アレスティオの花嫁

第二章 激動の一日

  3


 朝日に瞼を貫かれ、目を覚ます。いつもよりすっきりと目が覚めたのは、今日が特別な一日だからだろう。しかしリクよりも先にサイが起きており、なんとすでに身支度を済ませていた。
「気が早すぎないか?」
 苦笑いを向けると、サイは勝ち誇ったように笑った。
「お前が寝坊助なだけだ」
「でも、まだ時間にはかなり余裕があると思うけど」
「そんなことを言っている間に、時間なんてのはあっという間に過ぎていくんだ。それに今日は特別な日だ、入念に確認しておいて、確認しすぎということはないだろ」
「それもそうだ。俺も早く支度するよ」
 何度も自分で変なところがないか鏡に映る姿を確認し、サイとも互いにおかしなところがないか指摘し合い、それでも少しずつ出てくる問題点をひとつずつ潰していると、サイの指摘通り時間はあっという間に経過した。
「じゃ、そろそろ行くか。さすがに完璧だろ」
 サイは先に部屋を出ていった。リクも慌てて後を追おうとするも、視界に金の刺繍を施された小さな袋が飛び込んでくる。
「あっ、お守りを忘れるところだった」
 テーブルの上には、ロスタムからもらったお守りがふたつ置いてある。ひとつは当然、サイのものだ。サイが忘れているのか、わざと置いているのかは分からないので、自分の分だけ手に取り、サイの分はそのままにしておいた。


 集合場所へ行くと、すでに三人の見習い騎士たちがいた。顔と名前くらいしか知らない者たちだったので、ロスタムとは違う人物のところで学んできたのだろう。
「俺たちもかなり余裕を見て来たのにな」
 などと、サイは悔しそうな様子だった。
 程なくしてロスタムと、ロスタムと同じ格好をした細身で長身の顔色の悪そうな騎士がやってきた。顔色の悪そうな騎士が、おそらく三人の見習い騎士たちの指南役をつとめていたのだろう。
 ロスタムは軽く挨拶をし、リクとサイをじっと見た。
「おや、髪留めが少し歪んでいますね」
 ロスタムが指摘しながら、サイの髪留めを少しずらす。サイの顔をのぞき込むと、たいそう嫌そうに唇をとがらせていたので、リクはつい噴き出した。サイの目が鋭くリクを睨むが、ロスタムに「あなたもですよ」とあっさり手直しされた。
「しかしリクもサイも、当初は髪を結うことも満足にできなかったことを考えると、感慨深いものがありますね」
「ロスタム様は多くの騎士たちを育ててきたと聞いております。それでもそのように感じなさるのですね」
「当然です、リク。確かに私は何人もの見習いたちを育て上げ、騎士に任命される姿を見送ってきましたが、それぞれに個性があって、一回一回が違う経験なのですよ。リクを騎士に拾い上げたのは私も同然ですし、なおのことです」
「へへ、そうですね」
「ふたりとも、緊張するでしょうが、昨日まで練習してきたことをしっかり思い出して、任命式を無事に終えましょう。なに、多少失敗しても大丈夫です。その程度で任命が取りやめになるということはありませんから」
 さすがに奇行に走ればその限りではありませんが、などと、ロスタムにしては珍しく冗談を口にしており、リクもサイも笑っていいのやら悪いのやら、よく分からないまま微妙な笑みを張り付けた。
「あっ」
 唐突にサイが声を上げる。どうしたのかとサイを見ると、サイは懐のあたりを服の上から抑え、リクに困った顔を向けた。
「リク、俺、お守り忘れちまったよ」
「わざと置いてるのかと思って、声かけなかった。ごめん」
「教えてくれればよかったのに。ま、仕方ないか。次から気をつけよう」
 タイミング良くロスタムから声をかけられ、さすがのリクもサイも緊張感を持って部屋から出た。案内された会場に行き、用意された席に着席する。
 そして任命式が始まった。この日、正式に騎士になるのは、リクとサイを含め、5人だ。春の任命式ではもっと多くの騎士が登用されるが、夏に登用される人数は少ない。それでも、この日は多い方なのだと、ロスタムが言っていた。
 先に呼ばれたサイを見守りつつ、バルディアーにも視線を向ける。その奥には、エルフリーデの姿。エルフリーデはどんなときでも美しいが、今日はよりいっそう美しく見える。今日が特別な日だからだろうか、いや――。
 サイが先に剣を授かって戻ってきた。他の人たちに分からない程度に、授かった剣を自慢げにリクに見せつけ、嬉しそうに笑うサイに、リクは笑顔を返す。
「リク、前へ」
 司祭に言われ、リクは改めて背筋を伸ばし、バルディアーの前へ出た。談笑しているときとは全く違った、凛とした空気を纏うバルディアーの前にひざまずきながら、この人が王なのだなどと再認識した。
「そなたに戦いの女神デューカの祝福と、竜の加護のあらんことを」
 騎士が持つとされる立派な剣を授けられる。恭しく頭を垂れ、両手で剣を受け取り、持ち場へと戻った。何度も練習した一連の動作だが、いざ《王》を目の前にするとかなり緊張していたようで、今更ながら心臓が強く脈打ち、汗がじわりと滲むのを感じた。
「やったな、リク。これで俺たちも、正式な騎士の仲間入りだ」
 サイが肘でリクをこづき囁く。
 それが少しずつ実感でき、リクも嬉しくなった。少年だった頃、父親と一緒にエルフリーデと旅をして、できることなどほとんどなかったリクにとって、エルフリーデを直接ではないにしろ守ることができるということは、エルフリーデの為に働けるということは、とても誇らしいことだ。
 そう、エルフリーデだ。なんだかいつにもまして表情が曇っているように見える。
「なあ、サイ、エルフリーデ様、元気がないように見えないか?」
「そうか? いつもとそんなに変わらないように見えるけどなぁ。エルフリーデ様、お美しいとは思うけど、あんまり表情は分からないんだよな。まあ、リクがそう言うのなら、そうなんだろうな。でも、そういう話も俺以外にしたら大変だぞ。不敬罪だ、不敬罪」
 まじめに話したのに茶化されて、リクは「わかってるよ」と唇をとがらせた。
 しかしその心配は胸騒ぎへと変わっていく。何がとは言えないが、様子がおかしいのはどうもエルフリーデだけではないようだ。なんだろう。空気がぴりぴりしているように感じる。これから始まる建国祭とはきっと、それほどまでに緊張感を伴うほど大切な祭りなのだろう。リクはそのように考えることにした。
 そうこうしているうちに、正面に王弟が現れ、声を張っている。
「ここに、五名の新たなる騎士が誕生した。国のため、民のため、陛下のため、あなたがたの活躍を願っている。これにて任命式を終了とする。このまま建国祭を執り行う。竜学者たちはここへ」
 王弟の指示ののちに、竜学者と思しき者たちが竜を一頭ずつ、合計三頭を伴い前に現れた。どれも人より少し背が高いくらいの、小さい竜だ。竜の谷で邂逅した竜の姿を思い出し、リクはしみじみと、あの時の竜がいかに立派な竜だったかを実感していた。
 しかしながら、村にいるころは、ただ声を聞いたり、高い遠い空を飛ぶ影を見る程度の存在だった竜が、こうして間近で当たり前のように見られることに感動を覚える。幸運の象徴をこんな風に見られるのだから、もしかすると一生分の運を使い果たしたかもしれない。厳かな雰囲気の竜をまじまじと見ながら、緊張からなのか、汗がこめかみを伝った。
「それでは、国護りの儀をはじめ――」
 その時、竜が激しいいななき声を上げた。鼓膜を突き破るような声に、顔をしかめる。これも建国祭の一部なのだろうか。
「うわあああ!!」
「サイ!」
 一瞬。ほんの一瞬だった。サイの上半身が持って行かれた。リクと反対の隣にいた新任騎士も一緒に持っていかれた。竜がひと噛みで持って行ってしまった。地面に残されたのは、サイの膝から下の脚と左腕だけで、それはほどなくしてバラバラと倒れた。ここききてようやく、これが建国祭のためのものではなく、異常事態なのだと悟った。
 もしあと一歩右にずれていたら、自分も竜に喰われていた。新たに授かった剣を構える間もなく切り離された左腕を呆然と見ながら、立ち去る竜の声を聴く。
 ついさっきまで冗談を言い合っていた仲だった。騎士になるこの日をずっと夢見ていた友人だった。この国で騎士見習いになったときから一緒にいた相手だったのに、本当に一瞬だった。あまりの出来事に、恐怖で歯がカチカチと音を立てる。身体が金縛りにあったかのように動かない。
 リクにとって竜とは幸運の象徴だった。その竜が、一瞬にして恐怖の化け物へと姿を変える。
 何をやっている。騎士になったのだろう。動け。動かないか。死ぬ。このままでは死んでしまう。
 心の中でどれだけ己を奮い立たせようとしても、足は動かない。しかし竜はそんな様子のリクに目もくれず、別の人間を次々に連れていく。リクの視界が血で赤く染まっていく。
 ああ、あの衣装はロスタムだ。胸から上が袈裟のようにごっそり持っていかれている。断末魔を上げる間もなく喰われたのだろう。リクをジャスティールに置いてくれた、厳しくも優しい恩人が、こんな形で死ぬなどとは。ジャスティールを想い、ジャスティールのために在るべき人物だった。それがこのような、もはや「運」としか言いようのない差で生死を分かつとは。
「皆さん、落ち着いてください! 早くこちらへ避難を! 我々の声に従ってください!!」
 無事だった新任騎士と先輩騎士たちが声を張り上げながら、建国祭の式典に参加している他の人たちを誘導している。その声でようやく、リクも動けるようになった。
 あの人はどこにいるのだろう。混乱のさなか、あの人の姿が見えない。リクはその人の姿を捜した。
「陛下は?」
 走って、あたりを見回して、ようやく、ひとり竜に応戦するバルディアーの姿が見えた。護衛の騎士や兵はどうしたのだろう。バルディアーの周りに横たわっていたり、その一部が転がっていたりしているのがそうなのだろうか。とにかくひとりで戦わせるわけにはいかない。リクは走りながら剣を抜いた。
 しかしあと一歩。リクの剣が竜に届くことはなく、竜の爪がバルディアーの腹を引き裂く。
「陛下!!」
 悲鳴にも似た叫び声が喉を引き裂く。助からない。リクも死ぬ。だめだ、なんとかしなければ。なんとか。
 咄嗟に思い出した。懐からロスタムから受け取ったお守りを出し、竜に投げつける。竜はけたたましいいななきを上げ、苦しそうに身もだえたと思うと、そのまま飛んで離れていった。リクはバルディアーに駆け付け、剣を置いて止血に入った。
「陛下! すぐに人を――」
「よい、助からぬ」
 内臓が傷ついているのだろう。呼吸をするたびにゴボゴボと血が口から溢れ出る。青ざめた顔に苦しそうな様子で、リクは目を背けたくなるのを我慢した。
「民は……」
「騎士や兵たちが避難させています」
「そうか……。リク、我が友よ……エルフリーデを……」
「陛下」
 バルディアーは目を開けたまま、しかしそれ以上話すことも、返事をすることもなかった。ガラス玉のような瞳に、困り果てたリクの顔が映るばかりで、胸も上下していない。このまま王を放って行くべきなのか。このままでは本当に死んでしまうのではないか。すでに間に合わないのでは。リクひとりで判断できるようなことではない。
 しかしバルディアーが言った。エルフリーデを、と。ここはバルディアーの言葉を聞くべきではないのか。それは同時に、リクの願いでもあるのだ。
 刹那の逡巡ののち、リクはエルフリーデを捜しに駆けだした。
 きっとあの姿だ、すぐに見つかる。そして期待通り、エルフリーデの姿はすぐに見つけることができた。こんな時でも美しく輝く銀の髪。
「エルフリーデ様!」
 エルフリーデが振り返る。リクは手を伸ばした。
「こちらへ!」
 エルフリーデは一瞬何かを考えるような仕草をした後、すぐにリクの手を取った。リクはエルフリーデを引っ張り、混乱の中を全力で走った。



<< 前ページ戻る次ページ >>

.copyright © 2011-2023 Uppa All Rights Reserved.
アトリエ写葉