アレスティオの花嫁

第一章 音のない花嫁

  6


 結局、その日はよく寝付けなかった。何度も何度も寝返りを打ち、たまに起き上がっては便所へ行ってみたり、水を飲んだりしてみたが、やはり眠れない。しかしいつの間にやら眠っていたようで、ルドラに叩き起こされてからそのことに気がついた。
「そんな顔で式に出席はできんな」
 ははは、とルドラに笑われたが、今から寝直すこともできない。なにせロスタムが迎えに来るのだ。ルドラとリクにできるだけの身繕いをし、朝食を取ってロスタムを待った。まだ朝も早いが、外では既に祭りが始まっているらしく、最初にジャスティールに入ったときよりもずっと賑やかな様子が、宿の一室にいてもよく伝わる。村では体感できない賑やかさなので、眠気まなこをこすりながらもそわそわしているリクに、「ロスタムの頼みに乗ってしまった以上は仕方がないから諦めろ」とルドラが溜息をついた。
「そりゃそうだけど」
「拗ねるか寝るか、どっちかにしておけ」
 そうは言っても、ロスタムがもうすぐ来るかもしれないのに、眠れるはずがない。ルドラとロスタムが勝手にあれこれ話すだけならいいが、リクにだって関係のあることなのだ。
 しばらく待っていると、扉をノックする音とともに、ロスタムが部屋に入ってきた。軽く挨拶をし、世間話がてら、リクが祭りを気にしている、とルドラが伝えると、ロスタムはくすりと笑った。
「リク様、大丈夫ですよ。祭りは夜通し行われていますから、これが終わったら夜に楽しめばいいのです。ですが、ほどほどになさってくださいね。どうもリク様は、昨晩あまり眠れなかったご様子ですので」
 リクはついうつむいた。やはりひどい顔をしていたようだ。
 眠れなかったのは、祭りが楽しみだったり、エルフリーデの結婚式に対し複雑な気持ちを抱いていたり、エルフリーデと過ごした決して長くはない旅路のことを思い出していたためだった。次の日のことが楽しみなあまり眠れなかったことは数あるが、このようなことで眠れないのは初めてのことだったので、ひどい顔になるのも当然といえば当然なのだろう。
「では、はじめましょうか!」
 ロスタムは大きく手をたたき、ルドラとリクに、歩き方や座り姿勢、言葉遣いをみっちり仕込み始めた。

「ああ、そろそろ時間になります」
 窓の外を見ながらロスタムがそんなことを言うので、もう昼食の時間なのだろうか、と呑気に考えていると、ロスタムは「ほら、外に出ましょう」と、リクとルドラを宿屋から出した。宿屋の前にわらわらいた人たちが両端に分かれ、大きな道をつくっている。うるさく鳴っていた音楽が止み、代わりに人々の小さなざわめきに満たされている。
「なにか始まるのですか?」
「はい。右手をご覧ください。すぐに国王陛下がお見えになりますよ」
 まだなにも見えないが、ロスタムの言葉通り右手をじっと見る。だんだんと音楽が聞こえてきた。それに伴い、なにやら動く人影が近づいてくる。なんと先頭を、ひらひらした耳、長い鼻、大きな体の、四本足で歩く動物が歩いているではないか。
「え、と、父さん、あれは何?」
 リクにとって未知の生き物に、ルドラは「ゾウだ」と答えた。
「ゾウ?」
「ああ。あの長い鼻は器用で、手のように動く。しかも力持ちだ。ちょっかいを出して怒らせるんじゃないぞ」
「そんなことしないって」
 唇をとがらせるリクを、ルドラが「まあまあ」となだめる。
「ほら、見てみろ。ゾウが珍しいのは分かるが、人が乗ってるだろう。あの方が王様……昨日お会いした、エルフリーデ様のご結婚相手の、バルディアー様だ」
 エルフリーデと別れることがあまりにも寂しくて、昨日見たバルディアーの印象はほとんど覚えていないリクだったが、白のまばゆいばかりの衣装に身を包み、重そうなターバンを巻き、しかし穏やかな微笑みを浮かべながら堂々とした出で立ちで両脇の人々に手を振るバルディアーの姿は、リクにとっても好印象だった。その後ろには、数々の踊り子や楽器の奏者を引き連れている。
 結婚式といえば、それはめでたいものなので、村でもそれなりに豪華に行うし、ごちそうも口にするが、そういったものとはまた違った豪華さである。
 見慣れないすごいものに目を輝かせていると、優しい光りを湛えたバルディアーの黒い目と視線がかち合った。目が合ってしまったので、棒立ちだったリクもバルディアーに手を振った。気が付いたのか、満足そうにバルディアーは笑った。
 そんなことがあるのだろうか。リクの前にもたくさんの人がいて、リクではなくてその中の誰かを見ていたのではないだろうか。もしくは、王に仕えているというロスタムのことを。
 バルディアーの横顔は、次第に後頭部に隠されていった。その姿を見送ったところで、「ではお昼をいただいて続きにしましょうか」とロスタムに宿屋へ連行された。

 用意された昼食を三人で囲みながら、ルドラがこんなことをロスタムに聞いた。
「そういえば、今回の挙式のことなのですが、やはり、このような場に国民でもない平民を呼ぶというのは、異例のことなのでは?」
 ロスタムは「明日どのみち分かることですし」とつぶやき、改めてルドラに向き直った。
「こういったことを広く知られるのはあまりよくないことですし、聞かなかったことにしておいていただきたいのですが――」
 ロスタムはこのような前置き後に咳払いをし、さらに声のトーンを落として続ける。
「――実は、エルフリーデ様のご親族は列席なさらないのです」
「王女様のご結婚なのに? それは不慮の事故で、到着が遅れたからですか?」
 いえ、とロスタムは目を伏せた。
「そもそも、アレスティオの王族の方々は列席されないご予定でした」
 ということは、エルフリーデ側の参列者はいないのだ。なんの事情かは、これ以上聞かないほうがいいのだろう。
 村で誰かが結婚する時は、村人総出でお祝いをする。公民館と広場を貸し切り状態にして、たくさんの花を飾り、ごちそうを囲み、皆で踊る。エルフリーデに出会う前は、結婚というものについて特に関心はなかったが、普段は食べることのできないごちそうや、楽しくて賑やかな雰囲気がリクは好きだった。
 しかしリクは村の結婚式しか知らない。〈キョシキ〉という言葉も、結婚式のことなのだろうと感じながらもいまいちよく分かっていないが、いま口を挟むと拳骨が飛んできそうなので、リクは黙って聞いていた。
 昼食後も立ち振る舞いと言葉遣いをみっちり叩き込まれ、日が暮れる頃、ロスタムは「明日は日の出ごろにお迎えに上がります」と残して宿屋を去った。
 今朝は祭りの様子が気になっていたのに、今はもうそんな気力も残っていない。それだけロスタムの指導は密度が高かったのだ。少々無念ではあるが、ゆうべはほとんど眠れなかったこともあり、リクは寝る準備に入った。
「今日はもう寝るよ。明日の朝はもっと早いみたいだし、眠いし」
「そりゃ眠いだろう」
 はっはっは、とルドラは豪快に笑った。

 早く眠ったおかげか、結婚式の朝は、ロスタムが来る前にすっきりと目が覚めた。さっさと朝食を済ませ、ロスタムがやって来るのを待つ。ロスタムから案内された場所は、王宮の隅にある小さな建物だった。そこで二人の宮仕えの人物に服を着付けられた。普段服を着せられるということがないので、むずかゆい気分だ。しかも、王家の結婚式に参加するための見事な服なので、緊張感もひとしおである。
 着付け終えると、今度は別な建物の待合室のような場所に案内された。ロスタムはずっとついていてくれているので、リクもルドラも余計なことはなにも喋らないようにした。どのみちエルフリーデの家族が来ないのは、関係者の間ではすでに知られていることなのだろう。ほどなくして、挙式会場のような場所へ案内された。
「ルドラ様とリク様は、こちらのお席に……」
 ロスタムの指示で着席する。歩き方や座り方は、きちんとロスタムに教わった通りにした。なんだか落ち着かないのは、列席している面々がいかにも身分の高そうな風体であるためか、はたまた普段着ないような立派な衣装の物理的な重みによるものなのか。そのどちらもなのであろう。
 ロスタムの忠告通り、背筋を伸ばし、口を真一文字に結ぶ。するとしばらくして、雨のように降りそそぐ花びらの雨の中に、最後に顔を合わせたときより一層豪華な衣装を身に纏ったバルディアーとエルフリーデがやってきた。
 エルフリーデの歩く仕草。微笑む横顔。輝くまつげ。しなやかな首筋。
 ――美しい。
 リクはその言葉の意味を、このとき生まれて初めて理解した。化粧なんか施さなくても魅力的なのに、と思っていた自分を今は恥じている。ひとつひとつの洗練された動き、重そうな輝くアクセサリー、遠目に見ても分かる、繊細な刺繍の赤い花嫁衣装、そしてそれらに身を包むエルフリーデは、本当に美しい。青い空や、鮮やかな花々も、エルフリーデを飾る衣装のように思える。そしてその隣に立つバルディアーもあまりに立派で、リクの口の中に苦いものが広がった。
 二人が向かい合い、赤い軟膏のようなものを互いの額に塗りつける。司祭が何やら祝いの言葉か何かを述べているのは、どこか異国の言葉のようで、リクには聞き取れなかった。ここは異国だし、目の前で起きているのは、本当に知らない国での出来事なのだ。
 会話ができるわけでもなく、ただ、一緒にいた時間が嘘のように、違う世界の住人のように美しいエルフリーデの姿をじっと見ているだけだ。いや、本当にリクとは違う世界の住人なのだ。そのことをこの席では嫌というほど突きつけられる。「行きたい」なんて言わなければよかった。
 胸を締め付けられるような想いで、けれどそれを顔に出さないようにエルフリーデを見ていると、司祭の導きによりバルディアーと歩くエルフリーデと目が合った。
「リク、ありがとう」
 声。確かにリクに向けられた言葉。言葉と認識するのに、やたらと時間がかかる。先ほど「違う世界の住人だ」と感じたエルフリーデの笑顔が目の前にあるではないか。旅のさなか、ルドラとリクのやり取りの折に見せた、あの微笑みが。化粧を施していても、どんなに着飾っていても、そのことだけはリクにも分かった。
「おれ、いや、私こそ」
 微笑み返す。己の口から出た言葉が、自分のものではないかのような錯覚を受けながら、離れていくエルフリーデの残り香に心の中ですがっていた。離れたくない。まだ一緒にいたい――と。

 式を終え、ロスタムの案内で服を着付けてもらった建物に戻り、服を着替える。その間も、エルフリーデのことばかりを考えていた。あの時、エルフリーデの声を聞いた時から、エルフリーデの微笑みを見た時から、ずっとエルフリーデのことばかり。あの後どのように式が進行したのか、リクはロスタムの言いつけ通りに振舞えたのか、そんなことも分からなくなってしまうほどに、あの白い少女のことで心が埋め尽くされていた。もっと一緒にいたい。少しでも近くにいたい。その思いがリクを突き動かす。
「ロスタム様! あの、あの!」
 ロスタムが不思議そうにリクを見る。
「俺、いや、自分、いや、わた、私は、ここにいたいです。ここであの人たちみたいに、エルフリーデ様やバルディアー様のお側に……えっと、お仕えしたいです。体力には自信があります。足りないことは、覚えます。たくさん勉強します、だから……」
 エルフリーデの側にいたい。エルフリーデの笑顔がもう一度見たい。エルフリーデの声を聞きたい。いまのリクにあるのは、ただそれだけだった。
「何言ってるんだ、リク。帰るぞ、母さんが心配するだろう」
 ルドラはリクの頭をつかみ、地面にひれ伏させた。
「ご無礼をお許しください、ロスタム様。倅はなにぶん村から出たのが、これが初めてのことなので、世間を知らぬのです。本当に申し訳ございません」
「ああ、ああ、よいのです、ルドラ様、リク様。顔をお上げください。あなたがたの事情は承知の上で、こちらも婚礼への参列をお願い申しあげたのです。今さら無礼者などと糾弾する権利など、私にはありませんよ。それよりリク様、あなたのお言葉は本当でしょうか? もし本当ならば、私自らあなたを鍛えて差し上げられます。あなたのように熱意ある方を、ジャスティールは拒みません」
 ルドラが顔を上げるような音が聞こえる。
「おやめください、ロスタム様。畏れ多くも、エルフリーデ妃殿下のご友人として挙式に呼んでいただけたので、倅はただ、舞い上がっているだけなのです。もしお仕えしたとしても、長くは続きますまい。ですから」
「ルドラ様」
 ロスタムがルドラの言葉を鋭く遮る。
「私はリク様の考えが知りたいです。まずはリク様のご意見をお聞かせ願えませんかな?」
 ロスタムがルドラを制する。リクはどうしたらいいか分からず、ルドラとロスタムを交互に見やった。ロスタムは微笑んだ。
「リク様、お父上に気兼ねなく、素直なお気持ちを話してくださってかまわないのですよ」
 口を開く。しかし声は出ない。リクは顔を上げ、ロスタムの穏やかな笑顔を見て、そのまま真っ直ぐに父親の顔を見た。
「リク」
「ごめん、父さん。おれ――」
「ばかやろう。自分で決めたのなら、簡単に謝るな」
 ルドラはロスタムに向き直り、再び深く頭を下げた。
「ロスタム様、見苦しいところをお見せしてしまって、申し訳ありません。ロスタム様のお言葉、お計らい、まったくもって身に余る光栄にございます。倅は礼儀も常識も分からぬ未熟者です。どうかよろしくお願いいたします」
 そこまで言って、ルドラは立ち上がった。それに合わせてリクも立ち上がる。
「母さんには俺から説明しておこう。だが時々は、手紙くらい出してやれよ」
「でも俺、字が……」
「馬鹿、勉強するっていま自分で言ったろう」
 ルドラに額を軽く小突かれ、リクは笑った。
「はは、そうだね」
「じゃあ、俺は一泊してから帰るが、リクはどうする? ロスタム様?」
「本人が望むのであれば、今からでも私はかまいません」
 リクは間髪入れずに「お願いします!」と勢いよく頭を下げた。
「ははは、そうか。こんなに突然、巣立つ日がくるとはなぁ。母さんもびっくりするだろうな」
 ルドラはリクの頭を豪快に撫でまわすと、「達者でな」と残して去っていった。父の背中を見送り、これから始まる日々に胸を膨らませていると、ロスタムが「さて」と咳払いをした。
「ではリク、私の指導はとても厳しいと、宮殿でも評判です。一昨日のお勉強と違って全力でご指導いたしますので、覚悟してくださいね」
「はい!」
 ロスタムの「みっちり」以上の厳しい指導はドキドキするが、それ以上にジャスティールで始まる生活が楽しみなリクであった。



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