古のフェリクシア

#13.贖罪の人


 よく覚えている。ビェリークという姓を持つ裕福な夫婦は、タルナにとって恩人だった。商業が盛んだと言われるワシール国の街サルバで、彼らは恵まれない子どもたちの孤児院を運営していた。タルナも孤児院で育った一人で、身よりのないタルナを引き取り、育て、職業を斡旋してくれたビェリーク夫妻には、実に頭が上がらなかったものだ。
 長年子宝に恵まれなかったビェリーク夫妻だが、タルナが九つの頃、婦人譲りの赤い髪の男の子が産まれた。人相の悪さは父親譲りだったけれど、幼いながらに愛嬌のあったディオは、それは元気で、活発で、明るい子だった。
 その男の子と再会した。幼児は少年に、少年は大人になる。あの事件から二十年、月日は明るく無垢な少年の顔つきを、人相の悪さがいっそう際だつ荒んだものに変えた。いや、彼の表情を決定的に変えたのは、タルナが十五歳、少年が六歳のあの当時の、あの事件だった。そしてその主犯は、他でもないタルナだった。
 今にして思えば、なぜ恩人を手に掛けるような、あんな馬鹿げたことができたのか――いかなる言い訳も、軽くて滑稽なものにしか思えない。ただ、当時のタルナにとってはどんなことよりも大切で、人を滅多刺しにする原動力としては十分なものだったということは、紛れもない事実だ。現実として、恩人と呼ぶべき人を二人も殺したのだから。
 あの事件の直後、六歳のディオは行方不明になった。誰かが捜しに行ったのだろうか。タルナは知らない。なぜディオは姿を消したのか――誰かに襲われたのか、拐かされたのか、それとも自らの足で出て行ったのか、そんなことも一切知らなかった。その時タルナは、街の人々に断罪されていた。街の人たちはビェリーク夫妻をそれはそれは敬愛していたから、当然だろう。タルナを処刑せよとの声とて、タルナの耳に届いていた。石も投げられたし、殴る蹴る等の暴行も加えられたし、暴言もぶつけられた。だがタルナは死ななかった。やはりビェリーク夫妻の存在に救われたのだ。ビェリーク夫妻がいかに孤児院を大切にしていたかを知っていたから。
 しかし若いタルナにはそれが分からなかった。人々に憎まれながら、人を殺した男という目で見られながら、みんなのビェリーク夫妻を冥府に追いやったと思われながらサルバで生きていくことは、タルナにはできなかった。


 少女の声が、タルナの意識を呼び起こした。目を開けると、目の前でフィラがタルナの顔を覗き込んでいた。
 夢を見ていたようだ。昔の夢。罪の意識が見せる夢。意識しなくても忘れはしないが、どんな瞬間とて忘れるなという、戒めの夢だ。思い出したくはないけれど、忘れることもない。
「ああ、フィラ。おはよう」
 目をこすりながら笑顔を向けるタルナに、フィラは「おはようございます」と返した。大きなあくびで酸素を取り入れ、身体を起こす。しばらく船内でじっとしていたためか、節々が痛む。
「陸地のようなものが見えてきました。もうすぐ着くかと思います」
「そうか。寝ぼけている場合じゃなさそうだな。陸地のようなものって?」
「靄がかかってて見えないんです。メリアさんが言うには、今は雨期だから雨が降っているってことなんだそうですが……」
 なるほど、彼女にはあまり想像できないのだろう。困惑した表情がそれを物語っていた。
「上陸すれば、どんなものか分かるよ。俺もそういう気候の地域を通りがかったこあるけど、その時は乾期だったから、雨は降らなかったんだ。だから、俺も初めてだ。わくわくするな」
 しかし、フィラは困ったように笑うだけで、タルナに同意はしなかった。きっと彼女は、新しいものに対しては好奇心よりも不安の方が大きいのだろう。どちらにしても自然なことだ。
「じゃあ行かないと、メリアやディオに殴られるかな」
「あの……」
 思いきり両手を伸ばし、後ろに反っているタルナに、フィラは聞きづらそうな様子で切り出した。
「その……きっと込み入った事情があるんだと思うんですけど、聞いていいのか、聞かない方がいいのか分からないけど、なんとなく気になっていることがあって……」
 彼女の聞きたいことは、なんとなく察しがついた。どうでもいいことなら、質問する許可を求めたとしても、こんなに遠慮がちな質問はしないだろう。タルナは鼻から息を吐いた。
「なんでもどうぞ。答えられることなら、なんでも答えるよ」
「えっと、じゃあ。あの、私を助けてくれたことは自己満足って言ってましたよね。ここまで付き合って下さるのも、自己満足なのですか?」
 さて、どう答えたものか。自己満足には変わりないが、本当は複雑に絡み合った感情がそうさせている。今でこそいろいろと気持ちの整理もできて、「自己満足」のひとつで済ませることはできる。だがディオが自ら話していないのであれば、事の仔細は伝えない方がいいだろう。
「まあ、そうだな。自己満足だ」
「そうなのですか」
 フィラはそれ以上追及しなかった。確かに、これは追及を許さない答えだ。そして、そんなものを彼女が求めているのではないということも分かっている。フィラも物わかりのいい少女だから、それをいいことにこのように答えた。汚い答えだとタルナは思った。
「これは俺だけの問題じゃないから、詳しくは話してあげられないんだ。フィラは、俺やディオの仲が悪いことを気にしてくれてるんだよな。ありがとう。本当は、きちんと仲直りができたらって思うこともあるけど、そこまで求めるのは贅沢なんだ。俺はディオには、きっと許してもらえない。それだけのことをしてしまったから」
 汚い答えのまま終わらせてしまうのが嫌でこれだけ話したけれど、それでも話し過ぎてしまったかもしれない。タルナは苦笑いを浮かべ、「長くなるからここまでな」と話を切り、降り口へとフィラを急がせた。外は丁度、雨が止んでいた。


 フィラにも言った通り、実際の雨期というものがどういうものなのか、重たいチェーンソーを抱えたタルナは知らない。だからそれを唯一知るメリアの、地元民の案内があるということは非常に心強かった。
「ここからアスカルまでそんなに遠いわけじゃないけど、一旦雨が降りだしたら、視界が悪くなるから、止むまでじっとしていなきゃいけない。あたしひとりならまだしも、こんな場所歩き慣れてない人間を四人も連れてちゃ、なおさらね」
 とは言いつつ、地元の人間とて雨が降っている間は出歩いたりしないのだそうだ。だから、止んでるうちにちゃっちゃと進むよ、と、メリアはずんずん進んでいった。
「そうだ。あたしの後ろ、しっかり付いてくるんだよ。見えないかもしれないけど、あたしたちが使う道があるんだ。道を外れると迷って、生きてる人間に二度と会えないかもしれないし、会いたくないモノに出会ってしまうこともあるからね。雨が降ったらうろつかない、あたしの後ろをしっかり付いてくる、この二つはきちんと守るんだよ」
 道を良く知るメリアの言葉には従わなければならない。「はい」とすぐに声を揃えたフィラとエリスは特に、こういった道には慣れていないだろうから、その想いを強くしていることだろう。
 メリアは本当に、ずんずんと先へ進む。草をかき分け、迷うことなく前へと進む。彼女の言う通り、どこに道があるのかさっぱり見分けがつかないけれど、彼女にははっきりと道が見えているのだろう。
 雨が降りだしたら、メリアの指示に従って足を止める。視界が悪く、声も届かない。バケツをひっくり返したような雨は、その下にいると痛い。確かにこの雨の中を進むということはできそうにない。雨が過ぎるのを待って、雨が止んだらまた歩く。その繰り返しだった。
「おっと、気をつけて」
 雨宿りの中、メリアがフィラの足下にいた、色鮮やかな虫を、ナイフで一突きにした。突然のことにフィラは言葉を失っていたけれど、メリアによると毒を持っているということだった。
 メリアの態度は、フィラに対してのみ、気持ち丁寧に見える。年若いフィラのことを実の妹のように思っているという印象ではないものの、彼女の里帰りもフィラのためなのだから、何かがあるのだろうという程度にタルナは考えていた。
 ディオはなぜ、フィラを守っているのだろう。ネストリアに上陸してから一言もしゃべっていないディオの後姿を見ながら、タルナは考えた。立ち寄った村で恋をしたから? そのような下世話なことも思い浮かぶが、タルナは質問しなかった。何を話したところで、ディオはタルナに暴言しか吐かない。それは仕方のないことなのだ。
 タルナはディオに気づかれないうちに、視線をディオの頭から外した。ずっと見ていたことが分かってしまったら、また睨みつけられるだろう。憎んでいる相手に見られるなど、彼にとっては耐え難いことであるはずだ。道中を共にしていることさえも。それを許しているのは、フィラの存在あってこそだろう。
 そのフィラは、歩きながら周囲を見回し、エリスと一緒になってしきりに感心していた。
「僕、感激です! 見たことない植物ばかりで。こんなに変な形のもの、初めて見ました」
「本当ですね。なんだか、随分と遠いところに来たんだなぁって思います」
「こいつはシダ植物だな。なんていうのかは知らないけど」
 答えた後に、これでは格好がつかないと、若干後悔した。そんなタルナの言葉をメリアが継ぐ。
「バールーンって名前だよ。根っこに毒があるんだ」
 バールーンの根を乾燥させたあとすりつぶして粉にし、水に溶かして矢じりやナイフに塗るらしい。それを使って狩りを行うようだ。
「ま、あたしもアスカルの戦士だからね。これくらいは知っておかないと」
 名前も知らないような植物も当然あるのだと言っていた。毒があるとか、食用になるとか、そういうものでなければ名前を覚える必要がないからだ。考えてみれば、それはタルナも同じだ。
「まあ、ここまで時間はかかってるわけだし、遠くっちゃ遠くに違いないけど。フィラの地元はどこなんだ?」
「セレストの近くです。ええと、ユリヤ大陸の」
「えっ!?」
 ユリヤ大陸のセレストといえば、確かに聞き覚えがあるし、大体の場所も想像できるから、大きな街なのだろう。遠い場所だと思っていたけれど、出身者が身近にいると、なんとなく近くに思えてくるから不思議なものだ。
「それは……遠くまで来たなぁ」
「そうですね。遠くまで来たと思います。ついこの間までは、こんなことになるなんて想像もしてなかったけど……」
 彼女がここまで来た理由を考えれば、当然のことと言えよう。気持ちの面でも、決して楽しい旅路ではなかったはずだ。その旅が、ここで終わるとは限らない。でも状況が変わるかもしれない。何か新しいことが分かりさえすれば、前進はできるかもしれない。希望を捨てたくない。タルナ自身も。
 そんな時だった。木の根か何かにフィラがつまづいた。ディオが一番に反応し、フィラの腕を掴んで身体を支える。彼はこの密林で、フィラにさえ背中しか見せていなかったというのに、実に素早い動きだった。
「あ、ありがとう、ディオ」
「足下、気を付けて歩け」
 ディオがなぜ、フィラを連れて逃げているのか、タルナは知らない。何があったのかも知らない。だが、今の一連の出来事を見ただけで、それでいいのだと思った。ディオがフィラに対してどういった感情を持っていようとも、取るに足らないことなのだと分かったからだ。

 雨を避けつつ進んで行くこと数刻、ようやく待ち望んだメリアの「もう近いよ」という言葉を耳にして、タルナは溜息を吐いた。初めての環境に好奇心はあるけれど、慣れない足場や気候には体力を消耗する。メリアの言葉は、疲れ切った身体に鞭打つには充分なものだった。自然と上がる口角を気づかれないように気を配った、その時だった。
「ん?」
 それは偶然だった。タルナは木々の間に、何か蠢く影を認めた。気のせいかも知れない。だが慣れていない場所で、しかも鬱蒼と木の茂るこの場所において、「気のせい」ということがどれだけ危険かということも想像に難くない。だからすぐに、最も慣れている人間に報告した。
「メリア、何か動いた」
「……いるかもね。皆も気をつけよう」
 メリアは目を細めてサラッと周りを見回した。タルナの言ったような「何か」は確認できなかったようだ。彼女はそのまま歩き始めた。しかし、タルナは嫌な気配を断ち切ることができずにいた。場馴れしたアスカルの戦士が普通に歩いているというのに、なぜだろう。もしかすると虫の報せというヤツなのだろうか。その予感は、見事的中することとなる。
「こいつ!?」
 戸惑うメリアの叫び声が耳を貫く。蠢く影は見間違いではなかった。茂みを縫うように現れた影は、全長がディオの身長ほどありそうなコブラだった。あれが毒を持っているという知識だけはあった。
 どうするべきか。どうするべきなのか。考える。様々なことが脳裏を駆け巡る。ヤツはディオの所へ突進している。一番近いのは自分だ。
 決断した。いや、その前から身体は動いていた。
「なっ」
 横からディオにショルダータックルをかます。横からの突撃に対処できなかったディオはそのまま転倒した。持っている紋章チェーンソーを構える。ここまで時間も余裕もなくて、稼働には至っていないけれど、大きさと重さでヤツを牽制するくらいはできるだろう。口を狙って刃を前に押し出す。だが狙いは外れ、右腕をまれた。コブラの牙が肉に食い込む。足場がぬかるんでいたことも災いして、状態が後ろに大きく傾き、タルナは転倒した。その時、木の根か何かで後頭部を強打した。
 激痛と共に、視界がブラックアウトする。

 死んだ人の姿が見えた。恩人であり、タルナがこの手で殺害したビェリーク夫妻だ。夫妻は優しく微笑んでいた。迎えに来たのだろうか。でもなぜ、自分に向かってそんなふうに笑っていられるのだろう。だってタルナは、恩人をあろうことか、事故でも咄嗟の出来事でもなく、怨恨で滅多刺しにしたのだ。夫妻の姿は、ただ微笑むだけで、喋ることも、動くこともしなかった。優しいまなざしは、タルナを責めることもしなかった。ただ、それがたまらなかった。
 今生きていて、目の前にいる人間の考えていることだって分からないのだ。死んで、いなくなってしまった人間の想いや無念など、想像することしかできない。それでもタルナの人生において、ビェリーク夫妻と過ごした十五年間は、いつでも背中を押してくれた。人に何かをすることが、きっとビェリーク夫妻への恩返しになるし、罪滅ぼしにもなる。どこにいるか分からないディオへの償いにもなる――そう考えるようになった。
 だが今は、ディオが側にいる。側にいることを許してくれている。罪が許されているわけではないけれど、それはきっと、「自己満足」の意味を変えられる。側にいるディオに、直接償いができる。ディオに伝えられる。フィラを通してもいい。なんでもいい。この出会いは、この再会は、タルナにとってつらいけれど、かけがえのないものでもあるのだ。
「タルナ!」
「タルナさん!」
 呼んでいる。声が聞こえる。遠い、遠い場所から、自分を心配する声が耳に届く。
  ――俺は、ここで死ぬのか。
 ディオの側にいられたのに、ディオにきちんと償うことができなかった。それだけが心残りだけれども、再会することができた。自分の想いを伝えることができた。それはタルナにとって大きな意味を持つ。
 ――俺はここで、死ぬ。
 それでいい。許されなくてもいい。いや、許されたい。許されたかった。ずっと罪の意識に苛まれ続けた。殺したのは自分だ。自分のこの手で殺した。いなくなった人は、二度と戻って来ない。タルナに微笑んだ、優しい人たち。やんちゃな幼いディオ。孤児院の皆と過ごした、楽しかった日々――もはや戻ってはこないのだ。
 走馬灯と共に、そんなことを考えた。しかし、頬へ走る痛みがタルナを密林へと引き戻す。
 目を開けると、ディオがいた。相変わらずおっかない顔をしていた。いや、若干の悲しみが混じっているようにも見える。
「死にたかったのか」
 ディオは怒っていた。憎い仇に身体を張ってかばわれたことが、彼のプライドを傷つけたのだろうか。だが、彼にはフィラを守るという役目がある。このようなところで死なれても、その役目をタルナが引き継ぐことはできないのだ。
「なんだい、死にたい人間がいるとでも?」
 タルナは身体を起こした。意識はしっかりしている。足が痛む。あんな無茶をして、後頭部を強打して、毒蛇に噛まれたにもかかわらず、足を痛めた程度で済んで良かったと喜ぶべきか。
「かわしてんじゃねぇよ、死にたかったのかって聞いてんだ!」
 ディオがタルナの胸倉をつかむ。気管をしめられ、必死に呼吸をしながら答えた。
「……そうかも、しれないね。罪の意識から逃れたくて、無意識のうちに、そうなる道を、選んでいたのかも、しれない」
「てめぇ」
「それが、解決になんか、ならないことだって、知ってる」
「ならこれ以上言うことはねぇ。あんたの思った通りだ、俺は絶対に許さねぇぞ。生きてたって許さねぇが、死にやがったら死んでも許さねぇ。墓暴いてやるからな」
 ここでようやく解放され、タルナは酸素を求めて咳き込んだ。
「流石にそれは困るな」
「ちょっとあんたたち、悠長にそんな話してる場合じゃないだろ。早く村に行くよ。急いで手当てしないと、タルナが死ぬよ」
 メリアに急かされながら、タルナは立ち上がった。笑ってみせたけれど、死はそう遠くない未来、タルナに訪れるだろう。タルナには死神の足音がはっきりと聞こえていた。鎌をもたげてやってくる死神の姿が鮮明に見えていた。そこに向かって生きているだけだ。そのために悔いのない選択をしたつもりだ。けれど、ディオにとっては迷惑でしかないだろう。そのディオが、タルナの死を許さないと言う。素直な物言いではないものの、手応えは悪くない。
 ――俺の死に場所は、ここじゃない。俺はまだ死ねないらしい。
 タルナは微笑んだ。何を笑っていやがる、とディオが吐き捨てながら、足を痛めたタルナに肩を貸した。



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