古のフェリクシア

#10.憎の残像


 真っ暗で自分の存在が認識できない空間に、一筋の光が射した。誰かの声が聞こえる。この恐ろしい場所から抜け出せるかもしれない。フィラはその声に意識を集中した。
 ――フィラ、フィラ。そこに留まる必要はないのよ。さあ、おいで。こちらへおいで。戻ってきて、フィラ。
 優しくて温かい声に引き寄せられるように身体を動かす。動かす身体が認識できる。足が地についている。それだけでも感動的だ。
 目を開ける。夢の中ではなく、現実の目が開いた。眩しい太陽の光で、すぐに目を閉じる。そこに、女性のものと思われる小ぶりの手が覆い被さった。
「眩しいでしょう。ゆっくり目を開けなさい。そう、大丈夫よ」
 言葉通りに目を開ける。女性の声は、先ほど夢の中に響いたものと同じだった。彼女がフィラを呼び起こしてくれたのだろうか。ゆっくりと広がるしかいに最初に飛び込んだのは、風に揺られるカーテンと、木の天井だった。手が退いた方に顔を向けると、茶髪で朗らかな笑顔を浮かべる女性の姿がそこにあった。声の印象を崩さない、優しそうな顔だ。
「あの、私……」
 女性は硬く絞った布をフィラの頬にあてがった。布の冷たさが心地よい。
「あなたを連れてきた人がものすごく心配していたわ。三日ってところかしら、あなたが寝ていたのは」
「三日?」
 最後の記憶をたぐり寄せる。フィラはアデーネからバンディ大陸行きの船に乗った。船酔いも特にせず、順風満帆に思われたが、そこで記憶が途切れている。
「はい。ただのお湯だけど、三日も胃に何も入れてないから。ゆっくり飲むのよ」
 フィラは女性から渡されたコップを受け取った。手の感じからして、女性は三十代前半といったところだろうか。じっと女性の顔を伺っていると、女性は困ったように笑った。
「ごめんなさい、起きたら知らない人がいるんだもの、びっくりするのも無理ないわよね。私は風医師をしてる、レーナ=キャトライランドよ。あなたのことは聞いてるから、名乗る必要はないわ、フィラ」
 微笑みかけるレーナの茶色い目を見つめ、フィラはコップの水に口を付けた。
「あなたの身に起きたことを、とりあえず医師の視点から簡単に説明するわね。あなたは何者かにまじないを掛けられたの。そのまじないは、掛けられた人から夢を奪い、目覚めさせないようにするもの。あと何日か遅かったら、あなたそのまま衰弱死してたかもしれない。私が近くにいて、本当に運が良かったわね」
「そうだったんですね。ありがとうございます」
 あれは夢だと思っていたが、逆に夢を奪われていたのだと聞いて、フィラはすんなりと納得した。あの妙な空間を認識する前は、青い夢を見ていたはずだったのだから。
「いい、まだ安静にしているのよ。突然立ち上がったりしたら、目眩とかで最悪倒れてしまうかもしれないから。でも、散歩程度だったらいいかもしれないわ」
「分かりました」
「じゃあ、目が覚めたことを知らせてくるわね、あなたの連れに」
「はい」
 メリアが顔面蒼白にしている様が目に浮かぶ。彼女はフィラ――というよりも、フィラの持つ銀の髪とアジーナの目を崇拝しているから、気が気ではなかったのではないだろうか。そして案の定、けたたましい足音と、それを鋭く注意するレーナの声を耳が拾った。フィラはくすりとなりながら、上体を起こした。
 ノックの後、メリアが足音を立てないよう部屋に入る起きているフィラと目が合ったかと思えば、小走りで駆け寄り、勢いよくフィラに抱きついた。
「ああ、フィラ……良かった。本当に良かった。どこか痛いところとかない? 変な夢とか見なかった?」
「痛いところはない、です。ただ、ものすごく怖い夢を見ていました。レーナさんが言うには、夢を奪うまじないなんだそうですけど」
「夢を奪う? 怖い夢を見ていたけど、奪われたの?」
「なんにもないんです。私の存在さえ認識できない、真っ暗で何もない夢……。ものすごく、怖かったです。本当に見ていた違う夢を奪われたんだろうと思います。どんな夢だったか忘れましたけど、何か夢を見ていたということだけは覚えていますから」
「ああ、良かったな、死なずに済んで」
 メリアの後ろに、赤毛の大男の姿を認める。彼もメリアに負けず劣らず、フィラを心配していたらしい。それはおっかない人相でありながらも、滲み出る安堵で感じられた。彼も人の死を恐れているのかもしれない。いつか野盗たちを殴り殺していたときには、あまり想像できなかった。
「うん、大丈夫だよ。心配かけてごめんなさい」
「あとね、フィラ」
 メリアがフィラの両肩をつかみ、まっすぐにフィラを見つめた。
「助けてくれた親切な人がいるんだ。今、下にいる。タルナってお兄さんだよ」
「タルナさんですね。それはちゃんとお礼を言わなければ」
 つくづく、色々な人に助けられて生きているのだということを、フィラは村を出てから痛感することが多くなった。レーナの忠告通りゆっくりとベッドを降り、いつも着ているカーディガンを羽織って、タルナという人物を捜すべく部屋を出て、比較的狭い階段を下りた。
 階下には青年がいた。ディオより少し年上だろうか。人の良さそうな青年はフィラの姿を認めると、人懐こい笑みを浮かべた。
「ああ、目が覚めたみたいで良かった」
 濃い灰色のツナギを着た中肉中背の青年がフィラに歩み寄る。フィラは思い切って青年に問いかけた。
「もしかしてあなたがタルナさんですか?」
「ああ、そうだよ。ディオとメリアから聞いてる。君がフィラだね」
「はい。あの、メリアさんから聞きました。助けてくださってありがとうございます」
 深々と頭を下げるフィラに、タルナは「ああ、ああ」とうろたえて見せた。
「そんな改めて礼を言うことはないよ、自己満足だし」
「自己満足?」
「そう。助けたいから助けただけだ。他にもまあ、理由はあるけど……」
「それでしたら、私だって、お礼が言いたいから言いました。タルナさんは生命の恩人のようですから、恩人にはきちんとお礼を言っておきたいのです」
 言いづらそうにしていたから、他の理由とやらは聞かないことにして、フィラは部屋から出ようとした。タルナが背中を向けたフィラに声をかける。
「どこへ?」
「少し散歩へ行こうかと思って。天気もいいみたいなので」
「俺も一緒していいかな」
「かまいません」
 木造の建物から出ると、心地よい風がフィラを優しく迎える。太陽の位置から、今が昼なのだと判断できた。日差しが眩しく照らす踏みならしただけの土の道沿いに、木造の建物が建ち並ぶ。しばらく行くと、畑が見えた。畑いじりをする男女の姿がちらほらとあり、フィラは故郷を思い出した。深呼吸した鼻に、土のにおいを運ぶ穏やかな風が心地よい。最後に嗅いだ海からの潮風は、少し苦手だった。
 村の人と言葉を交わしていないので、どんな人が住んでいるのかは分からない。ただ、街の喧噪とも、古い王国とも、おっかない人とも無縁そうなこの場所にずっといたいと思った。そうして自分が逃亡者であることを忘れたいと思った。そう思って、フィラは瞼を伏せた。
 ――忘れても、死者が戻ってくるわけではないのに。
 最初にディオが言っていた。他人の望み通りに生きる必要はないのだと。他人の言葉に縛られなくてもいいのだと。それはフィラにも理解できた。理解できたけれど、でもその人の言葉を忘れて、その人の願いを忘れて、そうして死んでしまった人のことを忘れて、その人たちが生きて死んだことは、誰が覚えているのだろう。どこに残るのだろう。なにもかもなくなってしまうのだろうか。分からない。
 このまま考えていても、袋小路だ。フィラは目を開け、フィラの散歩後ろをついてきているタルナを振り返った。
「タルナさんは、ソフィアという港町の方なのですか?」
「うん、今はそこに住んでる。地元はジンガーの方なんだけどな」
 ジンガー大陸――ユリヤ大陸やバンディ大陸より北にある、最も面積の大きな大陸で、最も大きな国がある大陸――そんな知識だけは、少なからずフィラにもあった。
「ジンガー大陸からこんなところまで……ものすごく大変そうです」
「そうだな、大変じゃないといったら嘘になるけど、来てみたらあっという間だよ」
 苦笑いを浮かべるタルナの言うことは、分かるような気がする。フィラは眠っていた時間があったものの、起きていた三日は、思い返せば一瞬のようにも思えた。
「フィラたちはどこに行くんだ?」
「えっと、ネストリアのアスカルに。メリアさんの地元なんだそうです」
「それは遠回りしたなぁ。ネストリア行きの船が出てるジルバって港町へは、ソフィアからだったら徒歩で四日ほどなんだけど、ここからだと一週間くらいかかるぞ」
「そうなんですね……」
 だが、フィラが目覚めないまま死んでしまえば、メリアが里帰りする以外にアスカルへ向かう意味が失われる。申し訳ない一方で、仕方のないことだと納得することにした。
「青い男」
 ふと、タルナが口にした言葉に、フィラはアジーナの目を見開いた。
「やっぱりフィラにも心当たりがある? ディオが最初に俺に、『青い男に心当たりはあるか』と尋ねたんだが、俺にはそんな知り合いはいなかった。フィラはその、青い男と知り合いなのか?」
「知り合い、というか……」
 話していいものだろうか。この人とは、ここで別れるかもしれないのだ、話すメリットは今のところない。だが、目の前にいる人の良さそうな男性に話してみたい、そう思う自分がいた。
「私、その青い男性に追われているんです。理由はよく分かりません。ただ、もしかしたらメリアさんの地元に行けば、その理由が分かるかもしれないから」
 迷うことも悩むこともたくさんあるけれども、それが母やユーリやセスの死を見てきたフィラが、それでもキリウに降りることなくディオについて行く理由だ。もちろん、ディオを心から信頼していることも大きい。
「ディオとは? どういう経緯で知り合ったんだ?」
「偶然です。ディオが旅の途中で、たまたま私の地元で事件に出くわしたらしくて、成り行きで一緒に。あれ、もしかして、タルナさんはディオとお知り合いなのですか?」
「……そうだな、ディオのことは知ってるよ。知ってるけど、仲は良くないかな」
「えっ」
 仲は良くない。タルナはもしかすると、ディオが嫌いなのだろうか。個人的に嫌いな人間の連れを助けたのだろうか。そういうことができるのは、すごいことなのではないだろうか。フィラは単純に感心した。
「それなのに助けてくださったんですね。そういうことって気持ちよくできないと思います。本当にありがとうございます」
「ああ、違うんだ、そうじゃないんだよ。仲が良くないっていうか、むしろよく思ってないのは俺じゃなくて、ディオの方なんだ。よく思ってないというか、嫌われてるっていうか、それでもかなり柔らかい表現だけど」
 つまり、ディオの方がタルナに対し、強烈な悪感情を抱いているということなのか。人相が悪いからディオの方が一方的に嫌われるということはありそうだが、ディオが一方的に嫌うということは、そういえば想像したことがなかった。二人の間に一体何があったのだろう。歯切れの悪いタルナにこれ以上問いかけるような勇気も度胸も、フィラは持ち合わせていなかった。

 楽しそうな笑い声と話し声が聞こえる。フィラのものと、タルナのものだ。
「ありがとうございます。とても楽しかったです」
「それは良かった。じゃあ、俺は自動車の整備があるから」
 タルナの気配が遠くなったのを確認して、ディオはフィラに声をかけた。
「だいぶ元気になったようだな」
「うん。天気もいいしね」
 天気の良さが関係あるのかどうかディオには判断できかねるが、現に元気そうにカラカラ笑っているフィラを見れば、その通りなのだろうと思わざるを得ない。そう、とフィラがポンと手を叩いた。
「ディオ、あのね、タルナさんがジルバまで連れて行ってくれるって。紋章自動車ってものすごく早いんでしょう? でも私、まだお願いしますって言ってないの」
「そうか」
 またフィラなりに余計なことを色々考えたのだろうか。若干言いにくそうにしていたフィラの表情を見て、タルナから嫌われているとかなんとかいう話を聞いたのかもしれないと思い、複雑な気分になった。
「フィラ、タルナをどんな人間だと思う?」
「ものすごくいい人だと思うわ。優しくて頼りがいがあって、楽しくて、お兄ちゃんって感じがする。私は一人っ子だったけど」
「そうか。……もし、もしも――」
 キリウが底なしのいい人で、ものすごく優しかったとしたら、本当にそういう人物だったとしても、彼のあまりに残酷な所業を許すことができるか――そう尋ねようとした。けれど、それは彼女にとってはあまりにも酷な質問ではないだろうか。だってフィラは、友人とたった一人の親族をキリウに殺されている。だからディオは、そこで言葉を止めた。もし仮に、タルナが本当に別人のように心を入れ替えて、真面目に勤勉に、親切に生きているとしても、ディオには彼を許せる自信がないし、許したいとも思わない。だが、このようなことをフィラに尋ねようとしている時点で自分の揺らぎは確かなものだ。
「――いや、やっぱりいい」
「そっか。いつか言えるようになる?」
 やはり言い掛けた手前、フィラも気になるらしい。だが答えを急かすような真似はしなかった。
「ああ。気になるくせに言う度胸なんざなかったけど、気持ちのケリがつけられたら、その時はちゃんと話す」
 フィラの柔らかい手が頬に触れる。フィラの紫の光彩にディオの不安げな顔が映る。自分が守らなければならない年下の少女の前で、なんという顔をしているのだろう。それもこれも、全てはタルナが現れたせいだ。
「悪ぃな」
「ディオ」
 フィラの小さな手が、目をそらそうとするディオの背に伸びる。大柄なディオにすっぽりと収まるほど小さな身体だが、その温もりがディオを包み込んだ。その温もりが、少なからずディオに安らぎを与えた。しばらくそのままでいたかったけれど、フィラの両肩を掴み自分から引き剥がした。
「悪ぃ、気を使わせちまったな、病み上がりなのに」
 だが、不思議と激しく燃えるような気持ちが和らいでいた。そのおかげで決心もついた。本当に決めるのはフィラだが、そして何のわだかまりもないといえば嘘になるが、タルナの力を借りることができるし、いつかきっとタルナのことを受け入れることができるかもしれない。だがその前に……。ディオはタルナの許へ向かった。
 ディオがタルナの姿を見つけたことに気が付いたのか、タルナはディオに背を向けたまま口を開いた。
「ディオ。返事を聞かせてくれるのか? フィラに詳しいことを話したわけではないけれど、嫌われていると言ったら、自動車の件は相談すると言われた」
 振り返りながらそう話すタルナに、やっぱり余計なことを言いやがると苦虫を噛み潰す反面、詳しいことを話さなかったというその一点に関しては感謝した。
「急ぎというわけじゃねぇが、早けりゃ早い方がいい。頼めるのか」
「無理なことは提案しないさ」
 ディオは言葉を交わしている間、タルナと目を合わせなかった。タルナの顔さえ見なかった。それを知ってか知らずか、タルナが鼻から息を吐く。
「なあディオ、俺がこんな偉そうなことを言える義理じゃないのは分かってるが、その鬱陶しい前髪で視界を遮っても、何もかもを見ないようにしても、現実は消える訳じゃない。残念ながら、俺はここでのうのうと生きている。俺が過去に犯したことは事実だし、お前の憎しみも暴言も、その拳さえ甘んじて受けよう。俺には逃げないという覚悟でしか、お前に償いができないからだ。だが嫌がらせがしたいわけではないし、心から力になりたいと思っているよ」
「償いだと。そんなことが本気でできると思っていやがるのか」
 ここでようやくタルナの目を見た。憎々しげに、忌々しげに。だがタルナの目は、ディオの激情を宥めるかのように穏やかだ。
「それを決めるのはお前だ。俺がどうこうできることではない。だが、お前とこうして出会い、お前と接点を持つことができる今しか、その機会はないのだと思う。その想いだけでは何にもならない。罪の意識だけを持って、相手が目の前にいるのに見なかった振りをして、償おうとさえしないのは、俺の心が許さない。その間に俺がどれだけ心を入れ替えても、どれだけ慈善事業に精を出しても、お前に伝わらなければ、それこそただの自己満足にすぎないからな」
 それが悪いとは思わないけどな。タルナは春の日差しのように優しい微笑みを湛えており、そこには悲壮感も嘲る様子も見られなかった。きっと口先だけなどではなく、本当にそう思っているのだと、ディオはすんなり受け取ることができた。
 しかし、それとこれとは話は別である。いかにディオがタルナの言うことに納得して受け入れることができたとしても、タルナを許すことはできない。この憎しみは、喉の奥に引っかかった魚の骨のように、ずっとわだかまりとして残るのだろう。
「タルナ、歯ぁ食いしばれ」
 ディオは強く握った拳を、タルナの顔面にぶつけた。タルナは抵抗するでもなく、ディオの拳の直撃を受け、そのまま倒れた。
「いてぇ」
 鼻血を拭いながらゆっくりと起きあがるタルナに、「本気で殴ったから当たり前だ」と吐き捨てる。
「けど、当面はこれでチャラだ。腹は立つが、それが最善だろう。フィラも目覚めた。だが、テメェの押し売りなんぞに礼は言わねぇ。絶対にな」
「すまんな、ディオ」
 タルナは本当に言葉通り、ディオの拳を甘んじて受けた。本来であれば、ディオがタルナを殴ってもいい正当な理由などないはずだ。20年ぶりに再会したタルナはディオに危害を加える素振りさえ見せていないのだから。それに、彼がいなければフィラが衰弱死していたかもしれないのだ、そのことに対する報酬がディオの拳でいいはずがない。
「うるせぇ。あと、ジルバの件は頼んだ」
 それが、ディオにとって精一杯の強がりだった。



<< 前ページ戻る次ページ >>

.copyright © 2011-2023 Uppa All Rights Reserved.
アトリエ写葉