密林の記者

#03.言語習得


 集落に流れ着いてから一週間、パトリシアはずっと住人たちを観察してことばを聞いていた。勿論、聞いたところで何を言っているのかはほとんど分からないが、ハッティナや先日の青年がパトリシアに興味を持ったのか、空いた時間があると側にいてくれた。よく分からないが、彼らなりにとても親切にしてくれているのだと思うことにした。
 一週間のうちに、パトリシアは食事の作法を覚えた。住人たちはとても正直で、パトリシアが失礼なことや下品なことと思われることをしてしまうと、とても嫌そうな顔をするのだ。こういった顔は万国共通なのだと実感した。
 それとパトリシアが覚えたことはもう一つあった。「アガッティアーナ」という言葉だ。ハッティナや青年が何度もパトリシアにその言葉をかけるので、察するに「これは何か」と尋ねているのだろう。それでパトリシアも「アガッティアーナ」と声をかけてみると、二人とも答えてくれたので、間違いはないだろう。パトリシアはその言葉をもとに、水に浸かって波打っているノートに色々とメモをとった。
「パティ、今日も頑張ってるみたいだな」
 朝一番に見るには胸やけがしそうな青年の顔も、一週間見ていると流石に見慣れてきた。青年が何を言っているのかは分からないが、パトリシアは「アティーテ」と声をかけた。ノートにはその言葉の隣に「挨拶」とだけメモをしている。青年もパトリシアに「アティーテ」と返した。
 青年は名をヨダンと言う。どうやらここの住人のリーダー格のような老人の長男であるらしい。本人から聞いたわけではないし、聞いても分からないだろうが、一週間観察してみてパトリシアはそう思った。
「言葉もちょっとずつ覚えているようだし、これもハッティナの教育の賜物かな」
「え、なあに、呼んだ?」
 どこからともなく現れたハッティナは、相変わらず豊かな乳房を露わにしていた。ハッティナだけでなく、ここに住んでいる女性は皆トップレスで過ごしているようである。パトリシアは恥ずかしくて、そのようなことはできなかった。
「はは、たまたまハッティナの話をしていただけさ。ハッティナがパティに言葉を教えるのが上手いってな」
「ヨダンが素直に人を褒めるなんて、こりゃスコールでもくるかな」
「なんだと、この無礼者め。罰として一週間パティの面倒を見るんだ」
「もうとっくに見てるわ」
 何を話しているのかさっぱり分からず、パトリシアはただ笑っていた。ところどころ自分の名前が聞こえるので、自分の話をしているのだろうということは分かった。このままではよくないと思ったパトリシアは、とりあえずハッティナが手に持っている食べ物らしきものを指さした。
「ねえ、それは何?」
「これ? あなたの朝ご飯よ」
「あなたの朝ご飯?」
「パティの朝ご飯。これはね、ヘンラ芋を焼いたものなの。おいしいわよ」
「ヘン・・・?」
「ヘンラ芋よ」
「ヘンラも?」
「おいおい、こんな簡単な言葉も分からないのか」
 ハッティナとそのようなやり取りをしていると、ヨダンが何かを言ってきた。パトリシアは彼が何を言っているのか分からなかったが、何か馬鹿にされたことは感じ取った。しかし言い返せないのが悔しい。
 ――覚えてろよ、この野郎っ。
 パトリシアは心の中で舌打ちをした。
「駄目よ、そんな風にいじわるしちゃあ」
「分かってるよ。だからハッティナに任せているんだろう」
「だったら下手に口を出さないでちょうだい。ほら、お勤めがあるのでしょう」
「まったく、口だけは達者だからな、ハッティナは」
「ふふ、あなたも口だけはよく動くのね」
「ちっ」
 ヨダンは不機嫌そうな表情をして行ってしまった。パトリシアに何か言ったことに対して、ハッティナが反撃でもしてくれたのだろうか。真相はさっぱり分からないので、パトリシアは考えないことにした。
「さて、待たせてしまったわね。はい」
 ハッティナはヘンラ芋とやらを盛った器をパトリシアに手渡した。これを食べろということなのだろう。パトリシアはそれを受け取り、「ありがとう」と言った。
「今日も天の恵みに感謝します」
 パトリシアが言った言葉は、住人達が食事前に必ず言っていた言葉だ。何を言っているのか自分でもよくは分かっていないが、食事前のお祈りのようなものなのだろうとパトリシアは思っていた。
 ヘンラ芋は、調理された後なので見た目は分からないが、味はジャガイモに似ていた。それをバターのようなもので焼いている味がする。動物の油だろうか。
 結局パトリシアは、ヘンラ芋の料理をぺろりと食べてしまった。それを見て、ハッティナは笑っていた。
「いい食べっぷりだわ」
「え?」
「ううん、早く言葉が分かるようになればいいのにね」
「何?」
 ハッティナが言っていることが分からず、パトリシアは首をかしげたが、ハッティナは相変わらず笑って「ううん」と首を横に振った。
「ねえ、少し外に出てみようか。本当はあんまり集落の外に女が出たらいけないんだけど、族長の息子を連れていれば問題ないわ。ほら、行きましょう」
 ハッティナはヘンラ芋を食べ終わったパトリシアにそう言いながら、パトリシアの手を引っ張った。おそらく「来い」と言われているのだろうと思い、パトリシアは立ち上がりハッティナに付いて行った。
「ヨダン!」
「なんだ、ハッティナか」
 豊かな胸を揺らして走るハッティナに、ヨダンは普通に言葉を返しているようだった。これがもし自分の故郷であったなら、男は厭らしい目つきでハッティナの胸を見るのだろう。見ないとしても、意識するだろう。初めてトップレスで生活している女性を見た時は、同性のパトリシアでさえ意識したものだ。
「どうした、パティを連れて」
「ちょっと集落の外も見せてあげたいのよ。だからヨダン、あなたも来てちょうだい」
「正気か? 何かあったらどうするんだ。第一、集落の外は男の世界だ」
「だから、あなたに頼んでいるんじゃない。この辺のこととかさっぱり分からないみたいだから、ちゃんと教えてあげなきゃ」
「まだ言葉が通じないのに、どうやって教えるんだ」
「大丈夫よ、彼女頑張って覚えようとしてるじゃない。ね、お願い」
「……まあ、お前がそこまで言うなら、連れて行ってやるよ。取れたてのダルの実も食べられるかもしれないしな。親父には内緒だぞ。バレたらものすごく怒られるんだ」
「そこはお互い様よ」
「ちぇっ。ほら、行くぞ」
 話が着いたのか、ヨダンは松明をもって歩き始めた。それにハッティナが付いて行く。パトリシアも二人の後を追った。集落の中でも蒸し暑い密林という印象であるが、集落から出ると人を拒む木々が鬱蒼と生い茂っていた。
 どこに向かっているのか知らないが、パトリシアはとりあえず二人に付いて行く。その中で、まだ日も高いというのにヨダンの持っている松明に指を差した。
「それは何?」
「これか? これは薪だ」
「それは?」
「火だ」
「薪、火」
「そうだ。毒蛇とかがいるかもしれないからな、こうやって集落の外に出るときは、昼でも火を焚くんだ」
 ヨダンはそんなことを言いながら、ずっと上を見ていた。そして「おっ」と言って木から何かをもぎ取り、パトリシアに見せた。
「ほら」
 ヨダンの白い手の平には、クルミのような茶色の実が載っていた。
「これは何?」
「ダルの実だ。こうやって、割って……」
「わっ」
 中から出てきたのは、少し柔らかそうな身だった。クルミとは違うようだ。
「食べてみろ、うまいぞ」
「あ、うん。ありがとう」
 一応ヨダンの目を気にして小さくかじりつくと、途端に口の中に甘みが広がった。しかししつこくなく、とてもさわやかな甘みだった。
「ああ……」
 歯がゆかった。普段ならば、「おいしい」とか「甘い」などという言葉を口にできるのに、どう言えば彼に伝わるのか、分からない。この実を教えてくれたのは彼だ。彼に感想を言わなければならないだろう。しかし、彼の言葉で言えなければ、それはただの独り言だ。
 言葉が分からないから、パトリシアは満面の笑みを浮かべた。すると、ヨダンも笑った。
「その顔なら、きっとその味は“おいしい”だ」
「おいしい」
「そうだ」
 そうなのだ。きっと、感謝や謝罪の言葉と同じように、大切な言葉なのだ。だからパトリシアは、忘れないようにすぐさまノートにメモをした。その様子をヨダンが興味深そうに覗き込む。
「それ、なんだ? 何をしているんだ?」
「これ? これは“ノート”。えと、あなたが言ったこと……」
 何と言えばいいのか分からず、パトリシアはノートに文字を書く仕草を取った。するとヨダンは「記録」と言った。
「記録?」
「そう。その、ノートとかいうものに文字を書く。記録する」
「ああ。あなたが言ったこと、記録する」
「そうだ。よく言えたな」
「ありがとう」
 この人はとても意地悪な印象があったけれど、とても優しくて、穏やかで、気の長い人なのだと思った。パトリシアは微笑みながら、ヨダンがダルの実と呼んだものを千切ると、ヨダンに手渡した。
「あなたが食べる」
 すると、ヨダンは困ったように笑った。
「はは、ありがとう」
 言いたいことをどれだけ伝えられているかは分からないが、今はまだこれだけでいい。パトリシアはそう思った。

「そろそろ戻るか」
「そうね。バレてしまったら大変だもの」
 そんな会話をヨダンとハッティナがしている傍らで、パトリシアは足に痛みを感じた。歩き疲れたとか、そういう痛みではなかったため、パトリシアはすぐに足を見た。すると、細いロープくらいの大きさの蛇に噛まれていた。
「きゃあっ!」
 思わず叫ぶと、ヨダンもハッティナも慌ててパトリシアの様子に気づいた。ヨダンが火で蛇を焼き殺す。
「ちっ、毒を持ってるヤツだ」
「大変! パティ、足を見せて!」
 ハッティナが慌てて傷口から毒を吸い出す動作をしている。毒蛇だったのだ。
 ――どうしよう。私こんなところで死んじゃうの? まだやり残したことがあるのに。たくさんあるのに。帰りたいのに。
 諦めたように目を閉じている合間に、ハッティナが何やら草を傷口に刷り込み、何かをつぶやいた。次の瞬間、重く感じていた足が軽くなったような気がした。少し遅れてハッティナが何をしたのか理解したパトリシアは、思い切り息を吸った。
『ちょっと何なのよ、どうしてそんなことをするの!? 嫌だって言ってるでしょう!』
 パトリシアはつい自分の言葉で怒鳴ってしまった。ハッティナは何が起きたのか分からないという表情をしている。しかしパトリシアには、彼女たちがパトリシアに呪術や紋章術のようなわけの分からない怪しげな術を施すのが耐えられなかった。とてもではないが許せなかった。
「ちょっと、どうして怒ってるの? どうかしたの?」
『私はそんな怪しげな術を使ってほしくないのよ! どうしてそれが分からないの!?』
 分かるはずがない。言葉を介さずに、どうやって伝えるというのだろう。怪しげな術が嫌なことや、伝えられないことの苛立ち、そして生活習慣の違いから、これまでの我慢が崩れて一気に噴き出してしまったのだ。しかしハッティナが狼狽えた態度を一変させ、パトリシアを冷静に見つめるため、パトリシアはそれ以上何も言えなかった。
 ハッティナは溜息を一つ吐くと、厳かに口を開いた。
「パティ、あなたって、最初もそうだったけど、どうしてそんな風に怒るの?」
「え?」
「だから、不機嫌になる。怒ってる。今のあなた。怒る」
 ハッティナはパトリシアの胸に指を当て、何度も「アッガ」と言った。おそらく今のパトリシアの状態だから、「怒っている」とか「不機嫌」とか、そういったことを言っているのだろう。
「う……」
 パトリシアには、自分が短気だという自覚があった。しかし、ミアリー大陸に来て、この集落の人たちに拾われて、自分の短気を気にしたことがなかったかもしれない。慣れない環境に、自分のことだけでいっぱいいっぱいだからなのだろう。ルカにも何度となく諭されたものだ。
 ――そうね、短気は損気なんて古い言葉もあるし、もっとこう、どーんと構えてしまえばいいのよね。
「ごめんなさい、気を付ける」
「そうそう。その言葉だけは本当にはっきり覚えてるわね。ほら、まだ蛇がいるかもしれないから、早く帰りましょう。こんなことになって、私の方こそごめんなさい」
 ハッティナが「ごめんなさい」と言ったのが、確かに分かった。確かに、ハッティナかヨダンがパトリシアをここに連れ出したのだから、パトリシアが蛇に噛まれた責任は彼らにあるのかもしれない。それでも、ハッティナがパトリシアを、呪術を使ったとはいえ治療してくれたのは、当然のこととは思えなかった。



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