episode3

おれん家のニオイ





 しまった、そう思った時にはもう遅い。

 興奮しながら家に帰ってきたのはいいものの、わたしは部屋に入る為の鍵を持っていなかった。
 当たり前よ、だって猫だったんだもの。
 いつもわたしの為に開けられている台所の窓の少しの隙間は、今のわたしには通ることが出来ない。体力がなくなってきたら自然と猫に戻るらしいけど、もどりたい時はどうしたらいいのか、人間の身体になれた事で舞い上がりすぎていたから聞いていなかった。

 どうしようかとドアの前で突っ立っていたら、後ろから突然声をかけられた。
 何よ、びっくりするじゃない。

「あの」
「?」
「そこ、おれの部屋なんですけど……何か用ですか」
「桃矢君!」
「は?」

 ちょうどいいところに!と言いかけて、はっとした。わたしだってわかってもらえるだろうか。

「わたしまなみなの!」
「…………?」
「まなみ……貴方にもらった、大切な、名前」

 ほとんどなげやりというか、そう言うしかないと思ったわたしは正直に想いを口にした。
 わたし猫なの、と言っていったい誰が信じてくれるというのだろうか、きっとほとんどの人は信じられないと思う。
 わたしだって今こうしてヒトになって桃矢君の目の前に立っていることが信じられないのに。

「いきなり変なこと言ってごめんなさい!誰だってこんなこと信じられないとは思うの!でも…………っ!!」

 手をめいいっぱいにつかって、どうにかわかってもらおうと説明をしはじめたわたしに、桃矢君は突然顔を近づけた。
 びっくりして瞳をつぶれば、直後にすんっ、と鼻のなる音。恐る恐るまぶたをあければ、視線のはしに桃矢君の綺麗な髪の毛がみえる。どうやら首もとに顔を近づけていただけらしい。
 固まっているわたしとは対照的に、桃矢君はすごく落ち着いていて、ゆっくりと身体を離した。

「まなみ、なんだな」

 おれは信じるよ、だなんて、桃矢君は何故かすごく優しい笑顔で猫の姿のときのわたしを見るような瞳で見つめかえしてくれる。
 人になった姿で話してまだ数十秒なのに「とりあえず、つっ立ってねぇであがれ」と部屋の鍵を鞄から取り出して、ひとり中へと入っていく桃矢君にわたしは一応あとにつづく。

「ちょ、ちょっと……!」
「ん?何だよ」
「…………疑わないの?」

 信じてとさっきまで言っていたわたしが聞くのもおかしいかもしれない、けれどあまりにも展開がはやすぎて、わたしの方がついていけなかった。
 それは桃矢君も感じているようで、少し馬鹿にしたみたいにため息をつくと、猫のときのわたしにするように髪を撫でつけた。

「お前が言ったんだろ、まなみだって」
「……どうして人間の姿してるんだとか、聞かないの?」
「はじめは信じられなかった、けど、」

 パタン、と静かに玄関のドアが閉められる。玄関から動かないわたしをはさんで桃矢君が閉めたのだ。

「まなみの匂いがする」
「?」
「………おれん家のニオイ、」

 さっきしたみたいにまた首もとに顔を近づけて、すん、と鼻をならすと、ぽんと頭を軽く叩いて部屋の奥まで入っていってしまった。
 まだ頭の中が整理出来なくて動けないわたしに、部屋の奥から桃矢君が声をかける。その優しい御主人様の声色に、わたしの身体は猫のときのように自然にすっと動きだしたのだった。

「元々人間だったのか」
「いいえ、生まれたときから猫よ」
「人間の姿になったのは自分の意思か」
「うん、そう」
「何で」
「あなたに、ありがとうって、言いたくて」

 「どうやって」猫の姿になったのかは聞かない、桃矢君は真剣な表情をしてわたしにそう聞いた。だからやっと言える時がきた、と精一杯の気持ちを込めてわたしは感謝の言葉を口にした。

「にゃーって言ってるだけじゃ嫌だったから、ちゃんと『ありがとう』って、人の言葉で伝えたかった」
「別に何も感謝されることなんてしてねーぞ、おれは」

 そんなことは無いと、今度は言葉より先に身体が動いてしまった。
 座っている桃矢君に、甘えるときみたいにすっと擦り寄ると、なれないわたしの姿に困惑しているのか少しだけ顔をしかめた。

「ご、ごめんなさい!その、つい、いつものクセで!」

 慌てて離れたわたしに、別に変な気はつかわなくてもいいと言ってくれたけど、本当は照れているらしい桃矢君の耳は少しだけあかくなっていた。

「で、これからずっと人間のままなのか?」
「えっと、それは……」

 エリオル君に言われたことを伝えれば、そうか、とだけかえしてくれた。

「だから、桃矢君に、いままでの恩返しをさせてください」
「…………例えば、」
「お料理、……とか?」

 にこりと笑えば困ったように笑う桃矢君に、他にも何かして欲しいことはないかと質問をした。けれどかえってくるのは「何もしなくていい」の言葉だけで、わたしはどうしたらいいのかわからなかった。

「ちょっとシャワー浴びてくる」
「あ!お背中ながしましょうか?」
「………だから、何もしなくていいって」

 そして桃矢君はそう言うと、一枚タオルをもって風呂場に姿を消してしまった。

 優しく言ってくれていたけれど、何もしなくていいなんて、何もするなって言われてるみたいだった。

 わたしは何もさせてはもらえないの、桃矢君。



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