アレスティオの花嫁

第一章 音のない花嫁

  5


 すれ違う人が増えてきたので、それぞれに挨拶を交わしながら「もうすぐなの?」と父に尋ねる。
「ああ、そうだ。竜の谷は観光地でもあるからな。だが街から来る分には出入り口は管理されているし、あまり奥まで入ると迷うと言われている」
 そうやってジャスティールは竜の住処を守っているのだとルドラは言った。
「そっか。俺たちにとっては遠い生き物だけど、ジャスティールにとっては大切な生き物なんだね、竜って」
「ま、そういうことだな」
 それから間もなくして、原生林の谷の端に到達した。ルドラの言葉通り、竜の谷を抜けるとすぐに、人の手でつくった壁があった。
「見えてきましたよ。あの壁がジャスティールです。どうです、行く前に少し身なりを整えておきますか?」
 ルドラの問いに、エルフリーデはうなずいた。
 影に入っていったエルフリーデを見送って、リクはふと考えた。壁に見える門が、おそらくルドラの言うところの、竜の谷への入り口なのだろう。しかしあちらから来る分には管理されているならば、リクたちはどうなるのだろう、とリクは首を傾げる。
 しばらくして陰から堂々と姿を見せたエルフリーデは、銀の髪でなければ一瞬誰か分からない程度に印象が変わっていた。化粧を施したのだろうか。ピンクだった唇が赤くなっているのが、リクには違和感があった。
「じゃあ、行きましょうか」
 エルフリーデは歩き始めたルドラの後ろをそっとついて行った。
 門のところにさしかかると、門番がふたりで声をかけてきた。
「通行証を拝見します」
 通行証。そんなものを持った覚えはない、とリクがひとりで焦っていると、ルドラが慣れた様子で、なにやら紙のようなものを取り出し、門番に提示した。
「ルドラ様、ですか。お話は仰せつかっております。そしてあなた様が、エルフリーデ・モル・アレスティウス様ですね。すぐに案内の者を連れて参りますので、少々お待ちいただけますでしょうか?」
 エルフリーデがうなずく。門番のあまりに恭しい態度に、エルフリーデはかくも身分の高い少女だったのかと、改めて意識した。そのうえ名前がみっつもある。ふたつまでなら、何と言ったかは忘れたが、マリーにあったので知っているが、みっつも名前があると知った途端、リクに緊張が走った。
 緊張のためにほとんど喋ったりできなくなってしまったリクにはあまりに長い時間だったが、しばらくすると、立派な髭を蓄えた、見るからに身分の高そうな男が、三人の供を伴いやってきた。
「あなたがエルフリーデ様ですね。お待ちしておりました。ご無事で何よりです。私はバルディアーと申します。ひとまず、その魔法具を外しましょう」
 バルディアーと名乗った立派な様相の男は、は懐から鍵のようなものを取り出した。エルフリーデは一瞬躊躇していたようだが、すぐに首を上げ、バルディアーがエルフリーデの白い首を飾っていた首輪を外した。
「バルディアー様、到着が遅れてしまい、申し訳ありませんでした」
 赤い唇から紡がれたのは、鈴の鳴るような声だった。透き通った、品のあるその声を少女の声だと認識するのに、少しだけ時間がかかった。
「きちんと遅れるというお手紙もいただいていたので、問題はありませんよ、エルフリーデ様。長旅お疲れでしょう。エルフリーデ様のお部屋を用意いたしております。こちらへ……」
「お待ちください、バルディアー様。慣習から外れますが、この方達と少しお話をしてもよろしいですか?」
「かまいません。挙式の前にエルフリーデ様の魔法具を外したのは私ですし、そもそもここはジャスティールです。アレスティオの神もお赦しになることでしょう」
「ありがとうございます、バルディアー様」
 エルフリーデはバルディアーに会釈をし、後ろに控えていたリクとルドラの方を向いた。
「ルドラ様、リク様、私をここまで送ってくださって、ありがとうございました。あなたがたがいなければ、私がここに来ることは叶わなかったでしょう。それは我がアレスティオ王国と、ここジャスティール王国の信頼関係にも関わったやもしれません。あなたがたは私の恩人ですが、二つの国の恩人でもあります。本当にありがとうございました」
 ああ、エルフリーデとはここでお別れなのだ。そのことを突きつけられた。一緒にいたくてついてきたし、エルフリーデが誰かと結婚することも知った上でのことだった。それなのに今は、その事実がどうしようもなく、つらい。父がエルフリーデの言葉に「とんでもない」「身に余る光栄」などと返しているのが、ひどく遠くに聞こえた。
 エルフリーデとの会話が終わり、バルディアーが何かを喋っている。
「つきましてはルドラ様、街一番のお宿をご用意いたしますので、今夜はそちらにて旅の疲れを癒してください。後ほど、お礼の遣いの者を参らせます」
「お気遣い、感謝いたします」
 ルドラが深々とお辞儀をするのを視界の端にとらえ、リクも同じようにお辞儀をする。頭を上げると、ルドラはきびすを返した。しかしリクは呆然としていた。
「リク、何をしている? 行くぞ」
「あ、うん。それでは、バルディアー様、エルフリーデ様、ごきげんよう」
 自分で言葉を発したことさえ、遠い場所で起きたことのように実感がなかった。

 大した別れもできず、きっとあれがエルフリーデとの最期の時間だったのだと思うと、リクは何も考えられなくなっていた。そんなリクは、豪華な料理の前に放心している。
「まあ、初恋ってのはそんなものだよ。うまく行くことの方が少ない。だからまあ、元気を出せとは言えないが、せめて出された料理は食べなさい。こんな上等なもの、一生に一度食べられるかわからないからな」
 母さんには持って帰れないから内緒、とルドラ言われ、リクは力なくうなずいた。
 初恋。そう、リクはエルフリーデのことが好きだった。一目見たときから、あの春の木漏れ日に心奪われていた。けれどエルフリーデは、名前が三つもある程度に身分の高い女性である。だからこれでよかったのだ。エルフリーデの夫となるバルディアーは、実に立派な人物だった。少なくとも、そのように思える。
 そうか、初恋か。味のしなかった上等な料理が、今度は苦く感じた。

 食事を終え、放心状態のリクを、ルドラはそっとしておいてくれた。どうせ明日には嫌でも顔をつきあわせながら、来た道を戻らねばならないのだ、今のうちに傷ついた心と疲れた身体を癒しておかなければならない。
 湯浴みを済ませ、相変わらずボケッとしているリクの耳に、扉を叩く音が飛び込んだ。
「こんばんは。私はバルディアー様の遣いのロスタムと申します。こちらにルドラ様はおられますか?」
 ルドラがすぐに返事をし、扉を開ける。バルディアーほどではないが、これまた上等な服に身を包み、立派な髭を蓄えた身分の高そうな男がたたずんでいる。男はルドラの顔を確認するや、頭を垂れた。
「夜分遅くに申し訳ありません。私はロスタムと申します。バルディアー殿下の遣いで参りました」
 ロスタムの態度に合わせ、ルドラも深々と頭を下げる。リクもルドラの様子を見て、あわてて同じようにした。ロスタムは顔を上げ、「まずはこちらをお納めください」と大きな荷物を差し出した。
「もちろん、運ぶための馬車も宿の外に用意しております。確かロスタム様は、馬車などを引いて、たまに本国へいらしていたとか。馬の扱いは大丈夫でしょう。そちらも差し上げますと、バルディアー様から仰せつかいました」
「なんと……こんなにいただいて、もう十分すぎるほどです」
「それからもうひとつ、こちらはバルディアー様からの言づてなのですが、エルフリーデ様のお清めの後、明後日にはバルディアー様とエルフリーデ様の婚礼を執り行う運びとなっております。明日からジャスティールは国を挙げての祭りとなります。それと、お二人には是非、友人として婚礼に出席して欲しいとのことです」
 リクは思わず立ち上がった。そんなリクを、ルドラが視線でたしなめる。リクはゆっくりと座についた。
「よろしいのですか? 我々のような異国の下々の者を列席させるなど。友人とは畏れ多いことです。それに、もし参列するにしても、我々は王家の方々の挙式に出席できるような服を持っておりませんし、当然そろえるお金もありません。作法も分かっておりません。このような立派な宿に泊まることさえ、本来であれば分不相応なことです」
 ルドラがサラっと「王家」という言葉を口にしたのを、リクの耳がしっかり捉える。
「ご心配には及びません。お二方の衣装は、こちらできちんとあつらえさせていただきます。もし立ち振る舞いに不安がおありでしたら、明日ご指導いたします」
「そうですか。リク、どうする?」
 エルフリーデの結婚式。エルフリーデがバルディアーと結婚し夫婦になるその式に出て、エルフリーデの花嫁姿を見る――それがどれほどつらいことなのか、想像に難くない。だがこの機会を逃せば、エルフリーデとはもう二度と会えないだろう。あのような別れでさえつらかったのだ、それもきっと悲しい。
「父さん、俺は行きたいかな」
「そうか。ロスタム様、よろしければ出席いたします。私めや小倅が王家の方々にご無礼を働かぬよう、ご指導のほど、なにとぞよろしくお願いいたします」
「いえ、こちらこそ色よい返事が聞けて何よりです。お心遣い、感謝いたします。ではバルディアー様とエルフリーデ様には、そのようにお伝えいたしますね。お疲れのところ長々と居座ってしまい、申し訳ありません。明朝お迎えに上がりますので、それまでゆっくりとお休みください。それでは、失礼いたします」
 ロスタムが宿屋から出たのを足音で確認して、リクは「オウケって、どういうこと?」とルドラに尋ねた。
「ああ、そういえばお前には説明していなかったな。バルディアー様は、このジャスティール王国の王様だ。エルフリーデ様のご身分は分からないが、エルフリーデ様の口振りからすると、アレスティオ王国の王族関係者……なのだろう。本人もアレスティウスと名乗っていたしな」
「うわ、やっぱり名前がみっつもあるのには意味があったんだ」
「みっつか、そうだな、みっつだな」
 ほら、今日はもう寝るぞ、とルドラに頭を撫でられ、リクはふてくされながら寝る準備をした。



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