「イザナのこと愛してるから殴る。お兄審判やって」
「お前がイザナを殺さないように見張る役やれって?」
「愛してるって言ったよね? 殺し合いするんじゃないよ。イザナと私の兄妹喧嘩。獲物はなし、観客も身内だけ、イザナに遭遇した瞬間にスタート。どう?」
「いやどう? ってなんだよ。お前それオレがやめろって言ったら止まるか? 止まらねえだろ」
「話聞いてた? 止めてなんて頼んでないよね。審判やってって言ってるんだけど。うんやってくれるよねありがとう。じゃあこれから暫く私と一緒に動いて」
「勝手に決めたよ……オレ受験生だぞ」
「放課後でいいよ。受験生って言っても勉強なんてしてないんだからどうせ暇じゃん。チームの舎弟に黒龍のシマ探らせててさ、なんとなく拠点は分かってるわけ。短期決戦で決めるから」
入院生活七日目、退院日。相変わらず全身包帯とガーゼでぐるぐるだが退院の許可は降りた。もう転けるないでくださいねと看護師さんたちだけでなくお医者さんにも言われてしまったので、努力はしようと思う。次からは私ではなく、殴ってきた相手を入院させます。
迎えに来てくれた兄が家から持ってきてくれたトレーナーとスキニーを履いて、私物や見舞い品を纏めてくれている後ろ姿を見つめる。ちょっと痩せた気がする。私が心配で食事に手がついていないと見舞いに来てくれた祖父と母は言っていたけれど、どうやら本当だったらしい。まあそれでもデブだから私じゃない人が見ても痩せたなんて感じないだろう。これを機にダイエットすればいいのに。痩せれば絶対私にそっくりになるから、案外モテるかもよ。
そうだ、祖父と母と言えば、だ。母はさすが私の母というかなんというか、転けたなんて言い訳は最初から信じていなかったし、真の原因ですらもなんとなく分かっているようだった。だから「次は怪我はしないようにね」と言ってきたし、私もそれに頷いた。本当は喧嘩なんてやめてと言いたいんだろうけど、それは無理だ。こればかりは譲れない。母はそこまで分かっているのだろう。
祖父は祖父でどこで情報を手に入れたのかはっきりと「黒川イザナだな」と言ってきたし、さすがの私も祖父にイザナに何かされたらたまったものでは無いので何もしないでとお願いしてしまった。「普通」に近付くことになったとしても、お願いしないわけにはいかなかった。
でも私が一言お願いしただけで大人しく引いてくれたのには、嫌な予感がしている。だって普段の祖父なら絶対に引いたりしないし、分かってるんだよなとかなんだとか脅しをかけてくるはずなのだ。祖父は私たちが灰谷兄弟と関わることは許してくれたけれど、それは彼らが絶対に越えてはならないラインである「薬、レイプ、殺し」のひとつしか破っていないから。そして一度破ったそのひとつも、私が絶対にもう二度と破らせないと誓っているからだ。祖父は灰谷兄弟を信じたのではなく、私の誓いを信じた。
それに灰谷兄弟はチームに入っていないし、チームを持っていない。だから下の人間の罪を咎められることがないのだ。でもイザナは違う。イザナが継いだ黒龍は日に日に荒れて行き、七代目からその座を奪って一ヶ月もせずにここまで出来るのは逆に凄いと感心してしまえるような惨状を作り出してる。既に祖父の定めるデッドラインのふたつには手を染めている。あとひとつは最低限の倫理観が稼働しているのか未だに話を聞いていないが、このままでは危険だ。
私たち兄妹の下の人間のやらかしたことは上の人間が責任を持つべきという考え方は、祖父譲りのものである。つまり祖父は黒龍の下っ端たちのやらかした犯罪を、イザナに償わせるという考えを持ち合わせているのだ。私だって罪に罰は必要だと思うし、言葉で止まらない馬鹿につける薬はないから手足を潰すしかないとも思う。でも祖父のやり方じゃ、本当に罰が必要な人間が裁かれず、イザナのぺしゃんこになった心に苦しみだけがのしかかって、もっとダメになってしまうことは目に見えている。
イザナに必要なのはアメとムチだ。ムチは二年前に違った通り、私の愛のムチがものをいう。アメは愛。もう二度と血が繋がってなければ家族じゃないなんて言わせない。次そんなことを言ったら舌を引っこ抜く。もう勘弁ってぐらい愛を与えて、信じられるようになるまでずっとそばで愛してるって囁いて、離れていたって疑えないぐらいイザナの全身を愛に浸してやる。
だから祖父にここで首を突っ込まれるわけにはいかないのだ。でもだからって素直に引かれても気味が悪い。なにか余計なことを企んでいる気しかしない。
そんなことを考えながら、荷物をまとめ終わってベッド回りを確認している兄を見る。うーん、相変わらずの巨体。今から相撲部屋に入って力士になれば良いんじゃないかな。体型を活かせるし、わりと強そうだ。
私の視線に気付いたのかこちらを見た兄は、動く気もなく座っているだけの私にため息をつく。仕方ないじゃん。これでもこの一週間で体力めちゃくちゃ落ちたんだからね。元に戻すまでにかかる時間を思うと憂鬱で憂鬱で仕方が無いから、今ぐらい楽をさせてほしい。
「終わった?」
「ああ、終わった。母さんたち下にいるから俺たちも降りるぞ。っていうかそういえばリコお前、竜胆に退院するって連絡したのか?」
その名前を聞いて、立ち上がりかけていた体勢のまま一瞬止まる。ぎゅっと握り締められたみたいに胸が痛んで一瞬息が出来なくなって、返事をするタイミングを逃した。思わず兄から目を逸らして下を向けば、わざとらしいぐらいに大きなため息を向けられて、また座り込む。
連絡なんてしてないって、出来てないって分かってるくせにこういうことを言うのだ。酷い兄。
入院生活五日目に竜胆くんと喧嘩別れみたいなことをしたあとから、私は竜胆くんに一度も連絡をしていないしメールも送っていない。同じように竜胆くんからも何の連絡も来ていない。私からは送っていないくせに、竜胆くんから何も連絡が来ないという事実を思い出すだけで泣きたくなるからこの二日間は考えることもやめていた。でもやめられなくてすぐ竜胆くんのことを考えて苦しくなって、余計に連絡が出来なくなっている。
要は私は、竜胆くんに嫌われたと思って怖気付いているのだ。電話をして竜胆くんが出てくれなかったら、メールを送っても竜胆くんから何も返ってこなかったら、竜胆くんに嫌われて見捨てられてしまったら。私からの行動に何も返ってこなかったその時から、竜胆くんが私に何も返さないことを選んだその時から、竜胆くんが私を嫌いになったことは事実になる。
嫌われたくない。見捨てられたくない。心配をかけたくない。竜胆くんに関わることでは私はすぐにわがままになってしまって、そんなわがままを知られたら嫌われるんじゃないかと余計に怖くなる。無欲なフリをして、平気なフリをして、痛いのも苦しいのも隠して、それしかやり方がわからない。そうしていなければ竜胆くんを繋ぎ止めていられない。
だって最初から、結局私のわがままで始まった関係なのだ。はじめてのお友達に舞い上がって振り回して、竜胆くんはそんな私のわがままをずっと受け止めてくれた。竜胆くんの隣にいることを望んだ私を、竜胆くんは受け入れて、そばに置いてくれた。だからこれ以上はもう望めない。望んじゃいけない。今までだって十分すぎるぐらい竜胆くんに迷惑をかけたのに、これ以上はもう、ダメなのだ。
そんなことをぽつりぽつりと泣きそうになりながら兄に言えば、また大きくため息をつかれる。でも私は竜胆くんに嫌われることがやっぱり怖い。竜胆くんに嫌われてしまうかと思うと、何も出来なくなってしまう。
「なんでそんなめんどくせえ考え方すっかな……」
「だって、」
「あー、いい、言わなくていいから。あのよ、最近よくイザナに愛してるって言ってんじゃん。それと一緒だろ」
「……ちがう」
「何がどう違うんだよ」
「分かんないよ、そんなの……でも、竜胆くんは違うの。イザナとも、お兄とも違う。みんなと違う」
「嫌われたくないんだろ? 見捨てられたくなくて、心配かけたくない。イザナにもオレにもそう思わないのか?」
「ちょっとは思うけど、でも、お兄もイザナも家族だもん。それにお兄は絶対私から離れたりしない。私が弱くたって、ダメダメだって、そばにいてくれる」
「竜胆だってそうだよ」
「そんなのわかんないよ……」
「オレには分かるよ。竜胆だって、リコがどんなに弱くたってダメダメだって泣き虫だって、絶対に離れたりしない。竜胆はお前のそばにいる」
「……」
「一回ちゃんと腹割って話せよ。思ってることちゃんと伝えろ。な?」
「……むり、こわい。むりだよ」
怖い。竜胆くんに嫌われることが怖くて怖くて堪らない。全部伝えて離れていかれたら、どうやって生きていけばいいのか分からくなる。イヤイヤと首を振れば、兄はまたため息をつく。
そもそも、なんで兄が竜胆くんの気持ちをわかったみたいに話すのかがよく分からない。こういう時だけ兄ぶって、全部わかってるみたいに私を諭して、素直になれと何度も言う。いつだって、兄はそういう人だった。
絶対に首を縦に振らない私に痺れを切らしたのか、兄はもうやけくそだとばかりの声音で私の名前を呼ぶ。潤む瞳で兄と目を合わせれば、なんとも嫌そうな顔をしていた。
「リコ、お前もなんとなく気付いてんだろ。じいちゃんがお前があーだこーだ言っただけで素直に引くわけねえんだよ。あの人はそういう人じゃねえ」
「……お祖父ちゃん、なんか言ってたの?」
「ああ。お前には言うなって言われてるけどもう言うわ。あのよ、お前がイザナにもし負けたりしたら、俺たち東京から出ることになってる」
「…………は?」
「じいちゃんの別荘が九州のどっかの島にあんだろ。警察やめて俺たち二人連れてそっちに引っ越すって。リコも行ったことあるから分かるよな、あの島一日一本しか船とか出ねえし、多分ろくに外にも出れなくなる。島の中学と高校に入って、オレがもし大学行くってなったら島出て九州のどっかに引っ越して、お前が就職するまで何があっても東京には行かせないってさ。電話もメールも手紙も一切なし。母さんと父さん以外とは連絡もダメ」
そこで一旦兄は口を閉ざす。私はと言うと、開いた口から音にならない呼吸が漏れるだけで何も言えなかった。ぐるぐるぐるぐると頭が回っている。だってそれってつまり、そういうことだ。
イザナに負ける気なんてない。あの大雨の中私を殴ったあれがイザナの全力ならば、悪いけれど私の敵じゃない。絶対勝てる自信がある。もしあれ以上の力を溜め込んでいたとしても、私だって本気でやる。恐らく心身の調子を崩しているであろうイザナに、たとえ怪我をしていても一度殴り倒すと決めて誓った私が負けるわけがないのだ。
でも、でももし私がイザナに負けてしまったら? 私が就職するまで、早くてあと五年。大学に行けば九年。その間私は東京に戻って来れない。誰にも会えないし、連絡を取れない。それだけ長い間会えなかったとして、東京に帰ってきたからって普通の顔をして会いにいける? そんなの無理だ。時間が経てば人は変わる。人が変わるだけの時間、そばにいられなかったとして、私は──
「分かるよな、リコ。オレはお前を信じてる。お前はイザナに勝つだろうよ。でもよく考えろ。今のお前が、このまま、もう二度と竜胆に会えなくなる可能性だってあるんだ」
「なんで、そんな……」
「じいちゃん相当イザナを警戒してんだよ。お前は殴って止めるって言うけど、もしそれが無理だったらそれってもう手が付けられないってことだろ。マンジローぶつけてどうにかするか?」
「そんなこと、出来ない」
「だよな。オレたちも今のイザナにマンジローぶつけようなんて思わねえよ。で、お前がもし負けたりしたら、手付けらんねえイザナはもっと暴れるよな。だからもうオレたちをイザナのそばには居させない。ついでに蘭と竜胆からも引き離す。そうすりゃ、オレたちはじいちゃんの望む『普通』になる」
まあじいちゃんには都合がいいよなと兄は腹立たしげに言って、ガシガシとつま先でサイドテーブルを蹴る。私はそれを呆然と目で追いながら、兄の言葉を何度も頭の中で復唱していた。
会えなくなる。このまま竜胆くんに、もう二度と。
そんなの嫌だ。竜胆くんにそばにいてほしい。竜胆くんのそばにいさせてほしい。嫌われたくないと思うのと同じぐらい、竜胆くんのそばにいたいと思っている。
頭の中の天秤がゆらゆら揺れている。どちらにも同じだけ重しを積み重ねて、ぐらぐらゆらゆら揺れて、あとひとつ、最後に重しが乗ればどちらかに沈むようにして傾く。
「お前、結構こういうこと後に回すもんな……よし、今ここで決めちまおうぜ」
「今、ここで……」
「別に今日じゃなくていいから、イザナとぶつかる前に竜胆に連絡するのかしないのか」
「……」
「選んでも選ばなくても後悔するなら、悩まずに決めろ。どうなったってオレはお前から離れないよ」
「…………」
「まあ竜胆も離れないだろうけどさ」
「……なんで?」
「なんでって、決まってんだろ。竜胆だってお前を大切に思ってるからだよ」
「竜胆くん、だってって、何」
「そりゃ、お前がそうだからだろ。お前は竜胆のことが大切なんだよ」
「大切」
「そう。それで、竜胆のことが好きなんだろ」
のろのろと兄を見上げて瞬きをする。その言葉が不思議とストンと胸に落ちて、堪えきれなかった涙が頬を伝い落ちていった。天秤が、傾く。
+
「……もしもし、竜胆くん? 突然ごめんね。忙しい時間だったかな。……あのね、私、一週間前に退院したの。心配してくれたのに、何の連絡もしないでごめんなさい。退院の報告が遅くなったのも、ごめんなさい。……怖かったの。竜胆くん、私のこと心配してくれたのに、私あの時嘘をついたから。私のこと嫌いになったかなって。…………きっとなったよね。あんな嘘ついたんだもん、なるに決まってる。本当にごめんなさい。許さなくていいから、聞いて欲しくて、留守電を残してます。私のあの怪我は、まあ分かってたと思うんだけど転けたんじゃなくて、イザナ……分かる? 黒川イザナ。幼馴染みなんだけど、そいつに殴られたりしてあんな感じになっちゃったの。今思うと転けたとかわかりやすすぎる嘘だよね。竜胆くんが怒って当たり前。あの、ほんとに、ごめん。……結局、怖かっただけなんだ。今度誰かを傷付けるなら私が殴って止めるって約束してたのに止められないし、止めるどころか私の方がボコボコにされちゃうし、気を付けろって竜胆くん言ってくれてたのに、私、全然守れなかったし。……あのさ。なんにも相談してないで竜胆くんに内緒にしてたのに心配してくれて、嬉しかったの。おかしいよね。心配かけたくないのに、竜胆くんに心配されて嬉しいとか、ほんと、おかしい。…………ねえ竜胆くん。私、竜胆くんに嫌われたくない。見捨てられたくないの。だから弱いところとか見せたくないし、わがままもあんまり言いたくない。心配かけたくない。もう遅いとは思うんだけど、私はずっと、竜胆くんに嫌われたくなかった。わがままばっかりで面倒だったよね。嘘もつくし、なんにも言わないし、弱いしさ。でもこれが最後かもしれないから、言わせて。ここから先は聞かなくていいよ。わがままばっかりだから。…………あのね、ほんとは、痛かったの。大したことない怪我って言ったけど、嘘。あんまり痛くないって言うのも、嘘。嘘ばっかり。あんなに一方的に全身やられたの実ははじめてで、本気で殴られたあとって、あんなに痛いんだね。本当は今もちょっと痛い。……今のもまた嘘。普通に、痛いよ。ねえ竜胆くん、どうしよう。私竜胆くんには強がりしか言えなくなっちゃったかも。…………もう聞いてない? 切ったかな。言っても、いいかな。…………竜胆くん、頑張れって言って。もう引かないって決めたけど、ダメだよね、普通に怖いの。痛いのは嫌。苦しいのも嫌。辛いのも嫌。わがままばっかりで、ほんと、自分が嫌になる。でも怖い。だからお願い、頑張れって言って。エマちゃんと約束したの。私がムチで、エマちゃんたちはアメ。愛してるって伝えてあげてって、そのために私がイザナを絶対エマちゃんのところまで連れていくって。……だから、竜胆くん、もう聞いてないとは思うんだけど…………頑張れって………………頑張れって、言ってほしくて……そしたら、きっと、弱い私を隠せるから、強い私に、なれるから、……泣かないで、頑張るから…………ねえ、竜胆くん、お願い……嫌いにならないでよ……ひとりにしないで。竜胆くんのことが好きなの。大好き。一緒にいたい。離れたくないよ。……一緒じゃなきゃやなの…………なんて、聞いてないよね。聞きたくも、ないよね。……切るね。本当にいろいろごめん、竜胆くん。ばいばい」
+
『ッ、ガリ男⁉︎ なあリコどこ⁉︎ 電話全然繋がんねーしメールも見てないっぽいし』
「あ? 竜胆? めちゃくちゃタイミングいいじゃ〜ん」
『は? なに? 兄ちゃん? なんで兄ちゃんが、いやどうでもいい、リコは、』
「まあまあ、落ち着けって。今オレら渋谷。黒龍の連中が使ってる廃車場わかるか? そこで今ガリ子とイザナとマンジロークンがやり合ってる」
『リコ、怪我は⁉︎ 退院したばっかだろ、あんなに怪我してたのに、そんなまた』
「まあ結構食らってっけど、そこまで酷くないんじゃね? うまくガードしてると思うし、アイツやっぱ強えよ。あのイザナ相手にこのままだと余裕で勝つぜ」
『やっぱ怪我してんのかよ……! あの馬鹿……! 兄ちゃんオレ今からそっち行くから! リコにもう怪我させないで! あと、俺絶対に頑張れなんて言わないから、無茶すんなって伝えて! 今すぐ!』
「は? おい竜胆そりゃ無理だって……うわアイツ切りやがった」
「竜胆なんて?」
「よく分かんねえけどガリ子にこれ以上怪我させんなってさ。あと頑張れって言わないって。めちゃくちゃ焦ってたし心配してたぜ。今から来るらしい」
「今から? 着く頃には終わってそうだな……ってか、お前これ以上怪我させんなって言われたんだろ。止めにいけよ」
「いや冗談やめろあそこ突っ込んでったらオレが死ぬわ。はあ〜、ほんと下は手がかかんなあ。兄ちゃんたちが背中押してやんなきゃいけねえかあ」
「よっ兄ちゃん天下一」
「茶化すな茶化すな。……お〜いガリ子! 竜胆から伝言! 絶対頑張れなんて言わないって! あと無茶すんなってさ〜! うわ、マンジロークン片手で止めてるよ。……は? 何今の。獣か?」
「……なんだアレヤベェ、ほんと獣か?」
「ガリ男お前の妹ヤバくね?」
「何も言えねえ」
+
ぼろぼろ溢れてくる涙を拭って、携帯を閉じる。勇気を振り絞って留守電を残したけれど嗚咽できっと聞き取りづらかっただろうし、言いたい事の半分も伝わらないだろう。そもそも竜胆くんが聞いてくれるかも分からない。聞いてくれない可能性の方が高い気がする。
でも言葉にすることに意味があると兄は言っていたし、もう退院して一週間だ。さすがにこれ以上引き伸ばすことは出来なかった。それに思っていることを伝えられないままで終わる事の方が怖かったのだ。私の天秤はもうそちらに傾いた。最後に乗せられた重しが皿を固定して、きっともう二度とこの均衡が崩れることは無い。
せめてどうか謝罪だけでも聞いてくれますようにと祈って、膝を抱える。せっかく佐野家でエマちゃんと鶴蝶くんとのお泊まりなのにこんな顔で二人の前に出ていったら余計に心配をかけてしまう。シンイチローくんの店に二人が顔を出しに行っている間になんとか泣き止まなくては。
すんと鼻を鳴らして顔を洗うために洗面所を借りようと立ち上がる。ちょうどその時、床に放り出していた携帯が着信を告げた。もしかして、竜胆くん? 飛び付くようにして携帯を開く。相手を確認もしないで即座に応答ボタンを押した。
「もしもし、あの、」
『リコ! 今どこ⁉︎』
「……エマちゃんのお部屋だよ、鶴蝶くん。何かあったの?」
『マイキーがイザナに喧嘩売ったって、乾くんが』
「…………は?」
竜胆くんではなかったことに失礼にも沈んだ思考が、続いた鶴蝶くんの言葉にピシリと固まる。急速に涙が引いていき、頭が切り替わり、手の中の携帯がバキリと音を立てた。マイキー……マンジローがなんだって? イザナに喧嘩を、は? マンジローが? イザナに? 喧嘩を?
何も言わなくなった私を無視して鶴蝶くんはわあわあと声を上げる。途中まで迎えに来てくれたというシンイチローくんと三人で店に向かっていれば、数週間前に黒龍に入ってから店にも顔をあまり出さなくなっていたワンちゃんが慌てたように駆け寄ってきたのだと言う。曰く、マンジローが単身集会中のイザナの元に乗り込んできて、名乗りあげてから喧嘩を売ったと。イザナはその喧嘩を買ってチームの人間を全員追い出し、止める間もなく喧嘩になった。下手したらどちらかがどちらかを殺しかねないと思ったワンちゃんは慌ててシンイチローくんにそれを伝えに来た、と。
シンイチローくんはそれを聞いてエマちゃんと鶴蝶くんを置いてワンちゃんと現場に走っていってしまったらしい。エマちゃんと鶴蝶くんも慌ててそれを追いかけながら、私にことを伝えるために電話をかけてきた。
携帯がまた軋む。このままじゃ粉砕しかねないとなんとか力を調整し、一周まわって落ち着いてきた思考で、マンジローはどこでそれを知ったのかと考える。一体どこでイザナのことを知った? いや、シンイチローくんが軽く話したとは言っていたから、知っているのはおかしいことではない。では何故、今喧嘩を売った? これまでは何もしていなかったのに、何故。
聞けば名乗りあげ方からしてシンイチローくんとイザナの関係も、エマちゃんとイザナの関係も、私とイザナの間にあったことも知っているようだったらしい。私は教えてなんていない。エマちゃんと鶴蝶くんも言ってなんていないはずだ。シンイチローくんとは今日、それこそ今日の晩にでもマンジローにも話をしようと約束していた。兄が話すわけがない。佐野のお爺様、師範も話したりしないだろう。
いや、思い出せ。数ヶ月前にマンジローに焼きそばを作ってあげた時、マンジローは私に何かを言おうとしていた。あれがイザナのことだったとしたら? 前々から気にしていたのに、今回の私とイザナの件をどこかで知ったのだとしたら? マンジローならば、イザナに喧嘩を売ったとしてもおかしくない。イザナがそれを買うという確信だってあったはずだ。
ぐるぐると忙しなく回る思考を落ち着かせようと深呼吸をする。私が今すべきことはなんだ。私のしなければならないことは。というかなんでマンジローは私抜きで勝手に話を進めるのだ。
「場所は?」
『廃車場って言ってた!』
「ああ、そこなら分かる。鶴蝶くんたちも分かるね? 現場についても、絶対に二人を止めようとなんてしちゃダメだよ。ワンちゃんが殺し合いに発展しかねないっていうレベルだ。危ないから、絶対に離れたところにいて」
『……リコ?』
「アイツら二人は、本当いつまでたってもガキ臭い。普通に考えたらわかるだろうに。……一人、その場にいるべき人間を置いてってるよね」
『えっ』
「シンイチローくんたちから離れないようにね」
それ以上は何も聞かずに電話を切って、立ち上がる。服装は問題ない。竜胆くんに会わないなら可愛い格好なんてする必要も無いので、基本はトレーナーにスキニーで、今日もそうだ。十分動ける。怪我は完治していないから全身まだ痛いけれど、それもきっと大丈夫。体力も落ちたけれど、退院してからの一週間で取り戻せる分は取り戻したつもりだ。兄に経緯と場所だけをメールで伝えて、足早にエマちゃんの部屋を出る。
殺し合いに発展しかねない、という言葉だけで十分だ。誰かがそう判断した事実だけで事足りる。大切な人が人を殺そうとするなら、誰かを傷付けようとするなら、ボコボコに殴ってでも、手足を潰してでも、立ち上がる気力を奪ってでも止めると誓った。イザナもマンジローももう私の制圧対象だ。言葉で止まらないなら殴って止める。私は何度もそう言った。予告していた。
私の覚悟を甘く見すぎだ。心が折れたとでも思ったの? もう私がダメになったとでも思った? 何度か殴られて病院送りにされたぐらいで? 馬鹿にするなよ。
佐野家を飛び出して全速力で住宅街を駆け抜けながら滾る怒りを無理矢理押さえつける。爆発する瞬間は今じゃない。もう少しあとだ。今日ほど走るのが早くて良かったと思ったことはないかもしれない。現場である廃車場はそれほど遠くない。私が全速力で飛ばせば十分もかからないだろう。つまり爆発すべきなのはその時、その瞬間。
痛いのは怖いし、苦しいのも嫌だ。辛い思いはなるべくしたくない。竜胆くんに残した言葉が私の本音。だけど、だからって、止まったりなんてできない。止まってなんてやるものか。そもそも私、多分自分じゃ止まれないし。私がそばにいれば足を止められるあの人には、もう嫌われてしまっただろうし。
そう考えている間にも、廃車場に辿り着いた。久しぶりに全力で走ったせいで痛む肺を抑えて上がった息を整えながら、黒い特服を着込んだ不良たちの間を縫ってその輪の中心に向かう。観客はいらないんだけど、コイツら帰ってくれないかな。
仮にも総長であるイザナのタイマンに割り込もうとしている私を止めようとしてくる雑魚共を突き飛ばし、殴り飛ばし、蹴っ飛ばして投げ飛ばしながら奥へ奥へと進む。最後に前に立ちはだかってきた副総長だという男はあーだこーだうるさかったから、真正面からその鼻っ柱をへし折ってやる。
「ガッ……! テメェ何すんだ、」
「何回も言ってんだろ、邪魔なんだよ。消え失せろって言わねえと分かんねえのか? 私は今、イザナとマンジローに用があってここに来てんだ。もういっぺん言うけどさ、邪魔なんだよ。失せろ」
鼻を折られても怯まないその精神は評価するが、今は邪魔だ。邪魔でしかない。私はお前の後ろで仲良く殴りあっている兄弟に用があってここに来ていて、お前たちには用はない。お前たちがここにいる意味もない。立ち上がって拳を振り返ってきたそいつを一本背負いで投げ、怯んで私に手を出してこない雑魚共に顎で指す。物分りのいい雑魚共だったらしく、失せろとまた言えばすごすごと引き下がっていった。何人かこの場に留まっている奴はいるが、もうどうでもいい。勝手にしろ。
イザナとマンジローは私が来たことにも気付かず、二人で相変わらず仲良くお互いを殴って蹴ってしている。イザナの方が上背があるからマンジローは押されているけれど、その分マンジローの方が攻撃にキレがある。イザナの攻撃には彩がない。まず間違いなくその迷いや苦しみが怒りがイザナの動きを妨害している。
馬鹿兄弟をじっと見ていれば、その更に奥にエマちゃんと鶴蝶くんとシンイチローくんがひとかたまりになっているのが見えた。ワンちゃんは少し離れたところにいる。兄はまだここに着いていないらしい。兄が来るまで待つか? 今すぐにでも飛び込みたいが、私があそこに今突っ込んでいけば恐らく今以上の無法状態になる。いざとなったら私を止められる審判がいる。
「お、やってんじゃん」
「ヤベーなあの二人、化け物かよ」
「……お兄、蘭ちゃんも連れてきたの?」
タイミングよく後ろから聞こえてきたふたつの声に振り返る。一週間ぶりに顔を見る蘭ちゃんは元気そうだ。その隣に竜胆くんはいない。その事実に痛む胸を無視して、湧き上がる悲しみは無理矢理抑え込んで、蘭ちゃんの隣でファーストフード店の紙袋に手を突っ込んでいる兄に問い掛ける。
どうやら二人はそもそも今日は一緒に渋谷を彷徨いていたらしい。だから私の連絡からすぐにここに駆け付けてくれたと。黒龍の特服着た連中がぞろぞろ逃げてくのが面白かったと笑う蘭ちゃんと私が何かしたのかと聞いてくる兄を無視して、腕や膝を伸ばす。その場で軽く何度か跳ねて、問題なく身体が動くことを確認した。全力疾走したせいであがっていた息も落ち着いたし、うん、行ける。
「お兄、審判やって」
「ん」
「じゃあオレも審判やってやるよ」
「うん、よろしく」
後ろ手に兄に携帯を放り投げながら、二人を振り返らないまま会話をする。目線はもうイザナとマンジローの馬鹿兄弟から逸らさない。期せずして三つ巴の戦いになることが確定してしまった。イザナだけを相手にするつもりだったけれど、どちらかが潰されるのをここで待つのも私のやり方じゃない。制圧対象は私が殴る。私が這い蹲らせる。私の覚悟を、誓いを侮辱したその罰を、今から受けてもらう。
「リコ」
「うん」
「勝てるんだな」
「私の敵じゃないよ」
凄い自信だと呟く蘭ちゃんの声を背に、グッと勢い良く踏み込んで走り出す。助走の勢いをそのまま利用して飛び上がり、今にもイザナに蹴り掛かろうとしていたマンジローに回転飛び蹴りを叩き込む。吹っ飛ぶ前に多分目が合ったな。突然の攻撃だったにも関わらず派手に吹っ飛びながらもきちんと受身を取るマンジローを横目に、片方だけ攻撃するのはフェアじゃないので呆気に取られているイザナの顔面にも拳を叩き込む。手加減は一切していないので、イザナもマンジローのように派手に吹っ飛んだ。
二人は同じようなタイミングで体勢を建て直して、何しに来たんだと私に怒鳴る。仲良しかよ。
「こっちのセリフだよ、馬鹿共。テメェらこそここで何してる?」
「見りゃわかんだろ! 喧嘩だよ!」
「だよな。私たちに黙って、勝手に、兄弟喧嘩してんだろ? っつーかマンジロー、お前はどこで嗅ぎ付けたんだよ。イザナもさ、何喧嘩買ってんの?」
「兄弟喧嘩だ⁉︎ 意味わかんないこと言うな! そもそもテメェには関係ねえだろ! これはオレとマイキーの喧嘩なんだよ! 部外者は引っ込んでろ! また殴られに来たのかよ!」
「イザナの言う通りだ。リコは引っ込んでろ。これはオレとイザナの喧嘩で、リコは関係ない。そもそもオレたちは兄弟じゃないし、リコだってもう殴られたくないだろ」
そこで、ぶつんと堪忍袋の緒が切れた。兄弟喧嘩じゃない? 部外者は引っ込んでろ? また殴られに来たのかって? 殴られたくないだろって?
私が、なんだって?
振り上げた拳を、そばの廃車に叩きつける。中身は抜かれているらしいボンネットが耳障りな音を立てて凹んだ。それでも湧き上がる怒りが抑え切れずに、ドアも蹴っ飛ばした。金具が緩んでいたのか一蹴りでドアは外れ、座席側にめり込む。最後に外れかけのドアミラーを捥いで地面に叩き付ける。それからイザナとマンジローを見れば、私が吹っ飛ばしたその位置から思わずと言った様子で一、二歩後退っていた。ここまで来て怯み方もタイミングも似てるとか、やっぱり仲良しじゃん。
場違いにはそう思って思わず笑ってしまい、顔を引き攣らせた二人になるべく明るい声で語り掛けてやる。
「お前らがいくら兄弟じゃないっつったってさあ、私はイザナをお兄ちゃんだと思ってるし、マンジローを弟だと思ってるわけ。だからお前ら、どれだけ否定したって私挟んで少なくともさんきょうだいではあるんだわ。で、シンイチローくんとリオと鶴蝶くんとエマちゃんも入れてさあ、七人きょうだいなわけ。分かる?」
「……分かんねえよ」
「うん、さすがイザナ、分かるよね。でもさあ、お兄とシンイチローくんはともかく、エマちゃんと鶴蝶くんに殴り合いのきょうだい喧嘩とかさせられるわけないじゃん。だからさあ、ここはさんきょうだいで喧嘩しようよ。きょうだい喧嘩。分かるよね?」
「あの、リコ、オレもイザナもなんにも分かってないんだけど」
「何? めちゃくちゃ分かりますって? まあだよね、分かんないはずないよね。ってかさ、二人ともさっき、私のこと、なんだっけ? 部外者? とか、引っ込んでろ? とか言ってたけどさあ。あれ、何? 誰が誰に関係ないって? 誰が何に関係ないって?」
「……」
「……」
「誰が、殴られに来ただって? 誰がもう殴られたくないって?」
怒りを声に乗せないように蹴り付けた車が耳障りな音を立てて軋み、揺らぐ。物に当たるのは良くないが、権利者が手放したからこの廃車場にあるわけで、ある程度はボロボロにしてしまっていいだろう。元々ボロボロだったし。
イザナとマンジローはこちらを見るばかりで何も言わないので、何度も車を蹴っ飛ばす。口がついてないのか? 私は質問をしているんだけど。人がなにか尋ねてきたらには返事をしろってところから私はこの馬鹿どもにものを教えてやらなきゃいけないわけ?
「お前らさ、私のこと馬鹿にしてるよな。イザナはあの程度殴っただけで私が離れてくとか思ってんだろ? で、マンジロー、お前は私があの程度の怪我で怯んでると思ってる。じゃなきゃ殴られに来たのかとか、もう殴られたくないだろとか、そんな言葉出て来ねえよな。私を馬鹿にして、見下して、自分より弱いと思ってなきゃ、そんなこと言わねえもんなあ?」
「…………」
「…………」
「おら来いよ馬鹿共。お前らが馬鹿にした私の覚悟も、誓いも、拳に乗せて叩き込んでやる。二度とこんなこと出来ねえように、兄弟じゃないなんて言えなくさせてやるよ」
人差し指を曲げてこちらに来いよと挑発してやる。怯んでないで殴りに来い。蹴っ飛ばしに来い。殴られに来い。私の一方的な暴力ではダメなのだ。これは私たちのきょうだい喧嘩で、この先に続く大切なことなんだから。
イザナとマンジローは思わずと言った様子でお互いの顔を見る。散々殴りあって血塗れでボロボロの顔で、視線だけで何かを交わしている。ほら、やっぱり仲良しじゃん。なんだかんだ言ったって、二人は、兄弟なのだ。たとえ今はそれを認められなくても、受け止められなくても、拒否したとしても。
イザナがマンジローを弟だと思える日まで、マンジローがイザナを兄だと認められる日まで、私は二人の姉として、妹として、緩衝材にだってなんだってなる。私たちはきょうだいで、家族で、私は二人を愛しているんだから。
「私はお前たちには殴られにここに来たんじゃない。お前たちを殴りに、お前たちときょうだい喧嘩をしに来てんだよ。なあ、覚悟しとけよイザナ。この喧嘩が終わったらお前がもういいって泣くほど愛してるって言ってやる。お前が私から、私の愛から逃げたって、私は何度だってお前を追い掛けてぶん殴って、お前を愛し続けてやる」
イザナは泣きそうな顔で、痛みも苦しみも辛さも全部隠そうとするような顔で、私を見ている。泣くなよ。イザナが泣いたってもう躊躇わないと決めたけれど、それでもやっぱりイザナの涙は苦手だ。いつだって私を馬鹿にして私のクッキーを勝手に食べて私をゴリラだって言って、傍若無人なままで、笑ってる方がいい。
そう言ってやれば、イザナは唇を噛み締めて理解できないって顔をして、私を見つめる。あの雨の日のように悲痛な顔で、泣き喚くみたいにして黙れと私に怒鳴る。黙らないよ。もう黙らないし、離さない。イザナに何をされたって私は、私たちはその手を離したりしない。
「イザナが信じられるまでお兄ちゃんって呼ぶし、愛してるって言い続けるし、イザナの涙が止まるまでそばにいる。私とイザナは家族だから」
「違う! 家族なんかじゃない! オレとお前は他人なんだよ!」
「他人? それはもっと違うでしょ。幼馴染みだよね。途中一緒にいられない時もあったけど、それでももう八年間も一緒にいるよね。それに友だちでしょ」
「そうだったとしても、オレたちは血が繋がってない! 家族にはなれないだろ……!」
「なれるよ」
「なれないよ……!」
「家族って最初は血が繋がってない二人から始まってくんだよ。母さんと父さんは血が繋がってないし、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんも血が繋がってない。でも家族だよ」
言い募る私に耐え兼ねたのか向かってきたイザナが振り上げた拳を防いで、その頬を私が殴る。数秒遅れて飛び込んできたマンジローがイザナの腹を蹴ったから、私はマンジローの尻を蹴っ飛ばしてやった。その間にイザナに二人揃って殴られて体制を崩しながらも、イザナを思いっきり蹴っ飛ばす。空いた背中をマンジローに殴られて、そこからはもう三人で揉みくちゃになって誰が誰を殴っているのかもわからない状況で拳を振り上げ続けた。
その間も私はずっと、ずっとイザナに声をかける。殴られて血を吐いて声が止まったって、絶対に伝えるのを諦めたりしない。言葉にしなくても分かるでしょなんて慢心は捨てた。伝えたいことは声にする。言いたいことは全部伝える。
これから先もずっとそうやって、私はイザナに愛を伝え続けていく。
「ねえ、マンジローも思うよね⁉︎ イザナめちゃくちゃエマちゃんに似てない⁉︎」
「ちょっとな! ちょっと目の辺りとか似てる!」
「うるせえんだよ! 似てねえって言ってんだろ!」
「うるせえのはお前だわボケナス! 鏡見てみろよ! 似てんだよお前とエマちゃんはよ!」
「似てるわけねえだろ! 血が繋がってねえんだからよ!」
「はあ⁉︎ またそれかよ! じゃあ私が今ここで腕切ってお前にこの血飲ませてやろうか⁉︎ そしたらお前と私の血が混ざるぞ! それで満足かよ!」
「何言ってんだよふざけんな満足なわけねえだろ馬鹿が! そういう話じゃねえだろ!」
「そうだよリコ! お前それはおかしいって!」
「ほら見ろマイキーもおかしいっつってんだろ! さっきから言ってることがめちゃくちゃなんだよリコはよ!」
「お前らはそうやって意味わかんないことで結託して私を悪者にしてさあ! ちょっとヤバいけど名案だろうがよ!」
「ちょっとヤバい時点で名案なわけねえだろうが! もういいからお前は黙れ! 二度と口開くな!」
「元を正せばイザナお前が血がなんだとか言ってんだろうがよ!」
「はあ⁉︎ なに急にマイキーまでキレだしてんだよおいリコこいつどうにかしろ!」
「二度と口開くなって言ったのはどの口だよアホ! お前らほんとその自分勝手なところがそっくりで嫌になるわ!」
「こっちだってテメェとマイキーのこういうめちゃくちゃなとこが似てて嫌になってんだよ!」
「イザナお前よく言うな! リコと一緒ですぐに人殴るくせによ!」
「それはテメェもだろうが!」
ぎゃあぎゃあと喚きながら殴って蹴ってを繰り返していれば、遠くから大声で名前を呼ばれた。蘭ちゃんだ。顔に向かってきたマンジローの拳を片手で押さえ込み、そちらを振り返る。イザナがその隙を逃がさずに飛び掛ってきたので、マンジローが蹴っ飛ばしている。三つ巴なので、基本的に誰か一人を狙うとほかのもう一人に牙を向かれるのだ。
蘭ちゃんはデブと仲良く車の上に座りながら、携帯を振っている。あれはデブの携帯だ。私のつけた豚のキーホルダーが揺れているから分かる。で、それが何?
「竜胆から伝言! 絶対頑張れなんて言わないって! あと無茶すんなってさ〜!」
「……え」
竜胆くん? 竜胆くんが、私に、伝言?
蘭ちゃんの言葉に思考が一気にめちゃくちゃになって、鶴蝶くんからの電話で無理矢理切り替えたのに、それ以前に引き戻される。目の前のイザナとマンジローとの戦いに集中しなくちゃいけないとは思っているのに、ダメだ。
なんとか蘭ちゃんからイザナとマンジローに視線を移し、体もそちらに向けた。イザナが私の元に飛び込んでくる。マンジローは私に拳を掴まれたままで動けていない。二人の動きが不思議なぐらいスローに見えた。考えるよりも先に体が動く。
竜胆くん。竜胆くんの笑顔とか怒った顔とか照れた顔とか、そういうものが頭の中をぐるぐる回る。竜胆くんのことしか考えられなくなる。
「ごめん」
マンジローの手を振り解いて、飛び掛ってきたイザナの元に身を低くして自分から突っ込み、その顎を思いっきり手のひらで跳ね上げた。こうすると脳が揺れる。気を失いはしないけれど、しばらく立てなくなるのだ。ぐらりと体を傾けるイザナの横を抜け、ぎゅっと足を踏ん張って急ブレーキをかける。そのまま勢いを殺さずに身を捻って、私が手を離したその場から一歩も動かずに目を見開いて倒れ込むイザナを見つめるマンジローの頬を、一切手加減せずにぶん殴った。
二人の喧嘩に割り込んだ時よりも勢い良く吹っ飛んだマンジローは、目を白黒させながら一人立ち尽くす私を見ている。観戦していたシンイチローくんも鶴蝶くんもエマちゃんもワンちゃんも、審判役の兄と蘭ちゃんも何も言わない沈黙が続く。一番早くその沈黙から抜け出したのはエマちゃんだった。叫ぶようにニィとイザナを呼んで駆け寄ってきて、倒れ込むイザナの真上に覆い被さるようにしてイザナを抱き締める。遠慮のないそれにイザナは呻いて、それでも体を動かせないからわあわあ泣くエマちゃんを退かすことも出来ずに困ったようしている。
ついで駆け寄った鶴蝶くんがそのそばに座り込み、のろのろと立ち上がったマンジローも鶴蝶くんの隣に立って、エマちゃんよりも泣いているシンイチローくんが一番遅れて到着し、マンジローと鶴蝶くんの手で身体を起こされたイザナを中心に四人をまとめて抱き締めた。とうとう鶴蝶くんも泣き出して、下二人がシンイチローくんの腕の中でわあわあ泣きながらイザナを殴り、マンジローがそれに笑い、イザナはついていけないとばかりの顔で呆然としている。シンイチローくんの顔はこちらからは見えないけれど、多分ずっと泣いている。
私は立ち尽くしてひとかたまりになっている五人を見つめていた。ここに来て一気に疲労が出てきたみたいで、ここから動かなきゃと思うのに足が動かない。車の上から降りてこちらに寄ってきた兄と蘭ちゃんに良くやったと背中を叩かれてもつんのめるだけで、何も言えそうになかった。
頭の中でずっと、竜胆くんのことを考えている。
絶対頑張れなんて言わない。無茶するな。その言葉が出てくるってことはつまり、竜胆くんは私の残した留守電を聞いたということだ。情けなく泣いて、嫌われたくない離れていかないでとわがままばっかりの私の言葉を、竜胆くんはきっと最後まで全て聞いた。聞かれてしまった。
やっぱりあんなこと言うべきじゃなかった。謝って終わりにすればよかった。残すべきじゃなかった。竜胆くんには知られなくなかった。私の情けないところも、弱いところも、竜胆くんの頑張れの一言を強欲にもずっと願っていたことも。
震え出した手を隠すようにして握り込めば、私の肩に腕を回して顔を覗き込んできた蘭ちゃんが何を思ったのか笑う。明日腫れるぞなんて言って殴られた頬をつついて、それから私の頭に自分の頬をくっ付けて、呑気に呟いた。
「竜胆多分もうすぐここに着くぜ」
「……え」
「本っ当にめんどくせえよなあ、お前ら二人はさあ」
「待って、なんで、」
「イザナにもマンジロークンにも勝ててよかったじゃん。胸張って竜胆に会えるだろ」
「だから、ダメなの」
「は? 何?」
「私、勝てたから、ダメなの。勝ったから、ダメ。今は竜胆くんに会えない」
蘭ちゃんの身体をグッと押して遠ざけて、その場を離れるために重い足を動かす。イザナとマンジローとは後でちゃんとまた話をする。愛してるってちゃんと言う。でも今はここから少しでも早く離れなきゃいけない。
「リコ」
「お兄……」
見上げる位置にある兄の顔を、名前を呼ばれて反射的に見る。諭すみたいなその声に胸がざわめいた。こういう人だ。大事な時だけ兄ぶって、全部分かってるみたいに私を諭して、素直になれと言う。私の兄は、こういう人だった。
言わなくてもわかるだろうけど、と前置きしてから兄は口を開く。分かんないよ。なんにも分かんない。竜胆くんが関わると、私、何もわからなくなるんだよ。
「イザナが逃げても追い掛けて愛してるって言うんだろ。それと一緒だ。お前が逃げても竜胆は追いかけるぞ」
「なんで、でも、」
「蘭の言う通りお前たちは本っっ当にめんどくさいよ」
「お兄、だって、だって私、」
「──リコ!」
名前を叫ばれて、思わず兄から目を逸らす。この数ヶ月間ですっかり聞き慣れた声。私の名前を呼ぶ優しい声。私はその持ち主を知っている。知らないはずがない。
逃げたいと思っているはずなのに、後退ることもできなかった。息を切らして駆け寄ってくるその人からもう目が離せなくなってしまう。だんだんとその姿がぼやけていく。吐き出した吐息が震えて、もう何も言えそうになかった。
だから会いたくなかったのだ。今竜胆くんに会ってしまえば、きっと私は、泣き出してしまうから。弱さをもう隠せなくなってしまうから。
走ってきてくれたのか熱を持った手に腕を引かれて抱き締められて、次の瞬間には触れた竜胆くんの肩に涙が滲んだ。
デブの顔も三度まで