アルネトーゼ

#06.病苦


 心臓が激しく打ち付けられる。それは、血がドロドロになったかのような、ゆっくりと大きな鼓動だった。
「クリム、心配いたしました。この方たちは?」
「道中、私を助けてくれた恩人です。左から、プライムとラスタとシエル」
「ああ、そうだったのですね」
 この温厚そうな出で立ちの茶髪の男が、正しくクリムの言っていたメーレという先輩医師なのだろう。先ほどの動悸の名残なのか、シエルには二人の会話がどこか別の世界で行われているかのごとく、遠くに感じた。
「クリムを助けてくださって、本当にありがとうございます。彼女の薬草の知識は、それは素晴らしいもので、いてくれると三人力なのです。申し遅れましたが、僕はメルレニア=ファウストと申します。長いのでお気軽にメーレとお呼びください」
 メーレはラスタたちと握手を交わした。メーレと名乗ったこの男は、きっとものすごく親切でいい人なのだろう。なぜならクリムが懐いているからだ。そうとは分かっていても、動悸が抑えられない。もしかすると、どう頑張っても好きになれない人物の一人かも知れない。自分でそのような結論を出したシエルは、メーレと目が合い気まずくなった。
「大丈夫ですか? お顔の色が優れないように見受けられますが……」
「問題ない。この雨だからね、疲れたんだろう」
「そうですか。それならよいのですが」
「そんなことより、中の患者を診ていなくて大丈夫なのか?」
 ありがたい。プライムに助け船を出した気はさらさらないだろうが、シエルはプライムに勝手に感謝した。プライムの指摘にハッとしたメーレは、シエルたちに頭を下げた。
「そうですね、こんな状態だというのに、危うく医師としての役目を忘れるところでした。クリム、行けますか?」
「ええ」
「待て。俺たちにあんたを手伝えそうか?」
 なんと勝手なことを言いだすのか。シエルはプライムの申し出に苦虫を噛み潰した表情を隠すことをしなかった。確かに状況をより詳しく知ることがプライムの任務だろうが、シエルを巻き込むのは勘弁してもらいたいところである。こんな雨が鬱陶しい場所は、すぐにでも立ち去りたいものだ。
「ああ、願ってもない申し出ですね。僕もそちらさえよければ、ご助力願えないかと頼もうかと思っていたところなのです。今は猫の手も借りたい状況ですしね。では、一緒にいらしてください。まずは状況を確認していただかなければ」
 プライムは厳かにうなずき、教会へと向かうメーレに付いて行った。シエルもここで立ち尽くしている場合ではないし、このまま雨に当たり続けるのも嫌なので、仕方なくそれに従うことにした。
 石造りの教会の中には、咳の音が無数に反響していた。もともと天井は高く放射線状になっており、音を響かせる構造になっているようだ。足を踏み入れた時、かすかに鉄の臭いがしたことから、クリムの話を思い出すかぎりでは、吐血した人もいるのだろう。それもたくさん。
 教会は広く、百人程度なら余裕があるようにも思われた。しかしケンの話によると、もともとは今の三倍の人がここに収容されていたはずだ。それがどれだけ劣悪な環境かは想像に難くない。
 クリムはカバンの中から、旅籠で購入したハーブを半分ほど出し、残りをカバンごとメーレに渡し、自分は患者たちの中へ入っていった。その後ろ姿を見届けて、メーレはシエルたちに向き直った。
「この教会は高台にあるので、もともと雨季になると洪水を起こしやすい町の避難所になっていました。ですから、このように建物自体は広く場所がとられています。しかし皆さんもご覧になったように、町が完全に水没することなど、未だかつてありませんでした。比較的高い場所に住んでいる人はここまで避難する必要がなかったのですが、大洪水のために、この教会もすし詰め状態になってしまったのです」
 そこに頃合い悪く病が流行した。蔓延してしまわないうちに人々を分散させようと考えはしたものの、外はこのような豪雨――そんなところへ弱っている人たちを追いやるわけにはいかない。しかし感染経路も、人体のどの器官に何が侵入しているかも、さっぱり分からなかった。
 その上、想定外の避難民の多さや、雨の長さも相まって、薬やハーブだけでなく、食料も不足した。商人もここへは寄り付かなくなってしまったので、クリムをセルナージュへと向かわせることにしたのだ。クリムは若いながらハーブの知識が豊富で、的確なハーブを買ってくるため適任だった。しかし彼女に無理をさせていたことも知っていたので、なかなか帰ってこないことを心配していた。そんな時に、クリムはシエルたちと出会ったようだ。運よくハーブや食料なども調達できたことだし、一安心――というわけにもいかないのが現状である。
 そのようなことを一気に話し、メーレは少し疲れたように深い溜息を吐いた。そんなメーレに、ラスタが質問を投げかける。
「クリムは喉に炎症が見られなかったと言っていましたが、侵入しているらしい何かも認識できない状態なのですか?」
「はい。原因さえ分かればそれに見合った痛み止めのまじないをかけることもできますが、分からないのでそれもかないません。ハーブは他の症状を誘発しないようにするために使っているだけですね」
「なるほどな」
 プライムが顎に手を当てて唸った。
「俺はもう少し様子を見る。情報が乏しい」
 そう告げたプライムはマントを翻し、患者たちの中へ消えた。ラスタは「私はおとなしくしておいた方がよさそうですね」と苦笑いを浮かべている。
 自分も何かした方がいいのだろうか。怪我の応急処置くらいならできるが、それがここで役立つとは思えない――そんなことを考えていると、メーレに声をかけられた。
「シエルは、僕と一緒に来ていただけますか? 道具の整理を手伝っていただきたいのですが」
「ああ、お安い御用だ」
 メーレと二人きりになるのかと思うと足が重くなったが、ここで何もせずにボケッとするよりはいいかもしれない。シエルは心を決め、軽く礼を言って歩き始めたメーレに付いて行った。
 行きついた先は小部屋だった。普段は何に使われているのか知らないが、今は薬などを補完するのに利用しているらしい。部屋に唯一ある古ぼけた大きな木の棚にたくさんの道具や薬が置いてあった。メーレは中央の木製テーブルに、クリムから受け取ったカバンを無造作に置いた。喋り方からメーレを几帳面な人物であると勝手に判断していたシエルは、その行動を意外に感じた。いや、もしかしたら整理する道具というのは、そのカバンの中身かも知れない。
「で、そいつをどうすりゃいい?」
 さっさと苦手な人物との気まずい空気をなんとかしたく尋ねたものの、メーレはそれには答えないどころか、こんなことを口にした。
「ようやく二人きりになれましたね、アルネトーゼ」
 シエルは驚愕のあまり目を見開いた。最初に見たメーレの温厚そうな表情が嘘のように、冷たい氷のようだ。しかし〈アルネトーゼ〉は偶然かも知れないと考え、すぐに平静を装った。
「あたし、そんな長たらしい名前じゃないよ」
「とぼけなくても構わないのですよ。僕はずっとあなたを、あなただけをお待ちしておりましたから」
 その言葉は、確かにシエルに向けられていた。

★☆★☆

 仕方のないことだ。この豪雨で音が邪魔され、幽かな音が拾えない。教会の中でさえ。こういう時は、何もしないに越したことはないのだ。
 ラスタも本当は何か手助けをしたかったのだが、全く知らない場所で、頼りの耳も使えない状況で申し出たところで、足を引っ張りこそすれ、力にはなれないだろうと踏んでいた。そんなラスタに、咳込みながら男性が声をかけた。
「目が見えないのですか?」
「ああ、はい。この雨なので、非常に不便ですね」
「そうなのですか。あなたも大変な人生を歩んでおられるようですが、悪い時にここへ来たものですね」
 男性曰く、普段は穏やかな気候に恵まれ、洪水に見舞われるのは年に数回、それも決まった季節だけらしい。だからその季節になれば町人は皆で対策を取り準備をする。けれどこの洪水は季節外れで、前代未聞の被害を町にもたらしている。病気が治ったならば、町の復興が大変だと、男性は楽しそうに話していた。
「この町が好きなのですね」
 ラスタは率直な感想を述べた。「そうだな」と男性は答えた。
「町、というよりは、皆で一緒にそれぞれ何かをつくる、ということができることが好きなんです。おっかない人も、おかしな人も、優しい人もいろいろいるけれど、〈つくる〉というただその一点において、この町では互いを尊重しますし、尊敬しております。そのために町が必要で、そのために町が好きなのです。もうかなり死んでしまいましたがね」
「そうなのですね」
「時にあなたは、ラスタさんではありませんか?」
「おっかなく見えますか?」
 苦笑したラスタに、男性は首を横に振る。
「皮肉にも剣の腕の方が有名になってしまったところまでは存じ上げておりますが、この町の人間には、あなたの歌声を知っている者が多いのです。優しい歌だと話は聞いております。そんな歌なら、私も一度でいいから聞いてみたい」
「……分かりました」
 こんなところで歌うことが、果たしていいことなのか――それは分からないけれど、ラスタは隣にいる男性の願いを叶えたいと思った。そんなささやかなことで叶う願いならば、叶えたい。ラスタは立ち上がり、歌った。ここにいる人たちが希望を持てるような歌を選んだ。ラスタの歌は専ら古代語で、聞いて内容や意味を理解できる人はほとんどいない。それを伝えることができるのは、歌に込めた祈りや願いを届けようという想いだけなのだと思っている。そうでなければ、ラスタの歌がアルネトーゼに響くはずがなかったのだ。
 歌い終わると、教会の中で動ける人たちが一斉に拍手を送ってくれた。希望を届けられたのだろうか。そう思いながら一礼して座ると、男性がラスタに声をかけた。
「ありがとう。噂に違わぬ、素晴らしい声でした」
 その声は震えていた。ラスタはそこでようやく、微笑みを浮かべた。
 そんなラスタの許に、何者かが近づいてきた。知っている人物だ。
「今の歌で確信したよ。あんた、盲神ラスタだよな」
 苦しそうに咳をするその声は、ケンのものだった。
「そのように名乗ったことはありませんが、間違ってはいません」
「なあ、ラスタ、あんたたちは信用できる。それにあんたも無関係じゃない。そう思ったから話す」
 ケンはラスタの二の腕をがっしりと掴み、ラスタにしか聞こえないよう囁き声で話し始めた。
「俺、見たんだ。メーレが怪しい覆面と会うところをさ。そんで、聞いちまったんだ。メーレは、シエルを足止めするためにここを利用している」
 衝撃的だった。ラスタは思わず「それはどういうことですか」とケンに尋ねた。
「メーレの狙いはシエルだ。だからシエルがここに来ちまって、シエルの名前を知って、内心ドキドキしてた。俺はその話を聞いたから、クリムとは行かずにここに留められたんだ。それでクリムと離された」
「その根拠は?」
「根拠なんか分からないよ。ただ、どうしてクリムとメーレと俺が発症しなかったのかを考えたら、原因はこのうちの誰かの可能性だってあるだろ? で、俺は見ての通りだからここから外れる。いや、人間にそんなことできるのかは知らないけどさ」
「もしかすると、それは的を射ているかもしれません。それから、シエルを足止めすると言っていましたが、その時に〈アルネトーゼ〉という言葉を聞きませんでしたか?」
「悪い、そこまでは覚えてない」
「いえ、ありがとうございます」
 ケンの言葉を鵜呑みにするわけにはいかないにせよ、こうなるとシエルの身が心配だ。それに、覆面の人物とはラスタの妹のことではないだろうか。はっきりしていないけれど、十中八九メーレの狙いはアルネトーゼだ。
 ラスタは立ち上がり、壁伝いに歩いてシエルを捜した。ラスタを心配してか、ケンもラスタの後ろをついてきた。

★☆★☆

 シエルが彼に抱いていた苦手意識は、このことを警告していたのかもしれない。シエルは今さらながらにそう思った。本当に今さらだ。
「復讐者、か」
「はい。分かっているのであれば話が早い。アルネトーゼ、どうか僕と来てください。そして世界を理想の形へと変えましょう」
「そんな力はないよ。大体、世界を理想の形に変えるのに復讐者ってのは、物騒だよな」
「そうかもしれません。ですが、それが僕の復讐ですから」
「まあ、あんたの復讐なんざ知ったことじゃないけどさ。じゃあもしかして、この病気はあんたの仕業か?」
 それは馬鹿げた仮説かもしれない。そう思ったが、メーレの冷たい微笑みがシエルの言葉を肯定していた。
「クリムは? あんたのこと心底慕ってるじゃないか。あいつもグルなのかよ?」
「そうですね、クリムは僕のことを本当に慕ってくれています。けれど――だからこそ、僕の道に彼女を連れていくことはできませんでした。僕は自分のしていることが間違っているとは思いません。いかに血塗られた道であっても。でもクリムには、血塗られた道は似合わないんです。あの子には、素直で、綺麗なままでいてほしい」
 メーレもまた、クリムを愛しているのだ。自分が何をしているのか、自分のしていることに対して正しい正しくない以前にどういう感情を抱いているのか――それを自覚した上で、彼はこのようなことをしているのである。
「そうか。心底すごいと思うよ。何が原因だか知らないけど、腹が立ったから世界を変えようなんて思いつかないね。世の中の不条理や理不尽に対してヤケ酒するだけだ」
「僕と一緒に来てくれるのですね」
「おいおい、それとこれとは話が別だ。あたしは自分が一番可愛いんだ。あたしには用のない復讐者とやらにおいそれと生命を渡すほど、自分を粗末にしちゃいないよ。だからどうしても連れて行くってんなら、全力で抵抗する」
「それは残念です」
 大して残念そうでもないメーレが、素早い勢いでシエルに飛びかかってきた。シエルはすかさず跳びのいた。メーレの右手には、光るものが握られている。ナイフだ。
 ――いつの間に。虫も殺さない顔をして、やってくれる。
 ヒュッと軽快な音を立て、メーレのナイフがシエルに襲い掛かる。シエルもこの狭い部屋で逃げる一方で、分が悪い。仕方なく隙を見て腰のダガーを抜いた。
 金属がぶつかり合う高い音が幾度となく響く。メーレの太刀筋は鋭く、重みがあった。男女の力のさもあるからかもしれない。素早いシエルにも負けじと素早く動いていた。
「なんだいあんた、医者なんかじゃなくて盗賊の方が向いてるんじゃないか? うちには来なくていいけど」
 防ぎながら、強がりな台詞を口にした。それも鼻で嗤われた。
「生憎、僕には良心が残っていますので」
「へえ、良心が残ってるから、町ひとつ滅ぼすような大人げない真似もするのか」
 防戦一方のシエルには、考える余裕などなかった。シエルの耳が、扉の開く音を拾う。無意識のうちにシエルはそちらへ意識を奪われた。
「何を、やっているの?」
 少女の、クリムの声。その声を聞いたのと、腹部に鋭い衝撃が走ったのは、ほとんど同時だった。シエルはクリムの姿を確認する前に、意識を手放した。


 息が止まるかと思った。慕っている先輩医師が、シエルを気絶させる瞬間を目撃した。しかもその手にはナイフが握られている。クリムには信じられない光景だった。ただ道具を取りに入った部屋で、そのような光景を目にすると予想できようか。メーレはとても優しくて、温厚な人なのに。状況が呑み込めず、いや、信じることができずに、クリムは恐る恐るメーレに尋ねた。
「シ、シエルがメーレに何かしたの?」
 もしかしたらメーレに危害を加えようとしたのかもしれない。シエルの鋭い面差しは、実は初めて会った時からクリムも警戒していたし、そういうことがあっても不思議はない。いや、メーレが治療目的以外でナイフを手にし、女性を気絶させたということ以上に不思議で不可解なことはないだろう。
「いいえ。彼女は何もしていません。彼女がただの盗賊であれば、ここに盗みに入りでもしない限り、僕がこのようなことをする必要はありません」
 正論だ。同時に、シエルがメーレにとって何か特別な意味を持つ人間なのだと理解した。
「シエルは一体……」
「彼女はアルネトーゼです。僕はアルネトーゼを迎えるために、ここに来ました。僕がここにまき散らした病は、彼女を呼び寄せるための餌にすぎないのです」
 アルネトーゼ――リーフムーンで育ったわけではないクリムには耳慣れない言葉だ。しかし状況が状況なだけに、決して良い印象を与えるものではなかった。それに、病の原因がメーレとは、それが事実かどうかはともかく、果たして人間にそのようなことが可能なのだろうか。
「まき散らしたって、それは、どういうことなの?」
「まじないです。普段、僕たちはまじないを、人を救うために使いますが、今回は人を殺すために使いました」
「じゃ、じゃあ、この雨は……?」
 目を見開いたクリムには、ユーノの声が、自分の声さえ遠かった。
「それも偶然じゃないとやっぱり思いますか。そうです。僕にはアルネトーゼという、目的を同じにする仲間がいる。彼らの力を借りました」
「なぜ……どうして……、どうしてこんなことを……」
「僕はずっと疑問に思っていたし、許せなかったんです。ただ人を助けたいと思い、ユイと共にホワイトクロスを立ち上げたのに、あの組織が小さな村に医師を派遣することはだんだんと少なくなり、ついになくなってしまいました。人を助けるための組織なのに、組織が大きくなるにつれ、お金のことしか見なくなったんです。僕はそれが許せなかった。だからいつも、自分で歩いていました。けれど、これが限界です」
 クリムはずっとメーレと一緒にいた。メーレが行くところにクリムも赴いた。いつも行く先は、小さく貧しい村だった。だから淡々と話すメーレの言葉を受け取るのに時間がかかったけれど、もしそれが本当であれば、クリムでも組織を許せないと思った。そのために病をまき散らしたユーノのことも。人を助けたい――それはクリムの願いでもあるからだ。
「助けられないから殺すの? いいえ、確かにそれが必要な時もあるかもしれない。でも、それが町をひとつ沈める理由にはならないわ、絶対に」
「そうですね、クリムの言う通りです。クリムの言うことは、まっすぐで正しい。けれど、こうでもしないと団長には届かないでしょう。僕は何度も抗議した。言葉で、行動で抗議したけれど、何も伝わらなかったから、これは最後にして最悪の手段だ。……最後にしたい」
 メーレの言葉がクリムに絶望を呼ぶ。メーレが虐殺を行ったという事実、ホワイトクロスが弱者を見捨ててきたということ――そのどちらもが、クリムのたった一つの願いを激しく揺るがす。
「そのためにアルネトーゼが必要でした。シエルたちが来る前に誰かに知られるわけにはいかなかった。だから異常の原因に気付いたケンはクリムから引き離しました。病に罹らせるためには、三日は僕の目の届く範囲にいてもらわなければならなかったので」
 なぜだろう。淡々と話すメーレを許せないという気持ちは確かにある。けれど、メーレの言葉に同調する自分もいる。これは決して許されないことだ。生きている人の日常を突然奪うだなんて、そんなことは許せない。けれどクリムがメーレと共にあった十年間は、メーレの優しい面や、病に対する怒りを見せても、冷酷さは見せなかった。助けられなかったことへの悲しみや悔しさ、憤りの背中は見せても、生命への冒涜や蔑みは見せなかった。メーレは真面目で優しく、全ての生命を愛する人だった。それを偽りだとは、クリムには思えない。だって、だとしたらなぜメーレは、クリムを連れて小さな村々を渡り歩いたのだろうか。全てが真実だとすれば、そんなメーレの苦悩に気付くことができなかった自分のことが許せなくなった。気づけば何かができたというわけではないにしても。
「メーレ」
 あなたを一人にしたくはない。そう言いたかったけれど、メーレの冷たい目に怯んだ。
「ごめんなさい、クリム。あなたといた十年は楽しかったけれど、あなたも知りすぎてしまった。これからずっと僕といるわけにもいかないでしょう」
 メーレが手の中の光るものを振りかざす。これで私は死んでしまうのだ。メーレに殺されるのであれば受け入れよう。受け入れたつもりだったけれど、刃がかする寸前で避けた。こんなところで死にたくない、怖い、生きたいという、ただその一心だった。しかし次々繰り出される攻撃から逃げるうち、気づけば背中にひんやりとした硬いものが触れた。壁だ。もう逃げ場がない。これで終わりなのか――そう思って目を閉じた、次の瞬間。
「うぐっ!」
 メーレが何かに衝撃を受けたかのように止まった。クリムが目を開けると、彼が口から血を吐いた。その腹部から、鉄板のように大きく平たいものが突き出ていた。赤く染まった先端からメーレの血がしたたり落ちる。後ろから貫かれたのだろうか。彼は徐に振り返ると、消え入りそうな声を発した。
「あなた、か……。やはりあなたが、僕の邪魔をするのですか……」
 そのままメーレはがっくりとうなだれた。生命のにおいが消えた。同時に、メーレを貫いていたものが引き抜かれ、支えを失ったメーレの身体はうつ伏せに倒れた。クリムはメーレの背後にいた男の顔を見て、目を見開いた。
「あなた……」
 彼は、クリムがオルディタウンに来てからずっと側にいた大男だった。彼こそがメーレに止めを刺したのだ。鉄板のような、大きな剣で。
 ケンは立っているのがやっとだったのか、大剣を杖代わりに、地に膝をついた。彼もまた発症していたのだから、無理もない。
「間に合ったみたいで、よかった。本当によかった」
 ケンはほっと胸をなでおろしたように微笑んでいた。それとは対照的に、クリムは壁に預けていた背をずるずると滑らせ、力なく床に座り込んだ。虚ろな黄土色の双眸から、静かに涙が零れ落ちた。

★☆★☆

 雨が止み、長らく厚い雲に覆われていたオルディタウンに光が射しこむ。しばらくすれば水も引いていくだろう。シエルは夜を明かした教会で、自分が倒れている間に起きた出来事を聞いた。衝撃的に思うと同時に、やはりという妙な納得感もあった。ラスタとプライムがクリムと合流したのは、まさにメーレが事切れた直後だったようだ。
 朝を迎えたシエルを驚かせたのは、あっという間に全快したのをいいことに、見るからに重そうな大げさな鎧姿をしたケンだった。額には赤い鉢巻を巻き、背中に厚い生地の真紅のマントを垂らしている。そして子どもの身の丈ほどはありそうな大剣の手入れをしていた。病に罹っていた時でさえあの剣を持つことができたのだから、かなりの力持ちだ。
「も、もういいのか?」
「ああ、バッチリだ!」
 あまりの元気さに、シエルの方が圧倒された。すぐさまオルディタウンを出ようとしているらしい。呆れたシエルは、側でせっせと荷物の整理をしているプライムに尋ねた。
「調査とやらはもういいのか、プライム?」
「ああ、早馬ならさっさとセルナージュに向かわせたからな」
「仕事が早いね。それで、結局ここは黒だったけど、終わってみたら何もなかったな。次の宛はあるのか?」
「今のところは、そういった情報も入らんしなぁ。どこへ行ったものか」
「困ったもんだ。クリムはこれからどうするんだ?」
 正直なところ、クリムはあれだけ慕っていたメーレの裏切りや死に対してかなり参っているのではないかと思っていた。だが、彼女の相変わらず淡々とした態度から、そのような様子を伺うことはできない。
「シェリングへ――ホワイトクロスの本部へ行きます。このことは、ちゃんと団長に報告しなければならないから。それに、私から団長へ尋ねたいこともある」
「じゃあ、護衛は俺がする!」
 ケンがクリムに飛びつくような声や仕草は、犬を彷彿とさせる。小柄なクリムに、重い鎧を身につけた大男が飛びついてはひとたまりもないだろうから、さすがに実際に飛びつくようなことはしない。
「ありがとう」
 口許に微妙な分かりづらい弧を描いたクリムの隣で、荷物整理が一段落ついたプライムが何か思いついたのか、大きく手を叩いた。
「よし、では俺たちも一緒に行こう! どうせ次の宛もないし、とりあえずシェリングに向かってみればいい。それにメーレ個人とはいえ、ホワイトクロスが復讐者と接触していたのは事実だからな、警戒に越したことはない」
「そうね……」
 クリムが顎に手を当て、プライムに告げた。
「団長なら何かご存知かもしれないわ、アルネトーゼのこと」
「クリムはいいのか? 一気によく分からない集団の仲間入りみたいになっているが」
 眉間に皺を寄せて尋ねるシエルに、「目的が果たせるのであれば、特に問題ない」とクリムは答えた。
「では、しばしの間よろしくお願いいたします、クリム」
「ええ、こちらこそ」
「で、シェリングまではここからどれくらいあるんだ?」
 大陸のことはからっきしのシエルが呑気に尋ねると、ラスタが人差し指を立てて説明した。
「シェリングは、ここから東のマイカ山脈を越えてさらに東――つまり国境を超えた先の、ウェスパッサ連合王国になります。最もリーフムーン寄りの公国なので、山越えにどれくらいかかるかにもよりますが、遅くとも二週間程度で着きます」
 ということは、リーフムーン王国から出るということだ。その事実はシエルの脳内にゆっくりと落ちていき、ようやく理解した時、驚愕のあまり叫んだ。
「でええええ!」
 シエルの叫びはまさしく、遠くマイカ山脈から跳ね返ってきた。



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