古のフェリクシア

#11.紫の虹彩


 元気な産声を上げた女の赤子は、紫色の目をしていた。紫の虹彩はフェリクシア王家の証。彼女の両親は心から赤ん坊の誕生を喜び、希望を抱き、期待をかけた。つらく悲しく惨めな極貧生活がこれで終わるのだと。彼らはその赤ん坊に、十代目を最後に現れなかったフェリクシア王家の、十一代目の王の名前をつけた。その名は「ノア」。
 彼らは「ノア」と名付けたその赤ん坊を大切に育てた。大切に、丁寧に、愛情を、敬愛を込めて育てた。しかしほどなくして彼女に生えたのは、伝承にある銀の髪ではなく、黒く美しい髪だった。彼らは絶望した。絶望から、赤ん坊を憎み、つらく当たった。
 黒い髪の赤ん坊が成長し、世界を判別し記憶し始めたとき、心には青い夢があり、身体には痛みがあった。彼女は幼いながらに、親とは子に危害を加える権利を持った者なのだと認識していた。両親の顔を見ても安らぎは得られなかった。小さな身体の小さな心には、小さな子どもにとっては、あまりに強大な力を持つ恐ろしい大人にしか見えなかった。
 そんな彼女を救ったのは、青い髪と青い目を持つ、青ずくめの青年だった。まだその時は、少年と呼べるあどけなさがあった。少年だとしても彼女にとっては大いなる救世主だし、あの恐ろしい大人たちを一瞬にして葬り去った少年は、もっと恐ろしいけれど、彼女にとっては神に等しい存在だった。
『かわいそうに。僕とともに来るかい?』
 幼い少女には、その冷え切った手を取る以外に選択肢はなかったし、それでいいと思った。彼に救われた生命だ。彼が望むのであれば、好きでなくても青い国の歌を歌うし、彼に利用されているだけだとしても構わない。彼女はその青い男を心から愛していた。
 青い夢から目覚めた彼女は、黒い癖毛をかき上げた。気怠くて、体が重い。昔のことを思い出したからだろうか。だが、あの悪夢のような日々はもう終わったのだ。彼女はもう、あのような恐ろしい思いをする必要などない。だがどんなに美しい夢も、彼女の空虚をさらってくれるわけではない。彼女を満たすことができるのは、青い男だけなのだ。だが青い男は、自分を見てはくれない。これまではずっと自分だけを見てくれていたのに、すべては本当の〈ノア〉が現れたせいだ。彼女さえ現れなければ、彼は自分だけを見てくれていたのに。
 彼が彼女の何を愛していたのか、〈ノア〉の出現でよく理解できた。理解したくなかった。結局自分を苦しめたこの容姿に、両親亡き今も苦しめられ続けるのだから。
 紫の目も、青い世界も嫌いだ。自分を見てくれない青い男も、嫌いだ、何もかも……。

★☆★☆

 長かった。いや、ユーレン村から一週間をかけて歩くことを考えれば、信じられないほど早くて便利だ。それでも、長い長い三日間だった。せっかく乗せてもらっておいてなんだが、一週間歩き通しておいた方が、この消耗はなかったかもしれない。
「大丈夫大丈夫、一日安静にしていればすぐ治るよ」
「はい、メリアさん」
 そう、フィラは尻の痛みと闘っていたのだ。
 紋章自動車の体験が初めてのフィラは、はじめこそ風と共に流れる景色に心躍らせ、目を輝かせていたものの、はじめだけだった。もともと荷物を運ぶことを想定されていた紋章自動車の乗り心地は最悪で、ガタガタ揺れるたびに尻が打ちつけられる。特に大きめの石や段差があると目も当てられない。その揺れさえ最初は楽しかったのだけれど、最初だけだったようである。だがそのおかげで早くジルバに到着したのだから、文句は言えない。
「あとでマッサージしようか?」
「なんだか申し訳ないです」
「いいんだよ。痛いままじゃ嫌だろうし、アスカルまではあと船に乗るだけだけど、どうせなら元気な状態で迎え入れたいからね」
 メリアや、彼女の地元にとって、フィラは大きな意味を持つ存在だ。そのことがなくても、彼女ならば旅をしたことのない連れ合いのことは気遣ってくれるだろう。きっとそれが、通りすがりの少女を見捨てられなかった彼女の性格だ。けれど、親切にしてくれた最初のきっかけは、あくまでもフィラの容姿だ。フィラはメリアを姉のように慕いながらも、そのような思いを捨て去ることができずにいた。
「あと、お尻を伸ばす方法も一緒に教えるよ。誰にでもマッサージさせられるところじゃないだろうし、覚えておいて悪いことはないからね」
「えへへ、ありがとうございます、メリアさん」
 だが、旅を快適に過ごすためだ。メリアは悪い人ではないし、優しいし、そのようなことを考える必要などないのだ。フィラはとりあえず、そのようなことは脇に置いておくことにした。それよりも、問題は山積みなのだから。

 宿屋の一室でメリアにマッサージをしてもらっていたフィラは、夢心地だった。なにしろ、メリアの力加減は丁度良くて、気持ちがいい。そんなフィラの耳が、ある人物の名前を捉えるまでは、少なくともそうだった。
「そういえば、やけに町が湧きたってると思ったら、ノアが来るんだってな」
 フィラは勢いよく起き上がりタルナを振り返った。この町が湧きたっているとか、そういった状況に関しては、初めて来た場所なのでさっぱり分からないが、ノアがここに来るとなれば話は別だ。先ほどまで痛みに嘆いていたとは思えないフィラの反応に、タルナは苦笑いを隠さずに続けた。
「明後日あたりにここでライブがあるらしい。ノアも、よくこんなところに来るよな」
 頬が紅潮する。心拍数が跳ね上がる。あまり一つの場所に長く留まるのは得策ではないということは、当の逃亡者であるフィラも心得ていた。だが、ノアのライブとなれば話は別だ。逃避行における想定外にして唯一の癒しであり、喜びなのだから。
「あの、ディオ」
 フィラはディオの側に寄って、相変わらずおっかない見上げた。しかしディオには通用しないようだった。
「そんな目で見ても駄目だ。分かってるんだろ」
 ディオはそれ以上何も言わなかった。そう、一刻も早く今の立場や状況をどうにかしたいのはフィラだし、ディオもメリアもタルナも、それぞれに事情があるとはいえ、親切心でフィラを守ってくれているのだ。ワガママで彼らを困らせるわけにはいかない。これで今の生活が終わるという保証はなくても、アスカルという区切りが目前に迫っているのだ。ノアのライブなど、その後に好きなだけ楽しめばいい。フィラは状況を今一度呑み込み、深呼吸をしてうなずいた。
「うん、ごめんなさい。もう無理は言わないわ」
 その頃には、尻の痛みなど忘れていた。

 とはいえ、やはり目前のノアのライブに行けないという事実は、フィラを充分すぎるほどに落ち込ませた。知っていても参加できないのであれば、知らなければよかったのに。だがタルナはフィラがノアのファンだということを知らなかったわけだし、ちょっとした話題のつもりで、悪気などはなかったはずなのだ。分かってはいるけれど、タルナに対するわずかな怒りもあり、フィラは眉根を寄せてぼんやりと港町を歩いていた。相変わらず、海風が運ぶ独特のにおいは苦手だけれど、慣れてきたのか、最初の頃ほどの不快感は抱かなかった。
 そんな状態のフィラだったが、ある人物の姿を見つけて逃さなかった。それは彼女が憧れ、今最も会いたいと願ってやまない女性、ノアであった。
 ――嘘、ライブには行けないけど、姿が見られるなんて、幸運だわ!
 たったそれだけで、先ほどまでのよくない気分はどこかへ吹っ飛んでいった。直接でないにしろ、一時でもタルナに八つ当たりした己を恥じるほどだ。しかも、彼女のアジーナの目がフィラとバッチリ合った。気のせいかと思ったが、目を合わせたままにっこりと微笑み、フィラに駆け寄るノアに、フィラは戸惑いを隠せなかった。
「やだ、フィラ。こんなところでまた会えるなんて。フィラもあたしの噂を聞きつけたクチ?」
「聞きつけたって……ここに来たのはたまたま、偶然で……あの、うそ、本物ですか?」
 気が動転して何を言っているのか自分でも分からなかった。ノアと会って直接会話するのは三度目だけど、やはり憧れの人を目の前にすると緊張してしまう。両頬がしっかりと熱を持っているのを感知できる程度には緊張していた。
「本物も何も、ノアはあたししかいないわ。でももう、困っちゃうよね。誰かがリークしてるのかって思うくらい、情報が早くて。あたし、ここにはこっそり来て、皆をびっくりさせてやろうと思ってたのに」
 口ではそんなことを言いながら、ノアは得意げな顔をしていた。やはり、格好いい。素敵だし眩しく見える。
「それよりフィラ、今すぐ急ぎの用事とかってあるの? もしないんだったら、これからお茶にでも付き合ってくれない? ここまでの旅路で、ちょっとくたびれちゃってさ。一息入れたいの」
「お茶ですか?」
 嘘だ。だってノアが、あの皆の憧れのノアが、なぜ自分なんかを個人的にお茶に誘うだろう。
「その、船は明日だし、特にこれといって今すぐするような用事はないけど、そ、そんな、畏れ多いです……」
「そっか。ちょっとした相談に乗ってほしいってお願いしてもも駄目かな」
「私がノアさんの、相談?」
「そう。同世代で何でも話せる友だちっていないんだよね、こういう仕事してると。だからこれも何かの縁だし、フィラに聞いて欲しいの。駄目かな?」
 表情に影が落ちる。そんな姿を見てしまうと、無下に断るのも申し訳がなくて、フィラは「駄目なんかじゃないです」と答えた。ノアの表情は一転、太陽のように晴れやかになった。
「ありがとう、フィラ! じゃあ、そこの喫茶店にでも入ろうか」
「は、はい!」
 フィラは手を引くノアに歩調を合わせた。

 やはり信じられない。目のハーブティーの香りも分からない程度に、フィラは緊張していた。
「ねえフィラ、そんなに緊張しないで。折角のハーブティーが冷えちゃうし、こんなにおいしそうなケーキは食べておかないと損よ」
「は、はい、そうですね」
 そうは言っても、憧れのノアを目の前にして、なぜケーキが食べられるだろう。なぜお茶が飲めるだろう。ノアはそんなフィラなど構わず、ケーキを味わいハーブティーを口にしている。フィラもノアを倣い、ケーキにフォークを入れた。けれど、ハーブティーの香り同様、ケーキの甘さも感じられなかった。
「ねえ、フィラは今、恋とかってしてる?」
「恋……」
 ノアに切りだされ、フィラは真っ先に赤い大男の姿を思い浮かべた。
「してるんだ」
「恋っていうか、そう言い切るのはなんか違う気がするんだけど、というか恋じゃないと思うんですけど」
 唇を寄せた瞬間のことは、今でも鮮明に思い出せる。決して口づけをしたくてそうしたわけではない。それでも、フィラの胸を高鳴らせるのには充分だった。
「どういうところが好きなの?」
「どうって……だから、恋じゃなわ。もし私がそう思っているとしても、きっと勘違いだよ」
 彼は今まで何度も生命を助けてくれた。そのディオを心から信頼し、慕う気持ちを〈恋〉であると勘違いしてもおかしくはなかった。
「そっか……」
「相談って、もしかして、ノアは恋をしているの?」
「うん」
 いつもの弾けた笑顔ではなく、淡く頬を染め微笑むノアを、フィラは綺麗だと思った。ノアは長い睫毛の目を伏せた。
「愛してるの。あの人のためにあたし、アイドルやってるんだ。あの人があたしに道を示してくれた。あの人が見てるのはあたしじゃないけど、それは分かってるけど……あたしはあの人のためだったら、生命だってかけられるんだ」
 単純に、すごいと思った。誰かのために生きてるとか、生命をかけられるとか、フィラは考えたことのない感情だ。
「だからね」
 ノアの様子が変わった。首を傾げて様子を伺うフィラを、鋭い眼光が捕える。それに気が付いて、フィラは眉根を寄せて警戒した。
「あんたが憎い。あの人の愛を一身に受けてるのに、気づきもせずに、むしろ嫌がって逃げ回るあんたが、心底憎いよ」
「あ、い……?」
 誰かに恋愛感情を向けられる心当たりは一切ないが、逃げ回るという言葉は実に覚えがある。
「もしかして、キリウ、さん……」
 名を口にした途端、キッと睨まれた。
「軽々しく口にしないでよ」
 フィラとて彼の名を口にしたくなどない。とても怖い人だし、ユーリと母親の仇だ。だが、合点がいった。キリウと出会ったセレストでノアのコンサートがあった。連絡船にノアが乗っていた。そこでキリウに何らかのまじないをかけられた。ノアは彼のために歌っている。彼はどういうわけか、ノアを利用している。
「あんたなんか嫌いよ。初めて見たときから、あんたがノアだってすぐに分かったわ。キリウが探し求めていた人だって。その目と髪は目立つし、珍しいからね。あんたさえ現れなければ、あたしはキリウの愛を一身に受けていられたんだ。分かる?」
 ノアがフィラの目を指さす。
「本当に憎らしくてたまらない。あんたのその目とお揃いなの。怒りも憎しみも、絶望さえ知らないその目と。生まれた時から愛されて、大切にされてきたあんたなんかとお揃いなのよ。最低よ。そのおかげでキリウに拾われたけど、そのために今、ものすごく苦しいんだよ。嫉妬で気が狂いそう。吐き気がする」
 ノアはカップのハーブティーをフィラの頭に思いきりかけた。幸いハーブティーは冷え、火傷を負うことだけは免れた。
「あたしが欲しいものを何もかも全部持ってるあんたなんて、あの人があんたを求めてさえいなければ、ここでずたずたに切り裂いて、滅多刺しにして、誰だか分からないようにして殺してやるのに」
 ノアのものとは思えない低い声が、フィラの心にずっしりとのしかかる。微笑みの下にそんな憎しみを隠していたのか。そんな憎しみを抱えながら、フィラに接触していたのか。ぞっとした。
 じゃあね。言いたいことだけ言って、ノアは席を立った。
 ノアとキリウがつながっていた。ノアに憎まれていたこともショックだけれど、フィラにとっては、あの青い男とノアがつながっていたということの方が、耐え難い事実だった。
 ――まさか。まさか、そんな。
 身体が震える。硬直して動けない。前髪からしたたり落ちるハーブティーの滴が冷たい。でも、涙は出なかった。
 ――戻らなきゃ。早く、戻らないと。
 皆が戻るより前に戻って、服を着替えないと、要らぬ心配をかけさせてしまう。フィラは席を立つと、代金を支払い店を後にした。


 しかしフィラの望みに反して、他の者たちは皆宿屋に戻っていた。
「フィラ! どうしたの、その恰好!」
 フィラの姿を見たメリアが顔を真っ青にして駆け寄った。ハーブティーを頭からかぶった状態で戻ってきたのだから、驚くのも当然だろう。しかも、フィラはすこぶる暗い顔をしている。自覚はしていたけれど、疲れ切っているためか表情筋に力が入らないのだ。
「おいおい、何があったんだ?」
 タルナもフィラを心配して歩み寄ってきた。結局心配をかけてしまった。でも今は何も話したくない。思い出すのもつらかった。だからフィラは、頑張って口角を上げた。
「なんでもありません。このままだと気持ち悪いから、お風呂入ってきます」
 すぐに顔をそらした。無理に笑っていたために頬が痙攣した。このまま人と顔を合わせていれば、フィラ自身も消耗することが予想できた。だから一刻も早く眠りたかった。きっと寝て覚めたら、きっと半分くらいは忘れている。忘れられなくても、ひどい顔で笑うことはないはずだから。

 その夜、フィラは夢を見た。いつも見る、青い夢だ。彼女に望郷の念を抱かせる、青い夢。しかしその夜は様子が違った。いつもは青い無人の建物の中を歩いているだけの夢なのに、その時に見た夢の中には、別の人間がいた。その人物は、キリウに似ていた。キリウに似た人は、あらゆる驚異からフィラを守った。フィラは彼の背中に守られて、彼に対して信頼を寄せ、安心感を抱いていた。怖いと思わなかった。キリウはとても怖い人だから、この人はきっとキリウと違う人なのだ。
 ――ノア様、ノア様。僕があなたをお守りします。どんな者からも、どんなことからも、必ず守ります。ですから、あなたは強い国を。このフェリクシアを、何よりもどこよりも強い国にしてください。
 目の前にいるのに、声が遠い。これは本当に夢なのだろうか。
 目を覚ましたフィラは、やはり疲れていた。だって現実でキリウに関する悩みがつきないにもかかわらず、夢にさえ彼は現れた。しかも夢の中のフィラは、彼に絶対の信頼を寄せていた。あんなに恐ろしい彼に。
 ――これはやっぱり、あの人のところへ行けということなのかな。私はあの人のところへ行った方がいいのかな。
 ここまで来たのに? それでは、フィラのここまでの逃避行は一体なんだというのだろう。
 ――迷っては駄目。駄目なのよ。ここまで来たんだもの、今さら、迷ってなんかいてはいけないの。
 いやに重たい身体を起こす。カラカラに渇いた喉は、ぬるい水で潤した。



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