古のフェリクシア

#08.屍の思念


 風が銀の髪を揺らす。飛ばされてはいけないから、紺色の帽子は手に持って、フィラはただ呆然と遠く水平線を眺めていた。風のおかげだろうか、港町で感じたあの独特の臭いは、それほど気にならなくなっていた。
「お嬢さん」
 かけられた声に振り返ると、頬に人差し指が刺さった。メリアだ。頬は痛くなかった。
「どうしたんだ、船酔い? それとも、何か考え事でもしてるのかい? お姉さんでよければ、話してみな」
 メリアの気遣いは、単純に嬉しい。フィラは大きく深呼吸をしてから、メリアの言葉に甘えて口を動かした。
「どうして私、逃げてるんだろうって」
「怖い人に追いかけられてるんだから、逃げるのは自然だと思うよ」
「そうかもしれない。大好きな人たちが殺されたり、村でディオが大怪我をしたり――そういうので、やっぱりあの人が怖くて逃げ出した。もうあの村にはいられないんだと思った。でも……」
 セスの遺体を見たのは一瞬だ。ディオやメリアの態度で、あれがセスなのだと分かった。確信してしまった。そうでなければ、ディオはフィラをあの遺体から隔離しなかっただろう。メリアがあそこまでいたたまれなさそうな顔をすることもなかっただろう。思い出す度に吐き気がするし、どうしようもなく後悔ばかりがこみ上げてくる。セスがどういう経緯でフィラに何をしようとしていたのかは、彼が死んだ今となっては分からない。初めからなにもなかったのであれば、「青い男に気をつけろ」などという言葉は出なかったはずだ。そしてキリウの目的は、どうもフィラの生命ではなく、生きたフィラのようであるとは、セスの件でようやくぼんやりと思い至った。
「私はあの人のところへ行った方がいいんじゃないかって思うんです」
「そうか。そう思うのも仕方がないだろうね。でも、それはあんまりお勧めしないよ」
「分かってます。メリアさんが一緒に来てくれるのは、アスカルの伝承を教えるためだけじゃないですものね。でも私、お友だちの死に顔が忘れられない。おばさんの叫び声が耳から離れない。ディオが、ディオがまたあんな怪我をするんじゃないかって思うと、怖くてたまらない。セスの気持ちを考えると、胸が締め付けられそうで――」
 顔を覆った両手で、ほとんど掻きむしるかのように前髪を強く掴む。
「――私、そんなにたくさんの人たちの気持ちとか、生命とか、そういうのを抱えながら生きていくなんて、そんなのできない。またこれからも誰かが傷ついたり、死んでしまうかもしれないって覚悟はしてたつもりだったけど、きっとこれ以上は耐えられない」
 けれども涙が出ない――それが不思議でたまらない。少なくともフィラは泣き虫だった。もしも母親の墓前で、傷だらけのディオの側で、そして腹の底から叫びたかったあの瞬間に泣き叫んでいたら、何かが変わったのだろうか。それとも、実は誰かの死をそんなに重要視していないのだろうか。感覚が麻痺しているのだろうか。自分でも分からない。
 メリアは取り乱しつつあるフィラの肩をそっと抱き、胸へ引き寄せた。彼女の肌は温かかった。
「そうだね。他人の生命や人生に深く大きく関わるのは、恐ろしいことだ。生きていれば、自覚のあるなしにかかわらず、少しはあるかもしれない。数え切れないほどあるかもしれない。それはいい方向かもしれない、悪い方向かもしれない。ただ、キリウとかいう人の目的が分からない以上、はっきりとした答えをあげることはできない。そういうことが分かっていれば、もっと選びようがあるんだろうけどね」
 彼女の声色は、肌と同じように温かい。フィラはそっと瞼を伏せた。
「たとえば、あなたの熱狂的なファンで、あなたを自分だけのそばに置いておきたいとか。たとえば、あなたがものすごいお金持ちのお嬢さんで、あなたの家の財産が欲しいとか」
 なるほど、それくらい具体的であれば、決して簡単であるとは言えないけれども、フィラにも決められそうだった。しかし、メリアの言うようにディオの目的はよく分からない。彼の言っていた、〈強い国〉フェリクシアの女王〈ノア〉が必要なら、なぜ必要なのか。すでに地底に沈んだ国の王を捕まえて、いったい何をしようというのか。それが分からなければどうしようもない。
「そのための旅でしょう。そのためにアスカルを目指しているのでしょう。答えを決めるのは、それからでもいい。こう言うと突拍子もないだろうけど、もしキリウとかいう人の目的が復活したフェリクシアで世界征服することとかで、それが女王であるあなたを手に入れることで成り立つのなら、あなたは絶対にそいつのところへは行ってはいけないし、行かないはずだ。人生だとか生命の重みをそれだけ痛感しているってことはね」
 メリアは空を仰ぎ、鼻から息を吐いた。
「いいんだよ、悩んでいい。迷ったっていい。一度決めたことを何の揺らぎもなく貫き通そうだなんて、そんな立派なことをあなたは考えなくていい。あなたのその思いは、とても大事なことだ。今日どんな服着ようとか、そういう類の悩みじゃないんだからね」
 もちろんそれも大事だけどね、とメリアは声を出して笑った。温かい。温かくて心地よくて、心に沁みる。フィラは目を開け、メリアの横顔を見上げた。メリアは相変わらず微笑んでいる。
「他人の人生を背負い込む必要はないんだとか、そういうこと本当は言ってあげたいんだけどね、それを言ったところで、あんたは気にしてしまうんだろう。誰にとっても、死ぬってのは重大な事件だしね。それに、あたしの言葉だけで気にせずにいられるのなら、そもそも逃げ出したりしていないはずだ」
 そう、フィラは誰かの死を重要視していないわけではないのだ。きっと衝撃のあまり、感覚が現実に追いついていないだけなのだ。フィラの肩を抱くメリアの手をそっと握り、フィラは微かに「ありがとう」と囁いた。

 メリアと話していて、多少は気持ちを整理できた。本当に少しだけれど、大きな前進であるように思えた。話を聞いて、的確なことを言ってくれる人は大切だ。だからこそ、フィラはセスのことをディオと話したかった。ディオの姿を捜して船内を歩き回っていると、どこからか声が聞こえた。聞き覚えのある声、フィラの大好きな声――ノアだ。本当はディオのところへ行こうとしていたのだけれど、フィラの足はフラフラと声の許へと向かった。
 船の乗組員が流している音楽かもしれないし、ノアの歌が好きな誰かが紋章再生機で掛けているのかもしれない。消耗したフィラにとってノアの歌は、この上ない癒しだった。だから自然と足が向かっているのかもしれない。
 そこには、見たことのある本物のノアがいた。サイドテールにしている艶やかな黒髪は流れるようで、大好きな曲を紡ぐ唇は赤い。まさかこのようなところでノアに会えるとは予想もしていなかったフィラは、感激のあまり口を半開きにしてノアをじっと見つめた。長いまつげが上向きに綺麗な半円を描き、その下からのぞくアジーナの目がフィラを捉える。フィラは思わずドキッとした。
 ノアはその曲を最後まで歌いきると、微笑みながらフィラのところへ歩み寄った。
「あなた、あのときの子ね。確かフィラっていったっけ」
「わあ……お、覚えててくださってたんですね、ノア様!」
「やめてよ、様だなんて。歳だって近いでしょう。なんてったって、そんな綺麗な髪にはそうそうお目にかかれないからね、覚えてるのだって当然よ」
 ノアはごくごく自然にフィラの髪を手で梳いた。
「そんな……あ、ありがとうございます。でも、ノアさんの髪も私、大好きです。つやつやしてて、お手入れに余念がないんだろうなぁって。長い分大変じゃないですか?」
「あ、分かってくれる? 嬉しいなぁ。ね、あたしフィラとは仲良くなれそうだと思うの」
「えっ」
 ノアの言葉で、フィラは頬を紅くした。そんなうまい話があるのだろうか。夢でも見ているのではないだろうか。村を出てからいろいろなことがあったから、疲れて白昼夢を見ているのかもしれない。けれど、明るい笑顔でフィラの手を握るノアの体温は本物だし、ノアから香るフローラルの香水も現実だ。
「う、嬉しいです。夢みたいです。ノアさんにそんなこと言っていただけるなんて、私、嬉しいなんて言葉じゃとても表現できない……」
「大げさね。そんな大したことないよ」
 そうは言うけれど、もしユーリが生きていて、この現場を知ったら、フィラのことを心から羨むだろう。
「じゃああたし、そろそろ戻らなきゃ。またね、フィラ!」
「え、また?」
「ええ。あなたとはまた会いそうな予感がするから」
 そのとき、フィラと同じアジーナの瞳が妖しい光を帯びたように見えた。それは刹那のことだったので、きっと気のせいで、太陽光の具合なのだろうと考え、特に気にはしなかった。
「あっ、そう、私ディオを捜してたんだった」
 ノアとまた会話できた喜びは胸に隠し、フィラは慌ててディオを捜した。まだ船がバンディ大陸に入るには日があるので、そこまで焦ることはないが、気になっている事柄は減らしておくに越したことはない。

 ようやく見つけたディオは、鉄板のような大剣の手入れをしていた。大柄なディオが持っていても大きく見えるのだから、自分が持つことなどできないだろう。
「なんだ、船酔いか?」
「船酔いなんてしてないわ」
 ディオの子供扱いが不服で、フィラは唇をとがらせた。しかしすぐに気を取り直して、ディオの正面に回り両膝をついて、目線の高さを合わせた。
「ディオ、お願いがあるの」
「何だ。聞けるとは限らねぇぜ」
 ディオの目は相変わらず剣に向いている。フィラはめげなかった。
「じゃあ、とりあえず話だけ聞いて、それから決めて」
 ディオが目だけをフィラに向けた。まっすぐにその目を見つめる。フィラの真剣さに気が付いたのか、剣を脇に置いて顔ごとフィラに向けた。
「まあ、座れよ。ちゃんと聞くから」
「ありがとう。あのね、セスから預かったお金、シオさんに届けてほしいの」
 セスが十年間汗水垂らして稼いだ金だ。どのような願いが込められたものか、その重みは十分に分かっているつもりである。もちろん、あくまでも「つもり」だし、フィラの勝手な解釈だ。だが、その方がセスにとっていいことなのではないかと思った。
「セスからの依頼料だもの、そのお金はディオのものだし、使い方はディオの自由だわ。お金がどれだけ大事なものかも知ってる。でも私、あのお金はシオさんの許にあった方がいいと思うの。だからもし、遠くからでも届けることができるのなら、あのお金をシオさんに届けてほしい」
 フィラは決してディオから目をそらさなかった。ディオもフィラの目をじっと見た。
 沈黙。ディオはフィラを試しているのだろうか。怯みはしなかった。やがてディオが口を開く。
「金はあるに越したことはない。だが死者を偲ぶ気持ちから言っているのなら、考えておく」
 ディオの答えに満足したフィラは「ありがとう」と返した。しかし前にも彼は似たようなことを言っていた気がする。今度はそれが気になった。
「あと、一つ聞いてもいい?」
「質問による」
「ディオは、死者の言葉を守ると言った。私には、死者に引きずられるなと言った。それはどうしてなのですか?」
「そうとでも言わねぇと、あんたは最悪の状態だったろ。そのときに一番合ってる言葉をかけたまでだ。俺が死者の言葉を守るのは――」
 ディオは目を伏せた。
「――死んじまったらそこで何もかも終わっちまうからだ。消えちまうからだ。だから悔いや心残りくらいは、俺だけでも覚えてやる。ただそれだけだ」
 何もかも終わる――その言葉が、フィラの腹に重く響いた。そう、ユーリの希望も、母の願いも、セスの思いも、死んでしまえば、誰かが伝えない限り、そこで途切れてしまうのだ。それはきっと、ものすごく孤独で、ものすごく悲しいことだ。それを淡々と口にできるディオは、多くの死を見てきたのかもしれない。どれだけ辛かっただろう。今でさえ心が押しつぶされそうなフィラには、想像も付かなかった。
 もしかして、ディオもそのような経験をしたのだろうか。人の死の前に、己の無力に打ちひしがれるような、腹をえぐられるような経験を。そのようなことを尋ねることはできなかった。
「答えてくれてありがとう」
 それしか言えない。下手な言葉を投げかけるなど、フィラにはできなかった。

 ディオの側を立ち去ったフィラの後姿を見送って、ディオは過去の苦い記憶を思い出した。
 苦い――そのような言葉で形容できるほど、あの記憶が遠くなり、許容できるようになったのだと思って、ディオはフっと自嘲を漏らした。そう、フィラに「死者の言葉を守る理由」を尋ねられたからだ。
 ディオは、それなりに金も地位も権力もある、治安はあまりいいとは言えないが、そこそこ都会の有力者の家の生まれだった。父は公明正大で正義感に溢れ、いつも正しいことを言っていた。母はそんな父を心から尊敬していて、父の力になろうと、慈善事業に精を出していた。家には十歳までの子どもたちがいて、一緒に勉強をしていた。十年後、もしかしたら二十年かかるかもしれないが、子どもたちが大きくなってこの町を回すようになれば、治安だって今よりずっと良くなる――そうディオの一家は信じていた。ディオは両親の背中を見て育ち、両親が正しいのだと思っていた。
 しかし、両親は殺されてしまった。町の浮浪者に、ナイフで刺された。その現場は見ていなかったけれど、遺体には十数カ所も刺された跡があった。致命傷はなく、出血多量による失血死だった。人相はよくはなかったけれど、面差しが優しかった父。愛嬌があって素敵な笑顔を持っていた母。どちらも大好きだった。町の人たちだけではなく、ディオのこともとても大切に思ってくれていた。ディオのような子どもたちも安心して暮らしていけるようにと頑張っていたのに、彼らが送り出した少年の一人が、ディオの両親を刺し殺したのだ。後で分かったことだが、職場で年長者に口汚く罵られ、その中に、ディオの両親を罵倒する言葉も混じっていたのだそうだ。最初こそ、あんなにいい人たちなのになぜそんなに悪く言うんだという反発も抱いたが、次第に、彼らのせいで自分がこのような理不尽な目に遭っているのだと思うようになった。憎しみの矛先が、ディオの両親に向いた。当時、ディオは六歳だった。
 その事件を皮切りに、町の労働者や浮浪者たちが一斉にディオの生家を襲った。家は崩れ去り、ディオは一夜にして全てを失った。当時六歳のディオに果たして何ができたのだろう。身一つで生命からがら町を逃れ、行き倒れたところを、幸運にも親切な旅人に拾われた。ディオは獣の捕らえ方や火の熾し方、剣やナイフの使い方――旅歩いて生きていく方法を教えてくれた。彼に対して申し訳ない気持ちを伝えると、それはいつか、誰かを助けて、その人に返せばいいと答えてくれた。彼もまた、優しさが世の中を良くすると信じて疑わない人だった。けれど、旅商人に騙され、一文無しになり、最後には夜盗に殺された。呆気ない最期だった。
 それからだ。ディオの面差しが鋭くなったのは。ディオから見て優しくていい人たちは、みんな悪意に裏切られた。世の中を良くしようとしていたけれど、誰にも理解されなかった。ディオは荒れ、暴れ回った。危険な依頼を数々こなし、鬱憤をはらしていた。おかげで生傷は絶えなかったが、強くたくましくなった。最初は何をしたところで死んでしまえば何もなくなるんだと思っていた。実際、全てなくなった。けれど、ある日ディオは考えた。何もなくなってしまうのは、あまりに悲しすぎないだろうか。だからディオは、死者の願いを、彼らの祈りを、想いを、せめてディオだけでも覚えておこうと誓った。ただ、それだけの話だ。
 気が付くと、外が暗くなっていた。どれだけ長い間、ぼけっと思案していたのだろう。昔のことを思い出したせいだ。あれからフィラやメリアの姿どころか声さえ聞いていないが、甲板に出て空を見上げると、随分と高くまで上っていたので、今の時分を知ることができた。
 ひとしきり風に当たって、大きくあくびをしながら船室に戻る。フィラとメリアの姿を見つけた。二人とも微かな寝息を立てて眠っていた。上品なものだ。しかし、そこに見たくもない姿もあった。ディオは眉間に皺を寄せ、警戒しつつ、他の者を起こさないよう囁き声で、その男の喉元にナイフを突きつけた。
「貴様、ここで何をしている?」
 男はフィラの目元に載せていた右手を離し、ゆっくりと両手を上げた。
「何、とは? ノア様の寝顔を見守って差し上げているだけだ」
 そう、彼はキリウだ。なぜここで、何もせずに手をこまねいて見ているだけなのかは分からないが、彼もまた囁き声で答えた。
「案ずるな。今はまだ強行手段に出るときではない。それに僕が直接手を下さなくても、ノア様は僕のところに来る」
「なんだと? だったら、フィラをビビらせることはなかったじゃねぇか。無関係の人間を殺してトラウマを植え付ける必要は、なかったじゃねぇか」
 ディオはキリウを睨めつけた。もし彼の言葉通りであれば、ディオがフィラを守る意味が失われるし、フィラが逃げ回る理由も同時に無意味になるだろう。だがディオの手には、フィラの震えが残っている。セスの死に様は酷いものだった。頭部がつぶされていた。あれは、何か道具を使うか、紋章術を使わなければできない芸当だろう。そしてあのタイミングで彼があのような姿に終わったのは、偶然とは思えない。彼の口から青い男のことを聞いていれば、なおさらだ。
「そんな怖い顔をするな。僕はただ、彼女にとって悪いものを排除し、彼女が女王として目覚めるよう誘導しているだけだ。だからノア様の母君や付き従っていた小娘の死、セスという男の死、そして偽りのノアさえも、全てはノア様の目覚めの時を心待ちにしているためなのだ。僕は、強い国で強い女王の許で働きたい、ただそれだけなのだよ」
「あいつのため? 強い国だと? 寝ぼけたことを」
「だが、お前は真実だと知っているはずだ、赤い獣。本質は僕と同じなのだから」
「なんだと?」
「おっと、これ以上の話は拒否しよう。少々喋りすぎた。だが、いずれは分かることだ。ディオ、その間、ノア様にかすり傷程度でもつけてみせろ、絶対に許さないからな」
 随分と勝手な物言いに、ディオは大きく舌打ちをした。
「テメェの言えた義理かよ」
「これ以上はお互いのためによくないようだな。ここが船の上でなければ、そしてここにノア様がいなければ、お前など八つ裂きにしていたところだ」
 なおも穏やかに話すキリウから殺気が迸ってはいたが、彼が自分の矜持のために嘘を吐かないことを、ディオは知っていた。
「けっ、そいつはこっちの台詞だ、キザ野郎」
 いけ好かないキリウは、静かにその場を立ち去った。あの穏やかな鉄面皮を見ていると、先日彼に付けられた治りかけの傷が疼いて嫌な気分になる。ディオはもう一度小さく舌打ちをして、フィラの隣に腰かけ、目を閉じた。

 夜が明けた。すでに起きて音を立てないように荷物をまとめるメリアの側で、フィラは相変わらず寝息を立てている。声をかけるか身体を揺すらなければ目を覚まさないだろう。窓から外を眺めると、大きな陸地が見えてきた。あれがバンディ大陸だろう。
「フィラ、起きろ。もう船が港に入る」
 肩に触れて声をかけるが、フィラは身じろぎひとつしない。ディオは眉根を寄せ、もう一度声をかけた。しかしフィラの様子は変わらない。どうも変だ。
「メリア、俺がやるとよくないから、フィラを起こしてくれ」
「ああ、分かった。ほら、フィラ」
 メリアがフィラの身体を強めに揺するも、フィラからは反応がない。ついでにかけた目覚ましの呪いも効かない。一体どういうことだ。
「もしかしたら、何者かの力が働いているのかもしれない。強力な呪いをかけられたとか」
「まさか、あいつ」
 昨夜、キリウはフィラの目元に右手を置いていた。あれがフィラに呪いを施していた瞬間だったのではないか。確かに彼は、彼の矜持にかけてディオやフィラ、メリアどころか、船内の誰一人としてその生命を奪うことをしなかった。けれど、だからと言って「何もしない」などと彼は言わなかった。完全に盲点を突かれた。
「とにかく、船がついた。早く降りよう。フィラのことは、それからでもいいはずだよ」
「そうだな」
 キリウはうるさく脈打つ心音を感じつつ、フィラを背負った。



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