アルネトーゼ

#03.守護


 セリィが笑っている。アクアマリンの目を細めて、無邪気に笑っている。元気いっぱいに駈け回り、ラスタに早く来いと呼びかける。幼い日の思い出だ。セリィはラスタの歌をいつも聴いてくれた。嬉しそうに耳を澄ましていた。ラスタもそれが嬉しくて、たくさん歌った。それが喜びだった。
 だが、セリィが突如叫びだした。お兄ちゃん、お兄ちゃん助けて、と。ラスタは動けなかった。セリィが体躯のいい男たちに攫われていく。ラスタも誰かに取り押さえられていた。必死に妹の名を叫んだ。その最中、セリィの絶叫が耳を貫いた。ラスタの目は激痛と共に、光を失った。
 そこでラスタは意識を現実に戻した。服に沁み込んだ水がじっとりと背中を濡らす。気持ち悪い。目を開けようにも開けられない。目は遠い昔に失ったのだ。なのに辺りを見ようと思ったのは、夢のせいだろうか。微かに鼓膜を揺らす虫たちの声で今が夜であると理解した。理解して、己の身に起きたことを整理した。
 リブル島で出会ったシエルと船に乗り、船酔いでダウンしているシエルの代わりに乗船中の商人から食料品を買いあさった。そんなとき、人ごみの中にセリィを見つけた。セリィは復讐者と名乗っていた。くぐもった声から察するに、口許を布か何かで覆っていたのだろうか。一体どうなっているのかは分からないが、セリィはシエルを抱えて空を飛んだのだ。
 ラスタは不本意にもセリィに紋章剣を投げた。それと同時にセリィから凄まじい力を凝縮した玉が飛んできて、ラスタは船から投げ出された。あれは紋章術だったのだろうか。なんにせよ、船は沈んだのだろう。沈没時の渦に巻き込まれなかったのは幸いだ。今の状況から察するに、どこかの陸地に打ち上げられたらしい。
「シエルは……」
 近くにいるはずがない。セリィに連れ去られたか、海に落ちたかのどちらかだ。
 ――私はまた、守れなかったのか……。
 先ほど見た夢は現実だ。ただの悪夢であればどれほど良かっただろう。
 盲人の風歌人が同時に剣も鍛えたのは、ただ盲目であるからとみくびられ、野党などに襲われるためだけではない。妹を守れなかった自身を責め、守れるものは守りたいと思ったからである。そのためにもまず、どこかで生きているであろう妹を捜していた。だが――。
「ラスタ!」
 シエルの声が聞こえた。幻聴だろうか。そう思って返事をしなかったが、同じ声がもう一度ラスタを呼んだので、ラスタは口を開いた。
「シエル? 無事だったのですね」
 ラスタは安堵の溜息を洩らした。
「ラスタ、本当に良かった……。立てるか? あっちに皆集まってるんだ。このままだと身体が冷えるから、早く行こう。火を焚いて待ってるから」
 ラスタは「皆?」と尋ねながら立ち上がった。
「ああ、奇跡的に何人か助かってね。この島に打ち上げられたのはあたしとあんたを除いて三人。プライムと、ノーラって商人と、あとホルトって出稼ぎ」
「そうですか」
 他の者たちの安否は分からないが、生き残りがいると分かっただけでも良かった。今はそうやっていい方へと考えていないと、妹のこともあって気がおかしくなりそうだ。
「ラスタ、その、悪かったな」
 シエルの謝罪に、ラスタは顔を上げた。
「妹との話、あたしが邪魔さえしなけりゃ、あんたが妹に向かって剣を投げることも、船が沈むこともなかったかもしれない。あたし、あのときあんたが死んでしまったとばかり思ってたんだ。本当に、生きていてよかった」
 シエルの声は震えていた。ラスタは寧ろ、セリィが復讐者と名乗ったことへの衝撃の方が強すぎて、シエルの言っていたようなことは全く気になっていなかった。
「シエルが気にすることではありません。セリィはあなたがあの船に乗っていることを知っていました。だから私と会わなくても、必ず何らかの方法であの中からあなたを見つけ出し、あの船を沈めたでしょう。それに、これで私にもあなたと共に行く理由ができました」
 セリィがアルネトーゼのことを知っている。アルネトーゼがシエルに憑いたとき、そこにいたのはユーノとラスタだけだった。だからアルネトーゼの謎を追えば、いずれセリィにたどり着けるだろうとラスタは判断した。そしてセリィがアルネトーゼを求めるのであれば、もう一度彼女に会えるだろう。
 シエルに付いて歩くと、パチパチと火の燃える音が聞こえてきた。三人の男の談笑も聞こえた。
「おお、ラスタ、無事だったか!」
 プライムが嬉しそうな声でラスタを迎えた。

 シエルは濡れ鼠状態のラスタを火の側まで誘導し、「あんたも脱ぎな」と指示して自分も火の側に腰を下ろした。流れ着いた島はリブル島からさほど離れておらず、太陽が昇って身体が濡れていなければ、さほど寒くはない。ラスタは水で重くなったマントを火にかけた。
 島に流れ着いたのはシエルも含めて五人だ。ラスタが座ったことを確認して、プライムが厳かに口を開いた。
「さて、全員揃ったところで状況を確認しよう。まず、あの船で何が起きたのか」
 プライムの茶色い目がシエルに向けられる。
「巨大な鳥が襲ってきたんだよ」
 シエルはアルネトーゼのことも復讐者のことも、ラスタの妹のことも、他人に話す気などなかった。ラスタ以外全員がシエルに疑念の目を向けているのははっきりと感じたが、シエルは気にせずに続けた。
「そいつがさ、どれだけうまそうだったのかは知らないけど、あたしを攫おうとするじゃないか。とにかく、それでラスタが威嚇したんだ。そしたらあいつ、あたしを海に落とした上に大きなくちばしから何か吐き出して、船に直撃、その後はご存知の通りさ」
 シエルは大げさに肩をすくめてみせた。我ながら出来のいい作り話だと思ったが、恰幅のいい商人ノーラが「嘘を言わないでくださいな」と眉を顰めた。
「だって僕、見たんですからね! 覆面かぶった人が、あんたを抱えて空を飛んでるところ」 
 どう見ても鳥などではなかったとノーラは主張した。体格のいい出稼ぎの男ホルトも、ノーラの言葉に大きくうなずいている。
「そう、あの時なんか尋常な空気じゃなかったから、ずっとあんたたちを見てたんだ。何を話してるのかは分からなかったけど」
 二人の言葉を受け、プライムがシエルを睨む。人が空を飛んでいる様は目立ったらしい。
「なんだ、見てたのか。まあ、細かいことはラスタが説明してくれるだろ、な」
「仕方がないですね」
 シエルに丸投げされたラスタは、事実だけを淡々と話した。妹のことやシエルの事情などはうまく伏せていたので、シエルはラスタの話を聞きながら感心した。
「なるほどな。なんにせよ、重要な連絡船が沈んだんだ、同じことを陛下にも報告してもらうことになるだろう」
「分かっています」
 二人はさらっと言葉を交わしたが、シエルはドキッとした。プライムは今、しれっと何かものすごく重要なことを言ったのではないだろうか。
「さて、俺は眠くなってきた。どうやってこの島を出るかは明日話し合おう。ここに残りたいというヤツはいるか?」
 ノーラもホルトも間髪入れずに首を左右に振った。もちろんシエルも、このようなところに留まるつもりはない。妹との再会を果たしたラスタなど、問うまでもないだろう。彼らの答えに満足したらしいプライムが早速横になる。程なくして、控えめな鼾が聞こえてきた。
「じゃあ、あたしらも寝るか」
「じゃ、火の番は僕がしますね」
 シエルさんとラスタさんは当事者で消耗しているでしょうから、とノーラが柔和な笑みを浮かべたので、シエルはその言葉に甘え、プライムに倣って横になった。

 何者かが立てた物音で、シエルは目を覚ました。ゆっくり起き上がると、隣でノーラが寝息を立てており、代わりにプライムが火を熾していた。まだ暗かったものの、冷たい空気と虫たちの声がないこととで、朝が近いのだと感じた。
「ん、起きたのか」
 シエルが起きた気配に気づくもプライムは目もくれず、火の種を絶やさないように息を吹きかけている。
「ノーラ、寝ちまったのか」
「そんなことだろうとは思っていたさ」
 責めるような口調ではなかった。まだ頼りない日に薄く照らされるプライムの横顔に、シエルは尋ねた。
「あんた、一体何者なんだ?」
 よく分からないが妙に堂々としていて、色々なことを知っている。知識や余裕は年齢や経験によるものだとしても、プライムは女王との謁見さえほのめかした。しかし当のプライムはというと、フッと笑って左の眉を吊り上げるだけだった。今の彼には話すつもりなどさらさらないのだと理解した。
「分かった、それ以上は聞かないことにするよ。どうせその時がきたら分かるんだろ」
「そうだな、いずれ分かることだ。それに、あんただって正体を明かしてくれていないじゃないか」
「あたしが名乗ってやらなくても、あんたは知ってたじゃないか、疾風のシエルの名を」
 しかし、プライムの表情は今までのように飄々とはしておらず、射抜くような見透かしたような茶色の目をシエルに向けている。シエルの頬を冷や汗が伝った。恐らくそうとは分かっていなくても、シエルに憑いたものに気が付いているのではないかと思うと肌が粟立った。普通ならそのようなことなど思いもよらないだろう。アルネトーゼのことを知っているのはユーノとラスタだけで充分だ。シエルは目を伏せ自嘲した。
「それ以外には何もないんだよ。リブル島を出たら、ただの小娘さ」
 自分の声が震えているような気がした。それだけプライムの視線に慄いていたということなのか。その瞬間、プライムの視線も感じなくなった。目を開けると、プライムが目を閉じていた。
「そう固くなられると、この先が不安だ。島から出るにしても、どれだけかかるか俺にもさっぱり見当がつかない。嫌でも毎日顔を合わせることになるんだ、もっと気を楽にしてな、お嬢さん」
 言い返しはしなかったものの、「お嬢さん」が若干気に障り、シエルは唇を尖らせながら軽く舌打ちをした。その頃には、水平線が白みがかっていた。

 朝食にラスタのあんこもちを食べて、一行の持ち物を砂浜に広げた。まさか船が沈むなどとは誰も予想していなかったから、あるものといえば、プライムの広刃の剣とシエルのダガー二本、ラスタの鞘に皮袋だけであった。ラスタの皮袋の中身といえば、両の手の平を合わせた小盛りほどの大陸通貨の銀貨と、残ったあんこもちだ。銀貨は目の虹彩ほどの粒で、一粒あれば一週間、つつましやかな生活を送ることができるもの。シエルはラスタの経済力に感心するとともに、この無人島では何の役にも立たないことに落胆した。
「さて、どうこの島を出るかだが――」
 絶望している四人に対し、プライムの頭の切り替えは非常に早かった。持ち物が意味を為さないと分かるや否や、明るくなって存在が分かった密林に、プライムは早速目を向けた。
「ここはヤシの実もある。リブル島からさほど離れていなければ、何ら不思議はない。だとすると、とりあえず北に向かうことになるだろう。そこで、ここは木材も豊富だし、イカダをつくろうかと思うんだが、異論はあるか?」
 プライムがそれぞれの顔を見回しながら尋ねるが、現時点でそれ以外に現実的で建設的な案はないだろう。それぞれ同意をプライムに示した。
「よし、決まりだな。じゃあ、俺とノーラとホルトでイカダをつくろう。お嬢さんとラスタは食料の確保を頼む」
 役割を決め、プライムが立ち上がったのを合図に、シエルとラスタは立ち上がり、密林へと足を踏み入れた。

 密林の内部には、ラスタたちにとって有益になるものも無益になるものも様々にあった。特に目視での確認が不可能なラスタには、危険に満ち溢れている。細い蔦や木の根に足を取られるラスタの安全を確保するのは、シエルの役目だった。普段であれば、音の反響で何がどこにあるか把握することができるものの、こういった細かいものは判別しづらいのだ。その上、そんな場所で杖の代わりとして大いに役立ってくれた剣も、海の藻屑となってしまった。
「大丈夫か?」
 シエルがラスタに手を伸ばしていることに気が付き、ラスタはシエルの手を掴んだ。
「ありがとうございます」
「いいさ。それより、はぐれたりするなよ」
 シエルは、そこ蔦あるからな、石に気をつけろよ、などと色々声をかけた。シエルの声を聞き、シエルの手に引かれながら、ラスタは昔を思い出した。
『お兄ちゃん、こっちよ』
 鈴のような声音で呼びかけ、太陽のような笑顔をラスタに向ける妹。そう、あの時ラスタはそれを見ることができたから、今でもはっきりと思い出せる。唯一色のついた記憶、そして唯一映像化される記憶なのだ。
 ラスタの故郷には、古くから伝わる物語があった。それは実話であると教えられてきた。大人たちはそれを、『豊穣の女神』と呼ぶ。飢饉に見舞われた村で少女が人身御供になり、村に実りをもたらした、という話だ。人身御供にはセリィが選ばれた。誉れ高い役目だと幼いころから教えられていたけれど、迫りくる死は、幼い妹には恐ろしくてたまらなかったはずだ。妹を守らなければ。幼くして両親は他界し、ラスタはより強くそのように思っていた。だから嫌がる妹を差し出すことを拒んだ。村の人たちが一斉に妹に手を伸ばすのを見て、ラスタも本当に怖かった。だが抵抗空しく、ラスタも妹も捕えられてしまった。ラスタは見せしめに、妹の目の前で両目をつぶされ、眼球をえぐり取られた。それがことさら、記憶が鮮明に残る要因となった。あの日の痛みも、セリィの叫びも、塗り替える映像がないのだ。
 そんな状態にもかかわらず、ラスタは村を出た。あの村にいることに耐えられなかった。たった一人の肉親が捕えられ人身御供になって死んでしまった。天涯孤独のラスタがこのまま村で、どう生きていけるというのだろう。それでも死ぬという選択肢は初めからなかった。だからラスタは、村を出て当てもなく彷徨い歩いた。そんな時に、親切な旅人に出会い、旅の仕方と剣を覚えた。周囲の音から物体を把握することができるようになった。そして、旅の途中でセリィが生きているという噂を耳にした。ラスタの長く果てしない旅が、本当の意味で始まったのだ。
「ラスタ、こいつを持っていこう」
 シエルが何かを見つけたらしい。ラスタに自分の荷物を持たせた。

 シエルが見つけたのはバナナだった。ラスタに荷物を渡し、シエルは木に何の造作もなく登った。頂上で数個だけ身を残し、もぎ取った実は袋に入れた。
 さて、そろそろ戻ろう。そう思って一息ついたシエルは、後方から何か強いプレッシャーを感じた。振り返るように木の下を見下ろしたその先に、鋭く光る野生の目を見た。視線を辿ると、そこにはラスタがいた。ラスタが気づいていようがいまいが、今の彼は丸腰だ。目の主が動き、シエルが叫ぶ。
「ラスタ!」
 声を張ると同時に木から滑るように降り、ラスタを襲わんとする何者かの頭を踏みつけ、地上に着地した。それは全長がシエルの倍はあり、黒く長い毛で覆われた顔は醜悪で、まるで熊のような体格だ。喉の奥でぐるぐると低く唸る声に、シエルの腹が共鳴する。本能が逃げろと告げる。
「逃げるよ」
 シエルはラスタの手を引き駆け出した。化け物は気が立っているのだろうか、片腕で木を一本なぎ倒した。あの手に捕まれば最後どうなるかを想像してしまった。このまま逃げてもいずれ捕まるだろう。相手は獣だ。どうする。シエルは一つの賭けに出る。砂浜だ。シエルは元来た道を辿った。ラスタは大丈夫だろうか。つまずきながらもしっかり付いてきている。
 森の出口が見えた。間もなく浜だ。勢いこそは小さくなっているが、朝焚いた火は確かに燃えている。やった。背後で化け物が雄叫びを上げ、同時に手を振り上げた。シエルは咄嗟にラスタを横に引っ張り倒した。次の瞬間、化け物の鋭い爪がシエルの右の二の腕を切り裂く。
「ぐっ!」
 激痛が走る。傷は恐らく深い。目視確認している暇も、痛みに目を瞑る暇もない。シエルは止まることなく焚火に走り、無事な左手を突っ込んだ。熱い。まだ燃えている木を掴み、化け物に投げつけた。投げつけながら転倒した。化け物は耳が痛くなるほどの雄叫びを上げ、森へ逃げた。シエルは青い空を見上げながら全身で息をして、遠くなっていく音を聞き届けた。
「シエル!」
 仰向けのシエルにラスタが駆け寄る。シエルはラスタに、やせ我慢の笑顔を向けた。
「言ったろ、あたしが守るって」
「だからって、これはやりすぎですよ」
 忘れていたのに、今右腕に痺れるような痛みが戻ってきた。ようやく傷に目を向ける。服に血が赤黒く染みている。更に、焚火に手を突っ込んだおかげで左手も火傷をしている。これは痛いはずだ。だが、ラスタは見えない。滲む脂汗も。
「心配ない。これくらいなら、日常茶飯事だ」
「傷口に砂が入らないようにするくらいの処置であれば、私にもできます」
「それで充分さ、頼んだよ。止血くらいなら自分でできるから」
 ラスタが自分の服を破る音を聞きながら、シエルは瞼を伏せた。

 プライムがノーラとホルトと共に、手に入れた木材と木々の葉を抱えて砂浜に戻ると、シエルが仰向けになって寝ていた。ラスタが焚火を明々と燃やしている。プライムの気配に気づいたのか、ラスタは顔をプライムへと向けた。
「ああ、プライム」
「遅くなってすまんな、少々手間取った。それより、シエルはどうした? 見たところ、手傷を負っているようだが」
「実は――」
 プライムはラスタから事の仔細を聞き、眉を顰めた。
「なるほど、作業は明日に持ち越しだな。明日イカダをつくって、でき次第すぐにでも島を出る。その間、ラスタがシエルを見ていてくれ」
「分かっています」
 物わかりのいい返事をしたものの、ラスタはどこか思いつめているように見えた。連絡船の一件もあるのかもしれないが、今は彼を問い詰めることは思い留まった。

 作業は太陽が顔を出した頃から始まった。プライムとノーラと、一刻も早く島を出たっがっているホルトの、男三人での作業だ。シエルはラスタに付かれ、大げさな、と苦笑しながら男たちの作業を見ていた。手傷などなくとも、素早さばかりで力のないシエルがその作業に加わることはなかったのだろうと思っている。しかしプライムは、そのことを直接シエルに言わずに敢えて別の役目をあてがった辺り、人の使い方をよく心得ている。自分のことだから分かるが、傷は決して浅くはない。火傷まで確認する勇気はなかったが、跡は残るだろう。
 日が高くなった頃、プライムが「できたぞー」とラスタとシエルに言った。そこには、筏と即席感が否めないオールがあった。
「シエルさん、セルナージュに行けばちゃんとした治療が受けられますからね」
 ノーラがシエルとラスタに、イカダに乗るよう促す。シエルはノーラの指示通りに動いた。
「盲神ラスタの腕前を見られなかったのは残念だけどな」
 ホルトが豪快に笑いながらイカダに乗った、その時。
「プライム!」
 シエルが叫ぶ。シエルの方を見て笑っているプライムの背後に、昨日の化け物の姿があったのだ。プライムのことだから、シエルが叫ぶ前から気づいていただろう。。叫び声より一瞬早く腰の剣を抜き、化け物の一撃を受け止めた。化け物は、シエルの投げた火で、その顔をより醜悪にしていた。プライムは化け物の爪を受け止めたまま、背後のノーラたちに向けて「早く行け!」と叫んだ。後から行くからと。ノーラはでも、とその場に留まろうとしたが、プライムの目がそれを許さない。ノーラはイカダを押し出し、乗り上がった。
「ホルトさん、北です!」
 海水の飛沫が傷に沁みて、シエルは顔をしかめた。少しずつ遠くなっていく浜辺では、プライムがあの化け物と戦っている。シエルが尻尾を巻いて逃げることしかできなかったあの化け物と、対等に。その姿を見た時、自分たちを守ろうとしているプライムと化け物の姿が、なぜか重なって見えた。
 ――もしかして、あいつは守ろうとしている?
 そう思った時には、プライムが化け物を倒していた。浜から海の中へ駆け、水しぶきを上げながら筏へ急ぐ。
「プライムさん、あと少しです!」
 ノーラが手を伸ばす。その手をプライムが掴み、男三人の手でようやくプライムはイカダに乗りつけた。
 プライムの呼吸が落ち着いてから、シエルは溜息を吐き浜を見た。
 浜に倒れているのは、確かに巨大な化物だ。しかしどうにも釈然としない。くすんだ金髪を風になびかせながら、空と同じ色の目をプライムに向けた。プライムは今までにない優しい表情で、あの化け物を見ている。シエルもそこに目を戻した。すると、化け物が立ち上がり、森へ帰っていったではないか。
「殺していなかったんだな」
「あいつは自分の住処を守っていただけだからな。あの島の守護獣ってヤツだろう。俺たちは招かれざる客だったろうしな。それに、俺にも誇りがある」
 プライムが目を伏せる。これまで生きた長い年月に想いを馳せているのだろうか。シエルはプライムの伏せた目をじっと見つめた。
「俺は〈殺さずの誓い〉を立てたからな」
 風剣士は、旅の途中で幾度となく野盗や獣に襲われる。それで生命を落とす者も多い。下手に相手を生かそうとすれば、自分の身の方が危うくなる。その誓いは、プライムの自信の表れなのか、はたまた深い理由があってのことなのか、シエルには判別できなかった。



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