アレスティオの花嫁

第一章 音のない花嫁

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 村から伸びる街道を歩きながら、最初のうちは、自分のことや、最近あったちょっと幸運なこと、不運なことを楽しく喋っていたリクだったが、やはりだんだんと、エルフリーデが言葉で話すことができないのが気になり、大人しくなっていった。その様子を見ていたルドラがふっと笑い、リクの頭に手を載せた。叩かれたわけではないのだが、頭が重くてリクは顔をしかめた。
「リク、そろそろ腹が減るだろう。休憩にしよう」
「あ、うん」
「エルフリーデさんもよろしいですね」
 エルフリーデはうなずいた。
 荷物を置き、敷物を敷いて腰掛ける。ルドラは弁当を広げ、リクとエルフリーデに渡した。リクがいつも食べているサンドイッチだ。
「今日は母さんが作ってくれた弁当があるが、明日からはそうもいかない。まあ、マリーさんが香草もたくさん持たせてくれてるから、それなりのものは食べられるだろう」
 ルドラはちらりとエルフリーデを見やった。
「エルフリーデさんの口に合うといいのですが」
 エルフリーデがもくもくとサンドイッチを食べている。その様子があまりに上品で優雅で、リクは自分がサンドイッチを食べるのも忘れて、エルフリーデの仕草にすっかり見とれていた。
 食べてすぐに動くと腹が痛くなるからと、食べ終えてしばらくは談笑したりした。心地よい風が吹くたび、このまま昼寝でもしたい気分になったが、リクがあくびをしたところでルドラが「そろそろ行くから準備をしろ」などと言う。おかげであくびは中途半端なところで止まってしまい、なんとなく消化不良な気分になったが、文句を言うと拳骨が飛んできそうなので、何も言わなかった。


 ルドラからは「時々は休みながら進む」と言われていたが、気になったらその都度甘いものをつまめとも言われた。そうしなければ、変なものを見るのだそうだ。それは困るから、と理屈をつけて、リクはご機嫌な様子でクランベリーの瓶を鞄から取り出し、二、三粒ほど口の中へ放り込んだ。めざといルドラもリクの瓶から一粒サッと取って食べる。自分の取り分が減ってしまい、リクは眉間にしわを寄せた。
「お前、食べるのはいいが、一度にたくさん食べるなと母さんに言われただろう」
「もうやめるってば」
 強い意志を持ってやめなければ、こういったものは際限なく食べてしまう。口うるさい父親だが、こうして監視して、明日以降のおやつを守ってくれているのだと思えば、真っ向から反抗するような根性も出ないというもの。
 その一方で、何もつままない様子のエルフリーデが気になり、リクは乾燥クランベリーの小瓶をエルフリーデの前に差し出した。エルフリーデは一瞬ギョっとした様子だ。
「エルフリーデさんも食べる?」
 にこやかに問いかけると、いきなり頭頂部に拳骨が飛んできた。
「いでっ」
「リク、失礼のないようにと言っただろう。エルフリーデさんは許してくださっているが、そんな風に食べ物を適当に分けてはいけない」
 失礼のないように、とはエマやルドラから言われてきたから、リクなりにエルフリーデには丁寧に接していたつもりだったが、どうやらそれは彼らの言う「失礼のない態度」とは違っていたらしい。
「なんだよもう、ついてないな」
 その様子を見て、エルフリーデはかすかに微笑みながら、首を左右に振った。
「えっ」
 言葉を話せない彼女が言いたいことは分からないが、とにかく今のルドラとのやりとりが愉快だったということは確かだろう。リクはそれも嬉しかったが、彼女の分かりづらい笑顔がことさらに嬉しかった。
 エルフリーデは地面に何やら文字を書いた。それをルドラが読み上げる。
「かまいませんよ、いまは、か……。ありがとうございます、エルフリーデさん。リク、エルフリーデさんはそう言ってくださっているが、いい家柄のお嬢さんだ。ジャスティールに着いたら、こんな態度は取るんじゃないぞ。喋り方も今のうちに練習しておけ、教えるから」
 ルドラの顔がやけに怖いので、口調とはかくも深刻なものなのかと改めて思い知らされ、リクはしゅんとした。
「はい……」
「そう落ち込むな、リク」
 今度は拳骨の代わりに、分厚い手のひらがリクの頭を撫でた。エルフリーデの目の前で子ども扱いされるのが不服で、リクは頬を膨らませた。


 村を出て三日ほど経ち、村から遠くに見えていた山を登り始めた。比較的開けた場所を見つけたところで食事を取る。食べ終えた頃、ルドラは地図を広げた。
「さて、俺たちは今この辺りにいる。ジャスティール王国はここだ。俺たちの村はここ」
 地図を指さしながら説明しているが、リクはよく分からなかった。ただ、目的地まではあと少しなのだということは分かった。
「本来、道が舗装されているのはこの道だ。見て分かるとおり、かなり遠回りになる。そうだな、だいたい三日程度の違いがある。この少人数で馬車も曳いていない今、最も早く安全にジャスティールに行くためには、この少し先を行ったところから降りて〈竜の谷〉を抜けるのが最善だ。少々足場が悪いが、休みながら行けば問題はない」
 竜の谷。リクの村まで時たま聞こえる竜のいななき声は、その谷に住んでいる竜のものだと、かつて父が言っていた。
「その名の通り竜が住んではいるが、姿を見られたらとても運がいいと思っておけ。まあそれはいいんだが、竜の谷はジャスティールの保護域に指定されている原生林だ。人間の出入りに関して特に制限はないが、竜の谷の中で生き物を殺したり、果実や草を採ったりすることと、持ち込んだものを放置することが禁じられている。火も焚けないから温かいものは食べられないが、その点は我慢してくれ」
「でも父さん、そしたら竜の谷では何を食べるの?」
 リクの質問に、ルドラは鞄を漁って包みを取り出し、広げて見せた。木の実やドライフルーツなどを棒状に固めたもののようだ。これだけで腹が膨れるようには見えない。リクが怪訝な顔をルドラに向けると、「まあ食えば分かる」とだけ答え、話を続けた。
「竜の谷を抜けたら、ジャスティールはもう目と鼻の先だ。ベッドでゆっくり休めるし、暖かいものも食べられる。なに、竜の谷もそんなに長い道のりじゃあない。エルフリーデさん、そこまでの辛抱なので、もうすこし頑張ってくださいね」
 エルフリーデは特に表情を変えずにうなずいた。
「ねえ、父さん」
 リクはふと疑問に思ったことを口にした。
「ジャスティールってそれなりに大きな街……だよね。それなのに、あんまり人とすれ違ったりしないけど、どうして?」
 ルドラから聞くジャスティールの話は、リクの住む村とは全く違う服を着た人たちが道を闊歩し、バザールは活気に満ち、建物の距離が近いというものだった。そんな街なのに、ジャスティールから来る人も、ジャスティールへ向かう人もそんなに見あたらない。
「ふむ、そうだな。お前の言うことにも一理ある。この地図を見てくれ。地図では、俺たちの村は高い場所にあるんだ」
「そうなんだ」
「ジャスティールを囲む山は、実は村側の方が険しいし、村の西側……つまり、エルフリーデさんの地元と村の間には深い山脈がある。それにあの辺りには大きな街もあるし、交易の道も整っている。だからお嬢さんの安全を考えるなら、西側の山脈は越えずにジャスティールの西から入るほうが、ジャスティールには行きやすいし、その分人の行き来も盛んだから、小屋もあれば道もここよりずっと整っている」
 確かにここに来るまでの間、小屋らしきものはなかったように思う。今まで歩いてきた街道などとは比べものにならないぞ、とルドラは語る。
「じゃあ、エルフリーデさんは? エルフリーデさんはどうして、ジャスティールに行くのに、こっちの険しい道に来たの?」
「いい質問だ。エルフリーデさんの地元からだと、村側から来た方がジャスティールは近いのだ。南側に行こうとしたら山を迂回しなければならない。これで七日くらいは変わってくる。まあ、身分の高いエルフリーデさんが、わざわざこの道を選ぶからには、他にも何か理由があるんだろうが……おそらくは急いでいたのだろう」
「そっか」
 確かに、花嫁道中などという大切な旅路なのに、なかなか宿屋でゆっくり休めないような道を選ぶのは、そういった理由がなければ考えにくいのだろう。
「じゃあ、エルフリーデさんが、事故があったとはいえ、二週間も村で足止めを食っていたのは、思ったより深刻なことなのかな?」
 湧き出る疑問を口にすると、それまでの話をただ聞いていたエルフリーデが、ここで初めて首を左右に振った。
「マリーさんが言うには、エルフリーデさんが遅れることは、嫁ぎ先にきちんと手紙で知らせてあるそうだし、事故なのだから理解はしてくれるだろう。そうですね、エルフリーデさん?」
 エルフリーデはルドラの言葉を肯定した。

 しばらくして荷物をまとめ、リクたちは竜の谷へと降りて行った。これまでの山道もそれなりに木が生えていたが、竜の谷に生えているものは、一本一本が比べ物にならないほど大きい。しかも足元の苔むした木の根や岩はどこもかしこも湿っており、気を抜くとすぐに転倒してしまいそうだ。湿気はすごいが外気はひんやりとしているので、肌が湿る程度でさほど不快には感じられない。リクは自分が転ばないように歩くのに精いっぱいだが、ルドラは慣れた様子で、エルフリーデが滑らないように手を回していた。その様子を見て、ついてくるだけで役に立っているような気がしないリクは、若干不貞腐れ気味になっていた。そんな時。
「ぅわっ!!」
 頭に落ちてきた冷たい水滴に驚き、リクはのけぞった。そのまま足下の大きな木の根にひっかかり、尻餅をつく。しかもそこはちょうど水たまりで、リクの尻は泥水でぐちゃぐちゃになってしまった。
「うひゃー、ついてないなぁ」
「はっはっは、そのまま歩くと風邪を引くからな、影に入って着替えてこい」
「はーい」
 恥ずかしくてちらりとエルフリーデの方を見ると、エルフリーデと目が合ってしまった。見なければよかったな、と一瞬思ったが、エルフリーデがかすかに笑っていたので、リクも嬉しくなった。それがリクの情けない姿であっても、とても嬉しかった。
「ほら、早く行くんだ」
「分かってるよ!」
「ちょうどいい、ここらで休憩にしよう」
 立ち止まったルドラが荷物を置く。素早く着替えたリクは待ってましたとばかりに座り込んだ。
 足場が悪いところが続いたので、足にかなり疲労がたまっていた。太股やふくらはぎを叩いたりもんだりで忙しい。
「ほら、お前の分だ」
「はーい」
 受け取った棒状の食べ物を口につっこむ。その横でルドラはエルフリーデにも「どうぞ」と渡していた。棒状の食べ物は、砂糖や粉でもつかっているのだろうか、甘みがあって、まずくはない。もともと木の実や果物が好きなリクにはよいものだ。しかしとにかく固い。まず噛みちぎるのに時間がかかる。とりあえずどうにか一口食べきったところで、リクはエルフリーデに声をかけた。
「かなり固いけど、大丈夫、ですか?」
 エルフリーデは棒を咥えたままうなずき、大して強くなさそうに見える小さな顎で力一杯噛み砕こうとしていた。リクでさえ顎が疲れてしまったのに、大変そうだ。ある程度食べたところで、リクもエルフリーデもふぅ、と息をついた。
「向こう側に沢がある。水が飲めるから、行ってきたらどうだ?」
 ルドラがそう言うので、リクは「それがいいや」と立ち上がった。
「エルフリーデさんも行きますか?」
「気を付けて行ってこいよ」
 沢はすぐだった。顔を洗って水を飲んだが、水もとても冷たい。
「エルフリーデさん、ここの水はものすごく冷たいですよ!」
 エルフリーデはリクにちらりと視線をやって、そのまま冷たい流れに手を差し入れた。少しも動じていないその様子に、リクは思った。エルフリーデには儚げな印象を持つが、歩いていて嫌な顔ひとつ見せなかったし、疲れたようなそぶりを見せることもない。リクよりもずっと華奢だろうに、相当の忍耐力があるのだろう。先ほど食べた棒状の食べ物だってそうだ。
 エルフリーデの正面に、大きな竜がのっそりとやってきて、頭を垂れた。彼もまた、水を飲みにきたのだろう。エルフリーデが顔を上げる。リクはエルフリーデの肩に手を置き、「大丈夫」と声をかけた。
「こちらから危害を加えなければ、襲われることはないって、父さんが言ってた」
 竜は確かに大きくて存在感があり威圧的にも思えるが、不思議と身の危険などは感じられない。小さくうなずいたエルフリーデは、じっと竜を見ていた。リクもエルフリーデの視線の先を見つめた。
 竜はゆっくりと水を口に含み、嚥下するように上を向き、喉を動かした。その動作を何度か繰り返すと、これまたゆっくりとした動きで流れに尻尾を向け、原生林の奥へと消えていった。
 まるで永遠のようにも感じる時の中で、リクもエルフリーデもその様をずっと眺めていた。竜の姿が見えなくなるまで。


「遅かったじゃないか、リク。なに道草を食ってたんだ」
 特に責め立てるような口調でもなかったので、リクはルドラの質問を無視し、目を輝かせながら駆け寄った。
「父さん父さん、竜がいたよ。水飲んでた」
「そりゃ、竜だって水くらい飲むだろ」
「そうだけど、そうだけど、とにかくすごかったんだ!」
 鼻息荒く、とにかくこの興奮を知ってほしくて伝えているのに、ルドラと言えば普通の反応しかしてくれない。「姿を見られたら幸運だと思え」と言っていたあの竜を見たのだ。声を聞くだけでも何かいいことが起きる予感がするあの竜を見たと言っているのにこの様子なので、つまらなくなり、「すごかったですよね、エルフリーデさん」と話をふると、エルフリーデはあのときの竜のようにゆっくりとうなずいた。



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