アレスティオの花嫁

第一章 音のない花嫁

  1


 南の山向こうから、かすかに竜のいななきが聞こえる。見上げると、高く澄んだ群青の空に、白い雲の塊がいくつか流れている。今日は何かいいことがありそうだ。少年の額に滲んだ汗が、さらりと鼻筋をつたうのを、手のひらで拭う。汗をかいた肌に心地よく感じる風が黒い前髪を揺らし、土のにおいが鼻を撫でる。小休止に寝かせた鍬を拾うために少年が身を屈めたそのときだった。
「リク!」
 名を呼ばれ、少年は顔を上げた。その先にはバスケットを抱えた婦人の姿があった。
「お弁当、忘れたでしょう?」
「ああ、そういえば」
 朝のことを思い返してみれば、確かに家を出る時に弁当を持った記憶がない。リクは鍬をそのままにして、笑顔で婦人に歩み寄った。
「わざわざありがとう、母さん」
「いいのよ。ちょうどいい時間だし、もうお昼にしなさいよ」
「うん、そうする」
 丁度いい大きさの石に腰掛け、バスケットを受け取り、かけてある布をめくって中にあるサンドイッチを手に取る。「いただきまーす」と口を大きく開けかぶりつくと、新鮮な野菜がシャキシャキと音を立てた。その横にお茶の入った器が置かれる。
「そういえばね、リク」
 リクは咀嚼を続けながら顔だけを母親に向けた。
「あとでマリーさんのところへ行って、ピピルを貰ってきて欲しいのだけど、頼めるかしら?」
 家にあるのがあと少しだから、と母が言うので、リクはすぐにうなずいた。
「もちろんだよ。俺もたくさん使うからね」
 サンドイッチを頬張って空けた手を見てみると、小さな傷があちこちについていた。
 このようなちょっとした擦り傷や切り傷にピピル軟膏を使うと、少し沁みるが傷の治りが早いので、ピピル軟膏には幼い頃からずっとお世話になっている。リクの家はもちろん、村のどこの家にもある常備してある傷薬なのだ。
「じゃあ、今から行ってくるよ」
「お願いね。あ、これも持って行って」
 もうひとつ、小さなかごを渡された。かけてある布をめくってみると、小瓶が三本入っている。中身は赤いジャムだ。
「クランベリー?」
 不服そうに母親を見ると、母親は困った表情を笑ってごまかした。
「帰ったらちゃんとリクの分もあるわよ。くれぐれもつまみ食いしないようにね」
「わかってるって。じゃあ、鍬片づけておいてよ」
「はいはい」
 帰ったらクランベリーのジャムがある、という言葉を胸の中で反芻しながら、リクは軽やかに駆けだした。

 村に並ぶ小さな家々の中で、庭の広い家を目指して走る。リクには雑草にしか見えない草がたくさん生えている庭は、村でも重宝されている薬草師が大切に手入れしている庭なのだ。リクには価値の分からない広い庭を歩いていると、隣の家の大型犬レオが尻尾を振りながらバウバウと吠えてきた。犬は好きだが吠えられるのは苦手で、顔を硬直させながら庭を抜け、玄関の戸をノックする。しかし返事はない。レオの吠え声で来客も分かるだろうし、いつものことなので、気にせずに家に入った。
 大きな窓で自然光がたっぷりと取り入れられた明るい家の中にも、大小様々な鉢が置いてあったり、吊してあったりして、そこにも薬草が生えている。その先にある立派なテーブルの側で、家の主の女性が何かの作業をしている。彼女は仕事に集中している時、あまり物音が聞こえないのだ。リクは彼女に近づき、大きな声で挨拶をした。
「こんにちは、マリーさん!」
「わっ」
 ひとつにまとめたローズブロンドを揺らしながら、中老の女性が驚いたように振り返る。 
「あら、こんにちは、リク」
 マリーはリクの顔を見てすぐに笑顔になった。テーブルにガラス器具や薬草があれこれ雑然と置いてあるのを横目で見ながら、母親から預かったかごをテーブルの隅に置いた。
「これ、母さんから。クランベリーのジャムだって。ここ置いとくね」
「あら、ありがとう。で、今日はどうしたの?」
 マリーは慌ただしく棚の小瓶を手に取ったり置いたりしている。いつものことなので、リクは気にせずに用件を伝えた。
「ピピルもらえないかな? うちのがあと少ししかないんだって」
「ピピルね……」
 マリーは色素の薄い前髪を摘みながら、申し訳なさそうに眉尻を垂らした。
「それが今、ちょうどピピル草を切らしてしまって」
「そこのは違うの?」
「これはお隣のギドさんに頼まれた分なのよ」
「そっか。じゃあ、ついうっかり怪我なんかできないなぁ」
「本当に。って、ついうっかりなんて言って、無限に傷をこさえてこないでほしいんだけど。ピピルだって万能薬ではないのだから」
「はは。じゃあ俺、採ってこようか?」
「あら、いいのかしら?」
 その台詞を待ってましたと言わんばかりの表情である。
「うん。今日やることはだいたい終わってるし、大丈夫だよ。俺もないと困るし。かごは借りていくね。他に取ってきて欲しいものはある?」
「じゃあサルアとペリと……」
「そんなに入らないよ!」
 このままでは無限に押しつけられそうなので、自分が聞いたこととはいえ、マリーの言葉を遮って採取用のかごを背負い、「行ってくる」と背中を向けた。
「気をつけるのよ。リクに何かあったら、あなたのお母さんに顔向けできないんだから」
 心配性のマリーがいつも必ず告げる言葉だ。リクは苦笑しながら、「大丈夫だよ」と答えた。
「分かってますよ。いつも行ってる森だし、さすがに日が暮れる前には戻ってくるから」
「もう。ほら、こっち向きなさい」
 マリーがリクに干した草をすりつぶした粉を振る。これは怪我のないようにと、村から出るときに必ず施されるまじないだ。うんざりしながら黙って受け、終わると「はい」とマリーが背中を叩く。
「行ってらっしゃい、リク」
「行ってきます、マリーさん」
 いつも通りのやりとりをして、一人暮らしにしては大きな家を出て行った。


 森は村から出てすぐ近くにある。その上村から伸びた道が森の中にも通っているので、道に迷うことも基本的にはない場所なのである。マリー曰く、この森は彼女にとって薬草の宝庫なのだそうだ。リクもちょこちょこ薬草の採取を頼まれるので、なんとなく必要な草の知識は増えていった。
「あったあった」
 ピピル草は多年草なので、特徴さえ覚えていれば、見つけるのは比較的容易い。その上群生しているため、ひとつ見つけると採取が非常にはかどる。時々ピピル草によく似た効能の違う草があるらしいのだが、一緒に渡せばマリーが選別してくれるし、当人の言うところには「これはこれで役に立つ」とのことなので、気にせずに摘む。一見するとただの雑草にしか見えない草を、怪我の特効薬と考えた昔の人のことを感心しながら、ピピル草のようなものを摘んではかごに放り込んだ。
 背負ったかごがいっぱいになったところで、リクは採取を切り上げることにした。早く村へ戻らないと、暗くなりそうだ。うっすらと黄色っぽくなった景色を見て、早足で村へ向かった。夜になると、毒を持った虫や、危険な動物が活発になるし、森をよく知る人間であっても迷いやすくなるので、森に入るものではない。
 その途中で何かにつまずいた。地面に手をついたため、危うく転倒は免れた。かごの中身も、少々こぼれはしたものの、無事なようである。ぶちまけたら悲惨だから、それはありがたい。ピピル草を確認しリクは、足許に目を遣った。そこには、横向きに倒れている様子の人間の足らしきものがある。
「あ、すみません。大丈夫ですか?」
 リクは足の主に声をかけた。男のようだ。しかし返事はない。馬車もあの有様なのだ、気を失っているのかもしれない。そう思い、その人物の肩を軽く叩いた。
「もしもし?」
 すると、横向きの身体が上を向き、真っ白な顔と瞳孔の開ききった目がこちらを向いた。
「わっ、し、死んでる……?」
 おそらく肌の白い人種なのだろうが、生きている人間の顔色には見えなかった。
「馬車があんな感じじゃ、無理もないかもしれないな。みんなに言って、弔ってもらったほうがいいよな」
 このようなところで人間の死体を見ることになろうとはさすがに予想もしておらず、リクはまだ激しく鳴る心臓の当たりをギュッと握った。
「他にも誰かいるかもしれない」
 もし仮に生きているなら村に連れて行って何か食べさせた方がいいだろうし、死んでいたとしても、この者と一緒に弔わねばなるまい。そう考え、馬車の辺りを見ていたリクの視界に、何やら白い布が認められた。女性のものと思われる足もある。おそるおそる女性の足に近づく。
「あ……」
 そこには、女性と呼ぶにはまだ幼い、長い銀の髪の少女が横たわっていた。白いまつげの下の頬にも、柔らかそうな唇にも、赤みが差しているように見える。
「もしもし?」
 反応はないが、胸は上下しているようだ。生きている。彼女は生きている。だが力はあれど小柄なリクがひとりで少女を抱えて村に戻ることができようか。自信はない。
「急いで誰か呼んでこよう」
 死んでくれるな、と、リクは全力疾走で村へと戻っていった。



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