アレスティオの花嫁

第一章 音のない花嫁

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 リクの話を聞いたリクの父ルドラが、すぐに力持ちの男を三人伴い、馬車の事故現場へと駆けつけた。あたりはほとんど暗くなっていたし、人を呼びに行っている間に息絶えていたら、という不安もあったが、少女の息はまだあったし、虫の息というほどでもなかった。このような事故であったにもかかわらず、よほどの幸運の持ち主なのだろう。
「頭を打っているかもしれないから慎重にな。お前は脚を持て。せーの」
 少女を木の板に載せた時、髪で隠れていたらしい首元に、繊細な装飾を施された首輪がはめられているのが印象に残った。
「おまえもボサッとしていないで、手伝いなさい」
 ルドラにこづかれ、リクは慌てて他の男たちと、既に生き絶えている人を運んだ。

 慌ただしく動く人々の前に、リクは無力を感じていた。腕力がないとは言わないものの、大の大人たちがせかせかと動いていれば、リクの役目はないも同然だ。マリーがあれやこれやとせわしなく指示を出しているのを聞きながら、母親の待っている家に戻るだけだった。
「あら、おかえりなさい。大変だったわね」
「うん、ただいま」
「ほら、これでも食べて元気出しなさい」
 母はリクの前にパンとジャムを置いた。「今スープを温めるから」ときびすを返した母親の背中を見送り、ジャムを塗ったパンにかじりつく。
「これ、クランベリー?」
 そういえば昼間に母親に用事を言いつけられた際、「帰ったらリクの分もある」などと宥められていたことを思い出した。
「そうよ。あなたが好きだから、ちゃんと余分に作っておいたんじゃない」
「そっか、ありがと」
「父さんはどれくらいかかるか分からないから、食べ終わったらすぐ寝なさいね」
「うん」
 大好物のクランベリージャムも、あの少女のことを考えていると、いつものような甘酸っぱくて幸せな味はしなかった。少女が無事であればいい。昼間に竜の声が聞こえたのだから、きっと無事だ。夕飯を食べ終わったリクは、そう思いながら床に就いた。

 翌朝、白い少女の状態が気になったリクは、作り置きのクランベリージャムを少しくすね、小走りでマリーの家を訪ねた。しかし怪我人がいる状態で、家の中に入って様子を確認するのもはばかられるので、とりあえず立派な庭を抜け、窓から家の中をこっそり覗こうと試みた。しかしそんなリクに、隣の家のレオが塀越しに元気よく吠えること吠えること。「気づかれたらどうするんだ」と思っていると、窓が開き、マリーが顔を出した。
「こんな朝っぱらから誰かと思ったら」
 呆れた様子で、肩で溜息を吐くマリーに、リクは口角をヒクつかせながら笑って見せた。
「マリーさん、おはよう」
「おはよう。で、どうしたの? あの子の様子でも見に来た?」
「うん、まあね」
 答えながら、リクは窓から家に入った。
「まったくもう、来るのはいいけど、ちゃんと玄関から来なさいよ」
「ごめんなさい。迷惑かなって思って、本当は窓から覗くだけのつもりだったんだ」
「気を使ってくれたのね。でも、覗き見はよくないわよ。あの子も年頃のお嬢さんなんだから。そもそもこの窓からじゃ見えないでしょう。それにしても、覗くだけにしては手土産までちゃんと持ってきてるのね」
「ん、うん。手ぶらじゃ悪いかなって」
 リクは左手で喉の皮を摘みながら、クランベリーのジャムをマリーに手渡した。マリーは苦笑しながらジャムを受け取った。
「ありがと。ちゃんと教えてあげるから、もうジャムをくすねてきちゃだめよ」
 指摘を受け、リクは「えっ」と声を上げ目を見開いた。
「なんで分かったの?」
「あんたは分かりやすいのよ」
 黙っておいてあげるけどね、とマリーは微笑んだ。
「リクが昨日見つけてきた子だけど、まだ眠ってるわ。命に別状はないから安心して。リクがピピル草をたくさん採ってきてくれたおかげで、手当の方も問題ないよ」
「そっか、よかった」
 リクは長いため息をつき、その場にへたり込んだ。腰が抜けたと言うのが正しいか。本当によかった。あのまま死んでいたらと思うと、本当に恐ろしかった。
「あの時、リクがピピル草を採りに行ってくれなきゃ、この子もどうなってたか分からないわね。ひとりでいつまでもあんなところに倒れていたなら……」
 ぞっとした。リクが行ったときはまだ日があったからよかったものの、ひとたび日が暮れると、何が起きるか分からない。だからひとりの時に夜の森には近寄らなかったし、そもそも夜に森に行くという発想がリクにはなかった。やはりあの時急いでルドラを呼びに行ったのは、正しい判断だったのだ。
「それにしても、ルドラさんから聞いたのだけど、馬車が壊れてたのよね? それで軽い捻挫やかすり傷程度で済んだのだから、運が良かったのかもしれないわ」
「それだけだったの?」
 マリーは小さくうなずいた。
「荷物が緩衝材にでもなったのかしらね。今日のお昼ごろには、その荷物を回収しに行くってルドラさんが言ってたわ。気になるなら手伝ってきなさい。この子も随分上等なものを着ているし、お金持ちのお嬢さんなのかしら」
「そりゃ、あんな立派な馬車なんて使ってるんだから、お金持ちはお金持ちなんだろうけど」
「それもそうね」
 とにもかくにも、少女の様子を聞いて安心できたので、もはやマリーの家に用事はなくなった。リクはマリーに白い歯を見せた。
「じゃあ、そろそろ父さんの手伝いに行ってくるよ」
「はい、行ってらっしゃい」
 リクは小走りで、昨日少女を最初に見つけた場所へと向かった。


 森の現場に到着すると、リクの姿を認めた父が左手を挙げた。
「おおリク、何してるんだ。大物はあとこれだけなんだ、手伝ってくれ」
 慌てて駆け寄り、馬車の天板のようなものを一緒に持ち上げ、横にどける。露わになった荷物は、確かに少女は良家の出身であろうことが想像された。何せ触り心地のなめらかな布や、細かい刺繍のもの、きらきらした装飾品や置物などがあるのだ。事故の衝撃で壊れてしまったものもあるようだが、壊れてもなお、気品のようなものを感じさせるものばかりだった。
「粗末に扱うんじゃないぞ」
「わかってるよ」
 世間のことをよく知らないリクにさえ、やんごとないものだと分かるようなものを粗末に扱えるはずがない。
 天板に荷物を載せ、男たちと協力して、一気にマリーの家の庭まで運んだ。
「リク、これをそっちに持って行ってくれ」
 父親の言いつけ通り、少女の荷物とおぼしきものをマリーの家に運んでいった。するとそこに、あの白い少女が立っているではないか。長く柔らかそうな銀の髪が風に揺れ、日の光を受け輝いている。リクは荷物を持ったまま、少女の銀の髪をじっと見ていた。すると、レオがリクに向かって尻尾を振りながら吠えた。レオの吠え声に、少女がはじかれたようにこちらを向く。
 白い肌に、頬と小さな唇の赤みが目を引いたかと思えば、リクを射抜く少女の新緑の虹彩の美しさに心奪われた。ガラスのように透き通る虹彩は、春の日の草原や森の木漏れ日を彷彿とさせる暖かさを湛えている。吸い込まれそうなまでの美しさに、リクは時を忘れた。
「あら。エルフリーデさん、少し騒がしくなると思うから、部屋に入りましょう」
 マリーが少女の肩に触れ、少女は小さくうなずき、マリーに促されるままに、部屋へと消えてしまった。溶けるような後ろ姿に見とれていると、遠くからおぼろげながら、自分を呼んでいる声が聞こえるような気もする。
「……ク、リク!」
「あ!」
 全く遠くではなく、むしろ近くで呼ばれていたようだ。無骨な手で肩を叩かれ、リクはかなり大げさに驚いた。
「ごめん」
「ボサッとするのは、荷物を運び終わってからにしろ」
「うん」
 マリーの家に荷物を運び込む。何度か庭を往復し、そのたびに少女の姿を探したが、荷物を運んでいる間は見つからなかった。そのことがリクにとって、夢か幻か何かを見ていたのではないかとことさらに思わせたのだが、その一方で、風になびきながら日の光で輝く銀の髪や、春の木漏れ日の瞳がはっきりと思い出されるものだから、きっとそうではないのだろうという確信もあった。
 何往復目かで、マリーが家の中から出てきて「随分とたくさんあるのねぇ」と嘆息した。
「あとどれくらいで終わりそう?」
「これで最後だよ」
「そうなのね。それ置いたら、お父さん呼んできてくれる? ちょっと大事な話があるのよ」
「わかった」
 マリーの言いつけ通り、荷物を運び終えて村に戻ってきているルドラのところへ向かった。
「父さん、マリーさんが父さんに、大事な話があるってさ」
「マリーさんが? わかった、すぐに行こう。リクは先に帰ってなさい」
「はーい」
 リクは少女の顔をもう一度見たいと思ったが、父に見つかったらげんこつが飛んでくると思い、おとなしく家に帰った。それから父が戻ってきたのは、しばらくしてからのことだった。


 その日の夜、食卓を囲んだ母とリクに、ルドラは切り出した。
「馬車に乗ってた女の子、エルフリーデさんというのだが、その子の怪我がある程度治ったら、ジャスティールまで送り届けようと思うんだ」
 母は息を呑みフォークを落とした。
「ああ、ごめんなさい。その、エルフリーデさんて方の嫁ぎ先はジャスティールにあるのね」
 慌ててフォークを拾いながら、母はこめかみから髪をかきあげた。
「どうもそうらしい。年頃の娘さんを連れての旅になるから、準備を頼みたいんだ。自分の用意はできても、女の子に必要なものは、俺はどうにもな……」
「そ、そうね。マリーさんとも相談して準備することにするわ」
「本当はお前にも同行してもらいたいんだが、急ぎの旅になるから、無理はさせられんし、その間畑を放っておくわけにもいかんしな……」
 ルドラは頭をガシガシ掻いた。
「年頃の娘さんが一緒だから?」
「それもあるが……エルフリーデさんはどうも口が利けないらしいんだ。これはマリーさんから聞いた話なんだが」
 エルフリーデという少女は北のアレスティオ王国からやってきたらしい。なんでも、アレスティオ王国では、嫁入り道中は一切の声を他者に聞かせることを禁じており、そのための手段として、声を封じる首輪をあつらえるのだとか。そういえば少女の首もとには、布製の白い首飾りがぴったりとくっついていたように思う。そのため、マリーは筆談によって、エルフリーデからそれらの情報を引き出したらしい。
 リクは少し落胆した。あの白い少女がどのような声で話すのだろう、と想像していたのに、声を聞くどころか、会話すらできないのだと思うと、とても悲しい。リクは字が読めないのだ。自分の人生で、村から出て行くことを想像していなかったので、文字を覚える必要などないと自ら決めつけていた。そのことが、今は非常に腹立たしい。
「それから、リク」
「はいっ」
 うつむいていた顔を慌てて上げる。
「俺が留守の間、母さんを頼んだぞ」
「分かったよ」
 留守番か、と、リクはさらに肩を落とした。連れて行ってもらえるとは思っていなかったが、こうして現実を突きつけられると、嫌が応にも理解せざるを得ない。
 昨日の昼、確かに竜の鳴き声を聞いたのだ。けれど現実はこんなものか、と想いながら、リクは眠りについた。



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