よろずつづり

 冬の夜の山間部は寒かった。冷えた空気が身に刺さるようで、吐き出した吐息は白く曇っていた。両手で代わる代わるに使い捨てカイロを持ち替え、時には額や頬に押し当てて、私はなんとか暖を取ろうとしていた。

「千里は本当に寒さに弱いね」
「私、夏生まれだからね。暑いときに生まれてきたから、寒いのには慣れてないの」

 半歩前をゆく彼が私を見下ろして、その赤くなった鼻先が目に付いた。しみじみと向けられた言葉に茶化してみれば彼は喉を鳴らして笑ってくれて、私はなんだかそれが嬉しくてお互いのベンチコートの上から彼の腕に抱き着いた。私を受け止めながら、ふふ、と堪えきれずにこぼされた笑い声がどうにもこうにも愛おしくて、私まで笑った。二人で一緒にいれば、身の凍えるような寒さも辛くはなかった。


 一緒に迎えるのははじめてだった春には、同期四人で揃って花見をした。高専の敷地の一角にブルーシートを敷いて、コンビニで買ってきた軽食やジュースを片手に見上げた桜は、これまで見たどんなに立派な花々よりも美しかった。
 落ちてくる桜を掴めれば幸せになれるというジンクスに乗って私と五条は桜を掴もうと上を向いて手を伸ばして、わあわあとはしゃいで駆け回った。これが案外難しくて、私は先に飽きてしまったのだ。幼児のように走り回る五条を後目に先に二人のもとに戻ったときに、彼の頭のうえにちょこんと花びらが乗っているのを見つけた。結われた黒髪の上に乗ったそれを私が摘み上げまじまじと見つめたあと、なんだかおかしくてみんなで笑った。きっと幸せになれるよと彼にいえば、目を細めて笑いながら頷いてくれた。その笑顔が愛おしいと心の底から思った。


 初夏には二人で出かけた。私はその後に姪を連れての長期任務が決まっていて次に会えるのは一月後だったから、無理を言って一緒に、二人きりで海に行った。まだ夏本番には遠く砂浜を二人並んで歩くことしか出来なかったけれど、私を見つめる彼の瞳を見上げればそんなことはどうだって良くなった。
 潮風にあてられてベタつく髪をかきあげて、手を繋ぎながら戯れに触れるだけのキスをした。彼のかさついた唇に私のグロスの色がうつって、困ったように笑う姿を好きだと思った。どちらからともなく見つめあってもう一度キスをした時、私たちに言葉はいらなかった。


 私が長期任務から帰ってきたのは夏本番の八月のことで、それは予定よりも一月遅れてのことだった。廊下と教室とを仕切る襖に手をかけたとき、どうにもならないぐらい苦しくて泣き出したくなった。私はもう、私のいない間に彼らが体験したそれらを余すことなく聞いていたから。知らなかったのは二人の思うことだけで、画然とした事実だけはしっかりと知っていた。
 寮から一緒に教室まで来てくれた硝子は何も言わずに、俯いたまま動けなくなってしまった私の背に手を当ててくれていた。教室にいた五条は何も言わなかった。彼はそこにいなかった。


 秋にはなる頃にはもう、私たち四人が教室に揃うことはほとんど無くなっていた。階級をあげた同級生たちの後を追うようにして私も一級になり、任務漬けの日々が始まった。術式の相性の良かった一つ下の後輩である楓と任務先からまた次の任務先へと飛び回る生活を続けていれば、自然と彼と一緒にいる時間も少なくなった。それでもたまの休みに二人で何もせずに無言で過ごすのは、私たちの幸せだった。


 半年ぶりに二人きりでの任務があった冬のある日、私は彼に抱かれた。はじめてのセックスは快感よりも痛みの方が勝ったけれど、彼が私に触れる手付きが痛いぐらいに優しくて、嬉しいのかなんなのかわからなくなって私は終わってから彼の胸で泣いた。頭を撫でてくれる手のひらは相変わらず大きくて、変わらずに暖かいままだった。そばにいたいと心の底から思った。


 一緒に過ごす二度目の春。お互いに忙しくて遠出は出来なかったけれど、また四人で三十分だけ花見をした。桜は時期を過ぎて散っていて、地に落ちた花びらを見つめながらのなかなかに変わった花見ではあったけれど、くだらないことでみんなで笑いあった時にこのままこの時間が続けばいいのにと思ってしまった。


 そして夏に、彼は、

 +

  夏油傑が任務先の村で百十二人の民間人を手にかけ、己の両親すらも手にかけたという事実が私に知らされたのは、クラスメイトのうちでは一番最後だった。そう私に説明した夜蛾先生の後ろには五条と硝子がいたから、必然的に私が最後だ。あと一人はもう多分、説明の必要なんてないだろう。自分が起こしたことだ。

 灰原くんの件で目に見えて気落ちした楓との任務の帰りにいきなり拘束されてそのまま高専の地下にある牢屋に押し込まれた時は何が何だか分からなかったけれど、事情を聞いてしまえば扱いには頷けた。私が上層部だったとしてもきっと同じようにしただろう。なにせ私は下手人の恋人だから。

 両手を拘束されたまま冷たい床に座り込み、何も言わずに夜蛾先生の言葉を聞いていた私に一番最初に核心を突く問い掛けをしたのは、やはり五条だった。良い意味でも悪い意味でも空気を読まないのだ。読めるくせに、読まない。そういう奴であることはよく知っていた。

「知ってたのか」
「知ってたと、思うの?」
「質問に質問で返してんじゃねえよ」

 苛立たしげに五条はそう言って、檻越しに私と目を合わせるようにして屈む。サングラスの隙間から除く空色の瞳には、長く共に過ごしてきた私だからこそ分かる動揺が浮かんでいて笑いたくなったし、私は泣いた。きっと傑にだって五条の動揺は手に取るようにわかるのだろうと思うと、もう苦しくて苦しくてたまらなかった。泣く以外に苦しみを吐き出す方法が分からなかった。

 急に泣き出した私に五条は何も言わなかったけれど、夜蛾先生は咎めるようにして五条の名前を呼んだ。長くはなくとも薄くもない時間を共に過してきたのだから、聞かなくても分かっているのだろう。だけど上層部は私を疑っているから、聞き出すしかない。知っていたのか、知らなかったのか。白黒はっきりさせる他ないのだ。

「知らなかった。私、なんにも知らなかったの」

 嗚咽に塗れて途切れ途切れの声でどうにか返事をする。自由の効かない両手で顔を覆っても、嗚咽は隠しきれないし涙は止まらなかった。このまま息が出来なくなって死んでしまえばいいのにと心の底から自分を呪う。死んでしまえ。このまま、無力さを悔いたまま、己を憎んだまま、死んでしまえばいい。もう死んでしまいたい。

 傑と一緒にいたのに、傑の恋人だったのに、私は傑のことをなんにも理解できてなんていなかった。顔色が悪くて少し痩せた傑に、もっと何か声をかけるべきだった。夏バテだと言ったその言葉を額面通りに受け止めて軽く大丈夫かと気遣うだけで、そんなの馬鹿のすることだ。傑にもっと寄り添うべきだった。寄り添いたかった。もっとちゃんと、もっと、もっと。
 傑が悩んでいたことぐらい知っていた。でも踏み込むのが怖くて、邪険にされるのが嫌で、不用意にその心に土足で踏み入ることが恐ろしくて、私は逃げた。最初に逃げたのは私だ。全部全部私のせいなのだ。私がもっとちゃんとしていれば、もっと傑を見ていれば、話を聞いていれば、手を伸ばしていれば、傑はそうすれば。


 蹲って泣きながら、首に爪を立てる。死にたくてたまらない。無力感に押し潰されて、傑の笑顔ばかりが思い出されて、自分が憎くて憎くて、殺してやりたいぐらいに疎ましい。

 いつの間にか檻の中に入ってきていたらしい五条に両肩を掴まれて、ぐっと勢いよく押し上げられる。真正面に飛び込んできたその顔を思わず見つめれば、確かめるようにして名前を呼ばれた。空色の瞳がぐらぐらと危うげに揺れている。噛み締められた唇が血の気を失っている。

 ああ、そうだ。この人、泣けないんだ。この人は泣くことも出来ないんだ。悲しむことも糾弾することも出来るけど、泣くことは出来ない。五条は最強だから、与えられてしまった人だから、持って生まれてきてしまった人だから、私の幼馴染は泣けない。

 それを思い出してしまった時にはもう手遅れで、止まっていた涙がまたぼろぼろと溢れ出す。泣き顔を見られるのが嫌で五条の肩に額を埋めて声をあげて泣いた。
 傑と違って五条は泣く私の頭を撫でることもしないし、背中に腕を回すこともしない。気を遣って声をかけてくれるわけでもないし、優しくしてくれるわけでもない。その違いをひとつひとつ認識する度に、傑を思って余計に涙が止まらなくなった。


 傑はいない。もう、どこにも。

 +

 硝子からの電話が入った時、私はちょうど楓と姪と三人で電車に乗っていた。どうにもその電話を取らなければいけないような気がして、乗車ルールなんて一切守らずに即座に応答ボタンを押す。

「あ、千里? 五条にも連絡したんだけど、夏油がいま新宿にいたよ」
「すぐるが……」
「そう。会いに行くのも行かないのも自由だと思うけど」
「……うん。ありがとう硝子」

 次の停車駅は、何の因果か新宿だ。本当の行き先はその先だったけれど、今この瞬間に私の行くべき場所は変わってしまった。電車の中では電話はダメだと私を叱り付ける姪の頭を軽く撫でてやって、ちょうど開いたドアから飛び出すようにして降車する。楓と姪が私を呼ぶ声は無視して、必死で人波を掻き分けて走った。時折転けそうになりながらも、自分でもこんなに早く走れるんだと驚くぐらいに懸命に足を動かす。

 行かなければ。早く、早く行かなきゃ。ここで会えなきゃ、きっと二度と会えない。傑に会えなくなってしまう。会いたい。なんだっていいから、今はもうどうなったっていいから、傑に会いたい。


 息せき切って改札を飛び出して駅構外に出て、咄嗟に左右を見渡してその人を見つけた。忙しなく行き交うスーツや私服の人々の中、傑は誰かを待つようにして壁に寄りかかっていた。私が傑を見つけてすぐに傑も私を見つけて、数秒間見つめ合う。しばらくしてから笑って手招きした傑の隣に大人しく歩み寄って、私も壁に沿って並んだ。顔は見ないようにして、前だけを見つめる。慌ただしい人々を見ていると理由もなく酷く泣きたくなったけれど、それを隠すようにして口を開いた。

「こんなに早く見つけられるなんて思ってなかった。どうして私がここの改札から出てくるって分かったの?」
「分かったというよりかは、なんとなくかな。千里ならここに来るような気がしたから待ってたんだけど、当たりだったね」
「本当にね。でも良かった。走って探すのは疲れるし」

 ぽろぽろと溢れ出した涙を隠しはせず、それでも心做しか明るい声音になるようにと気遣って返事をする。息継ぎの間に嗚咽が漏れそうになって、咄嗟に手の甲で口を覆って下を向いた。止まらない涙のせいで地面の色が変わっていくのも、だんだんと視界がぼやけてよく見えなくなっていく。

 傑はそんな私に小さく笑って、肩を寄せてきた。拒むこともせずにそれを受け止めて、スカートのポケットから取り出したハンカチを目元に当てる。嗚咽を噛み殺しながら、それでも必死で名前を呼んだ。

「すぐる」
「なんだい」
「……ここに居てっていったら、嫌いになってくれる?」
「ならないよ」
「…………連れて行ってって言ったら、連れて行ってくれる?」
「……千里」

 まるで小さい子どもに言い含めるようにして傑は私を呼んだ。そっと肩を抱かれて、私はとうとう嗚咽を咬み殺すことも出来なくなる。肩を抱いて頭を撫でて、私の名前を呼ぶ声は何も変わらず優しいままだ。なのに私たちは、もう一緒はいられない。気持ちは変わらないのに、想いは消えないのに、嫌いになんてなれないのに、それでも一緒にはいられない。


 周りから寄せられる興味津々な視線とか迷惑だとかいう舌打ちは気にせずに無視して、全身を傑に預けてわあわあと泣く。最近は泣いてばかりだ。傑と一緒に居られなくなってからずっとそう。変なプライドが邪魔して人前では泣かないようにしていたけれど、それもダメになってしまった。

 どうしてなんだろう。そばに居られるだけで良かったのに。二人でいることが幸せだったのに。花火だってしたかったし、お祭りだって行きたかった。秋には紅葉を見に行って、冬は雪遊びをして。次に来る三度目の春を、一緒に迎えたかった。それだけだったのに、それだけですらも私たちは叶えられない。私たちに次の季節は、もうない。私たちはもう一緒に居られない。

 傑は私を連れて行ってはくれないし、私は傑についていけない。傑は私を置いていくし、私は傑に置いていかれるしかない。ここで傑が、傑の目的だとか意思だとかを話してくれても、きっと私はそれを真の意味では理解出来ない。表面上わかったふりをすることもきっと出来ない。だから私たちはもう一緒に居られない。そばに居られない。一緒に生きていけない。

 声をあげて泣く私に何も言わなかった傑が、肩と頭から手を離して私の正面に立つ。大きくて暖かい手のひらが、ハンカチでは拭いきれない涙を掬いとっていった。そのまま人目なんて気にせずにキスをした。以前までならお互いを抱き締めあっていたであろう手のひらと手のひらを固く握り合わせる。ふしくれだった指を確かめるように摩って、絡めあって、どちらからともなく唇と手を放した。
 おわりだ。

「無茶はするなよ」
「しないよ。傑こそ……」
「私だってしないよ」
「……元気でね」
「ああ。千里こそ元気で」

 かき回すようにして頭を撫でられて、また言葉に詰まった。それでも必死で涙を堪えて、その姿を目にも記憶にも心にも焼き付けるために真っ直ぐ見つめる。最後に会ったあの日よりも随分と昔のように笑うようになった傑を見て、嬉しくもなったし悲しくもなった。私じゃダメだったのだと叩き付けられるようで、だけど傑が笑っている方が私は嬉しくて、相反するふたつの感情の狭間で胸が酷く痛む。

「そうだ、千里。ずっと言おうと思ってたんだが、冬はちゃんと防寒をするように。寒いのは苦手だろう」

 突拍子もないその言葉に、一年半前のあの冬の日を思い出す。星の綺麗な寒い夜に、吐く息も白く凍るようなあの二人きりの時に、私たちだけが引き戻されたような気持ちになった。堪えきれなかった涙がぽろりと頬を伝い落ちていく。それでも私も傑も、その涙を拭うようなことはしなかった。
 なんとか笑顔を作って、頷いてみせる。マフラーもするし、手袋もする。これからの冬は一人だ。そばに傑はもういない。手を繋ぐ口実に手袋を忘れてくる必要も、巻き直してもらうために不格好にマフラーを巻く必要も無くなる。これから私は、傑と一緒にいない道を、ひとりきりで歩いていくのだ。


 いやだと叫びたい衝動も、縋り付きたい気持ちも押し潰すようにして隠す。これが最後になってしまうのならば、笑顔で終わりたい。笑って、一番可愛い私で、傑が好きだと言ってくれた私で終わりに、したい。

「じゃあ、そろそろ行くよ」
「うん。じゃあね」

 傑はそれだけ言って、踵を返して人混みの中に歩を進めていく。私は一歩も動けずに、立ち止まったままその後ろ姿を見つめる。少しずつ二人の間に距離が出来ていく。傑が少しずつ離れていく。

 ……いかないでほしい。そばにいてほしい。

 どうしようもないぐらいに強く強くそう思った瞬間に、咄嗟に叫んでしまっていた。堪えきれなかった涙がまた頬を濡らしていく。

「待ってるから!」

 傑が驚いたように振り返る。目を見開いて、口も僅かに開いて振り返って、ぼろぼろ泣く私としっかりと目を合わせてからふっと破顔した。眉が下がる。そのまま何も言わずに、今度は一度も振り返らずに足早に人波に紛れて傑の背中は見えなくなった。私はもう立っていられなくなって膝を抱えて、壁に背を預けて座り込む。抱え込んだ膝に顔を押し当てて、何とか声を殺しながら泣いた。


 おわりだ。ほんとうの、おわり。私と傑の、おわり。
ふたつおりのひとひら