密林の記者

#01.野蛮の地


「リーフムーンの初代女王はジェラノールなのよ」
 小柄で動きやすそうな格好をした女性が、ブロンドの短い髪を振り乱しながら甲高い声を上げていた。女性の前では、禿げ上がった頭をした太った小男が、うるさそうに頭を抱えている。
「そうは言うがね、セイディー君」
「何度言ったらわかるんですか? 私のことをファミリーネームで呼ばないでって何度も言ってるでしょう? 私は何も歴史の話をしてるんじゃないんです。リーフムーン王国はずっと以前に滅んだ国ですけど、千年以上も前に女性の代表者を立ててるんですよ? お分かりでしょうけど、クイーンなんですよ、女王なんです。だったら女性への配慮もあってしかるべきでしょう? なのにどういうことなんですか? どうして私がミアリー大陸なんて、未開で野蛮な土地に送るっていうんですか?」
「分かった分かった、すまん、パトリシア君。しかし君にこそ適任だと思ったのだよ」
 男は困ったように笑いながら、パトリシアに言った。
「確かに男性優位である傾向は今でも残っているだろう。だからこそ、うちでは男女平等を掲げているんだよ。現に、君の記事は大変人気がある。男に押さえつけられていた分努力するから、女性に優秀な人が多いということは認めるよ。だから君に行ってほしいんじゃないか。君を未開の大陸に送ることを些かも心配していないなんて、そんなことがあるはずがないさ。本来なら男に頼む仕事だ。分かるだろう? これは名誉なことなんだ。素晴らしいことだ。君は働く女性のパイオニアになれるんだ。な、パトリシア君、行ってくれるね」
 男が必死に説得するも、パトリシアは依然として不服であった。
「分かります。それは分かるわ。でもミアリー大陸って、シャワーもトイレもない不潔なところなんでしょう? そんなところに私みたいな女を派遣すること、ないじゃないですか」
 パトリシアは絶望していた。
 彼女は今二十二才だ。若いながらもジャーナリストとしての頭角を現している。それに稼ぎのいいフィアンセもいて、彼は女性が働くことに対して理解がある紳士だ。その先にある輝かしい未来を信じて疑うことのなかったパトリシアにとって、ミアリー大陸取材の話は、死刑宣告を受けたも同然であった。
 そんなパトリシアの嘆きを知ってか知らずか、小男はパトリシアの肩を二回叩いた。
「大丈夫だ。人間、どこでも生きていけるのだから」
 そんなことはない。きっと自分が行ったら三日も経たずに死んでしまう。生きて帰るなど不可能だ。
 そんな風に思って恨めしそうな目で男を見たが、パトリシアはそれを口にすることなく、代わりに大きなため息を男に向けた。きっとそうなのだ。厭らしいこの男が言うとおり、どこに行っても生きていけるのだということが、どことなく理解できたのが、この上なく悔しかった。

 かくして、パトリシアのミアリー大陸行きは確定した。決まってしまったものは仕方がない。パトリシアもプロなので、ここは抜かりなく必要な道具を全て揃えた。何度も何度も確認したので、忘れ物などありえない。
 パトリシアは密林の川を行く小舟の上で、太った小男の、厭味を感じさせないのに腹黒そうな笑顔を思い出しながら愚痴をこぼしていた。
「もう、あのベガルの豚! こんなのってないわ。最低よ。悪魔だわ。私に死ねって言ってるのね!」
「まあまあ、そんなに怒っていると、一気に皺が増えるよ」
 操っている初老の男が、目尻の皺を深くして言った。この男にとって、パトリシアの悲しみは関係ないのだ。パトリシアは溜息を吐いた。
 舟にはパトリシアを含む取材チーム三人と、船頭の男が乗っている。パトリシア以外は皆男だ。このようなところでは、何をされるか分かったものではない。
 そもそもベガルという小男は、どんなに言ってもパトリシアのことをファミリーネームで呼んだ。注意をして聞き入れるのはその時だけで、次に会った時には必ず「セイディー」に戻っている。
 ファミリーネームで呼ばれることの何が気に入らないかというと、パトリシア個人を見られている気がしないからだ。パトリシアはパトリシアとしての自分を見てほしいと思っている。だからファーストネームで呼んでほしいのだ。なのに、そのことを男という生き物は分かっていない。なぜそのような小さなことを気にするのだと言わんばかりの視線を向けるのだ。それがなおのこと、パトリシアにとって腹立たしいことであった。
 だからパトリシアはベガルが大嫌いだった。ベガルもパトリシアのことを嫌っているのだろう。だからパトリシアをミアリー大陸なんかに行かせたのだ。そうだ、そうに違いない。パトリシアはそう決めてかかっていた。
 ベガルの顔を頭の中で散々踏みつけた後、ベガルとは違ったもっと悲しいことを考えた。
「ルカもルカだわ、どうしてあんなにひどいこと言えるのかしら」
 パトリシアは目に涙を浮かべながらフィアンセであるルカの言ったことを思い出していたが、本当はひどいことなど何も言っていなかった。ただ、パトリシアの一番欲しい言葉をくれなかったのである。
 行かないでくれ――ただ一言そう言ってくれれば良かったのに、そうしたらパトリシアも、小男ベガルの言うことを聞かずに辞表を叩きつけてやれたのに。
 ルカはそんなパトリシアに、「おめでとう、出世のチャンスじゃないか」と言った。確かにそうだ。この取材が上手くいけば一躍人気者になれるし、そうでなくても、ほとんど街の人間が行かない未開の大陸のことならば、それなりに面白い記事が書けるのだ。その言葉は、働く女性を尊敬することができるルカらしい言葉であったし、「行かないでくれ」というのはルカらしからぬ台詞なのだ。
 だが、今のパトリシアはどうにも前向きになどなれなかった。行きたくもないところに飛ばされて、清潔にできない環境で寝起きしなければならないことが何よりも苦痛だったから、パトリシアは今の環境を他人のせいにせずにはいられなかったのである。そして精神的にダメージを受けているパトリシアには、密林のねっとりと肌にまとわりつくような湿気と暑さが殊に応える。
「まあお嬢さん」
 船頭が泥水で汚れたハンカチをパトリシアに差し出した。
「これで涙を拭きなさい。ここはそんなに悪いところじゃないよ。俺みたいな人間だって住んでいるんだから」
「ありがとう。でも大丈夫よ、ハンカチくらいなら持ってるから」
 パトリシアはリュックサックの中から白く清潔なハンカチを取り出し、涙を拭いてみせた。
「準備はいつも万全なのよ、私だってプロなんだから。でも、人間が住んでると言っても、文化も進んでない野蛮な人たちなんでしょう? 人食い民族だとか、女に人権なんてないだなんて言いだすんじゃないのかしら?」
「こらこら、偏見はいかんよ。お嬢さんもプロのジャーナリストだというのなら、ありのままの真実を見るのが仕事だろう。そんな風に他人を野蛮人だと決めてかかる方が、よっぽど野蛮だと思うがね。それにな、私はジンガー大陸から移住してここに住んでいるのだ」
「え、何ですって?」
 パトリシアはハンカチを握りしめて、視線を船頭に釘づけた。
「まずジンガー言語を喋れる時点で、その線は見ておくといいのではないかね、お嬢さん?」
「ちょっと待って。じゃああなた、なぜジンガー大陸からわざわざこんなところに移り住んだというの?」
 パトリシアはリュックサックの中のボイスレコーダーのスイッチを入れ、ノートとペンを取り出しメモをとる準備をした。その様子を見ながら、船頭は苦笑いを浮かべた。
「お嬢さん、切り替えが早いね。流石はプロと言ったところかな? まあいいでしょう。元々は研究のためだったのだよ。私は植物を専門にしている学者でね。このミアリー大陸は手つかずだから、絶好の研究場所だったのだ」
「なるほど。それは何年前のことですか?」
「もう四十年も前になる。よいかな? お前さんがしきりにこの地を野蛮だと言うが、ここは決して遅れている大陸なのではない。私たちが捨ててしまったものが残る、最後の聖地なのだ。文明を発展させるという退化に呑まれてしまったお前さんには分からんだろうがな」
「退化? 文明を発展させるのが悪いことだというのですか? 人類が発展していくのは自然なことだわ」
「そうしてミアリー大陸は、人類最後のフロンティアと言ったところになるのかな。我々が手をかけなければならない、最後の地上。文明の発展は人類にとって素晴らしいことだ。そう信じて疑わない者たちは、やがて私にとって聖域であるこの大陸をも汚すのだろう」
「あなた……無為自然志向なのかしら?」
「そう思ってもらってもかまわんよ。お嬢さんには時代遅れにしか見えんだろうがな」
 パトリシアは次の記事のタイトルが浮かんだ。時代遅れの無為自然論者。これがいい。パトリシアはそれをノートに素早く書いた。
「残されたって言うけど、ここに残っている私たちの捨てたものというのは、この自然のことなのですか?」
「それもその一つであろう。そして――」
 船頭は言いかけたが、ゆっくりと頭を振って続きを言うのを止めた。
「いや、これはお前さんたちが嫌悪してしまうだろうし、私自身もそうであった。なぜ嫌悪するに至ったのかも知っているから、下手なことは言えんな」
「そんなものが、ここにはあるのですか?」
「そうだな。そして私は、嫌悪していたとはいえ、それを求めてこの地へ来たのだ。しかしな、お嬢さん。ここにだけ可能性があったのだよ」
 何の可能性があったというのであろうか。パトリシアは気になって尋ねようとしたが、取材チームのひとりが密林の中に見える物体を指さした。
「着きましたよ、ここですパトリシアさん」
 彼が指差したものは、木々の中から少しだけ頭を出していた。文明のない野蛮な地――パトリシアはそう考えていたが、それはどう見ても人間の文明の跡のように思われ、パトリシアは眉をひそめた。
「何? 人工物よのうだけど……」
「先住民が残した遺跡だよ。君はお嬢さん方はここの取材をするのさ」
「ちょっと待って」
 パトリシアは大層呆れたように項垂れ、声を張り上げた。
「私そんな話は聞いてないわよ! 遺跡の調査や取材なんてことは、ジャーナリストの仕事じゃないでしょう!? そんなのは学者に任せればいいのよ! 大体なんで私が――」
「静かに!」
 突然、船頭が鋭い囁き声を立てながらパトリシアの口を塞いだ。その時、舟が大きく揺れた。何事だと思いながら小さな叫び声を上げ船べりにしがみつくと、水面が盛り上がり、緑がかた黒の、長い首の巨大な頭が現れた。その大きさは、大の男ひとりを軽く丸のみできるのではないかというほどであった。
 小さな舟などすっぽりと覆ってしまうような大きな影を落とす巨大な頭に、パトリシアは唖然としていた。
「な、なによコレ……」
「私はボレアと呼んでおる」
「ボレア……?」
「大きな声を出すと近づいてくる。肉食ではないようだが、踏み潰されたり沈没させられたりして死ぬのも嫌だろう」
「当たり前よ!」
 思わず声を張り上げてしまい、パトリシアはハッとして自分の口を塞いだ。
「どうでもいいけど、早く行きましょうよ。帰りたいのは何も、パトリシアさんだけじゃないんだから」
 取材チームの一人が慄き、頼りなさそうに言うので、パトリシアは鼻から勢いよく息を吐き出して気合を入れた。
「分かったわよ。こうなったら、パッと行ってちゃっちゃと済ませちゃいましょう」
「そうですな」
 船頭は舟を岸に付けた。パトリシアたち一行は舟から下り、密林を遺跡の方角へと進んだ。
 密林にはたくさんの虫がいた。巨大な蛇や、カエルや、蜘蛛――うるさい鳥の声も聞こえてくる。見えないだけで色々な動物がいるのだ。先ほど見たような、恐ろしい動物も。足場は雨上がりのようでぬめぬめして気持ちが悪いし、風が吹くたびに不愉快な気分になるし、頭に水が落ちてきたり、鳥の糞のようなものが落ちてきたり、歩いているだけで本当に嫌になった。
 目的地はいつも見えるばかりで遠いものだ――それはパトリシアが小さなころから感じていたものであった。いかに馬があろうとも、いかに自動車のようなものが発明されようと、目的地は遠いのである。その上慣れない足場。これを往路のみならず復路も歩かなければならないのだと考えただけでも気が遠くなる。
「きゃっ!」
「どうしました!?」
 パトリシアは水たまりに引っかかって足を滑らせたのである。そのまま尻から着地したので、跳ねた泥やらで尻を中心に泥まみれになってしまった。あんなに気を付けて歩いていたのに、あんまりである。船頭をしていた男がパトリシアに手を差し出す。パトリシアはその手を取って立ち上がった。
「もうっ、最低よ、何なのよ!」
「まあまあ、落ち着きなさい。また転んでしまうよ」
「一回転んだらもう何回転んでも一緒じゃない!」
「しかしお嬢さん、あなたは文句を言うより先にお礼を言うことを覚えた方がいいかもしれないな」
 男に諭され、パトリシアはばつが悪そうに唇を尖らせてみせた。
「……ありがとう」
「いいのだよ。さあ、もう目的地までは目と鼻の先だ。あと少しだよ、頑張りなさい」
「はい」
 目的地に着く前からくたびれていたパトリシアであったが、その遺跡にたどり着いたとき、疲れを忘れてしまった。
 赤茶けた石でできた遺跡は風化しかかっていたが、そこに人の文明の息吹を感じた。船頭をやっていた男が先に遺跡の中に入る。パトリシアたち取材チームはその後からついて遺跡に入った。
 見た目はドーム状になっていたが、遺跡自体は天井が存在しなかった。崩れたのかもしれない。そのおかげで明かりが必要なく、壁の状態が一目瞭然であった。その壁には何かがたくさん描かれていた。
「壁画?」
「そう。私はここに刻まれている文字を解読しようとした。しかしこのように人が住んでいた形跡があっても、人とは会えなかった」
「滅びてしまったのかしら」
「さてな。これだよ。さっきお嬢さんも見ただろう。これがボレアだ」
 首が長く胴が丸く太く、太くて短い足が四本映えている動物の絵の側に、何か文字のようなものが刻まれていた。これをこの学者は「ボレア」と読んだらしい。文章のようなものも刻まれているが、そこにこの生物の生態についても刻まれているのだろう。
「どうしてこんなものを残そうと思ったのかしら。私たちみたいに見つける人がいるとも限らないのに」
「お嬢さんはどうやら、自分中心に考えているようだな。これは知らない人間に注意喚起を促すものだと私は考えているよ」
「それだったら立札みたいなのじゃなきゃ、建物の中に書いてるのをわざわざ見たりしないわ」
「そうだろうな。だからここは集会場か、もしくは我々で言う博物館のようなものではなかったかと思うのだよ」
「仮説でしょう?」
「そう、仮説に違いない。我々には本当の意味で真実を知ることは、不可能なのかもしれないな」
「いいえ、そんなことはないわ。千年経って分かることだってあるじゃない」
「やはり、お嬢さんは若いな。我々は確かにそのことを知っているが、後世の者がそれを真実だと確信する術はあるのかね?」
 パトリシアには、彼が言ったことが彼女を馬鹿にしているように聞こえて、下唇を突き出した。しかしすぐに真顔になって、壁画と向き合った。すぐに機嫌をころころ変えたり、ヒステリックになって怒鳴り散らしたりするから、馬鹿にされるのだ。パトリシアはそう思っていた。
 壁には動物が描かれていた。パトリシアが実際に見たことがあるものに似ている絵や、本でしか見たことのないもの、それに全く見たことがないものまで、実に様々なものが描かれていた。動物の絵の隣には、ボレアと同じように動物の説明らしき文字があった。パトリシアはそれらを全て撮影機に収めた。撮影機はインスタントで、撮ったものがすぐに紙に映し出されるようになっていた。
 その中で、パトリシアには気になる絵があった。それは他のものと同じように描かれているのだが、中でも異質なもののように感じた。ひときわ大きく描かれた、長い尾羽の鳥である。パトリシアはその鳥も撮影機に収めた。
「これは?」
「ああ、それはまだ分かっていないのだ。記し方からして、神か何かのようなもので、住人が崇めていたらしいということは分かるのだが」
「痕跡があるの?」
「分からんよ。字も全て解読したわけではないからな」
「なるほど」
 パトリシアはペンを走らせ、そのことを書き留めた。世の中には分からないことがたくさんあるのだ。上司の考えていることや、パトリシアがここにいる理由や、そしてここに住んでいたかもしれない人間が崇めていたことなど。知らないことが多いのは恥ずべきことだ。だからパトリシアはジャーナリストになった。パトリシアにとって無知は恥であり罪なのだ。

 そうして数々の情報を得て、パトリシアはその日の取材を良しとした。夜の密林は危険だ。昼にはいなかった巨大な動物たちの狩りが始まるのだと、船頭は言っていた。一行は今、黄昏の中を宿となる場所に向かって河を上っていた。
 本当ならばもう少し見ていたかった。あれほど野蛮だと罵っていた土地だが、知らないことを分かるのはとても楽しかった。彼女の知的好奇心を刺激したようだ。このような知識を持っているのだから、野蛮と言うのはとても失礼だ。パトリシアは一日でそのような考えを持つに至っていた。
「私たちはどこで夜を明かすの?」
「それは私の住む小屋になる。四人位なら大丈夫だろう」
「こんなことを訊くのは野暮というものだろうけど、勿論皆同じ部屋なのよね」
「そうだよ。お嬢さんだけ別のところで寝て、何もないという保証はないからね」
 それもそれで危険だと思うけれど、という言葉をパトリシアは呑み込んで、黙ったまま水面を見つめていた。
 ――まあでも、このまま何もなければ、結果的にミアリー大陸に来て良かったと思うのかもしれないわ。ルカへの土産話にもなるし。
 いつまでも文句を言っていても仕方がないので、ここにきてようやくパトリシアは前向きに考えることに決め込んだ。
 そんな時だった。水面がなにやら不自然に盛り上がった気がした。何だろう。気のせいかもしれないと思い、パトリシアはずっとそこを見つめていた。風で水面が揺れているのかもしれない。しかし風が吹いているのか、舟が動いているから自分が体感しているだけなのかの判断もつかなかった。
「パトリシアさん、どうしました?」
 取材チームの一人がパトリシアの様子に気づいて声をかけた。しかし本当に気のせいであったら、パトリシアはいよいよ手の付けようのない面倒な女性だと思われるかもしれない。それだけ自分が喚いていた自覚があった。パトリシアは他の人たちに笑顔を向け、「なんでもないわ」と短く答えた。
 しかし、異変はすぐに起きた。舟が不自然に大きく揺れたのだ。驚いてヘリに捕まる。その時、ふと視界に入った水面が黒かった。
「えっ、ちょっと、何よコレ!?」
 何かの影だろうか。パトリシアが顔を顰めた次の瞬間、その大きな影が舟の前に姿を現した。その姿は、巨大な黒いナマズのようであった。
「こりゃあたまげた。こいつはここのヌシじゃねぇか! こんなところで拝めるとはなぁ、俺はツいてるぞ」
「なんですって!? 何感心してんのよ、呑気なこと言ってないで、早く逃げなさいよ!!」
「こいつに会った時には、覚悟を決めるのさ。ここは水の上、逃げ場なんてありゃしないからね。あの壁画にも、そう書いていただろう」
「自分で勝手に覚悟を決めないで! 私帰ったら結婚するのよ!? ウエディングドレスも着ないでこんなワケもわからない場所で死ぬなんて、まっぴらごめんだわ!! 第一書いてたなんて、私にあのよく分からない字が読めるはずがないでしょう!?」
 取り乱して暴れ始めたパトリシアを止める者は誰もいなかった。それどころか、取材チームの他の二人も一緒になって我を忘れている。これではどうにもならないだろうと言いたげに、船頭は首を横に振った。
 どうしてよ。どうしてこうなるのよ。ウエディングドレスだけじゃないわ、近所にできた新しいケーキ屋さんに行ってないし、お姉ちゃんの赤ちゃんも見てない。今度ルカと旅行に行く約束だってあるのよ。今回泣きたい思いで取材したネタを記事にしなきゃ、死んでも死にきれないわ。それに、こんな未開で野蛮な大陸のわけも分からないような場所で骨をうずめるなんて、真っ平ごめんよ!
 パトリシアはあれやこれやを考えながら、船のへりにしがみついたが、その船が横転した。
「きゃあっ」
 ルカ、助けて。ベガルの畜生めが。ネストリア大陸でパトリシアがこのような目に遭っているなどとは夢にも思っていないであろう二人の顔を思い出しながら、パトリシアは遠くへと流されていった。



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