アルネトーゼ

#05.降雨


 日が昇って早々に、一行は王都セルナージュを発ち、オルディタウンへと続く街道を歩いていた。
 リーフムーン王国は、世界を代表する中央集権国家である。各町村の使者や監視官が王都と村々を往き来しやすいように、街道は常に整えられている。そしてこの街道を利用するのは彼らに限らず、多くの旅人や商人も例外ではない。プライム曰く、オルディタウンへはセルナージュから東へ伸びる街道を伝って三日ほど歩いた先にあるとのこと。道中、旅人が夜を過ごすための簡素な旅籠がところどろにあるそうだ。
 シエルはプライムに付いて街道を歩きながら、腫れて熱を持った右頬に手のひらを当てていた。というのも、昨日は白昼堂々セルナージュの往来でプライムと決闘を行い、呆気なく破れたのだ。事の発端はというと、シエルがプライムを何度も「オッサン」と呼んでいたことだった。初めは何の反応も示さなかったので、気にしていないのだろうと思っていたのだが、思いの外気にしていた様子だった。こめかみに青筋の立ったオッサンことプライムと対峙し、シエルは先制攻撃を仕掛けた。シエルの素早い攻撃はプライムに当たったが、プライムはビクともしなかった。そして一撃、プライムの平手がシエルの右頬に見事に入ったのである。脳を揺るがす程の衝撃にシエルは立っていられなくなり、勝負はあっさりと、その上はっきりと決まってしまった。やはりプライムは強い。伊達に自分で強いなどと豪語してはいなかったと改めて思わされた瞬間だった。
「ったく、もうちょっと加減すりゃあいいものを……」
 未だじんじんと痛む右頬を抑え、半眼でプライムを睨みながら口の中でつぶやくと、「ほお」とプライムがやけににんまりとした顔をシエルに向けた。
「まだ懲りていないと見える」
「わっ、何だよ、何も言ってないだろ!」
「俺には何か聞こえたがな」
「うるさいな、何も言ってないっつったら言ってないんだよ」
 地獄耳かよ、などと心の中でぼやきながら、シエルはずんずんと歩いた。
 彼らが向かっているオルディタウンは、それぞれの故郷や自治体が受け入れてくれなかった芸術家たちが住む町である。住人たちはお互いに切磋琢磨したり、良い影響を受けたりと、それなりに良い暮らしをしているようだ。境遇に限れば、全員が理解者である。
 その町で何が起きているのか――伝令が途絶えたため詳しいことは分からないが、二週間前に女王に報告に来た最後の伝令が「雨が止まない」と言っていたと、女王から聞いたようである。
 リーフムーンでは、各地の情報をできる限り早く正確に掴むべく、十日ごとに伝令が出される。一日や二日の遅れならいざ知らず、四日というのは、せいぜい三日程度の距離しかない町では異常なことなのではないか。もし伝令が途中で行き倒れていたとしても、必ずリーフムーンの印章を持っているので、分かるはずなのである。
「雨が止まない……ただそれだけなら、気にするようなことじゃないと思うんだけどな。寧ろありがたい話じゃないか」
 シエルのつぶやきに、プライムはゆっくりとうなずいた。
「それだけだと、俺も何かの暗号じゃないかと思ったんだがな。ただ、オルディタウンは比較的乾燥している。そういう季節があるから、雨が止まないということ、それ自体は珍しくないんだが、今は雨期じゃないからおかしいんだ」
 大陸やら地形やら、難しいことは分からないが、とにかく異常事態なのだということだけはシエルにも理解できた。
 そうして一人で納得して進行方向に視線を戻したシエルは、前方に何か白い物体が横たわっているのを視界に捉えた。いや、あれは物体などではなく、人だ。シエルはすかさず、倒れている白い人に駆け寄った。
 見た目は十六、七くらいの、象牙色の長い猫毛を、髪よりも白い布でまとめ上げ、青い大きな襟が特徴的な服をまとった、小柄な少女だ。なぜこんなところで一人で倒れているのか。疑問に思いながら少女を抱き起こす。身体は冷え切って小刻みに震えており、呼吸は浅かった。
「こいつはホワイトクロスの制服だな」
 冷静につぶやいたプライムは、シエルから少女を引き継ぎ、背負った。

 白い少女を拾ったシエルたちは、最寄りの旅籠へ入った。気を失った少女をあのままにしておくわけにはいかないし、人ひとり背負った状態で雨の止まないオルディタウンへ赴くこともできない。
 少女の着ているホワイトクロスの制服は、白い。シエルはホワイトクロスという名に聞き覚えがあった。ジンガー大陸で活動する医師団の名前だ。どのような時も対象の身分や立場を問わず治療をするという精神の許発足した。多くのメンバーが呪術――ハーブを使った呪いを使用し対象者を手当てする。小さい拠点は大陸に数カ所点在し、隣国ウェスパッサに本部を構える。団員は自分たちの信条を果たすべく、あちこちを旅歩くのだ。
 リブル島にもホワイトクロスが来たことあがる。実際に見たのは十年以上も前のことなのでおぼろげな記憶だが、とても優しそうな男性だった。その男性は病の床に伏せるシエルの母親を介抱し、看取ったのだった。
 そのホワイトクロスの人間が、オルディタウンとセルナージュを繋ぐ街道の途中に倒れていた。あまり考えたくはないし、そのことをすぐに直結させるほどの根拠もないが、もしやオルディタウンは「雨が止まない」以上に厄介な自体に見舞われているのではないだろうか。そのような不安もあってか、シエルは妙な胸騒ぎを覚えていた。

★☆★☆

 白い少女は果てしない闇を走っていた。ただひたすらに、必死に走っていた。
 行かなければ。早く行かなければ。目的地も理由も分からないけれど、少女を掻き立てる義務感ばかりが脚を走らせる。しかし脚はどんどん重くなっていくばかりで、ついには倒れてしまった。
 力を振り絞って起き上がろうとするものの、立つこともできない。何かが脚にまとわりついているようだった。少女はおそるおそる自分の足元を見た。すると、おびただしい数の亡者が少女の脚にまとわりついているではないか。少女は怖くなって、慌てて逃げ出そうとした。しかし少女の力では、足元の亡者たちを振りほどくことができない。
 助けて、助けて、誰か助けて――。
「助けて!」
 少女は叫んだ。今まさに叫んだ場所が、今までうなされていた悪夢ではなく現実の世界だと認識するのに、一呼吸分の差があった。そう、どうやら眠っていたようだ。辺りは明るくはなかった。少女はゆっくりと重い身体を起こした。色素の薄い象牙色の髪が落ちてくる。いつもであれば邪魔だからまとめている髪だ。その髪を払うこともなく、しばらくじっとしていたものの、人の声が割と近くから聞こえたので、そちらへ意識を集中させた。床が軋む音から、どうやら自分が簡素な小屋にいるらしいということは把握できた。
 そこでようやく、部屋の中の、しかも自分の側に何者かがいることを察知した。気配を消していたのだろうか、それとも少女が体力を消耗しているあまりに気が付かなかったのか。小柄な少女からはたいそう大きく見える男が、隣でずっしりと座っている影を認めた。
「目が覚めたか。気分はどうだ――と訊くまでもないか。悪い夢でも見ていたんだろう」
 低く落ち着いた声が、穏やかにゆっくりと少女に語りかける。不思議なもので、夢に引きずられてくすぶっていた不安な心が和らいだ。だが警戒を解くわけにはいかないと判断し、暗がりで幽かに光る目をじっと見つめた。
「どなたですか? ここは、私は今どこにいるのですか? セルナージュではありませんよね」
 男から、肌を掻く音がする。少女の質問に困っているのだろうか。
「質問は一つずつにしろ。俺も返答に困るし、あんたもその消耗した状態では処理できないだろう。俺はプライム、風剣士だ。街道で倒れてたあんたを連れが見つけたんで、ひとまず休めるところに運んだ。俺たちはオルディタウンに向かう途中だったが、あんたとは逆方向だったな。そうだな、ここはまだオルディタウン寄りってところだろう。残念ながら、セルナージュではない」
「大変、こんなところで寝てる場合じゃない!」
 プライムと名乗った男の話を聞き、少女は焦って慌てて立ち上がった。しかし疲れ切って衰弱した身体では自分の体重すら支えられず、プライムに支えられた。
「おいおい、その身体でどこへ行くつもりだ。このままだと、セルナージュに辿り着く前にのたれ死ぬのが関の山だぞ。せめて丸一日は休むことだ」
 プライムの忠告はもっともだが、少女にはそんなものを聞き入れる余裕などありはしなかった。行かなければならない。一刻も早く行かなければならないのだ。それが少女に課せられた役目なのだから。
 ちょうどその時、部屋の扉が開き、暗かった部屋に光が射し込んだ。松明か篝火のようだ。
「何の騒ぎだ? あの子が目を覚ましたのか? 不埒な輩と勘違いされているのか?」
 女性のハスキーな声だ。若干の笑いを含んでいるようだった。少女を支えるプライムが女性の声に答える。
「ああ、そうだ。まだ回復には至っていないようだがな」
「なら寝かしといてやれよ。それじゃあプライム、あんたがいたいけな女の子をいたぶっているようにしか見えないよ」
「仕方がないだろう。このお嬢さんが、フラッフラな身体で行くって聞かないんだ。全く……」
「なるほどねぇ。ラスタ、アレくれよ」
 女性は器を何者かから受け取り、少女に差し出した。
「ほら、ハーブティーだよ。これ飲んだら、多少は疲れもマシになるんだと。熱いから気をつけろよ。で、これ飲んで大人しく寝てな。分かったか?」
 少女は女性から差し出されたものを受け取った。器から熱が伝わる。しかしそれには口を付けず、女性に反論した。
「でも、ここで寝ているわけにはいかないんです。一刻も早く行かなければなりません。オルディタウンには、私の帰りを待っている人たちがいるから」
「あんたねぇ、何をそんなに焦っているのかは知らないけど、それでまた倒れたらどうするんだ? あんた今ここで寝てる時間を無駄だと思ってるだろ? また倒れでもしたら、それこそ無駄な時間を浪費するばっかりだ。それよりはそこのオッサンの言うこと聞いて、丸一日しっかり休んで体力を付けた方が、よほど効率がいいぞ。だから、大人しく寝てな」
 女性に言われて多少は頭が冷えたのかもしれない。確かに彼女の言うとおりだと、少女は納得した。第一、こんなところで寝ているのは、消耗したことに気付かない程度に自己管理がなっていなかったためだ。無駄な時間は、無理が生んでいた。少女は受け取ったハーブティーに口を付け、器を女性に返し、そのまま床に戻った。ハーブティーのおかげか、眠りの闇に落ちるまで、時間はかからなかった。


 夜が明け太陽が高くなった頃、白い少女がのっそりとした動きで部屋から出てきた。彼女にはもっと睡眠が必要なのではないかとシエルは思ったが、昨日の様子だと強情を張って耳を貸さないような気もしたので、何も言わなかった。朝食には遅すぎるが、果物の乾物を少女に手渡した。少女は受け取ったものを少しずつ口にした。
「で、あんた名前は?」
 不躾なシエルに、少女は手を止め小さく「クリム」と答えた。
「二週間くらい前に、オルディタウンにベテラン医師と共に派遣された見習い医師です。オルディタウンでは時季はずれの雨が降り続けていて、町はほとんど沈んでしまいました。その上変な病気が流行ってしまって。ハーブも足りなくなって、先輩医師の指示でセルナージュに向かっていたんです」
 曰く、本来であれば行商人がたまに寄ってくれてはいたものの、町が沈んでからはすっかり寄りつかなくなってしまい、ハーブの補充もままならなくなったとのこと。
「雨に流行病ですか。これは思ったよりも深刻なのではないでしょうか、プライム?」
「そうだな……。おっと、名乗り忘れていたが、俺はプライムだ。こっちの連れはシエルとラスタ。いやな、俺たちはそのオルディタウンに向かっている途中だから、オルディタウンが今どんな様子なのか知りたかったんだ。無論、倒れている娘を放っておくような真似はしなかったがな」
「そうだったんですね。でも、あなたたちがハーブを持っているようには見えないから、やっぱりセルナージュへは行かなければなりませんね」
「そいつは違いない」
 プライムが困ったように笑う。それより、シエルはクリムの言う「変な病気」とやらが気になった。
「なあ、変な病気が流行ってるって言ったな。それは何が元で感染しているのか分かるか?」
 オルディタウンに入ることが決まっている以上、心配事を減らす対策はしておきたいものである。感染経路さえ分かれば、シエルたちは無事でいられるかもしれないのだ。
「分かりません。一見すると風邪にしか見えませんが、とにかく咳が止まらないんです。激しくなって、血まで吐いて、物も食べられなくなって、最終的には衰弱して死に至ります。だから最初は飛沫感染を考えたのですが、隔離しても何をしても止められませんでした。喉に炎症も見られないし、何が原因か本当に分からなくて。まじないも気休めにしかなりません。痛みを和らげることしかできないんです。そんなものでも、ないよりはずっといいから……」
 そこまで話して、クリムはもう一度乾物に口を付けた。このような時こそ物を食べられるのはいいことだ。シエルはハーブティーをクリムの前に置いた。
「ということは、そこにいた使者もその流行病で衰弱しているか、あるいは死んでいる可能性が高いな。やはり現状の確認が必要だな。クリム、礼を言う」
 はっきり言ってそのようなおっかない町になど行きたくはなかったが、プライムが行くと言っている以上、行かざるを得ないだろう。それに、目の前の白い少女を見捨てることもシエルにはできなかった。ただ、シエルたちが彼女の求めるハーブを持っていないので、ここで別れることになるのだろう――そう思ったとき、旅籠の扉が開いた。
「おやおや、いっぱいですか?」
「いえ、空きはありますよ」
 ラスタが普通に答えたその旅の男は、商人の風体をしている。シエルとクリムとプライムは顔を見合わせ、プライムが声をかけた。
「なあ、相談なんだが、もしかしてハーブを売ったりしていないか?」
「ハーブ? それならたくさん持ってますよ。本当はオルディタウンで商売していこうと思ったんです。噂通りなら儲け時かと思ったから。気味が悪くて寄るのをやめてしまったんですけどね。今のところ手持ちはこんなところです」
 商人がどっさりと床に置いた大きめの鞄の中には、ハーブを乾燥させたものが大量に入っていた。
「これはすごい。いくらだ?」
「まあ、全部で五万ってところですね。珍しい植物でもありませんし、一番必要なところでは売れませんでしたし」
「よし、ツケで全部寄越せ。もちろん仮払いはする。一万でどうだ」
「そんな、困りますよ。払ってくださるか分からないじゃないですか」
 街道のど真ん中で行商人に対しツケなどという馬鹿な話があるものか。シエルも行商人に同情的な目を向けていたが、プライムはというと、なにやら懐から出した物にさらさらと文字を書き、商人に渡した。
「ん、なになに……えー!? いやまあ確かに、これだったら私も売るしかありませんが、そんな馬鹿な」
「どうしたんだ?」
「だってお姉さん、リーフムーンの王室に取り立てるなんて、畏れ多すぎますよ!」
 なるほど、プライムが何を書いたのか予想がつき、シエルはクスリと笑った。クリムは何がなんだか分からないような表情をしている。プライムはそんな商人に向かって豪快に笑う。
「大丈夫だ。困ったときは『プライムという男から言われた』と言っておけばいい。これはいただいていくからな。本当に助かった、礼を言う」
 プライムは鞄の口を閉じて、持ち手のひもを肩に掛け、「行くぞ」と連れを旅籠から追い出した。
「さて、これでお嬢さんがセルナージュに向かう理由がなくなったわけだが、どうする? 俺たちとオルディタウンに戻るか?」
 クリムが大きな琥珀色の目をプライムに向ける。答えは決まりきっているのだろうが、プライムは、いや、シエルもラスタも、白い少女の返答を待った。
「はい、お世話になります」
 こうして、シエルたちの一行に少女が一人加わった。


 旅籠を出てしばらく歩くと、空が灰色に、辺りは暗くなっていった。雨のにおいや、肌にまとわりつく湿気が心地悪い。プライムやクリムの話からすると、オルディタウンに近づいたと考えるのが妥当だろう。
「そういえばクリム、あんたはなぜ、たった一人でハーブの調達なんかに出たんだ? そんなに人手が足りなかったのか? 医師団の数は多くないのか? それとも見習いだからか?」
 プライムの投げかけた疑問は、シエルも気になっていた。彼女の白い肌は、あまり外で活発に動かないためのものだろうし、細い手足は旅に向いているとは思えない。
「それは、メーレ……もう一人の先輩医師の指示なのです。私の護衛をしてくれる親切な風剣士がオルディタウンにたまたまいて、それまでは一緒に調達に行っていたのだけれど、今回はメーレが、彼に他の大切な仕事を任せたから一人で行ってくれって。オルディタウンにいる医師は、メーレだけなのです。私はまだ、この帽子をかぶっていますから」
 ホワイトクロスでは、クリムがかぶっているような白い帽子は初心者の証であるらしい。彼女の言葉の端々から、メーレという先輩医師を慕っている様子がうかがえた。その側で、ラスタがふむ、と唸る。
「その流行病の中で活動して、あなたやそのメーレという人物は発症していないようですけれど、予防の手だてがあるというわけではないんですね?」
 ラスタの問いかけで、クリムの表情に影が落ちた。本当はメーレという人物も発症しているということなのだろうかと思ったが、どうやら違うようだ。
「メーレも私も、あと、風剣士の方も発症していないんです。町の人たちにもいろいろ試してみたけど、どれも効果がなかったの。だから、私たちに何事もないのが不思議なくらいで……」
 シエルの頬に冷たいものが落ちてきた。雨だ。はじめは降っているのか降っていないのか分からない程度だったが、強く激しくなるのに時間はそうかからなかった。この雨の中でラスタの耳が機能する可能性は低いので、ラスタの手はシエルが引いていた。ふと立ち止まったクリムが、前を指さした。
「あそこです。見えるかしら……。あの建物の中に皆さん避難しています。衛生状態が悪いので、避難と言えるか微妙ですけど」
 見えるかしら、と言われても、雨で視界はほとんどない。ただ、何かがあるらしいということだけは確認できた。
「あれが例の教会だな。町は?」
 雨で張り付く前髪を掻き上げ、シエルは尋ねた。
「ここです」
「ここって、何もないじゃないか」
「気をつけて。それ以上進むと、落ちるから」
 クリムの言葉でシエルは血の気が引いた。雨が激しくて判断しづらいが、この濁った巨大な水たまりに見えるようなものの中に、オルディタウンは沈んでいるのだ。シエルは信じられない、と頭を振った。その時、視界の隅に何かの影が映り込んだ。教会とは違う、何かだそちらに目をやると、それは人影だったらしい。身体の大きな人が、抱えていた大荷物を落とし、ドスドスという音が雨に紛れて聞こえるほどの足取りで駆け寄ってきた。
「クリム!」
 大男は短い黒髪で、人懐こい表情が特徴的な少年だった。身体は比較的体格の良いプライムよりも一回り大きく、シエルが見上げなければ顔が見えないほど大柄だ。少年は安堵の表情を浮かべている。
「ああ、よかった、無事だったんだ。本当によかった……」
「この通り、私は何ともないわ。だからもう心配しないで」
 今にも男泣きしそうな少年に、まるで母親のように接する少女。察するに、彼がクリムの言っていた「親切な風剣士」その人なのだろう。
「ちょうどオルディタウンに向かっているっていう人たちに助けてもらったの」
「もしかして、この人たち?」
「そうよ」
「わー、気づかなかった! 失礼しました! クリムを助けてくれて、本当にありがとうございます! 俺、ケネスト=キャトライランドって言います。長いからケンって呼んでくれ」
 ケンと名乗った少年は、シエルたちにそれぞれ握手を求めた。最初の印象通り、人見知りはほとんどしないようだ。
「荷物を運んでいたようだけど……」
 伺ってみると、ケンの表情がはっきりと沈んだ。
「あれは荷物じゃなくて、人だよ。死んだ人。死んでしまった人たちを、いつまでもあの狭い教会に入れておくわけにはいかないから、死んだらああやって外に運んでいる」
「で、中にはどれくらい患者がいる?」
 今度はプライムが尋ねた。今までシエルたちと行動を共にしていたクリムよりも、たった今教会から現れたケンの方が、より正確な情報を知っているはずだ。
「うーん。最初は二百人くらいがひしめき合ってたんだけど、今じゃめっきり減ったなぁ。ざっと見ても百人はいない」
「そうか、すまんな」
 その時だった。ケンが突然、激しく咳込みはじめた。
「ケン!」
 すかさずクリムが駆け寄る。止まらない咳が、屈強そうな少年の膝を折る。ケンは咳の合間に「大丈夫だ」と言っているものの、今この場所で咳込むということの意味を、この少年も分かっているはずだ。
「俺の身体は頑丈なんだ、こんなことくらいで死にはしないよ」
「馬鹿を言わないで。こんな雨の中じゃ、身体に毒よ。早く中へ――」
「そっちこそ馬鹿言うな。あんな締め切った場所にいたくないし、何より俺はまだ動ける」
 ケンは咳込みながら、先ほど落とした死体を再び担いでどこかへ行った。その後ろ姿を見送りながら、クリムは「三日」とつぶやいた。
「あの咳が出て、保っても三日なの」
 咳は、彼らにとって三日という猶予を突きつける死の宣告なのだ。そうやって死んでいった人たちを、クリムは数え切れないほど見たのかもしれない。何をやっても、どう対応しても何も効かなくて、何度も絶望しかけたのかもしれない。シエルは、ただ呆然とケンの去った方に目を向けるクリムの肩を、そっと抱き寄せた。
 そんなシエルたちの前に、別の人影が現れる。シエルたちに近づいてくる人物は、クリムと似た服をまとった男のようだ。彼がクリムの言っていた、メーレという医師なのだろうか。彼はクリムを認めると、雨水をはじきながら駆け寄ってきた。
「クリム!」
 その声が耳に飛び込んできたその瞬間、シエルはとてつもない胸騒ぎに襲われた。まるで身体中の血液という血液が凍てついたかのようだった。



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