだけど。一緒にいる人の地元に向かってるのよ」
「へえ、ネストリアは遠いね。大変そう。とりあえず、その辺歩きながら話そうよ。案内できる」
「本当? ありがとう」
 セスがフィラの手を取った。

 フィラと石畳を歩きながら、とりとめのない会話をする。幼馴染とはいえ、一緒に歩くのは本当に久しぶりで、不思議な気持ちになった。
「それにしても、本当にびっくりした」
「俺もだよ。ものすごくびっくりしたよ。寿命が縮んだかと思った」
 口許に右手を添えて微笑む姿は、十年前とほとんど変わらない。
「それは言い過ぎだよ。ここではどんな仕事をしてるの?」
「荷物の運搬作業が中心だよ。力仕事なんだ。ほら」
 セスはフィラに立派な力こぶを見せた。フィラは目を丸くした。
「すごい。逞しくなったのね」
「昔は痩せてたからね」
「大変なの?」
「最初はきつかったけど、今はそうでもないよ。体力付いたし」
「そうなんだ」
 風が吹き、フィラの髪を揺らす。銀の髪は相変わらず美しく輝いている。フィラはというと、苦笑いを浮かべていた。
「海って、なんていうか、ものすごく独特な臭いがするのね」
「うん、海の臭い、最初は俺もものすごく苦手だった」
「やっぱりそうなんだ。メリアさんが、初めて海を見る人は皆そう言うって言ってた」
「はは。一緒にいる人の地元に行くって言ってたけど、あの身体が大きい人のところ?」
「彼の地元は聞いてないなぁ。もう一人一緒にいる人がいるの。ネストリアにあるアスカルって村の戦士って言ってた。頼りになる女の人よ」
 それは随分目立つご一行である。一人は銀髪で、一人は人相の悪い大男で、一人はアスカルの女戦士。アスカルのことは知らないけれど、ネストリアと聞けばセスとは比べものにならないくらい肌の黒い人種を想像する。
 セスはより印象に残っている男の顔を思い出しながら、口を開いた。
「フィラ、あの男の人とは一緒にいない方がいい。あの目は普通じゃないよ。人を殺すことをなんとも思っていない目だ。少なくとも、俺にはそう見える」
 セスはあの赤い男がおっかなかった。
「セスは、あの人のこと――ディオのこと知らないから。ディオが死にそうになりながらも私を守ってくれてることを知らないから。シオさんがディオを信頼して私を託したことを知らないから。だからそんなことを言えるんでしょう? 私も、私だってディオを一番に信頼しているの」
 一瞬でフィラの表情が変わる。悲しみに満ちた目で見つめられ、セスは罰が悪くなった。
「そりゃ、そんなことがあったなんて、知らないよ。あの人と会うのはこれが初めてだし、フィラのことだって十年は知らないんだから」
「だったら尚更よね。知らない人のことを勝手に決めつけるのは、よくないと思う」
 その目とは、これ以上向かい合いたくなかった。彼女は確かに幼馴染だけれど、十年の間にこのような目を覚えたのだ。それほどの何があったというのだろう。そのことを問うことができず、彼女はただ小さく「ありがとう」とセスに告げ、背中を向けて行ってしまった。

 考えてみれば、確かにセスは少々感情的になってしまい、フィラの気持ちをきちんと想像していなかった。それは反省すべきだろう。セスはフィラの十年間を知らないのだから。落ち込んだ足は、とぼとぼと職場に向かって歩く。
 その足が職場に着いた。確かにそこへ向かって歩いていたけれど、セスの気分としては、どこにも着いてほしくなどなかった。が、そうも言っていられそうにないようだ。何かが倒れているのを認識した。そこに近づき地に膝をつけ確かめる。倒れている『何か』が顔見知りだったのだ。
「おい、リドラ、リドラ。おいどうしたんだよ」
 慌てて血塗れのリドラの鎖骨付近を軽く叩きながら呼びかけた。腹部が赤く染まっている様子からして、そこに大きな傷でもあるのかもしれない。リドラの身体は小刻みに震えている。
「う、セス……あ、お……」
「あお? あおがどうしたって? おい、リドラ!」
 それ以上呼びかけても、同僚から返事はなかった。微かな掠れた声で彼が伝えたがった「あお」とは何のことなのか。いったい誰に殺されたのか。そいつの名前なのか。だがセスは、「あお」に心当たりがない。口からゴポポという不吉な音を立てて血を溢れさせ、そのままリドラは力なく首を傾けた。身体から痙攣さえ消えた。
 どういうことだ。動揺を隠せないまま周囲を見回すと、見慣れない影がまた一人、セスの同僚を刃物のようなもので刺しているのを目撃した。それもあのフォルムは、一番身体が大きくて屈強で力持ちのバリーだ。初めて目の前で凄惨な姿で人が死んでいくのを見てショックだというのに、バリーよりも明らかに華奢な男がバリーをものともせずに刺しているのを見て、更なる衝撃を受けた。
 口は開いている。けれど、焦りと恐怖で震えるばかりで言葉が出てこない。なんと言えばいいのか分からない。そもそも自分は喋ることができたのだろうか。そんなセスの様子は意にも介さず、バリーを刺した男はバリーからゆっくりと刃物のようなものを抜き、ゆっくりとこちらに顔を向けた。逆光ではあるが、はっきりと見える。その目と髪は青く、身にまとっている服も青い。リドラの言っていた「あお」とは、正しく彼のことだったのだと理解した。
「君は? 君がセスか?」
 男のテノールの声は、まるでこのような状態など初めからないかのように穏やかで優しい。それが一層セスの恐怖心を強くする。青い男はセスの許へ、ゆっくりと歩みを進める。セスは立ち上がることもできずに、ただリドラの死体のそばで青い男を見上げ、青い男の問いかけに何度もうなずくだけだった。
「そうか。君がセスか」
 男は満足げに目を細めた。とても温厚そうな表情である。
「君に頼みがあるんだ」
 語りかけながら、男はゆっくりと歩み寄ってきた。セスは恐怖でその場を動けないでいる。
「君は、フィラと仲がいいだろう? だから、彼女を僕の許に連れてきてほしいんだ。僕のことを知らないから、とても怖がられる。分かるだろう? お願いだよ。一日だけ待つから」
 断ったらどうなるかは、想像に難くない。セスは首を縦に振るしかなかった。
「そうか、ありがとう。では明日、同じ時間にここで待っているよ」
 青い男は人なつこい笑みを浮かべると、踵を返した。セスは黙って男の背中を見送った。
 青い男の後ろ姿が見えなくなって、ようやく息を吐く。そのときに、肌がじっとりと濡れていることに気が付いた。そこまで怖かったのか。
「フィラ、ごめん」
 ほんの数十秒のことであるはずなのに、何年も声を出していないかのような感覚だった。

 日が明け、セスは一番にフィラを捜した。脳裏に焼き付いたリドラの遺体や、バリーの最期の瞬間が頭から離れない。セスだって、自分の身はかわいいのだ。
 フィラはソフィア行きの船に乗ると言った。セスの記憶が正しければ、船は早くとも明日でなければ、アデーネには入港しない。そして青い男の提示した期限までは一日あるわけだ。幼馴染であるセスの言うことであれば、フィラは信用するであろう。だが、問題が皆無であるわけではない。
 そんなセスの複雑な気持ちなど関係ないといわんばかりに、セスが探しているはずの銀の髪が視界に飛び込んできた。
「フィラ!」
「セス……」
 銀の髪を揺らして振り返ったフィラは、居心地の悪そうな顔をしていた。昨日あのような別れ方をしたのだから、当然と言えば当然だろう。セスは努めて、平静を装った。
「ごめん、昨日は。フィラに何が起きてたのかも聞かないで、フィラの十年間も聞かないで、酷いことを言ったと思う。本当にごめん」
「ううん、こっちこそごめんなさい。ディオのこと悪く言われたと思ったら、腹が立っちゃって。まだまだ子どもね」
 生え際がじっとりとしてきて、セスは前髪を掻き上げた。
「いいんだ。お詫びと言っては何だけど、お茶しよう。おごるよ。そこで、フィラのこともきちんと聞きたいんだ」
「分かった、ありがとう」
 セスはたまに足を運ぶ喫茶店へとフィラを案内した。相変わらず果物が好きなフィラは、果物がたっぷり載ったケーキと、爽やかな香りのハーブティーを頼んだ。海風の独特な臭いを忘れるには、ハーブティーが一番かも知れない。
 フィラがケーキに載っている果物にフォークを刺したときに、セスは尋ねた。
「ディオって人に助かれているって、何かあったの?」
「あのね、お母さんとユーリ、死んだの」
「えっ!?」
 それには心底ショックを受けた。知人の不幸は、何度聞いても、どのように聞いたとしても、辛いものがある。
「それは、病気? それとも、事故?」
 フィラはゆっくりと首を左右に振った。
 では、殺された? 誰に? なぜ? 怨恨? それとも通り魔? 様々な疑問が浮かぶけれど、一番気になっている最後の問いが、もしかすると答えに近いかもしれない。
「フィラがここにいることと、何か関係が?」
 フィラはアジーナの汚れない目をセスに向けた。後ろめたさで目をそらしたくなったが、ここでそらしてしまえば、警戒させてしまう恐れがある。そればかりは避けなくてはならない。
 フィラは口を開けるより遅れて、重い事実をセスに告げた。
「私だったの」
「え?」
「二人を殺した人は、私を狙っているの。本人の口からそう聞いた。だからディオと逃げているの。あの人は、生命をかけて私を守ってくれている」
 フィラはあの男を知っている。あの男がどれほど温厚で、優しげで、人懐っこい表情を浮かべるか、どれほど残酷に、迷いなく、おぞましい姿で人を殺すか――それを知っている。もしかすると、そんなものはあの男の一部にすぎないのかもしれない。そんなことはどうでもいい。ただ、セスがその目で見たことが、今の真実だ。そして、恐らく似たようなものをフィラは見ているのだ。
「ディオ、さんは、なぜフィラを助けてくれるの? 親父が託したとかなんとか言ってたけど」
「シオさんのことだもん、私のこと不憫に思ったのかもしれない。その辺の話は私も詳しくは聞いてないから、知らないの。ただ、シオさんがディオに食料とか渡してたから……別れるときに私を頼むって言ってたから、きっとシオさんの依頼で守ってくれてるんだと思う」
 その依頼にどれほどの効力があるのかは分からないが、何度か訪れた危機に対してその男が立ち向かっているのだろう。青い男と同等程度の力は持っているのかもしれない。
 フィラはもしかすると、セスが体験した以上の恐怖を味わっているのかもしれない。だが、セスとて自分の生命は可愛い。単純に死ぬのが怖い。それに、シオに渡すために稼いだ金を、こんなところで無駄になどしたくはない。
「ああ、いい時間だな。フィラ、見せたいものがあるんだ。そこに連れて行きたいんだけど、来てくれる?」
 セスは自分の髪を手櫛で後ろへ流した。
「見せたいもの? って、何?」
「内緒。驚かせたいんだ。綺麗だよ」
 訝しげな表情をしてはいるものの、セスを疑っているわけではないようだ。どちらかというと、好奇心に満ちた顔である。これからフィラをあの場所に連れて行くということに、セスは若干の罪悪感を抱いた。それは精一杯の笑顔でかき消した。
 フィラの手を引くことはしなかった。きっとものすごく後悔するし、怖くてその手を離したくなくなる。これしかない。こうしなければ、セスはあの青い男に殺されてしまう。死んでしまえば、十年間必死に稼いできた金は村へ届けられない。そうと分かっているけれど、足が職場に向かうのをやめた。
 フィラはあの青い男に関して、一体どれほどの凄惨なところを見てきたのだろう。想像すると、胸が痛くなるし、吐き気がする。行かなければ自分がああなるのだ。それなのに、足が言うことを聞かない。
「セス、どうしたの? 何かよくない事でも? 顔色が悪いわ……」
「ああ、ちょっと、この間怪我したところが痛んでね。潮風は、身体に悪いな」
 勿論、足に怪我などない。左手でこめかみから髪を掻き上げながら、フィラに笑いかけた。
「ごめんなさい、私が手当てできたらいいんだけど……」
「いいんだ、気にしないでくれ。さ、こっちだよ」
 足は例の場所には向かない。その代わり、アデーネでの十年間の間に見つけた、夕日が綺麗に見える波止場へ歩いた。セスはもう、フィラに嘘を重ねるのが心苦しかった。これでいい。後悔するかもしれない、フィラを恨んでしまうかもしれないけれど、これ以上嘘を吐かなくてもいいように、大好きな場所へフィラを連れて行った。
「わあ」
 感嘆の声を上げるフィラの銀の髪は、金にも見間違えそうなほどに美しく夕日に染まっている。
「綺麗だろ?」
「うん、綺麗」
 フィラはセスに顔を向けた。
「ねえ、セス。余計なお世話かもしれないけど、たまには村に帰ったら? シオさんもサナさんも、きっと喜ぶわ。村にいてくれた方が、きっとみんな助かると思うの」
「そうだね。でも、そのうち力仕事なんていらない時代がくるんだよ、きっと。紋章技術が発達して、どんどん便利になってる。たまにここにもそれが来るから、分かるんだ。便利になれば、腰を痛めながら畑を耕す必要なんてない。そのためには、お金がいるだろう? だから、目先の事じゃない、ちゃんと先のことを考えたら、こっちの方がいいんだよ。誰か一人は、未来を見る人がいてもいいと思うんだ」
 最新の連絡船は、紋章技術で動いている。波止場の灯台も紋章技術。それでどれだけ肉体労働が減ったことか。そのうちセスがしている仕事もなくなるのだろう。そうなる前に、セスは稼げるだけの金を稼ぐ予定だった。だが、全ては夢物語だ。セスは今ここで、ひとつの大きな選択をした。やっぱりちょっとした嘘は吐いてしまったけれど、これでいい。後悔したっていいのだと、セスはフィラにようやく本物の笑顔を向けた。そのころには、夕日はすっかり沈んでいた。
「暗くなったね。どこに泊まっているの? そこまで送るよ」
「ありがとう。すぐ近くだから大丈夫だよ」
「暗くなったら危ないよ。村で襲ってくるような獣はいないかもしれないけど、襲ってくるような人がここにはいるかもしれない」
 察するに、リアルな危うさを抱かせる言葉だろう。セスは選択してしまった以上、一人で帰すことで彼女に危険が及ぶことを恐れた。フィラは迷うまでもなく、セスに同意した。
「じゃあ、お願いする」
 セスはうなずき、フィラの小さく柔らかい手を握って歩いた。
「ねえ、セス」
 ん、と返事だけして、振り返りはしなかった。声色だけで、彼女が今どのような表情をしているのか、すぐに想像できた。
「昔、よくこうして歩いたね」
 クスクス、と控えめな笑い声が聞こえる。セスは口角を上げた。
「フィラにはまだ、そんな『昔』じゃないだろ」
 十年前、フィラは五歳で、セスは十三歳――フィラの方がセスよりも遠く過去に感じているのかもしれない。小さな子どもにとって、時間は無限にも思われるほど長いのだ。
 フィラが泊まっているという宿屋までは、こんな穏やかな時間が続いた。ずっと続けばいいとセスは思った。

 フィラの泊まっている部屋をノックする。扉が開き、中から大柄な男が現れた。やはり人相はよくないので、顔を見るなり息を呑んだものの、心を落ち着かせ、思い切って話しかけた。
「ディオさんですね。話は聞きました。フィラを助けてくれてありがとうございます」
「フィラを送ってくれたのか、例を言う。あんたは?」
「父は村長です」
「シオの息子か」
 フィラの話を聞いていたからかもしれない。初めて見たような彼へのおっかない印象は、ほとんど受けなかった。
「はい。フィラのこと、俺からもよろしくお願いします。この金を使ってください」
「セス、それは……」
 フィラの言わんとすることはよく分かった。構わず、セスはふらついたように見せかけてディオにもたれ掛かり、セスの腕よりも一回りも二回りも太い腕を掴んだ。大柄なディオが屈んで耳が近くなるのを見計らい、セスはフィラに聞こえないように囁いた。
「ディオさん、青い男に気をつけて」
 すぐに離れ、小さく「すみません」と形だけ謝罪する。ディオは驚いたような顔をしていた。セスはフィラに向き直り、前髪を掻き上げた。
「じゃあね、フィラ、元気で。村にはちゃんと帰るから」
「そんな風に何回も言ってたら、帰りたくないみたいだよ」
 クスクスと控えめに笑うフィラを見て、セスは最後にもう一度だけ、微笑みかけた。
「それもそうだね。旅の無事を祈る」
「ありがとう。セスも、身体には気をつけて」
 フィラの視線を背中に受けながら、セスは宿屋を後にした。
 ――身体に気を付けて――それ以上に皮肉な別れの言葉が、今のセスにあるだろうか。もはや選んでしまったが、この選択がどのような意味を持つのか、冷や汗が止まらない程度には理解していた。だから最後に少しだけ悪あがきをする。セスは二度と職場に戻らないことにした。このまま村へ向かおう。もしかしたら、万が一、生きて村へ帰れるかもしれない。両親に渡す金はないけれど、彼らであれば、戻ってきたセスを抱きしめ、温かく迎えてくれるはずだ。
 しかしそんなセスの耳に、あの声が流れ込んだ。
「どこへ向かっている? 彼女はどこだ、一緒じゃないのか?」
 後ろにいる。聞き間違うはずのない、冷たさを含んだ温厚な声だ。セスは振り返らずに、唇を震わせながら答えた。
「彼女は、ここへは来ません。あなたがどれほど渇望しても、どれほど待ち望んでも」
 怖い。逃げ出したい。この男から逃げられないことは分かっていたし、そもそも恐怖で足が震えてその場から動くことさえできなかった。青い男はセスの正面に回り込み、凍てつく目でセスを刺した。
「そうか。君でも駄目なのか。分かったよ、ありがとう」
 とても優しい声、とても温かい言葉――それが彼の青く冷たい目を見ていると、すべて空々しく聞こえる。セスは目を開いたまま覚悟した。青い男の、決して大きくはない手の平が、セスの前頭葉を強く掴む。

 セスの姿が見えなくなって、すぐにディオがフィラに尋ねた。
「キリウの野郎のこと、話したのか?」
「少しだけ。青ずくめの男の人に追われてるって」
「だからか……。あいつ、青い男に気をつけろってさっき耳打ちしてきたが」
 その言葉で、フィラに強い違和感が走る。アオイオトコニキヲツケロ――分かり切っていることを、セスがわざわざディオに耳打ちする意味があるのだろうか。セスにどこか不自然なところがあっただろうか。なにせ十年は長い。かつての少年の声を変え、骨格を変え、価値観を変えるのに、十年という年月は十分すぎる。だから彼の不自然さなどに気付けるはずがない。その一方で、フィラにはどこか思い当たるような節があるような気がした。
「そういえばセス、やけに前髪をかき分けてた」
 十年も前の記憶だ、確かだと断定はできないが、そんな癖を持っていた気がする。大抵はいい意味の癖ではなかった。隠したいことや後ろめたいことがあったり、嘘を吐いたり、ごまかしたりする時の癖だ。そこに思い至って、フィラはようやく悪い予感を覚えた。
「まさか、セス――!」
 セスは青い男を知っている。それも、ただ知っているというレベルではなく、青い男と接触している。フィラは確信した。
「どうしたの?」
「セスが危ないかもしれない」
「ああ」
 ディオと目を合わせて小さくうなずき、二人で宿を飛び出した。
「ちょ、二人とも!?」
 遅れてメリアも走り出す。
 最悪の事態は避けたい。知っている人も、知らない人であったとしても、こんなことで死んでしまうのは絶対に良くない。全速力で走るディオの足には追いつけないが、ディオの走る方向を見失わないよう、必死に走った。

 走った先に人だかりがあった。ざわめきはただ事ではないかのように思える。その中にディオの姿もあった。大柄だから目立つ。
「すみません、通してください」
 ディオの姿を求めて人混みをかき分け、やっとの思いで中心へと到達する。暗いはずなのに、目に赤い光景が飛び込んだ。それを大きな手のひらが遮る。
「見ない方がいい」
 そのたった一瞬で充分だった。目に焼き付いている。あれは頭だ。頭がつぶれていた。誰の姿? 一番悪い予想は外れてほしいけれど、ディオの手のひらから伝わってくる熱さは、その願望を打ち砕いていく。
 腹の底から叫びたかった。声が嗄れるまで、涙が涸れるまで、力尽きるまで、ただ心から泣いて叫びたかった。でも、叫ぶどころか、声も涙すらも出なかった。



<< 前ページ戻る次ページ >>

.copyright © 2011-2023 Uppa All Rights Reserved.
アトリエ写葉