古のフェリクシア

#15.灰の消失


 木々のざわめきと鳥の声を聞きながら、軒下に腰かけたディオは考えていた。どれくらい考えていたのか。アスカルに着いてからだろうか。ネストリア大陸に入ってからだろうか。ネストリア行の船に乗ってからか、それとも――。
 ――あいつがフィラを助けた時、だろうな。
 あいつ――タルナのことを考えていた。ディオの人生に強烈な分岐点を与えた人物。ディオに忘れ得ぬ激情を芽生えさせた人物。そのことに変わりはないけれど、ディオは揺らいでいる。
 タルナは変わった。親切で真っ直ぐな青年になっていた。ディオに頭を下げ、自己満足だと言ってディオに付いてくる。そして、生命を張ってディオを助けた。生命を粗末にするような行為を認めることはできないけれど、それを差し引いても、タルナは本当に、あの事件からは想像もつかないほど変わった。なのに、記憶の中でディオの両親を殺すタルナは変わっていない。ディオにとってタルナという名前は、あの時の少年のものだ。残忍で残酷で身勝手で、ディオから全てを奪い去った、愚かな少年の名だ。いつまでもそうだと思っていた。けれど。
 ――もう、その認識は変えないとだめだ。
 許す、許さないは、感情ひとつで決められていいものだ。だが、タルナを認識したあの時に蘇った激情は今、凪ぎつつあった。時が過ぎたからだろうか。どんな強烈な感情も風化していくのだろうか。きっとそれもある。あるけれどそれ以上に、タルナの真摯な態度が、ディオの激しい怒りを和らげたのだ。だとすれば、ディオはタルナを許さなければならない。いや、すでに許しているのだ。
 ――ちゃんとそれくらいは教えてやるか。癪だけど。
 気は進まないけれど、会話の機会を持つべきだろう。そうすれば、フィラにも――。
 ディオはフィラの笑顔を思い浮かべた。自分にとって、フィラとは何だろう。
 フィラを守らなければ。そう強く思った記憶は、恐らく全て赤き従者の意思だった。フィラを守っている自分は、ディオの意思ではなく、フィラの姿を見た時から、赤き従者にとって代わっていたのだろうか。
 記憶をたどる。フィラを守ると決めたのは、フィラに会う前だ。フィラの母親という人物から守ってほしいと頼まれた。ディオはそれを引き受けた。フィラの姿がどんなものだろうと、ディオがフィラを守っているのは、彼女の母や、彼女を大切に思う人たちに頼まれたからだ。ディオはきっと、ずっと自分の意思でフィラを守っていた。赤き従者ではなくディオとして、自分を守ってくれる、全幅の信頼を寄せられる人としてディオを慕ってくれたフィラを――フェリクシアの女王ノアではなくてフィラに惹かれたのも、きっと本当なのだ。それが今さら分かった。痛いくらい、苦しいくらい、本物なのだ。だからディオは、フィラを守る。誰かから依頼されたなどという理由ではなく、自分が赤き従者だからではなく、ディオがディオだから、そしてフィラがフィラであるから。そのための第一歩として、まずはタルナに歩み寄る。完全にわだかまりが解けるわけではないだろうが、少しでもなくすために。
 そんなディオの前を、タルナが通りがかる。タルナとは一瞬目が合った。ディオはすぐさま目を逸らした。馬鹿馬鹿しい。何をやっているのだ。当のタルナはというと、何ごともなかったかのように立ち去って行こうとした。少なくともそう判断した。土を踏む音が遠くなっていくからだ。だが、このままではだめだ。ディオはタルナの後姿に視線を戻し、声を上げた。
「タルナ!」
 タルナが振り返る。その瞬間、頭が真っ白になった。今まで言おうとしていたことが、喉の辺りで引っかかってしまって上がってこない。自分にも緊張だとか、バツが悪いなどという感情があったのかと、妙な感慨もあった。
「……死ぬなよ」
「分かってる。お前に殺されるまでは死なないさ」
 そうではない。ディオはもう、タルナを殺さない。それが伝わらない。
「ほざいてろ」
 悔しくてつぶやいた言葉が、駄々をこねている子どものようだと、自分でも思った。


 長老がフィラを守るという宣言をしてからというもの、集落の人々は慌ただしかった。その中で何もせずにじっとしている自分に対し、このままで良いものかと考えはするものの、何をすればいいのかサッパリ分からない。戦う力もなければハーブの知識もないフィラにできることといえば、覚悟を決めることくらいなのだろう。そう考えたフィラは、落ち着かない気持ちのまま長老の家に引きこもっていた。
 長老の家には他に、目の見えない長老と、同じように手持無沙汰な様子のエリスが待機していた。気持ちが落ち着かないのにフィラがじっとしていられるのも、フィラ以上にそわそわしているエリスの存在の方が大きいだろう。
「みなさん、こんなに警戒して……。本当にその、青き守護者は、本当に来ると思いますか?」
「来るでしょうね。……来ると思います。私がここにいて、ここがフェリクシアのあった場所なら、今もここにフェリクシアが眠っているのなら、必ず来ます」
 フィラを、そしてフェリクシアの力を手に入れるためならどのような手段をも辞さない。キリウはそういう男だ。
「怖くはないのですか? ずいぶんと落ち着いているように見えますが」
「みなさんが守ってくださるので、大丈夫です」
 そんなはずがない。怖くないなんて嘘だ。でも、落ち着くしかないではないか。長老自ら守ると言ったのに、それを怖がってはならない。だが――。
 ――やっぱり、ここに来るよう誘導されてたっていうのは間違っていなかったんだろうな。
 しっかり見たわけではないけれど、セスをあんな姿にした人間だ。村も焼いた。アスカルの戦士だってどれだけキリウに対抗できるかは分からない。それでまた、誰かが死んでしまうのだろうか。それは嫌だ。自分のことも怖いけれど、これ以上犠牲が増えることの方がずっとずっと怖かった。自分の行動や居場所ひとつで、多くの人の命運を変えてしまえるのだ。それも、悪い方へ。フィラは下唇をキュッと噛んだ。エリスに見られないように、握り拳をふるわせた。
「大丈夫ですよ、エリスさん」
 声はきっと震えてはいない、そう信じるだけだった。


★☆★☆


 足りない。まだ足りない。
 アスカルに来て、フェリクシアの伝承を聞いただけでは、やはり女王の目覚めには今一つ足りなかった。
 予想できたことだ。ノア様が目覚めるために、もう一押し、そのあと一押しさえあれば……。
 フェリクシアはネストリア大陸の地底に眠っている。目覚めさせるにはノアの血が必要だ。だがそれだけでは足りない。彼女の自覚も必要なのだ。
 もう少し。もう少しだ。長い間ずっと願ってやまなかった望みが叶えられる。ずっとこのためだけに生きてきた。あの日からずっと、全てを捨て、全てを踏みつけてきた。そうすれば、誰も自分をないがしろにしたりしない。誰にも蹂躙されない。それだけの力をずっと求めていた。
 思い出すのは、火の熱さ。血のにおい。煙の息苦しさ。
 ――そんなものは全部過去だ。これから先のことを考えればいい。
 かぶりを振り、幻を振り払う。そう、見るべきは、終わってしまった出来事ではない。あの悔しさも無力感も、全て踏みつけるためのまやかしだ。
 ――僕はここに生きている。ここに、生きているんだ。誰にも邪魔はさせない。あとは何が必要なのだ、ノア様。ずっと待っている。あなたの目覚めを、幼い頃から、ずっと――。
 親しい人の死では足りなかった。偽りのノアの歌も、彼女を揺さぶるには足りない。後は一体何が必要なのだというのだろう。
 なんにせよ、キリウのすることは変わらない。本当のノアはここへ来た。フェリクシアの眠るこの地へ来たのだ。
 キリウは集落を目の前にして、側に控える偽りのノアに目を向けた。
「分かっているな、ノア」
「あなたにはそれが必要なんでしょう?」
 ノアは歌うことを嫌っている。だが彼女の歌声は美しく、多くの人を魅了した。本当のノアでさえ、偽りのノアに夢中だった。偽りのノアはキリウに惹かれているし、キリウの言うことなら何でも聞く。そうなるように、キリウが育て上げた。ノアの生殺与奪権を握り、時には優しく甘い言葉を囁いたし、時には厳しくした。望まれるままに抱いてやったこともある。全ては、意のままに使うためだ。
「頼んだぞ、ノア」
 黒い髪を手で梳くと、ノアは小さくうなずいた。そう、それでいい。歌が嫌いだろうが、ノアには歌うだけの価値しかない。本当の名を持たず、自らの歌に生命を蝕まれながら、それでもキリウの愛を求める、愚かで憐れな娘だ。
 ノアが歌い始めたと同時に、キリウは呪文を唱えた。


★☆★☆


 ――歌。
 歌が聞こえる。知っている。この声。この歌。フィラは自分の肩を抱いて身を震わせた。怖いのに、恐ろしいのに、ある種の心地よささえ覚えてしまう、ノアの『パトリア』――フィラの一番好きだった歌。
 ――ここまで来たの? こんなところまで。こんなところだからこそ。
 自分がエリスに言ったではないか。ここにフェリクシアがあったのなら、ここに誘導されていたのだとすれば、彼らは必ずここに来ると。覚悟していたつもりだったけれど、戦慄が止まらない。
「この歌は、フェリクシアの」
 長老の呟きに、フィラはハッとした。だから懐かしいのだろうか。
「ここに伝わる歌なのですか?」
「はい、フィラ様。ということは、フィラ様の追っ手でしょうか?」
「おそらく。この声は、ノアというアイドルのものです。そしてあの人は、キリウと一緒にいます」
「そうですか。本当の名か、偽りの名か……。フィラ様はここにいてください。この老いぼれが全身全霊をもってあなたをお守りします。絶対に、青き守護者の前に差し出しはしません」
 全身全霊。
 分かってはいたけれど、長老の言葉がどっしりと心に重くのしかかる。
「分かりました、長老様」
 こうなれば、あとは腹を据えるしかない。どうせ自分には、生きることしかできないのだ。姿勢を正したフィラの前で、長老が呪文を唱え始めた。何の紋章術かは分からない。
「だ、大丈夫なんですか? 私もここにいていいんですか?」
「長老様がいいと言って下さるのだから、お言葉に甘えましょう。それに、エリスさんは見たことなかったかもしれませんけど、アスカルの戦士も、ディオも、皆さんとても頼りになるし、とても強い方たちです。だからきっと、きっと大丈夫です。大丈夫ですよ、エリスさん。だから私たちは信じましょう」
「わ、分かりました」
 今の物言いは逆効果だっただろう。エリスから緊張を感じた。分かっている。ノアの歌が、これから起きうる出来事が、怖くてたまらない。今の言葉は、全て自分に言い聞かせるためのものだ。エリスのために口にしたことではない。
 ――お願い、誰も死なないで。
 天井を見上げ、フィラは心の中で強く願った。


 タルナは長老の家の近くに待機していた。耳が拾った歌は、記憶が正しければ、アイドル歌手ノアの歌だ。それがなぜこのようなところで聞こえるのかは分からないが、そんなことはどうでもいい。何者かが来たということだ。
 歌が聞こえて、戦士たちがざわついた。歌が聞こえてきたことへの不自然さか、それとも。
 ――考えても仕方のないことだ。今はフィラを守る事だけを考えないと。
 持ってきていたチェーンソーを構える。重量はあるが、頼りがいのある重さだ。
 青い男が来るだけなら、何も怖くはない。どんな男であっても、熟練の戦士たちが付いているのだから、なんとかなるだろう――その考えは、瞬時に崩れ去った。目の前に現れたのは青ずくめの男ではなく、地面から突如として湧き上がった土人形たちだった。
「なっ」
 これでは集落の入り口を固めても仕方がないではないか。タルナは舌打ちをしながら、チェーンソーのエンジンを始動させた。チェーンソーは耳がどうにかなりそうな音を立てる。
 タルナめがけて襲い掛かってくる顔のない土人形をチェーンソーで薙ぎ払う。横から来た土人形にも見舞ってやった。楽勝だ。土人形の数さえなければ。自動車は役に立たないだろうからと置いてきたが、これだけでも持ってきていて良かったと、目の前にいる土人形を真っ二つにして汗を拭いながら、タルナは思った。だが全く問題がないわけではない。
 ――目が霞む。
 紋章技術を使ったチェーンソーだ。稼働させるにはタルナの生命力、タルナの血液が必要だった。十体ほど薙ぎ払った程度でこの体たらくだ。他の戦士たちはものともせずに、華麗な技を披露しているというのに。メリアや、アスカルの戦士ではないディオも。だがタルナは戦士ではない。武器がなければ戦えない、普通の人間だ。タルナを戦士たらしめているのは、他でもないチェーンソーだ。
 ――まだだ。まだ待ってくれ。こんなところで終わりにするわけには、いかない。
 自分に残された時間は、すでに分かっている。全て自分のやってきたことの結果だ。最初は分からなかったけれど、自動車に乗るようになってから、あの噂は噂などではない、事実なのだと分かった――紋章技術を使うと早死にするという噂だ。他の者たちはそこまで使い込んでいなかったかもしれないが、タルナはずっと紋章自動車を動かしてきた。船に乗ってからは、チェーンソーを使う機会もなかったので、特に問題はないと考えていたが、甘かったようだ。霞む視界を戻したくて、タルナはギュッと目を瞑り、素早くかぶりを振り、そして唾を呑み前を見た。
 その時、タルナの視界が銀色の髪を捉えた。長老の家から出てきてしまったのか。そこに青い影も向かっている。捕まる。連れて行かれる。それでは意味がないではないか。ディオや、他の戦士たちは遠い。自分が一番近い。状況を掴んだタルナの足が、フィラに向かって地を蹴る。
「フィラ!」
 振り返る。フィラは男に気付いていない。チェーンソーを男に向けて押し出す。が、男はそれをものともせず、逆に手を突き出してきた。
 タルナは叫ぶことさえできなかった。


 フェリクシアの歌を懐かしく思う自分がいた。過去にノアが歌っているのを、旅の途中で何度か聞いた覚えがディオにはある。その時には抱かなかった感情だ。フィラとの出会いが、赤き従者とやらを呼び起こしたのだろうか。ただ、この懐かしさが己に真実を突き付ける。
 ――俺は赤き従者で、その血からは逃げられねぇってことか。
 他人が勝手に口にした、他人にとっての真実だったならば、ただの解釈で済んだのだ。だがきっと、ディオにとっても真実なのだろう。土から湧き上がる人形たちを薙ぎ払いながら、ディオは奥歯を噛みしめた。だが、フィラを守るという誓いに変わりはない。
「邪魔だ、従者」
 冷酷な男の声がした。キリウ。反射的に剣を盾にする。腕にまで振動が伝わり、治まるまでに二、三秒程度を要した。ディオよりもずっと細い身体の一体どこに、そんな馬力があるというのか。一瞬でも防御が遅れたらと考えると、ぞっとする。間髪入れずにキリウの蹴りが入る。身をよじり脚はかわすも、剣がそれを受け、高い音を立てて半分ほどに折れた。鉄板にも見える大剣が、キリウに折られた。折れた刃先は飛んでいき、一体の土人形の頭部に刺さった。どれほどの力を持っているというのだ、この男は。いや、紋章術か。紋章術だろう。
「貴様の相手をしている暇はないのだ」
 キリウは裾を翻し、ディオに背を向けた。
「待ちやがれ!」
 後を追おうと駆け出したものの、土人形たちに阻まれた。小癪な男。そのように悪態をつきながら、折れた剣を振り回す。
 見えない。あんなに目立つ青なのに、キリウの姿が見当たらない。土人形に阻まれた一瞬の隙に、どこへ行ったというのか。折れた剣先を土人形に突き刺した、その刹那。
「フィラ!」
 タルナの声がした。フィラ。フィラ? 彼女は長老の家に保護されているはずだ。そのフィラに何かが起きた。咄嗟に声のする方へ顔を向ける。タルナがチェーンソーを構えて走る。その前には誰が? 建物の影で見えない。
 次の瞬間には、タルナは肉の破片となって飛び散っていた。チェーンソーも砕け散った。なんだ、何があったのだ。タルナ。まだかけたい言葉もかけていないのに――。


 屋根から何かが降ってきた。
「わあ!」
 エリスが叫んだおかげか、フィラは叫び声の方に驚いた。とりあえずサッと立ち上がり、降ってきた何かを見る。
 人型。土人形。一人とは思えない物音がすると思ったら、こんなものが家の外にはうじゃうじゃいるのだ。そう思うとぞっとした。そこでようやく理解した。長老のつかった紋章術は決壊だったのだろう。そして今、破られた。
「フィラ様!」
 突如、長老が駆け寄りフィラを突き飛ばし、土人形に水の紋章剣を見舞った。
「長老様!」
 それを皮切りに、屋根から、戸口から、次々に土人形が入り込んできた。
「フィラ様、お逃げください! 道は私が開きます!」
 どこへ? 密林に行けば、迷ってのたれ死ぬ。獣や虫にやられるかもしれない。だが村に残れば、キリウに捕えられる。八方塞がりだ。ああでも、キリウの手に自分が渡らないためには、密林に逃げてのたれ死ぬ方がずっといい、きっと――。
 フィラは一瞬のためらいの後、長老が壁に開けた穴を突っ切って、密林に走った。
 アスカルの長老は強かった。とても強かった。だから壁の穴から先に、怪しい影は一切なかった。これなら行ける。エリスの手を引き足を漕ぐ。大丈夫。根拠のない自信はフィラの背を力強く推した。しかし――。
「フィラ!」
「えっ」
 不意に呼ばれ振り返る。影。音。迫り来る人。青い人。大きな手。男の声。臭い。鉄。広がる赤、赤、赤。赤だけが視界を埋め尽くす。肉塊。肉の破片。誰が? フィラの知っている人。守ってくれた人。話を聞いてくれた人。安心させてくれた人。フィラを――。
 声が出ない。身体が動かない。指先どころか、身じろぎ、まばたきさえも。
「フィラ!」
「フィラ!」
 誰の声だろう。遠い。くぐもって聞こえる。すべてがゆっくりで、遅くて、遠い、遠い……。
「ノア様、共にフェリクシアへ」
 フィラの大好きな人たちを遠いところへやった人が手をさしのべる。青い髪の下に優しい笑顔を張り付けて、動かないフィラの手を取った。冷たい手だ。いや、冷たいのは自分の手。分からない。分からない。何も分からない。何も見えない。何も聞こえない。感じられない。もう、何も。
 ――タルナさん。



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