決して良いとは言えない夢を見て飛び起きた。夢で最後に泣いていたままに頬を伝い落ちていく涙を拭って、それでも止まらないからもう諦めてそのまま泣く。ひとりきりの部屋に嗚咽が響いて、それが虚しかった。
結局そのまま、二度寝をする気にもなれずにシャワーを浴びて朝食を作る。冷蔵庫を開けた時に偶然目についた卵を使って目玉焼きを作り、ホットコーヒーを温めながら手帳を捲って今日の予定を確認する。視聴者プレゼント用のクリスマスプレゼントを調達する生放送のロケが、十一時から入っていた。渋谷での撮影だから、クリスマス前であることもあって人は多いだろう。こんなことなら高専に行って子どもたちに修行をつけた方がマシだと思わずため息をつく。
高専に訪れること三回目でやっと、五条に乙骨くんを紹介してもらった。特級過呪怨霊を連れているだけのことはあって、本人のポテンシャルも高かった。獲物が同じく刀だということもあって、暇を見つけては高専に通って私が指導をしている。吸収が早くみるみる教えを身に付けてくれるので指導も楽しく、教師になるのも良かったかもしれないと思ったほどだ。
高専のみんなにもお土産を買っていこうと考えながら、温まったコーヒーを飲む。苦いものは苦手だけど、目を覚ますのにはちょうど良かった。高専に通っていた頃まではいつもココアばかり飲んでいたけど、今ではもうコーヒーばかりでココアは滅多に飲まない。幼い頃は大人の象徴であったコーヒーも、慣れてしまえば特別なものではなかった。
開きっぱなしだった手帳に、楓からもらったピンクのボールペンで一言二言書き足しておく。後輩たちにお土産。渋谷で調達。
今日はそれなりに綺麗に作れた目玉焼きをなんの感慨もなく食べて、空になったマグカップと一緒に皿をシンクまで運んだ。このあとのロケを思うとどうしても気が重くなるが、ドタキャンなんて出来るはずもない。恙無く終わりますようにと願って、蛇口を捻った。
最悪。地表を突き破って行きそうなぐらいに降下する気持ちを隠して、普段通りの取り繕った笑みを浮かべた。女優弘瀬千里お得意の、綺麗で穴のない笑顔だ。これを見せておけば大抵の話は流れるし、大抵の人間は誤魔化されてくれる。
スカートのポケットに入れたままの私用の携帯がひっきりなしにうるさく震えている。たぶん五条だろう。人の都合なんて考えずに電話を寄越し続ける知り合いは五条ぐらいしかいない。
急用だったら困るから確認したいというのが本音だが、ロケは終わりそうにもない。撮影中の連ドラの相手役である俳優がしつこくて、なんなら休憩中ですらも声をかけてきそうだ。冷静に考えて、共演者キラーにふさわしく私のことも狙ってきているのだろう。遊び人はタイプではない。
「えー、でも弘瀬さん絶対モテるでしょ!」
「それほどでもないですよ」
「彼氏とかいないんですか? いないなら俺、立候補しよっかな」
あーあ、とどこか他人事みたく考える。スタッフたちも困惑したような顔をしているし、この男のマネージャーも目に見えて顔を引き攣らせていた。
生放送なのに、こんなこと言ったら編集もできないんだから炎上するに決まってる。軽薄なバカに巻き込まれて私まで炎上するだなんてバカみたい。傍から見たら完璧に見えるであろう愛想笑いを繕って私も、自分のフォローのために口を開いた。
「私は今はそういうのはいいかなって。お仕事が楽しいですから」
「仕事が恋人ってやつ?」
「そんな感じ」
司会役の芸人がもったいないだのなんだと言って私をいじる方向へとシフトチェンジしたのを見届けて、私の仕事は終わりだ。なんだかんだと炎上はするのかもしれないけれど、あの男に興味は無いのだと示すことはした。本当に興味が無いしもしかしたらだなんてこともないんだから、当然のことだろう。
それにもしこの放送をあの人が見ていたとしたら、と思うと清廉潔白を心掛ける他なくなる。あの人と比べればその他大勢の有象無象なんて、塵みたいなものだ。今でもずっとそう。
芸人や俳優たちの話に相槌を打ってニコニコ笑っていれば、また私に会話が向かってきた。目立たないように、良く見えるようにと気遣いながら言葉を選ぶ。
「クリスマスプレゼントは、友人には渡します」
「へえ、何渡すんです?」
「お茶とか、お菓子とか……なるべく消耗品ですね。忙しくしてる人が多いので、後片付けの必要が無いものを選ぶようにしてます」
硝子も五条も忙しいから、大体はそうだ。楓にはそれなりにお高いお店のランチを奢ったりする。真希や恵くんにはお菓子を送り付けたり、七海や伊地知には時間と都合が合えば会って食事を奢る。私の友人関係は大体そこで完結しているから、その他の人間へのプレゼントなど考えたこともない。
毒にも薬にもならないような会話を続けていれば、またポケットの中の携帯が震えた。今度は随分長く続く。早く出ろということだろう。出たいのは山々だけれども、生放送ロケの最中に携帯を取り出して電話なんて許されることではない。終わったら出るからと心中で、恐らく電話をかけてきているであろう五条に謝った。
「その髪飾りは、誰かに貰ったものなの?」
私だ、と思った瞬間には後頭部に手を当てていた。指先が触れた小さなガラス玉の飾りがシャラシャラと音を立てる。頭の中では簪の姿ばかりが思い浮かんで、質問に対する最善の回答が何も思いつかない。焦るあまりに咄嗟に口を開き、閉じてを繰り返すことしか出来なかった。
「これ、は……」
「いや、弘瀬さんよくその髪飾りしてんじゃん。そんなジャラジャラしてるやつ付けるなんて想像出来ないから、選びそうにもないから貰いもんだから使ってんのかなーって」
興味津々、といった様子の俳優の笑顔に混じりっけなしの殺意が湧いた。後頭部に、簪に、あの人のくれたものに触れようと伸ばされた無遠慮な手を力強く叩き落とす。手を叩かれた俳優は顔を引き攣らせ、芸人たちも思わずと言ったように口を噤んだ。渋谷でのロケということもあって集っていた野次馬たちも一斉に静まり返る。やってしまったと思いながらも、私は口を開いた。
「壊れやすいんです。ご指摘のとおり人からの貰い物で、もうずっと大切にしているもので、替えがないんですよ」
任務で出向いた京の町であの人が買ってくれた簪だ。この世に一本しかない。実家では着物ばかり来ているという話を覚えていてくれて、似合うからと言って髪に差してくれた。あの人とデートに行く時は、いつも私はこの簪を髪に差していた。その度に似合うと言ってくれて、笑いかけてくれた。
思い出は消える。人は居なくなった人間の声から忘れていく。私もだ。声はもう思い出せない。忘れたくなかったのに、こうやって忘れていく。それでもあの人と過ごした日々の欠片がいろんなところに不完全な形で残っていて、それを見つける度に泣き出してしまいたくなる。
それがお前に分かるのか。お前がなんでもないとばかりに触れようとした私の簪が、あの人のくれた、私に残してくれた数少ない形に残った記憶の、思い出の重みが、何も知らないお前なんかに。
何か言ってやろうと口を開いた私を止めたのは再び震えた携帯と、背後を通り過ぎて行った集団だった。横断歩道付近で止まってしまっていたせいで、ちょうど信号が青に変わって渡ろうとした集団に背を押されたのだ。思わずよろけた私の背中を誰かが支えてくれる。大きな手のひらが私の肩に触れて、背を曖昧に撫でる。力強く引き寄せられる。
「失礼」
耳元でそう声がして、次の瞬間には身体に触れていた手が離れていった。それを皮切りにして、俳優と芸能人がわあわあとまた会話を始める。スタッフもカンペをめくって、次の撮影場所への移動を示される。
私だけが触れられた肩を抑えて、横断歩道の向こうへと渡っていった集団の背中を見つめ続けていた。携帯がずっと震えている。電話に出なくては。応答しなくては。緊急事態かもしれない。きっとそうだ。ううん、絶対にそうなのだ。
集団の中、女子高生二人に挟まれた笠懸姿の大きな背中が見える。集団から逸れていく。その先には脇道がある。信号が赤になる。車が視界を遮る。心臓が不自然に音を立てている。息が上手く出来ない。握り締めた肩が痛い。周囲の音が聞こえない。その背中しか見えなくなる。
あの人だ。絶対にそう。間違いない。間違えない。間違えられない。忘れられていない。ずっと覚えている。忘れられないままだ。待ち続けたままだ。変われないままだ。
声に深みが増した。手は少し、また大きくなったのかも。身長も伸びていた気がする。あの女子高生二人は一体誰なんだろう。どうしてあんな格好をしているんだろう。どこに行くんだろう。どこに行ってしまうの。どこまで行ってしまうの。
多分私の名前が呼ばれている。共演者たちにも、スタッフにも、野次馬にも、楓にも。肩を掴まれる。楓が私を呼ぶ。肩を揺さぶられる。楓が私を呼んでいる。携帯が震えている。信号が、青になる。
「待って!」
誰かの腕を振り払って、こんなに大きな声が出るんだと他人事のように思いながら、縺れる足を必死で動かして走り出した。横断歩道を渡る人を押しのけるようにして脇道に逸れていったあの人の背中を追う。力を込めて握り締めすぎて多分血が出ている肩の痛みだけが、私を正気で居させてくれる。
もう蹲って泣き出したい。足を止めたい。頭をかち割って、首を引き裂いて、心臓を貫いて、死にたい。もうなんだっていいから死んでしまいたい。どうして生きているんだろう。なんでここまで生きてきてしまったんだろう。全部無意味だった。無駄だった。何の意味も意義もなかった。
必死で走って勘ばかりを頼って曲がり角をいくつか曲がったところで、誰かの背中に勢いよくぶつかった。よろけた私の手のひらを、振り返ったその人が引く。大きな手のひらが私の手を握る。空いた手が迷うように空中をさまよっていた。
思わず、何も言えずにその人を見上げる。私を見下ろす瞳に映るのは、なんでか優しさの色だった。あの日、十年前のあの日、行く道を違えてしまったあの日、待っていると言うしかなかった馬鹿でクズでゴミみたいで死んだ方がいい私を見つめたあの時と同じ、優しさの篭った瞳だ。声を忘れても匂いを忘れても記憶すら薄れていっても、ずっとずっと私の中に残り続けた瞳の色。
次の瞬間には私は泣き出してしまっていて、その人は困ったように笑いながらそれでも私の体を抱き締めた。握りあった手のひらはそのままに、お互いに空いた腕だけで抱き締めあう。何度か名前を呼ばれた。呼び返す。懐かしむような、慈しむような、愛おしむようなその声に余計に涙が止まらなくなった。
名前を呼び合いながら抱き締め合う間にも、私の携帯は震え続けている。電話に出なければいけないとは思うのに、そちらが正解だと分かっているのに、動けそうにもなかった。離れられそうにない。そばにいたい。ずっと一緒にいたい。離したくない。
「本当はもう、あの日、千里への気持ちも全部捨てたつもりだったんだけどな」
「すぐる」
「でも至る所に千里がいるだろう。モデルになったと思ったら女優にまでなって、今日だって会うつもりなんてなかったんだよ。なのにあんなところにいたものだから」
「すぐる……」
「千里の待っていると言う言葉も、聞き流せばよかった。連れて行くことは出来ないし、もう私たちの道は交わらない。千里はさっさと引退でもなんでもして誰かと結婚して、子どもを産んで、そうして生きていてくれればよかった。例えば悟とか」
「五条はいや」
「あはは。千里ならそう言うだろうと思ったよ。きっと悟も千里は嫌だと言うんだろうな」
わかったみたいなことを言って、その人は、傑は勝手になにかに納得して笑う。私を抱き締める腕の力を強めながら、それでも私と別の誰かの絵に描いたような幸せな物語の話をする。私たちにはもう二度と訪れない、おとぎ話の結末のような、誰もが羨み祝福する素敵なハッピーエンド。架空の世界の王子さまとお姫さまには当たり前みたいに与えられるのに、現実で足掻くしかない私たちには絶対に手に入れられない理想の終わり方。
私は傑への気持ちを捨てなければならないし、傑も同じように私への気持ちを捨てなければならない。十年も前から決まっていた辻褄合わせの私たちの終わり方だ。現実に抗えるのはもう終わり。私たちは離別を選ばなければならない。分かたれてしまった道を進んだ傑と、分かれ道で立ち竦んだままの私は、行く道だけではなく心も離別を迫られる。終わりがすぐそこに来ている。
待つのは終わりだと、待ち続けられる時間のタイムリミットが私たちのすぐ後ろにある。現実を受け止めて、前を見て、進まなければいけない時がやってきてしまった。傑はそれを選んだのだ。鳴り止まず震えを止めない携帯は、つまりはそういうことだ。五条がこんなに必死になって電話をかけてくることなんて、これまでになかった。そして多分この先にももう二度とない。これが最後だ。傑はその引き金を引いた。この先に待つのはハッピーエンドでもトゥルーエンドでもない、二度と交わらない道のどちらかが途絶えたバッドエンドだけ。
終わらなければならない。終わりにしなければならない。十一年目はない。十年で終わりだ。一緒にいた三年間よりも、離れて暮らした三倍の日々の方がもう長くなってしまった。傑のいない日々を当たり前になんて出来ないまま、待つと言ったあの日のまま、背中を見送るしか出来なかったあの日のまま、今やっと動きだした私たちだけの時間を、私たちは私たち自身の手で止めなければいけない。
だけど止められない。だって本当は、呪詛師と呪術師がこんな風に抱き締めあうなんて言語道断だ。忘れられなかったなんて許されることではない。忘れられないだなんて認められることではない。私たちには憎しみあい、殺し合うしか道はない。なくなってしまった。傑が呪詛師で、私は呪術師だから。そうなってしまったから。
だからって嫌いになるなんて出来ない。離れるだなんて出来ない。終わらせるだなんて出来ない。忘れたり出来ない。したくない。傑が居なければ生きていけない。傑との完全な終わりを選んだ私には何も残らない。傑に出会ってからの私は、全部が全部傑を愛した私だった。傑を愛した私しかもうここには残っていない。それなのに、傑との全てがなくなってしまったら、私は、もう、生きてなんていたくない。
「時間だ」
「すぐる、すぐる……」
「千里」
「……すぐる」
「私が千里を離して、あの曲がり角を曲がったら、私たちはもう敵同士だ。元からそうなるべきだった。あの日、そうやって終わりにするべきだったんだ」
「いや、いやだよ、傑」
「私は千里を憎めないし、嫌いになんてなれない。だけどもう一緒にいることは絶対に出来ないんだ」
「傑……!」
「……きっと寒いのは苦手なままだろう。防寒は忘れちゃダメだよ。じゃあね」
名残惜しむようにして傑は一度私を骨が軋むぐらいに強く抱き締めて、そのまま、あの日と同じように足早に去っていった。あの日と同じような言葉を残して、私の声なんて聞かないで、もう二度と待っているだなんて言わせないようにして、行ってしまった。
なのに、もう待つなだなんて言わなかった。一緒にいることは絶対に出来ないと吐き捨てたくせに、終わりにするべきだったと言ったくせに、敵同士なんだと断言してみせたくせに。結局傑は優しいままだった。変わらないままなのだ。そうして酷いまま。分かっているくせに。分かってたくせに。
待つなと言ってくれなきゃ、嫌いだと言ってくれなきゃ、憎んでいると言ってくれなきゃ、私は傑を嫌いになれない。忘れられない。前になんて進めない。傑を待ち続けるのをやめられない。傑を好きでいるのをやめられなくなってしまう。
私の名を呼ぶ楓の必死な声が遠くから聞こえる。わざと残していったのであろう呪力が手のひらにも、背中にも残っている。それだけは変わらなかったから、変わらないままだから、忘れられないままだから、ずっと記憶に鮮明に残ったままだったから、私はあの横断歩道で身体を支えられた時に分かってしまったのだ。
声も匂いも記憶も忘れても、思い出が消えても、顔だってだんだんと写真がなければ正確に思い出せなくなっても、呪力は忘れられなかった。傑の後ろ姿も、振り返って差し伸べられた大きな手のひらも、私に向けられた笑顔も、優しい瞳も、呪力も、何も変わっていなかった。変わってくれていなかった。あの日のままだった。私たちは変わらなければならないのに、変わってくれやしなかった。
楓の声と足音が近付いてくる。壁に背を預けるようにして座り込んだ。そのまま蹲る。嗚咽を漏らしながら首を掻き毟る。死にたい。死んでしまいたい。もうなんだっていいから、ここで死にたい。
傑と一緒にいたい。そばにいたい。ありふれた願いのはずだ。誰だって愛する人と共に生きたいと願うはずだ。なのに、なんで。どうして。
涙が止まらなくて思考もまとまらない。泣きすぎて頭も痛い。投げ出してきてしまった生放送ロケはどうなるんだろう。もうモデルも女優もやめてしまおうか。これまであんな面倒なことを続けてきたのは、ほとんど、傑に私を見つけてもらうためだ。そして傑はちゃんと私を見つけてくれていた。でももうこの先、そんなことに意味は無い。意味があってはいけない。
楓の声が聞こえる。首に当てていた手を引き剥がされて、そのまま背中に覆い被さるようにして抱き締められる。楓も泣いているみたいで、だんだんと背中が濡れてきた。何度も名前を呼ばれて、手を握られて、でも私の涙はもう止まりそうにもなかった。
傑はもう、私を抱き締めてはくれない。私たちは終わってしまった。不完全で歪で無意味な、そんな終わりだ。