密林の記者

#02.悪しき術


 ルカが笑っている。色素の薄い金髪を揺らしながら、温厚そうな笑みを浮かべている。パトリシアも笑っている。二人の間には、ルカやパトリシアの色素を受け継いだ、これまた色素の薄い髪の男の子がいた。春のうららかな日差しの下で、ピクニックをしている。男の子は二人の息子だ。その向こうから大きな犬が走ってくる。息子のお友達だ。犬は息子を思い切り押し倒した。その光景を見ながら、ルカもパトリシアも大いに笑った。
 そろそろ弁当を食べよう。ルカがそう言いながら、早起きして作った弁当を開いた。作ったのはルカだ。パトリシアは撮影機やピクニックシート、その他もろもろの準備をしていた。ルカは料理が好きで、とても上手なのだ。だからこういう時は、ルカが料理を買って出る。
 そんな幸せな光景が、突如洪水にかき消された。妙に熱い水だ。シートも弁当も流された。食べていないのに、勿体ない。しかしそんな悠長なことを言っている場合ではなかった。道具どころか、ルカや息子や犬までもが流された。そして自分も流されていた。必死に手を伸ばしたけれども、届かなかった。どんどん引き離されていった。
 苦しくて息ができなくてもがき苦しんでいた。どうしてこんな風に幸せが奪われるのだろう。理不尽さに怒りを覚えた。
 そこでハッとした。
 蒸し暑い。とても不快な感覚だ。そう思いながら、パトリシアは眉間に皺を寄せていた。背中のあたりになにかが敷き詰められている。時々吹く風が心地よい。
 今のは夢だったのだ。それもそうだろう。パトリシアには子どもどころか、ルカと結婚すらしていないのだ。
 パトリシアは目を開け、こすりながら起き上がった。辺りを見回してみると、木や大きな葉で組まれた家のようなものの中にいた。それは人工物の気配であった。葉の隙間から光が射しこんでいるので、日中ではあるらしい。
 ――人が住んでいるのかしら。そういえば、どうして私はここにいるのかしら。
 少しずつ記憶の糸を手繰り寄せていると、化け物のような魚の姿を思い出した。それに続く息苦しさも。だからあのような夢を見たのだろう。
 ――運が良かったのかしら。私、助かったのね。
 とにかく状況を把握しなければ。そう思い、パトリシアは立ち上がり、ベッドらしきところから降りた。今まで寝ていたところは編み込まれた緑の葉が敷いてあり、しっかりとした段があった。床らしきものも、木を編み込んだような感じだ。屋根はベッドのようなものと同じで、葉を編んでいるのだろう。
 色々と見ていると、今自分がいる場所に興味が湧いてきた。パトリシアは小屋らしきものをすみずみまで見ようとした。壁にかかっている切れ味の悪そうなナタや、少し不格好な鍋のようなもの、桶らしきものなど、いろいろあった。
 そういえば、荷物も流されてしまったのだろうか。折角だから写真に収めて帰りたい。この様々な道具や住まいらしきものは、現在人間が住んでいるという証明に他ならないのであるから。
 パトリシアが自分の荷物が近くにないかと探していると、小屋の中に誰かが入ってきた。その人は背が高く、黒い肌をしている。真っ黒な髪を編み込み、鼻は平たく、唇が厚い。隠していない胸は膨らんでいる。女性はパトリシアと目が合うや否や、黒い肌には強烈な目を見開いて、口が裂けんばかりの笑顔を浮かべ、こう言った。
「ヤー! トゥエパラサアキナム、サータナム!」
「……は?」
 パトリシアには、黒い肌の女性が何を言っているのかさっぱり分からなかった。
「ネメンテーナルスドム、ペラナンドラ」
 女性はよく分からないことを次々に言いながら、パトリシアの頬を両手で挟んだ。パトリシアも身長が低くない方だと思っていたが、こうして近くで見ると、女性はパトリシアの頭一つ分は大きかった。
 そんなことを気にしながらも、女性の言葉が理解できないので、パトリシアは困ったように「あの、何を言っているのかしら? あなたが助けてくれたの?」と尋ねた。すると女性もパトリシアの言うことが分からないらしく、あからさまに顔をしかめた。
「ヤー、ヤーパルセードナ」
「あ、あは、あはは」
 女性は眉間に皺を寄せていた。全く通じていない。困った顔は知らない土地でも同じなのだとパトリシアは思った。
「ンガナ、テレウガノチャンカ」
 女性はそう言いながら、パトリシアを寝ていたところに押し戻した。何が何だかさっぱりわからず、パトリシアはされるがままだった。女性はパトリシアの腕に草をすりつぶしたものをこすり付けていた。何をしているのだろうか。確かにその部分は、少し痛い。傷を負っているのだろう。不思議に思いながら女性の動作を見ていると、女性は突然また何かを言い始めた。
「ハラウダカサーメ」
 すると次の瞬間、嘘のように痛みが引いた。これにはパトリシアも驚いた。素直に凄いと思うと同時に、脅威を感じた。そしてようやく理解した。女性はパトリシアの傷を治すためとはいえ、得体のしれない術を使ったのだと。パトリシアは慌てて手を振り払った。
「ちょっと、何するのよ! やめて、そんなことしないで!」
 金切声で騒ぐパトリシアに、女性は明らかに不快そうな顔をした。
「ヤー」
「ヤーじゃないわよ! 怪しい術みたいなものを使わないでと言っているの! どうして通じないのよ、もうっ!!」
 そこまで言ってパトリシアはハッとした。もしかすると、ここは野蛮人の住む土地なのではないか。ミアリー大陸で、怪しい術を使う人間など、野蛮人に決まっている。
「最悪だわ。野蛮人の土地に流れ着くなんて。だからこんなところに来たくないと言ったのよ。帰れるかどうかも分からないのに。そうよ、そうだわ、私もう二度と帰れないかもしれないのよ! ルカにだって会えないんだわ。ウェディングドレス着損ねたじゃない。乙女の夢を踏みにじるなんて、あのベガルの豚、一生恨んでやるんだから!」
 何を言っているのかどうせ分からないだろうと思ったパトリシアは、思ったことを遠慮せずに口にした。今までも散々言ってきたが、どうにも気持ちが治まらなかった。
「ヤー、ヤーパルセードナ」
 女性は眉間にしわを寄せ、怪訝そうにパトリシアを見つめていた。何を言っているのかが分からなくても、パトリシアが不機嫌だということは女性にも一目瞭然なのだろう。パトリシアが不服そうに唇を尖らせているところに、今度は同じく黒い肌の、体格のいい青年が入ってきた。
「ヤー、ハッティナ、トゥエパラサアキナム、サータナム」
「ヨダン」
「ヤー、パラッチダハヤンナー」
 そう言いながらつかつかとパトリシアの方に歩いてきた青年がいきなりパトリシアの顔を覗き込んだ。パトリシアが思わずのけぞると、女性が苦笑いを浮かべた。
「ヨダン、アワキパーリカ、ドッテンキイア」
「ヤー」
 青年は大変不服そうな顔をしていた。不服なのはこっちの方だとパトリシアは泣きたくなった。
「ドナ、トゥイア」
 青年がパトリシアに何かを差し出した。パトリシアはその時初めて青年が何かを持っていたことに気が付いた。それは泥に塗れて灰色に染まっていた。どこか見覚えのあるもので、よく見ると、自分の持っているリュックサックとそっくりだった。
「え、ちょっとこれ! あなたこれどこで拾ったの!? いや、それよりこれは私のものなの? 確認させてちょうだい!」
 慌ててそういうことを言ってみたものの、青年が何かを言う前にパトリシアは自分のリュックサックらしきものを青年の手からもぎ取った。泥はすでに乾いてパリパリになっており、パトリシアがリュックサックの口を開けると泥がボロボロと落ちた。そのようなことは気にも留めず、パトリシアはリュックサックの中から荷物を出した。撮影機にノート、写真、ペン、ハンカチ、ボイスレコーダー、それに通信機――リュックサックの中にはパトリシアの持ってきたものが幸運にも全て入っていた。しかし感激してはいられなかった。何せノートや写真は波打ち、真っ白だったハンカチは真っ黒になっているし、撮影機やボイスレコーダーや通信機の類は全て水に濡れているせいで動かなくなっていた。もしかしたら帰れるかもしれないと思ったがぬか喜びに終わってしまった。パトリシアは静かに絶望した。
「ヤー」
 パトリシアの様子に心配したのか、女性が眉を八の字にしてパトリシアの顔を覗き込んだ。パトリシアは自嘲気味に笑って見せた。
「あなたに言ったって分からないわよ。分からないだろうけど、私はここに骨をうずめることになるのでしょうね。こうなると分かっていたら、こんな話突っぱねてやったのに。キャリアもウェディングドレスもルカとの子どもも、全部全部夢の産物になってしまったわ」
 不思議と涙は出なかった。しかし何としても帰ってやろうという決意もなかった。ただ、全てがどうでもよくなった。

 日が暮れると、パトリシアと対面した青年が、他の人たちと一緒に火の回りに集まった。この集落にはパトリシアが思ったよりも多くの人が住んでいるようだ。パトリシアの治療をした女性がパトリシアの手を引き、そこに連れてきた。
「ヤー、ナメリャバンザ。メー、ハッティナ」
 女性はパトリシアの方を向き、自分の胸に手を当ててそう言った。しかし女性が何を言っているのかを理解しようとする気がパトリシアには起きなかった。しかし女性があまりにもハッティナ、ハッティナと繰り返すため、パトリシアも思わず「ハッティナ?」と尋ねた。すると女性は満足そうに笑った。
「トゥイナメリンガダ」
 女性はパトリシアの胸を指さした。その時ようやく、パトリシアは女性が何を言おうとしているのかを考えた。
 そもそも女性が連呼していたハッティナとは何なのだろうか。女性は自分に何かを伝えたいのだろうか。女性は自分に何かを訪ねたいのだろうか。ハッティナとは何なのだろうか。そういえば、ハッティナという言葉を誰かが言ってはいなかったか。どこかで聞いたことはなかったか。
 パトリシアはもう一度「ハッティナ?」と尋ねた。するとやはり女性は微笑んだ。
「メーハッティナ。トゥイナメリンガダ」
 これはパトリシアの勘だが、もしかすると女性はハッティナという名前なのではないかと考えた。そして名乗ったうえで、パトリシアの名前を訪ねているのではないかと。試しにパトリシアは、女性と同じように自分の胸に手を当て、「パトリシア」と言った。すると女性は言いづらそうに、「パトイリア」と言った。パトリシアは首を横に振り、もう一度「パトリシア」と言った。女性はやはり言いづらそうだったので、パトリシアは「パティ」と自分の愛称を伝えた。女性はその方が言いやすいと、笑顔で「パティ」と言った。パトリシアはゆっくりとうなずいた。
 伝わっているのかどうかは分からない。だが何度も「パティ」と繰り返す女性の笑顔を見ていて悪い気はしなかった。
「パティ、ンダラム」
 恐らくハッティナと名乗っているであろう女性は、火の方を指さした。男たちが火を取り囲むようにして、なにやら踊っているようだった。汗か何かで濡れた裸の上半身が火に照らされて光っている。皆がっしりとした体格だ。白や赤でペイントしているようにも見えた。腰には布のようなものを巻いている。それを見ている女性たちは皆トップレスであった。そういう文化圏なのだろうとパトリシアは考えた。
 その光景を見ていて、パトリシアはふと思った。男性の数が少ない。パッと見倍くらいの差があるのではないかと思うほど男性の数が少なかった。パトリシアは気になって、慌ててノートを手にそのことを書いた。こんな時でもそんなことができてしまう自分が悲しいと思いながらも、パトリシアの好奇心は止まらなかった。
 その時、パトリシアはハッティナに背を押された。パトリシアはわけも分からないまま男たちの輪の中に入った。なんだなんだと男たちを見ていると、先ほどパトリシアのところに来た男が突然刃物で自分の手の平を斬りつけた。そして斬りつけたところから滲む血を持っている刃物に塗りつけ、そこから炎を出した。
 ――これは、もしかして、ずっと昔にあったっていう、紋章術とかいうやつなのかしら?
 紋章術を使っている人間を、少なくともパトリシアは今まで生きてきて見たことがない。だから紋章術に関しては文献や老人の話から推測するしかない。しかしながら、紋章術が生命力を糧に発動する不思議な力であるという認識はあるので、生命と引き換えに使うこの力を野蛮なものであると考えるのは、パトリシアにとってはとても自然なことであった。
 伝承の彼方に消え去った悪しき術――それがパトリシアが認識する紋章術であった。そのようなものを使う人がいる。そのようなものを使う民族が存在する。それはパトリシアにとっては信じがたいことであるし、通信機が壊れたなどという物理的な問題よりも、一刻も早くこの場から立ち去りたいという気持ちでいっぱいになった。
 パトリシアは慌ててその場から逃げ出そうと地面を蹴ったが、そこを先ほどの青年に止められてしまった。青年はパトリシアが今まで体感したことのないような力で、パトリシアの腕を掴んでいた。
「痛い、離して、触らないで! ありえないわ、なんなのあなたたち!? 野蛮よ、野蛮だわ! ここは野蛮人の村なんだわ!!」
 勿論パトリシアが何を言っているのかが分かる人などいるはずもなく、彼女が腹の底から叫んだ言葉は夜の闇に消えた。

 そのような場所でもしっかり眠ることができたパトリシアは、自分の図太さが少しだけ嫌になった。こういう時くらい、恋人のことを思い出して恋しがってみればいいものを。そんな風に思っていた。不思議なことに、辛い時ではあるが誰かに側にいて欲しいとは思わなかった。これまでは心細いことがあると、独りでいるのが耐えられなかったこともあった。それはパトリシアが心底心細いと感じていないだけなのか、それともそのようなことも考えられないほどの事態なのか、パトリシアには分からなかった。
 しかし考えてみれば、パトリシアが見知らぬ土地で見知らぬ民族の中で突然叫んで暴れて、殺されても文句など言えない状況であったことは否めない。いかに彼らがおかしな術を使う野蛮人であっても、パトリシアがしたことは失礼極まりない。それに野蛮人とはいえ、彼らに助けられたことは揺るぎない事実なのだ。パトリシアは彼らに感謝や謝罪を伝えることのできない自分を恥じていた。
 ――考えてみれば、ここでの生活のことが一切分からない私って、大きな赤ん坊も同然なのよね。彼らからしてみれば、私を殺してしまうなんて朝飯前のことだわ。
 これまでパトリシアが無礼なことをしても殺されなかったことを考えると、そうそう殺されることもないのではないかとも考えた。しかし見ず知らずの土地でそのように無防備な状態でいるのは、危険だろう。
 ――どのみち、今の私がこの集落を出たところで、野垂れ死ぬだけなんだわ。そう考えたら下手にどこかへ行くより、ここにいさせてもらった方が建設的よね。それに、もし仮に帰れるようなことがあったとして、手ぶらだなんて勿体ないわ。紋章術を使う民族って、考えてみたらものすごく珍しいじゃない。ネタにしない手はないわ。
 パトリシアは、野蛮人の中で生活するのは真っ平だと思いつつも、そのように納得した。というより、納得せざるを得ないと考えた。そして、気合入れに自分の顔を思い切り叩いた。
「よし、そうと決まれば、言葉を覚えて色んなこと根掘り葉掘り聞きだしてやるわ!」
 私だってその気になれば何でもできるんだから。そう意気込んだパトリシアの表情は活き活きとしていた。



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