古のフェリクシア

#17.禁忌の術


 髪を切った。今にして思えば、大して愛着もなく、邪魔でしかない髪だった。心境の変化かと問われれば、そうだと答えるだろう。かつてタルナに忠告されたからではないが、視界を遮って大事なものを見逃すのは致命的だと考えたのだ。首元に風が通ってどうにも落ち着かないが、すぐに慣れるだろう。
 新しい剣を携えたディオは、エリスを連れて集落を出た。正確には、エリスが勝手に付いてきた。彼の言い分はこうだ。
「僕は古代文字を解読できます。フェリクシアの遺跡で、もしかしたら新事実が分かるかもしれません。新事実が分かれば、フィラさんを殺す可能性を少しでも減らせるかもしれません。もし太陽の紋章の呪文なんかが見つかれば、その剣だって使えます。確かな可能性ではないかもしれませんけど、それに賭ける価値は皆無ではないと思います。好奇心が理由ではないと言い切れませんが……連れて行ってください。フェリクシアは僕にとって人生を賭ける程魅力的ですが、恐怖で征服された世界に生きるのはごめんです。そういうのは、研究を禁じ、奪いますから。それに……タルナさんが生命を張って助けた生命です、僕も力になりたい。少しでもいいから」
 船から共にしただけの男だ。だがあの出来事は、彼にも何かを残したようだ。今の彼なら何を言ったところで付いてくるだろうから、足手まといになったら容赦なく置いて行くという条件で許可した。
 そんなディオの背後から、走ってくる足音が聞こえた。
「ディオ!」
 メリアの声に振り返る。わざわざ見送りに来たのか、それとも付いてくるつもりなのか。メリアはディオに駆け寄り、重い袋を押し付けた。
「食料だ。リンドコブラの干し肉も入れてある。力の足しにはなるだろ」
「礼を言う。あんたは来ないんだな」
「ああ、行かない」
 メリアが下唇を噛みしめたのを、ディオは見逃さなかった。長老の話を聞いていたのだろう。
「タルナをさ、ちゃんと葬るから。他の皆と一緒に。戦士も何人か死んじゃったしさ。墓を建てて……どうしようか。バラバラになってしまったから、亡骸を集めるのは大変そうだな。でも皆の手を借りれば、なんとかなるだろ。だから、だからさ」
 メリアは拳をディオの胸に打ち込んだ。予期せぬ行動なので、身体が少しだけふらついた。
「フィラを殺すなよ。ここに連れて帰ってきて。妹みたいに思ってるんだ。もしものことだって覚悟してるけど……生きてる方が絶対、いいに決まってる。あたしはそんな、最悪の事態なんてきっと耐えられないからさ。だから頼んだよ、ディオ」
 妹。確かにメリアは、フィラのことをよく気にかけていたし、フィラのことが好きだったのだと思う。フィラもきっと、メリアによく懐いていた。きっかけはフィラの容姿であり、フェリクシアなのかもしれないが、今のメリアの切実さは伝わった。ディオはひとつだけうなずき、メリアに背を向け歩き出した。
「あ、待ってくださいよ、ディオさん! メリアさんに何も言わなくていいんですか?」
「いいんだよ」
 どんな言葉も、メリアを安心させることなどできはしない。フィラを死体ではなく生きた状態で連れて戻るのが、一番なのだ。
「期待してるぜ、エリス」
「はい」
 エリスの提案は、可能性は薄いかもしれないが、ディオにとっても希望だった。


★☆★☆


 項垂れるフィラの頭上に光が射し込む。籠が開けられた。
「ノア様」
 優しい声。優しいけれど、温もりを持たない声。大切に想う人たちを葬った男の声。絶対にフィラの名を呼ばない、ノアの愛した声。
「ノア様、ようやくこの地にたどり着きました。さあ、こちらへ」
「ノアは死にました」
 フィラは顔を上げずに口を開いた。まだフィラの前に死体が鎮座している。そう、彼女は死体になってしまった。もう何も言わない。絶望しない。憎むこともなく悲しむこともなく、フィラの大好きな歌を紡ぐこともない、ただの死体だ。
「そうですか。ですが、死んだのは偽りの者です。あなたは生きている。さあ、早くこちらへ」
「あなたの愛を望んだまま、死にました」
「そうですか。あなたが本当の意味で目覚めたのであれば、名もなき憐れな女の生命も意味のあるものになりました。彼女も本望でしょう」
 本望。本望だと。悲しみに項垂れながら、得られぬ愛に消耗しながら死んでいった彼女の気持ちを、本望だとこの男は言い切るのか。自分のために、誰かの人生をそんなたった一言で切り捨てるのか、この男は。込み上げる怒りに拳を震わせる。今すぐ駆け寄って、その頬をひっぱたいてやりたいが、それはぐっとこらえた。きっとそんなことは、彼にとって何の意味もなさない。
「ノア様。僕とて手荒な真似はしたくありません。あなたは僕の女王なのです。仕える者に、これ以上罪を重ねさせないでください。さあ、早くこちらへ。皆がフェリクシアの復活を待ち望んでおります」
「皆って、誰ですか」
「皆です。僕を筆頭とする、無念のまま死んだ人たち。先代の王の独断によって国と運命を共にした臣民たちですよ」
 ゆっくりとキリウに視線を向ける。青い影がそこにあった。声と同じ、穏やかで冷たい顔も。
 そこで違和感が奔る。女王として目覚めたフィラは、もはや赤き従者も青き守護者も体感で理解できる。現世に生まれたキリウもまた青き守護者なのだと、今は納得している。なのに、この違和感はなんだろう。
 ――似過ぎている?
 一度だけ夢に現れた、青き守護者。彼も冷たい微笑みを湛えていた。あれはキリウではなかった。なのに、キリウが彼に見える。一度だけだから確実ではないが、キリウではなかったのは間違いない。フィラはキリウを見つめたまま問いかけた。
「あなたは誰ですか?」
「この期に及んで、なんという問いですか。ノア様、あなたは僕の名前をご存知でしょう?」
「はい、知っています。でも、私はあなたを知りません。あなたが今、〈キリウ〉として生きているのか、それとも〈青き守護者〉として生きているのか……」
「何を……」
 キリウは動揺している。
 ――ああ、この人も、また……。
 フェリクシアに人生を狂わされた人なのだ。キリウが青き守護者でなければ、その末裔または生まれ変わりなどでなければ、〈ノア〉やフェリクシアを求めることなどなかった。ノアがあのような結末を迎えることもなかった。もっと違う人生を歩んでいれば、もっと違う出会い方をしたのであれば、良き友となれた未来もあったかもしれないのに。
「キリウ、悲しい人。強い国を求めるあなたの願いが、キリウのものなのか、遥か遠い記憶なのかも分からずに、こんなことをして。本当のあなたは、今を生きるべきキリウは、何を望んでいたのかしら」
「強いフェリクシアです。それ以外に望むべくもない」
「本当に? 本当にそれを望んでいたのですか? あなた自身が」
「うるさい!」
 キリウが声を荒げた。残酷なことをしても、大きな声など出さなかった男だ。フィラは驚いて肩を狭めた。
「いくらあなたであっても、そのようなことを続けるのであれば、許しません。さあ、我々の望みをかなえてください、陛下。あなたが女王として目覚めたのなら!」
「や、やめて! やめなさい!」
 切りつけられる。手首。痛みよりも先に熱が奔る。血が流れる。キリウの口が呪文を紡ぐ。
 駄目。これは。いけない。蘇る。フェリクシアが。蘇ってしまう。切り付けられた手首の傷から、血が落ちる。落ちた血が、巨大な紋章に触れる。
「そう、それでいい。私はこの時を待ちわびていた!」
 詠唱が終わり、キリウの勝ち誇った声が上から降ってきた。程なくして地鳴りと共に、地面がせり上がっていく。フェリクシアが蘇る。
 ――もう駄目なの? 戻れないの?
 振動で身体を支えられないこともあり、フィラは膝から崩れ落ちた。


★☆★☆


 しばらく歩いたくらいだろうか。地面が揺れ始めた。大きな揺れだ。
「地震!?」
 エリスとディオは同時に、地面に伏せた。立っていられないほど強い揺れだ。何だ、何が起きている。
 地震はしばらく続いた。長い。エリスが声を上げる。
「ディオさん、あれ!」
 エリスが指差した方に目を向ける。なんと今まで出ていなかったはずの白い建造物が、大陸の中央部に顔を出しているではないか。それだけではない、ディオやエリスの足下の土からも、白い石のようなものが出てきている。それらはどんどんせり上がっている。ネストリア大陸でこのような石や建造物の存在など、ひとつしかない。
「フェリクシア」
 間に合わなかったのだ。フェリクシアが復活する前に、フィラの許へ辿り着くことができなかった。フィラを殺さねばならない。何もかも意味がなかったのか。殺すしかないのか。
「ディオさん!」
 俯くディオの巨体をエリスが揺らす。
「ディオさん、しっかりしてください。一刻も早く行かないといけないでしょう? フィラさんを生かすにせよ殺すにせよ、急がないと。まだ地上に姿を現しただけです。あの青い男の許にフィラさんがいるなら、奪い返せばいいんでしょう? 落ち込んでる暇はないはずです。ほら、早く行きましょう」
「ああ、あんたの言う通りだ。悪いな。すぐに向かう」
「あ、ディオさん」
 歩き出そうとしたディオをエリスが呼び止める。何事かと思えば、ディオたちの足下に現れた白い石のようなものを調べている様子だった。
「ディオさん、これもフェリクシアなら、これを伝った方が早いかもしれませんよ、もしかしたら。パーヴァリ・コホネンの著書にもありました。全ての道は王へ続く、と」
 今はエリスの読んだ著書の記憶でも頼りにしなければならないだろう。〈赤き従者〉とやらの血が何も感じていないのだから、それしかない。
「分かった、てめぇを信じるよ」
「違ってたら、煮るなり焼くなり、好きにしてください」
「そんなことに生命かけてんじゃねぇよ」
 エリスまであんなことになってしまえば、フィラが悲しむ。それはディオの望むところではない。ディオは白いものを頼りに、早足で進んでいった。



 揺れが収まった。フェリクシアが地上に出ったのだ。キリウの右手はまだ、ノアの右手を掴んでいる。
「これでフェリクシアは長き眠りから蘇った。後は力を世に示すだけです。ノア様、今一度お手を」
「いやです。私は、あなたの理想には協力できない!」
「協力? 違いますよ。あなたは女王として、臣民を導く義務がある。フェリクシアを蘇らせ世を掌握するのは、その第一歩に過ぎないではありませんか。それは私だけの理想ではない。強い国は、全ての臣民の願いだ!」
 ノアはキリウの怒声に屈することなく立ち上がり、強い光を宿した目を向けた。
「いいえ。臣民はもういません。フェリクシアは滅びました。そんな、滅びた国の女王の義務なんて、たかが知れています。私が女王なのは、私がここにいるのは、未来永劫、この国が蘇らないため。この大きな力を外に向けないためです。〈青き守護者〉の願いは、私には叶えられない」
 ――滅ぼす、だと。
 キリウはノアを掴む手に力を込めた。ノアが痛みに顔を歪める。
「叶えられない? 滅びた国だと! 確かに一度は滅びた。地底に姿を消した。だが今、こうして蘇ったではありませんか。臣民はいない? いなければ増やせばいい。国とはそうして大きくなるものです。なぜ女王であるあなたが、それをできないとおっしゃるのですか!?」
「それが願いなの。それが私の生まれた理由なの。先代はそれを望んでいた」
「なぜ先代の望みなんかが分かる!? 今目の前にいる私より、遠い昔に死んだ王の望みの方が大事だというのか!」
「そうです」
 怖い。強い意志を宿す紫の虹彩に、恐怖を抱く自分に気が付いた。なぜ今さら、女王とはいえ小娘を恐ろしいと思うのか。だが手を離しはしなかった。離した瞬間、自分が負けると思ったからだ。
 ノアに女王としての自覚が芽生えれば、全て上手くいくと思っていた。思い通りに行くと。だがそれは間違いだったのか。女王でなければフェリクシアは動かせない。だが女王は、先代の遺志を継いでいる。だからといって、ここで諦めるわけにはいかない。こんなところで終わりにはできない。あとは彼女の血さえあればいいのだ。意識も意思も何もかも奪ってしまえば、あとは血を供給するだけの人形だ。女王として目覚めた今なら、それができる。
「手荒な真似はしたくなかったのですが、仕方がありません」
 キリウは懐にしたためていた薬草に手を掛け、呪文を唱えた。次の瞬間、ノアは自分の手をひねってキリウの手から逃れた。一体どこでそのような小癪な技を身に着けたのか。ノアは一目散に逃げた。全力で走って逃げた。
「待ちなさい、ノア様!」
 追いかける。まだフェリクシアの権限はノアにある。ノアの命令を受けた都市は、キリウをノアに近づかせない。ノアの願いと命令を受け、扉を封じ、キリウの行く手を阻む。
 なぜだ。ようやくここまでこぎつけたというのに、なぜままならない。なぜ思うようにならない。ずっとだ。彼の思い通りになったことなど、ほとんどなかった。国は亡び、圧倒的な軍事力の前に屈するしかなかった。そんなキリウにとってフェリクシアはただひとつの希望だった。フェリクシアだけが、キリウの願いを叶えてくれる。フェリクシアさえ手に入れば、あとは思うままになるはずだった。なのに――。
 ――ノア様は私を拒絶し、フェリクシアの力が手に入らないだと?
 そのようなことは許さない。そうなってはならない。思い通りにならなければならない。理不尽な力で故郷を追われることもない。住んでいた場所を蹂躙されることもない。そんな世界を望んでいた。全ては力がなかったから、弱い存在だったから立ち向かえなかったのだ。強い力さえあれば、誰かの思う通りに自分が屈する必要はない。寧ろ自分自身が、キリウを侮辱した者たちをひざまずかせることができるのだ。
 それなのに、ノアがキリウを拒絶する、たったそれだけのことで、キリウの理想は実現不可能になる。女王とはいえ、小娘一人ごときの拒絶で。彼女を側に置くこともできず……。
 ――認めない。そんなことは絶対に認めない。実現不可能だと? ならば今までの苦労や屈辱は、一体なんだというのだ!
 苦しみに理由を求めるのは無意味だと、頭では理解している。だが、それでは今日まで生き抜くことなどできなかった。そしてその意味を、今さら捨て去ることはできない。
 ――感じることはできる。私は青き守護者だから、彼女がどこにいるのか、感じられる。
 塞がれた扉にぶつかるたびに、キリウは遠回りをしながら、ノアの後姿を追った。ここまできて、逃がしはしないと、眉間に深く皺を刻んで。



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