古のフェリクシア

#16.王の誕生


 赤い液体と、赤い破片が飛び散っていた。それと一緒に、チェーンソーだったものの破片も散乱している。フィラが青い影に連れ去られ、土人形たちは土に還った。
 本当に一瞬の出来事だった。タルナがキリウにチェーンソーを構えて向かっていき、返り討ちにあった。相手の姿を認識することはできなかったけれど、あのようなことができるのはキリウしかいない。想像だが間違ってはいないだろう。フィラを守っての行動だった。実に勇敢だ。馬鹿げている。こんな、本当に誰だか、人だったのかも分からないような死に方をして、馬鹿な男だ。ついこの間まで、存在すら知りもしなかった少女のためなんかに生命を落として、なんて愚かな男なのだ。そしてフィラは――。
「くそっ!」
 拳を地面に思い切り振り下ろす。守れなかった。タルナに謝罪もできず、フィラもキリウに奪われてしまった。何のための力だというのか。何が赤き従者だ。この名前に何の意味があるというのか。大事に思っているものも守れず、決断したことも実行できず、何のために今日まで強くなったのだ。悔しがって地団駄のごとく地を殴りつけるためのものではないはずだ。それなのに。
 ――フィラ。
 一瞬。その一瞬しか見ていないが、目を開けているだけの彼女は、抵抗も何もしなかった。されるがままだった。いつもならば、叫んだり、助けを求めたり、もっと不安げな顔をしていたはずだ。なのに、本当に人形のように、キリウに連れて行かれた。
 どれだけ、どれだけタルナのあの姿が衝撃的だったことだろう。一瞬にしてただの肉塊になってしまったあの姿を、あの瞬間をフィラは見てしまったのだ。知らない人間ではなく、少しの間だったけれど側にいた人間の、そんな姿を。
 ――タルナ、だけじゃねぇ。
 母親も、ユーリもセスも、故郷の村だって、たった一夜にして、彼女の知らない姿に変わってしまった。それでも泣いたり叫んだりしなかった。彼女は実に物わかりがよく、その点において旅路では手が掛からなかった。やはりそれを運がいいなどと思ってはいけなかったのだ。それこそが彼女を追いつめていた。
 ――王の身も心も守る、赤き従者ってヤツかよ、これが! こんな役立たずが!
 ディオはもう一度拳を振り下ろした。振り下ろして、上体を伏せた。
 ――あいつを取り戻さねぇと。
 無念がフィラを連れてきてくれるのであれば、そんなに都合のいいことはない。正気を取り戻したディオは立ち上がり、長老の家に向かった。
 屋内には、傷を負った長老が立っていた。かすり傷のようだ。土人形の名残りか、床には泥が小さな山を築いている。家屋に大きな穴が空いている。そこからエリスがとぼとぼと家に入ってきた。その目は見開かれていた。
「ディ、ディオさん。タルナさんが。フィラさんも……」
 戦いを知らない男だ、恐怖が声音から痛いほどに伝わってきた。
「見りゃわかる。生命があってよかったな」
「は、はい……」
 エリスはそのまま崩れ落ちた。安堵か、絶望か。今はエリスにかまけている場合ではない。ディオは白濁した目を開いたまま立ち尽くす老人に声をかけた。
「じいさん。あの野郎はフィラを連れてどこへ向かうと思う?」
「じいさんとは何事だ、無礼者め。まあ、フィラ様を手に入れて向かうところといえば、我々の想定する場所はひとつしかない。今となってはそのほとんど全てが地底に沈んでしまって確認できないが、その一部分だけ、石碑のような形で地上に姿を現している部分がある。向かうとすれば、そこだろう」
 そういえば、以前メリアが、大陸の中央にそれらしい遺跡があるというようなことを言っていたような気がする。
「ここから遠いか?」
「そうだな……この集落から行けば、あなたの足でも三日ほどかかるだろう」
 三日。追いつけるかもしれない。何せ、そこまで広い大陸ではないのだ。悩んでいる場合ではないだろう。
「追いかける。話はそれからだ」
「む、無茶ですよ! ディオさん、剣だって折れてるじゃないですか! それに、あのキリウって人にどうやって……」
「彼の言う通りだ。丸腰で行って、青き守護者に敵うのか? フィラ様を助けられるのか?」
 それは確かに無謀というものだ。他の人間ならばまだしも、相手はあのキリウである。剣があっても苦汁をなめさせられた、あのキリウなのだ。
「だが、アスカルの剣は俺には馴染まねぇぞ」
「ご安心召されよ、ディオ殿。これからお主を、我らに代々伝わる地へと案内しよう。そこには剣が突き刺さっている。あれはディオ殿に馴染むだろう」
 長老はディオに背を向けた。目が見えないのに、嘘のように自然な動きだ。
「ま、待ってください。僕も行ってもいいですか?」
「かまわぬ、フェリクシアの研究者よ」
「ありがとうございます」
 家を出て、長老はまっすぐ歩く。そんな長老の姿を見てか、メリアが駆け寄ってきた。
「酋長、ご無事で」
「メリアか。今から私はディオ殿を祠へ連れて行く」
「祠……。あたしも連れて行ってよ」
 メリアの反応が一番分かりやすい。だから代々伝わる地という場所がどれだけ大切な場所なのかは理解できた。だが、長老は首を縦には振らなかった。
「なぜ! あたしは戦士なのに連れて行ってもらえなくて、エリスは連れて行くのか?」
「そうだ。エリス殿はアスカルの人間ではない。禁を破っても問題ないが、お前だったら、私はお前を追放しなくてはならなくなる。お前が大喧嘩をしてもここを去った決意を、無駄にはしたくないのだ。分かるか、メリア」
「……ああ。分かった」
 メリアの返答は歯切れが悪かったが、一応はディオたちについてくる気配がないので、長老は特に気にしていない様子で歩みを進めた。
 集落から出て少し行った場所にほら穴があった。長老は何のためらいもなくそこに足を踏み入れる。歩きながら、長老は話す。
「ディオ殿。フィラ様は我々にとってもかけがえのない存在だ。だから……」
「分かってるよ。だけど、あいつのこと『かけがえない』って言っていいのは……フェリクシアに関係ない人間だけだ」
 ディオに出会うまでの十六年間、フィラはフェリクシアとは全く関係のない、幸せな暮らしをしていただろう。村から出てもセレストに遊びに行くくらいで、家族や友だち、近所の人たちとそれなりに談笑しながら、季節に合わせて農作業に精を出し、死ぬまで村にいることを考えていたはずだ。そんな平穏な人生を変えたのがフェリクシアで、キリウという存在だ。フィラは旅が始まってから、つらく悲しいことばかりを体験している。普通に生きていれば体験しなくてよいものばかりだったはずだ。親しい人を失った記憶は、いつも苦い感情と共に蘇る。彼女のこの経験は忘れられないものだろうし、本当に悲しいものだ。
 岩を伝いながら進むと、広い空間に出た。
「これは……」
 岩に剣が突き刺さっている。紋章剣のようだ。
「この地に代々伝わる、太陽の剣〈グロウ・サダス〉だ。太陽の戦士が魔王ヴァルフェリオと戦った時に、その剣を使ったと聞いている」
 長老の話を聞きながら、剣の柄に手を掛け引き抜く。太陽の戦士が使ったのは、遠い昔のことだ。それにしては刃が錆びておらず、綺麗だった。
「一振りで天を割き、大地を穿ち、人々に平穏を与える剣と伝えられている。実際にその剣の力を使うことができれば、フェリクシアを禁忌の紋章もろとも消し去ることも可能だろう。だが呪文は我々には伝わっていない」
 長老の声が厳かに響く。
「あなたが、フィラ様を取り戻してくださると信じている。そう信じたい。だからディオ殿、赤き従者たるあなたにこの剣を託すのだ。だがもし間に合わなければ、あなたがフィラ様を取り戻す前にフェリクシアが復活してしまったら……その時は、フィラ様を殺してほしい」
「ええっ!?」
 エリスの素っ頓狂な叫び声が、即座に引いていくディオの血の気を引き戻す。それだけでエリスの存在に感謝しそうになった。メリアがいたら卒倒したことだろう。禁じられた場所だからではなく、彼女に聞かれたくなかったから同行を拒否したのだと判断した。
「フィラさんのこと、かけがえのない存在だって仰ってたじゃないですか! なのに殺せと言うのですか!? た、確かに、もしもの時はそれしか道がないのかもしれませんけど……」
「最悪の事態は想定しておくに越したことはねぇ。それ以上の手だてがないのなら、そうするしかねぇだろ」
「本気ですか? 本気で……殺すんですか? フィラさんを……」
「その時はな」
 人を殺したことはある。どれも知らない人だった。少なくともフィラは、知らない人ではないし、それどころか、長老と同じように「かけがえのない存在」だと思っている相手だ。そんな人間を殺せるはずがない。だが、仮にフェリクシアが世を掌握するような事態になった時、その時王座に君臨しているのがフィラだったとしたら、彼女はきっと苦しくてたまらないだろう。覇権よりも人臣よりも側近よりも、ただ平穏な日常を望んでいることを、ディオは知っている。フェリクシアが復活すれば、フィラはただ一人の少女として存在することはできないだろう。
 ――そうなったら、殺すのがあいつのためだ。
 ディオは抜いた剣をぶかぶかの鞘に納めた。
「長老、剣は持っていく。フェリクシアをなんとかするとは確約できねぇが、できるだけのことはしよう」
「ありがとうございます、ディオ殿」
 もう引き返すことはできない。恐らく、ずっと前から引き返すことなどできはしなかった。五歳の時から、ずっと。


★☆★☆


 何度も何度も殺そうと思った。意識を失ったまま無防備な姿を晒す銀髪の女に、何度も何度も殺意を抱いた。彼女が悪いことをしたわけではない。ただ、存在そのものがノアにとって邪悪だった。
 望んでも得られなかった銀の髪、それにキリウの愛。この娘さえ現れなければ甘い幻想だけを見ていられた。この娘さえ存在しなければ、キリウが他の女を求めているなどと知らずに済んだのだ。
 ――なんでキリウは、こんな女と同じ籠に、あたしを載せたんだろう。
 自分の生命に終わりが近いことを、ノアは知っている。嫌でも死の足音がすぐ側まで聞こえてきたのだ。全ての原因は、これまで歌ってきた歌にあった。歌を聞き手に届けるためには紋章技術が必要だった。拡声器や、明るい光――会場のファンたちを熱狂させる演出――そのためにノアは生命をかけた。キリウが望むならと、生命がかけられた。でもキリウの望みは他の女で、キリウの望みがかなえられたら、ノアの望みがかなわない。キリウが幸せであればそれでいいなどと思う優しさは持たなかった。小さいころから何も持てなかったノアは、ずっと求めていた。ずっと欲しがっていた。自分の欲しいものがすぐそばにあるのに、なぜ別の女などに渡せるだろうか。それも、愛するキリウの愛を拒絶するような女に。
 キリウがフィラを求めるのも嫌だったし、フィラがキリウから逃げるのも腹が立った。ノアが心から望んでも得られなかった、銀の髪とキリウの愛を持つ女。それだけで、ノアが彼女を殺す理由は成立する。キリウは、ノアに殺意がないとでも思ったのだろうか。それとも、武器さえなければ、死を目前とした憐れな女に、本物の女王を殺すことなどできはしないと踏んだのだろうか。だとすれば、本当にひどい男だ。
 何度目になるだろう、細く白い手を、柔らかな首に伸ばす。意識のない少女であれば、ノアにだって絞め殺すことができるかもしれない。指先が喉に触れ、銀の髪を梳く。そしてノアは、ゆっくりとその手を引いた。
 ――できない。何度やっても。
 殺せない。こんなに殺してやりたいと思っているのに、なぜ殺せないのだろう。何度も首に手を伸ばし、何度も力を籠めようとして、そこでためらってしまう。ためらいが手を離す。八つ裂きにしてやりたいほど憎んでいるのに、なぜ。
 キリウが彼女を望むから。キリウの野望は彼女なしに叶えられないから。そんな綺麗な理由ではない。そんな理由なら、嫉妬のままに彼女を殺すことだってできるはずだ。だが実際は殺せない。今まで心の中で何度、思う限り残酷にフィラを殺したとしても、現実では殺せなかった。過去がどうであれ、それが事実だ。せめてフィラが起きていてくれれば、退屈しのぎに罵声のひとつでも浴びせられたのに。
 ノアは籠に背を預けた。もう上体を支えられるだけの力もない。情けない。本当に、なんてかわいそうなのだろう。天井が霞んで見える。仮にこのまま死んで、フィラが目覚めた時、目の前にノアの死体があったら、きっと素敵なことになるだろう。だがそれは駄目だ。絶望したフィラの顔を眺めることができない。
 ――まだ、死なない。生きてやる。
 ノアは重い瞼を必死に押し上げた。


 目覚めたくない。
 ずっと見たくないと思っていた。逃げ出したいと思っていた。でも今まで逃げることができなかった。逃げなかった。どれだけの人がフィラを望み、どれだけの願いを託したか、足りないかもしれないけれど、自覚があったから。
 親友のユーリが死に、肉親が死に、村が焼かれ、幼馴染のセスも死んだ。フィラは泣かなかった。生きることがフィラの義務だった。ディオの言葉がそれをフィラに刻み込んだ。何もできないから、生きることしかできないから、皆の願いや祈りを背負ったまま、生きることしかできなかった。それほどまでにフィラは無力だった。
 でも、それでも、生きているから。生かされているから。それだけが唯一自分にできることだから。そう自分にも言い聞かせて、泣いたり叫んだりすることもなく、努めて明るく振る舞っていた。だけど、でも――。
 ――もう、できない。私にはできない。戻れない。戻りたくない。
 あんなにつらくて悲しい場所には戻りたくない。もう何も見たくない、聞きたくない、聞こえない。だから開いた目に何も映さず、耳に入った音を認識しなかった。
 ――私はもう戻らない。ずっとここにいる。ここにいれば、つらいことも悲しいことも、何も起きない。誰かが自分のために死んでしまったことを受け止める必要もない。ここなら……。
「フィラ、こんなところで何をしているんだ?」
 声が聞こえた。今となっては懐かしい声。フィラが望んでやまなかった、あの優しい声。
 顔を上げる。真っ暗で何も見えない。けれど、一人の人間だけが光を放ち、その姿は認めることができた。フィラは彼を知っている。
「タルナさん、どうして、こんなところに……」
「フィラがそんな様子じゃ、死んでも死にきれないさ。それに、信じてくれるだろう? 死んでも在るってことを」
 信じている。そういう次元の話ではなくて、フィラにとって死んだ人は、どこか遠いところに存在しているという認識だった。けれどそれは、今この目で認識できない人は、いないのと同じだ。出会いからなかったのではないかと疑ってしまう。出会う前と同じだ。タルナがどこかにいることを信じられるのなら、それが良かった。でもタルナは死んだ。死んでしまった。そしてそのことさえ信じられない。まだどこかで生きていると、あの凄惨な光景を目の当たりにしてさえ思ってしまうのだ。
 そして今目の前にいるタルナは、とても綺麗な顔をしていたし、とても穏やかな表情をしていた。どこかにいるという願望は、目の前のタルナによって証明された。けれど、どうしてあんな死に方をしたのに、そんな風にしていられるのか。あんなに痛くて苦しくて――いや、刹那の出来事だ、痛みも苦しみも感じる暇などなかったかもしれない。分からない。でも、あんな形で明日がなくなった。未来の話どころか、誰かと笑い合ったり、憎みあったりすることも、もう二度とできない。この再会は奇跡だ。フィラの願望が作り上げた、フィラの夢であり幻想だ。夢幻の中でしか、タルナは存在できない。ユーリも、母も、セスも――。フィラは頭を抱えた。
「もう嫌、嫌なのよ! 生きていれば、いつかは死ぬ、それは分かってる。でも、こんな風に死んでいいはずないじゃない! 私のためだと言って、誰も死ぬことなんてなかったのに……。私がここから戻らなければ、もう誰も――」
「それは違う、フィラ」
 タルナの大きな手が、取り乱すフィラの小さな肩を掴む。
「もしもここで終わらせなければ、またいつか次の王が現れて、フェリクシアは目覚める。今はまだ眠っているけれど、王の血を使えば一瞬だ。それがどれだけ恐ろしいことか……想像することはできるだろう? だから、ここで終わらせてほしい。フィラ、君自身の手で」
 この期に及んで、なぜそんな酷いことが言えるのだろう。自分ででっち上げた幻のくせに、打ちのめされているフィラに対して、本当に酷なことを言う。そう思う反面、取り乱していたのが嘘のように、落ち着きを取り戻した。
「私に……できますか?」
「君にしかできないことだ、フィラ。君は現世に唯一存在する、フェリクシア王国の女王なのだから」
 色々な人から、あなたは女王だと言われ、フィラという名前を否定されてきた。自分がフェリクシアの女王ノアであるという事実は、フィラにとって忌むべきことで、認めたくないことなのだ。そうなのだと信じても、確信しても、素直に納得できなかった。でも今は、嫌だ嫌だと現実から目をそらさずに受け入れなければならないのだろう。本当に自覚できるか分からないし、心から女王になれるかも分からない。けれどそれが義務だというのであれば、フィラは目覚めなければならない。タルナの言うように、いつまでもこんなところで眠っているわけにはいかない。
「タルナさん。私は、自分が女王とか、フェリクシアとか、終わらせるとか、そういうことは分からないけれど、私がいつまでもここにいることが、いいことなんかじゃないってことは、分かる。分かってる。だから、目を開けるわ。その世界にあなたはもういないけど、あなたのその想いをなかったことにはしたくないから」
 フィラの言葉に、タルナは微笑んだ。懐かしく思う。タルナとディオは結局仲直りできなかったけれど、そんな日もあればいいと思った。
「さようなら、タルナさん」
「さようなら、フィラ。ディオによろしく伝えてくれ。どんな言葉でも受け止めるって」
「うん」
 タルナの微笑みが遠く、おぼろげになっていく。目覚めていく。
「ソッティ・オーバーソ―・ホートゥン」
 タルナのまじない。メリアがフィラにかけてくれたものだ。きっと前を向いて歩いて行けると背中を押してくれる、優しい声音だった。
 おんな目覚めの途中で、フィラは知らない男の姿を見た。長い銀の髪、アジーナの虹彩――それはフィラと同じものだ。だから彼が王族なのだと分かった。同族を見て、どこか懐かしいような想いを抱く。しかし彼のアジーナの虹彩は、悲しみを湛えていた。
 ――フィラ。私を継ぐ、最後の女王。
 遠のいていく暗闇の彼方で、優しげで淋しげな彼の声を、残像と共に拾った。

 冷たい。目覚めたフィラは、身体が揺られているのに気が付いた。
 ――あれ、私、タルナさんが死んでからのこと、全く記憶にない……。
 バラバラに砕け散ったタルナのことは覚えている。けれど、その時から自分の殻に閉じこもっていたからだろうか、なぜこのようなところに寝ているのか、そもそもここがどこなのかすら分からない。
「……間に合ったようね」
 前を見てハッとする。目の前には、憧れていたノアがいた。けれど彼女を見て湧き上がる感情は感激でも緊張でもなかった。彼女がフィラを憎んでいることを知ってしまったからか。それとも、目の下に隈ができ唇も紫で、ほとんど生気を感じられない顔色のせいだろうか。
「あの、ここは……」
「あんた、フェリクシアに連れて行かれるのよ。もうすぐ着く。あたしたちは籠の中」
「籠?」
「本当、運がないわよね、あんたって。なんで今目覚めるの。フェリクシアに着く前に目覚めるなんて、馬鹿よ」
 なぜ目覚めるタイミングで馬鹿呼ばわりされなければならないのか。腑に落ちないものの、反論はしなかった。
「馬鹿、かな」
「馬鹿よ。あんな目に遭っても、まだこの世に未練があるの?」
「未練っていうか……望まれてるから。ここにいることを望まれたから」
「望まれた、か。他人のために生きるなんて、本当に馬鹿よね。ううん、あたしがそんなこと言えた義理じゃないか。あたしだってキリウのために生きてきた。でもあたしは、誰にも望まれなかった。望まれたかった」
「でも、皆がノアのことを愛してる。私も……」
「そんなのは愛じゃない。〈皆〉が愛しているのはアイドルのノアで、パトリアなのよ。それにあたしは、不特定多数のわけわかんない人の愛なんて、いらない。あたしが欲しいのは、キリウの愛よ。キリウがあたしだけに向けてくれる愛よ」
 ノアがこちらに顔を向ける。だが、焦点が合っていない。フィラと目が合わない。その違和感に気が付いて、フィラはハッとした。
「この手で殺してやりたい。八つ裂きにしてやりたい。でもキリウがあんたを望むから、本当のノアを望むから。……あたしは所詮ニセモノなのよ。ノアって名前しか持ってないのに、その名前すら借り物で、あたしのものじゃない。あたしの歌も、あたしのものじゃない。あたしのものなんて、何ひとつない。キリウがあたしに向けた愛は、あたしだけのものじゃなかった。父親も母親も、〈あたし〉は愛してくれなかった。誰も……」
 ノアは少しずつ声を荒げていった。身振りもついた。
「あんたさえいなければよかったんだ! 違う、フェリクシアがなければよかった。そしたらこんな惨めな思いをしなくて済んだ。この目だって、ただ珍しいねって話で済んだんだ。なのにフェリクシアはこんなところに埋もれてて、十一代目女王ノアは実在している。こんなひどい話があるの? あたしは、あたしの存在意義って何よ? 何のためにあたしは生まれたの……」
 フィラは、自分と同い年の少女の惨めな姿を見ていた。彼女もまた、フェリクシアに人生を狂わされた人なのだ。あんなに憧れて、同い年なことが信じられなかったノアは今、フィラよりもずっとずっと幼く映った。
「……なんでだろうね。本当に、なんでだろう。十代目が地の底に沈めたフェリクシアなんかに王族は必要ないはずなのに、私はここに生まれて、あなたも生まれた」
 そのための、アジーナの虹彩なのだ。そのためにノアは生まれた。なんと皮肉で、なんと悲しいことなのだろう。
 終わらせなければならない。フェリクシアも、こんな悲しいことも、何もかも。タルナの言葉通り、フィラにそんなことができるのであれば。フィラが誠の女王なのであれば。それが目覚めてゆく意識の中で見た同族の願いならば。
 ――ああ、そうか。
 フィラは手を伸ばし、ノアを抱きしめた。
「ちょ、ちょっと、どういうつもりよ? 憐れんでいるの? あんたが、あたしを」
「うん、そう。その気持ちもある。でも、今分かったの。何のために、今ここに生まれたか。何のために、同じ時代に、十一代目女王と、青き守護者と、赤き従者が揃ったのか。なぜあなたも生まれてきたのか――やっと分かったの。私はフェリクシアの王族なのよね。どれだけ否定しても、私が十一代目女王ノアなのよね。あなたから名前を奪って生きているのよね、私が……」
 ノアの肩を抱いて顔を見る。相変わらず綺麗な顔の眉間に皺が寄っている。だが、ノアと目が合うことはやはりなかった。
「終わらせるわ、ノア。私が終わらせる。何もかも終わってしまえば、あなただけを愛してくれる人が現れるかもしれない。だから、それまで待っていて」
「それまでって、いつよ。あたし、分かってるんだから。もう、目も見えないの。あんたの言う通り、本当にフェリクシアがこの世から消えてなくなって、ノアって名前に特別な意味がなくなったとしても、あたしの生命はそれまで待てない。誰かの愛を受け止められるまで生きていられないのよ」
「それは……」
 なぜ気づかなかったのだろう。祖母が口を酸っぱくして言っていたこと。ノアはずっと歌っていた。声を届けてくれた。遠いフィラにも。そんなことがなぜできたのか。フィラがユーリと共にはしゃいでいたのは、何のためだったのか。だから、だからノアと目が合わないのは、ノアがフィラを見てくれないのではなく――。
 フィラはかぶりを振った。
「い、嫌。そんなことにはならない。そんなこと、させない。間に合わせる。間に合わせてみせる。だから、そんなことは言わないで」
「なんでよ。本当のことじゃない。あんただって、分かってるんでしょう?」
「嫌よ……どうして? せっかく分かりあえたのに。せっかく、ノアのことちゃんと分かったのに。どうしてこんな……」
「もっと早く、あたしがこんな風に言っていたらよかったのかな。そしたら、取り返しのつかないことにはならなかったのかな」
「分からない。分からないよ……」
 ノアの言う『取り返しのつかないこと』とは一体何のことだろう。疑問に思ったと同時に、籠が地面に降ろされたような感触が尻に伝わり、揺れが収まった。ノアもそれ以上何も言わなかった。
「ノア?」
 眠った? こんなところで、このタイミングで? 手を伸ばし、首筋に触れる。鼓動が感じられない。もしかしたら触れている場所が悪いのかもしれない。違う。そんなはずがない。そうであってはいけない。だって。どうして。
「嘘よ」
 フィラを捕えるために歌を歌っていたではないか。しっかりこの耳で聞いたではないか。なのに、こんなところで、こんなところで死んでしまうというのか、彼女は。キリウの愛情も得られず、フィラへの憎みも遂げられず、このようなところで。
 ――これでよかったなんて、思えない。思いたくない。
 彼女にとって苦しい日々でしかなかったはずだ。無責任な自分の言葉通りの未来は訪れなかったかもしれない。でもせめてもう少し、ほんの少しでいいから、生きていて欲しかった。
 項垂れるフィラに振動が伝わる。籠が地面に降ろされた振動のようだった。結局、ここに来てしまったのか。フィラは拳を握りしめた。



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