イザナが出所したことを知ったのは、十月の中旬。私が祖父に託した手紙が、そのまま祖父の手から返された時だった。
聞けば、十日前にはもう出所していたらしい。慌てて鶴蝶くんに確認の連絡を取ればとっくに帰ってきてると言うし、なんなら鶴蝶くんには私にそのうち会いに行くといっていたらしい。いや、会いにこないけど。そのうちっていつだよ。
母にも聞いてみたが当然のように知っており、暫くしたら私とデブにも会いに行くと言っていたそうだ。いやだから、来てないけど。暫くしたらっていつ?
となると、最後に電話をすべきなのはシンイチローくんだろう。この時間は店の方にいるはずだと十五時を指す時計を見てから店の方に電話をかけた。多分この時間なら、もしシンイチローくんが店を外していたとしても、ワンちゃんがいる。シンイチローくんの店に入り浸っているワンちゃんが電話番をしてお小遣いを貰っていることを私は知っているので、夜遅くでもない限り時間を気にする必要はなかった。
かくして私は、電話に出たシンイチローくんの口からイザナは三日前に自分には会いに来ていると告げられ、更には近々私たち兄妹に会いに行くつもりだと言っていたという証言も得て、イザナに避けられていることを認めざるを得なくなった。ボコボコにされる恐怖から逃げ回っていると見るのが正解だろう。出所する時は迎えに行きたかったのにシンイチローくんにも告げずに出てきたらしいから、徹底している。母は口止め出来ても、シンイチローくんは多分私に教えてくれてしまうだろうし。
話のついでにイザナはシンイチローくんに黒龍を継ぎたいと言ったらしい。シンイチローくんはイザナにもちろんと返し、弟たちに継いで欲しいと思っていたことを伝えた。兄弟三人でチームの頭を継いでいくのは確かに理想かもしれない。
でも、そんな出所後突然チームを継ぎたいなんて言って、今トップを張っている人たちは納得するのか。二年前私に突っかかってきた六代目は既に代替わりしており、七代目も引退を考えているらしいとは私も噂で聞いている。だが、引退を考えるということは既に代替わりした後のことも考えているということだろう。八代目に据える人を、七代目総長はもう考えて決めているはずだ。
それはどうするのかと聞けば、シンイチローくんはどうもイザナが九代目の座を狙うのだろうと思っていたらしい。七代目が引退し八代目が黒龍を継ぎ、イザナは今から黒龍に入って周囲と絆を深め、やがては九代目総長として黒龍を継ぐ。なるほど確かに綺麗な流れな気がする。
しかしイザナは、そうはしなかった、と。
「で、七代目の面ぶん殴って、副総長とか他の幹部もボッコボコにして、無理矢理上に立ったんだって」
「やべぇな。てかそれで良く下も着いていこうって思ったもんだ」
「着いてくっていうか、普通に逆らえなかったんでしょ。お兄が黒龍の下っ端だったとして、突然総長も幹部も飛び入りのめちゃくちゃ強い男にボコボコにされて骨とか折られて病院送りにされてさ、いやおかしいだろって声上げて反発できる?」
「あー……相手と対等にやり合えるって自信がなきゃ、センリャクテキテッタイ選ぶな」
「でしょ? そういうことだよ」
中三の受験期真っ只中に戦略的撤退も分かってなさそうなその頭に呆れながらも、ハチ公前で兄と共に雑談を続ける。ここ数日一人で渋谷中を歩き回って虱潰しにイザナを探している私に、今日は付き合ってくれるそうだ。戦力は多いに越したことはないので有難くお願いし、二人でここまで出てきている。
チームとしてぶつかるわけでも黒龍八代目総長に用があるわけでもないということで、私たちも流石に今日は私服だ。良くも悪くも顔は知られているが、普通にしていれば絡まれることはそうない。兄は威圧感を放つデブで、大抵の人は避けていくから。
今日は敢えてイザナの揃えた黒龍の幹部の目撃情報が上がっているあたりを歩いてみようかと話しながら、ぐっと伸びをする。最近は竜胆くんと会う時間を減らしてまでイザナを探し回っているせいで、休息があまり取れていない。背中がバキバキ音を立てて、精神よりも先に身体の方が疲労を訴え始めているなと感じた。そろそろちゃんと休むつもりではいる。
「蘭たちは何も言ってないのか」
「なんで竜胆くんたち? そもそもイザナ探してることも話してないよ。今回はほんと、私がただイザナを殴ってやらないと気が済まないってだけの話だし、竜胆くんたち関係ないし。そもそもあの二人も結構イザナのこと好きじゃん」
もしや話してないよねと兄を見上げれば、分かりやすく目線が逸らされる。もう十月も後半に差し掛かり決して暑くはないのに、肉厚なその頬を汗が伝っていった。……話したらしい。我が兄ながらわかり易すぎでしょ。
その腹を抗議の意味も込めて軽く叩いてやれば、大して痛くもないくせにわざとらしく呻いてから弁解するように兄は口を開く。蘭ちゃんにしか話していないそうだ。それってつまり竜胆くんにも伝わってるってことじゃんと言えば、まあそうだろうなと返ってくる。まあそうだろうなじゃないんだよ、このデブが。
「でも蘭も興味無さそうだったし、お前だって竜胆に何も言われてねえんだろ? ってことは興味ないってことだから問題ないぜ」
「なんでそんな自信満々なの? ……ねえもしかして、竜胆くんに最近黒龍が勢力増してるらしいから気を付けろって言われたのってこれ関係かな」
「……かもな」
「問題大有じゃん! 竜胆くんに心配かけたくないんだってば!」
「悪かったって! でもよ、竜胆だってお前にそういう大事なこと秘密にされたくないだろ。心配ぐらいかけさせとけよ」
「何目線だよそれ……もういいよ、行こ。はあ、エマちゃんにも無茶しないでって言われちゃってるのに……」
イザナが出所したことを知ってから、一度エマちゃんときちんと話したのだ。イザナは私の事避けてるみたいだけどちゃんと探し出して話をするから、いつか必ずエマちゃんがイザナに会えるようにすると。エマちゃんはいつでもいいし無茶はしないでと言ってくれたけれど、多少の無理を押してでもなるべく早く会わせてあげたい。だって最後に会ってからもう九年近く経っているはずなのだ。そんなにも長い間実の兄に会えないだなんて、多分私だったら耐えられない。
それにシンイチローくんから些か不穏な情報を得ているし、兎も角なるべく早くイザナに会いたい。会って話をして殴り付けて、どうにかしないとダメな気がしている。何をどうにかしないとダメなのかはまだよく分かっていないけれど、それでもなんとなく、嫌な予感はしているのだ。
結局どこ行こうかなと考えながら数歩進み、兄が着いてきていないことに気付いて振り返る。ハチ公前から動かずに、相変わらずの存在感を放つ巨体が真っ直ぐこちらに向けられている。この人の隣に立つと小さく見えるらしいけれど、これでも私だって百六十三センチぐらいは身長があるのだ。まだまだ伸びているし。
じっと私を見つめる兄を見てそんなことを考えていれば、兄は呆れ顔を隠さずに口を開いた。
「あのなあ、竜胆はお前のこと大切にしてるんだから、心配するに決まってんだろ。お前のことはなんでも知りたいって思ってるんだよ」
「竜胆くんが?」
「見てりゃわかる。お前危なっかしいし、自分から面倒事に突っ込んでいくし、変なのばっかり引き寄せてくるし」
「それは竜胆くんにも言われたよ」
「そういうことなんだよ。全部一人で抱え込むな。竜胆にもオレにも背負わせろ。お前が一人で全部やる必要なんてないだろ」
「……はーい。今度からちゃんと、竜胆くんにも、お兄にも相談する」
滅多に見ないその真剣な瞳に思うところがあって、私も大人しく頷く。それでも竜胆くんの名前を先にあげたのは、意地のようなものだ。兄にそういうことを言われると、嬉しいんだけどやっぱりむず痒い。
思わず緩んだ口元を隠すようにして踵を返し、数歩前に駆ける。それからまた振り返って、呼びかけた。
「ねえ、お兄も私の事心配してくれるの?」
「はあ? 当たり前だろ。妹だぞ、妹。家族なんだから心配するに決まってる」
本当何言ってんだ、と呆れ顔を浮かべた兄はほんの数歩で私に追い付いてきて、すれ違いざまに軽く頭を叩いてから先に行ってしまう。今度は緩んだ顔を隠さずに、私もその後に続いて渋谷の繁華街へと繰り出した。
+
「あともう少し搬送が遅ければ、肺炎になってたかもしれないんですからね。気を付けてください」
「はい」
何処か他人事みたいに看護師さんの指示に従って検温をしながら、極めて真面目に小言は受け入れる。入院生活も五日目に差し掛かり、適当に返事をするより真面目にしていた方が楽だと学んだ。こうすると一発で引いてくれる。反対に、適当な反応を返すとめちゃくちゃ怒られる。私は何度か怒られたので看護師さん相手に適当な反応はもう二度としないと決めたのだ。
あの大雨の日、路地裏で意識を飛ばしたと思った次の瞬間には救急車に乗せられていてかなり動揺した。固定されていたらしく頭が思うように動かず、何とか視線を動かしてびしょ濡れのシンイチローくんと目が合ったと思ったら次の瞬間には視界に白い天井とお医者さんが飛び込んできて、またその次に見えたのは蒼白な顔をした母とシンイチローくんだった。その時はまだ熱が下がっておらず意識が朦朧としていたので改めて後から聞いたのだが、私は倒れていたところをシンイチローくんに発見され、駆け付けた救急車の中で一度意識を取り戻したものの一瞬で気絶し、病院についてから処置中に一度目覚めまた一瞬で気絶し、それから丸二日四十度の高熱にうなされて面会謝絶と相成り、三日目に熱が少し下がったため十分ほど母とシンイチローくんが顔を見に来たタイミングでちょうど目を覚ましたらしい。
その辺りは正直よく覚えていないのだが、目覚めて直ぐに大丈夫なのか、何があったか話せるかという母の涙混じりの問い掛けに転けたとだけうわ言のように繰り返し、何かを伝えたそうにシンイチローくんを見つめてからまた気を失うように眠りについたらしい。なので私のこの怪我は転けてできたものということになっている。誰も信じてなんて居ないらしいが、まあ熱に魘されながら私が転けたと言ったということは、転けたということなんだろう。うん、全部転けてできた傷のような気がする。
四日目にもなると熱は三十七度台まで下がっており、全身が痛むことを除けば私も病院のベッドの上でとはいえ普段通りに生活出来た。薄味の病院食は兄ならば文句を言いそうだが私としてはまあ美味しくもなく不味くもなくといった感じでぺろりと平らげ、入院五日目になる今朝に至っては体感ではもう平熱だ。実際微熱程度の熱はあったが看護師さんにはまあまあだと及第点をもらえた。今日一日安静にして、明日も一応様子を見て、このままいけば明後日には退院出来るそうだ。
昨日も訪れて諸々の説明をしてくれたシンイチローくんは今日も昼ぐらいにマンジローとエマちゃんを連れて来ると言ってくれたし、鶴蝶くんが心配しているから一緒に来ると母は言っていた。安静にしているようにと言い含めて部屋を出ていった看護師さんを見送り、ベッドに倒れ込む。
与えられた病室は普通の四人部屋で個室では無いのだが、同室だった人は私が四十度の熱に魘されている間にみんな退院してしまったらしい。なので実質個室のような感じ。一人で色々考えるには静かでちょうどいい。
誰もいないので誰にも遠慮せずに大きくひとつため息をついてから、まだ痛む腕や足を軽く伸ばす。イザナの攻撃は手加減も何もなしのものだったらしく、私の全身は今痣だらけだ。視力に問題は無いけれど目が腫れているので右目は眼帯をつけているし、両頬に大きくガーゼを張っているし、後頭部どころか額も切れていたらしく頭は包帯でぐるぐる巻き。昨日包帯を確認してもらう時に首の包帯も取られてから知ったのだが、首にも手形の痣がくっきり出来ていた。確かにこれで転けたというのは無理がある気がするし誰も信じないに決まっていると私でも思うのだが、いやでも、転けてできた傷なので。
シンイチローくんには土下座せんとばかりに謝られたし、イザナだよなと断定の口調で問われた。こればかりは私も誤魔化せずに頷き、同席していた兄もそうだろうと思ったと言い、ため息をついていた。私をここまでボコボコにできる相手はマンジローかイザナしか居ないと最初から思っていたらしい。それに私があの日イザナを探して渋谷を練り歩いていたことを兄は知っていたから、相手は最初から決まっていたようなものだったとか。
何度も何度も私に謝るシンイチローくんはやはり、イザナがあの日泣いていた理由を知っていた。プライベートな話だから兄に席を外してもらおうかと思ったんだけれども、シンイチローくんが私がこうなった以上は兄も知るべきだと言ったから結局三人で話し、三人揃って表情を歪める奇妙な空間が出来上がってしまったぐらいだ。
私は兄にも誰にも話さなかったけれど、イザナを探し始めた時点でシンイチローくんからこうなるかもしれない可能性を示唆されていたし、相当荒れているだろうなとも覚悟していた。だから私は殴られる覚悟も決めていたし、怪我をするだろうとも思っていた。だけどまさか、イザナがあんな風に泣いているだなんて思っていなかったのだ。
イザナがシンイチローくんをバイクの後ろに乗せて走ったその日、マンジローの名前を出してからイザナの挙動が不審になり、翌日には黒龍七代目を力ずくで潰すようなことをしたのだと聞いていた。それを聞いていたから、それだけだと何処か軽く思っていたから、あの日イザナを見つけて躊躇いなく声をかけられた。軽く思い過ぎていたから、私の声に反応して振り返ったイザナが泣いているのがわかってしまった瞬間に、イザナを本気で殴れないと思ってしまった。
瞳を閉じればイザナのあの時の涙が脳裏に蘇り、頭の中で悲痛な叫び声が響く。イザナがずっと泣いている。ひとりぼっちで、背を丸めて、何からも逃げるみたいにして、ずっと泣いているのだ。私はその涙を拭ってそばにいたいと思うのに、透明な壁に阻まれてイザナに手を伸ばすことも出来ない。どれだけ名前を呼んでもイザナに届かない。
全身痛くて疲労が抜けないのに、体を休めようとするとイザナのことをことばかり考えてしまって余計に疲れてくるから困ったものだ。これだったら熱があった時の方が意識がなくてまだ良かった気もしてくる。その時もずっとイザナの名前を呼んで魘されていたと聞いたからイザナの夢を見ていたのかもしれないけれど、少なくとも思考のリソースをそこに割かれて疲労が溜まるだなんてことはなかったはずだ。今はもうダメ。早く誰か来てくれないかな。誰かと話して息抜きがしたい。
特にすることもなくて暇なのでベッドの上で軽くストレッチをしながら、結局イザナのことを考える。自分に足りなかったものをひとつひとつあげていき、慢心を反省し、しなければならないことをまたひとつひとつあげていく。多分大事なことはひとつだけだと分かってはいるのだ。らしくもなく躊躇ってしまって、その決心が揺らいでいるだけで。
また大きくため息をついてからベッドに倒れ込む。こうやって一度考え始めると自分が嫌になってしまってダメだ。誰か本とかでもいいから持ってきてくれないかな。今はひとりしりとりでもするかと考えたところで、引き戸が荒々しく引かれた。
「リコ!」
「えっ」
息せき切って飛び込んできたその人は慌しく部屋中を見渡し、ドアから向かって右手奥の窓際のベッドの上で咄嗟に飛び起きた私をすぐにその視界に収めたのだろう。ばちりと目が合ったと思った瞬間にはその顔が歪められ、名前を呼ぶ暇もなく抱き締められた。何が何だか分からないまま私もその背に腕を回す。お互いの左の耳がぶつかっているせいで金属の冷たい感触がする。伸びてきた襟足が頬を擽って少し身を捩った。
私を抱き締めたっきりうんともすんとも言わなくなったその背中をあやすように撫でながら、助けを求めて病室の入り口から覗き込むようにしてこちらを見ている二人を見つめた。力加減はちょうど良くて傷も痛まないし、抱き締められていると落ち着くんだけど、何か言ってくれないとちょっと不安なのだ。
「なーんだ、案外元気そうじゃん。あんま心配かけんなよな〜」
「お前は言う程心配してなかったろ。じゃあリコ、オレと蘭は適当に時間潰してるからちゃんと二人で話せよ」
「え、ちょっとお兄、待って」
蘭ちゃんは愉快そうに笑ってヒラヒラと手を振りながら病室を出ていく。兄も私の声を無視してそれに続き、引き戸を閉められてしまえば一気に無言になった。別に無言は気まずくはないんだけど、心配をかけた自覚があるからそちらは気まずい。散々言われていた無茶するなとか気を付けろとかいう言葉を結果的に無視してこんなことになっているわけだし。
どちらも何も言い出さないまま数分ほど経ち背中を撫でる腕がそろそろ疲れてきた頃に、ぐっと体を離された。そのまま気遣わしげに肩を掴まれ、顔を覗き込まれる。
「痛いところは」
「わりと全身? 腫れは引いてきたんだけど顔と腕は結構痛い」
「他は」
「頭は大袈裟に包帯巻かれてるけどもう全然痛くないし、首も特に何にもないし、強いていえば痣がいっぱいできてて触るだけで痛いのと、熱は引いたけど疲れがとれないぐらい。案外大したことないんだよ」
「大したことあるだろ」
ぴしゃりと跳ね除けられた瞬間に、あ、と思った。竜胆くん、すごい怒ってる。
私を覗き込む目はすっと細められたし、最初から眉間に寄せられていたシワが濃くなった。一緒に過ごしたこの数ヶ月間で怒る顔は何度も見たけれど、ここまで怒らせたのは初めてだ。どこか他人事みたいにそう考える。
竜胆くんは私が押し黙ったのをいいことに、私を責めるようにして言葉を連ねていく。無茶しないって言ったよな。言った。気を付けろって言ったよな。それも言った。声に出して返事は出来ないまま、竜胆くんの言葉に頷く。全部私が言われて、気を付けると返事をしたことだ。守れなかったけれど。
「転けたって言ってるんだって? なあ、転けただけでそんなに怪我するわけないよな。誰にやられたんだよ」
「誰にやられたとかない。私が転けたの」
「は? そこまでされて相手のこと庇うわけ?」
「だから、庇うとかそんなんじゃないってば。私が転けたのが悪い。こうなったのは、全部私が悪いの」
転けたと言い張る私とそんなはずないだろと言い募る竜胆くんとで段々とお互い声が大きくなって、空気が張り詰めていく。竜胆くんを怒らせたくないと思うし嘘をついて誤魔化すことを申し訳ないとも思う。でもこの怪我は本当に私のせいで、私が悪いのだ。だからこればっかりは竜胆くんにだって本当のことを言えない。本当はシンイチローくんにだって兄にだって言いたくなんてなかった。結局私が弱かったせいなんだから。
竜胆くんはもう苛立ちを隠さずに私を睨み付けてくる。でもだからって、私だって引けない。負けじと竜胆くんを睨み返し、私が悪いのだと再度呟く。それが多分、竜胆くんの怒りを増長させたんだと思う。
その次の瞬間には、視界に映っていたものががらりと変わって竜胆くんと少し見慣れてきた天井しか見えなくなった。掴まれたままだった肩を押して押し倒されたのだと気付いても、竜胆くんが怒る理由がわかってしまって抵抗できない。
「こんなに怪我して、入院までして、そこまでされてなんでそうやって庇うんだよ」
「……私が悪いから」
「リコが悪いわけないだろ!」
間近で怒鳴られて、思わず目を瞑ってしまった。身体が竦む。怯えたいわけでは無いのだ。でも、怒らせたことはあっても怒鳴られたことはない。そもそもここまで竜胆くんを怒らせたことがない。だからどうすればいいのかが何も分からない。
竜胆くんは身を竦ませた私を見て一瞬苦しそうな顔をして、それでもすぐに怒った顔に戻って私をじっと見下ろしている。その顔がなんだか泣きそうに見えて、私がこんな顔をさせているんだと思うと胸が痛くなった。竜胆くんにそんな顔をして欲しくない。
「……リコのことが心配なんだよ。頼むから、話してくれよ。オレってそんな頼りない? オレじゃそんなに力不足か?」
「違うよ……そうじゃないの。心配かけてごめん。でもこれは本当に私が悪くて、竜胆くんを巻き込んでいいことじゃない。私たちの問題なの」
竜胆くんの揺らぐ声に思わず私まで泣きそうになって、震えて上擦る声で何とか言葉を募る。竜胆くんを巻き込めない。これは私とイザナと、それから佐野家のみんなの問題で、竜胆くんを巻き込んでいいような問題では無いのだ。
心配をかけたくないし巻き込みたくないから遠ざけるなんて、きっと竜胆くんは嫌がるって分かってる。竜胆くんが私を大切にしてくれていることも分かってる。でも竜胆くんが大切で、大好きだから、やっぱり心配をかけたくないし巻き込みたくない。
竜胆くんは私の言葉にショックを受けたみたいような顔をして、らしくもなくのろのろとした動きで私の肩から手を退けて見下ろすようにベッドの横に棒立ちになる。瞳がぐらぐらと揺れているのが滲む視界でもよく分かる。ダメだ。ここで私が泣いたら、ダメになってしまう。そう思うのに鼻の奥がツンとして、一度でも瞬きをしたら涙が止められなくなりそうだった。
「リコの言いたいことは分かった」
「竜胆くん、待って、違うの、」
「怒鳴ってごめん」
「おねがい、りんどうくん待ってよ」
「頭冷やしたいから今日は帰る。ちゃんと休めよ」
「まって、りんどうくん、やだ、行かないで。竜胆くんには心配かけたくないの、それだけなの…………ひとりにしないでよお……」
背中を向けて足早に病室を出ていく竜胆くんに追い付こうとベッドから出ても、数日ろくに歩いていなくて縺れる足では追いつけるはずもなかった。伸ばした手が届くはずも、竜胆くんが振り返ってくれるわけもなくて、それが悲しくて苦しくて辛くて、足から力が抜けて床に座り込む。急にこんなに動いたから全身痛いのに、どこよりも心が痛い。その痛みに耐えられなくて顔を伏せて蹲って、声を上げて泣いた。
+
+
「ねえリコちゃん、本当に大丈夫?」
「うん。心配かけてごめんね」
「大丈夫ならいいんだけど……」
泣きすぎて眼帯もガーゼも全部貼り変えることになって、看護師さんにすごく怒られた。また転けたんですかって嫌味っぽく聞かれたからそうですって答えたら呆れられたし、今度何かしたらベッドに縛り付けますからね! と宣言されてしまったので下手に動けない。
病室に飛び込んでくるなり床に伏せてぐずぐず泣き喚く私を見て驚きの悲鳴をあげたエマちゃんは、眼帯やガーゼの下の痣を見てしまったからか、怪我に顔を顰めつつも甲斐甲斐しく私に水を渡して心配してくれる。本当に優しい子だ。出会った時から変わらずずっとこの子は天使のように可愛く、優しく、眩しい。それでいて女の子の泣き顔は見ちゃダメと男衆を外に叩き出す度胸もあるんだから、すごくいい子。この子に好きになってもらえる人は幸せものだ。
エマちゃんは私の大丈夫を信じてくれたらしく、外で待機してくれていたシンイチローくんと鶴蝶くんを呼びに行った。母の代わりに鶴蝶くんのことも連れてきてくれたらしい。エマちゃんがドアを開けた瞬間にわっと飛び込んで抱き着いてきた鶴蝶くんを受け止めて抱き締め返しながら、こちらも慌てて飛び込んできたシンイチローくんを見る。流石にシンイチローくんを抱き締めるのはなあ。
「来てくれてありがとう。時間取らせちゃってごめんね」
「そんなこと気にすんなって。エマも鶴蝶も会いたがってたし、リコは大人しく抱き締められときゃ良いんだよ」
「シンイチローくんに?」
「それは流石に絵面がヤバい」
「あはは、だよね」
私とシンイチローくんの掛け合いにエマちゃんと鶴蝶くんが笑う。病室の空気が一気に明るくなって、先程まで沈んでいた気持ちが少しだけマシになった。まだ胸は痛いけれど、それはそれとして今はこの三人に向き合わなくては。
私から離れた鶴蝶くんがエマちゃんと交互に大丈夫なのかとまた聞いてくるのにひとつずつ丁寧に答えて、合間合間にシンイチローくんがあれやこれやと口を出してくるのでそれにも返事をする。
二人は竜胆くんとは違って私の怪我の原因を最初から聞いてきたりはしない。多分もう分かっているからだ。私はエマちゃんにも鶴蝶くんにもイザナを探していると話していたし、冷静に考えて私が一方的にボコボコにされるような相手なんてそう多くはない。最も有力な候補者は二人だけで、そのうちの一人のマンジローは今日ここにこそ来ていないものの「オレ以外の誰にも負けるな」とかいうめちゃくちゃな伝言をエマちゃんに託したみたいだし、除外。まあそうなると一人しかいないよね。
しばらく談笑を続けていたものの、なんの合図もしていないのに揃って口を噤んで四人全員が静まり返る。下二人が俯いたのを見て、なんとなく、失敗したなと思った。この沈黙は作ってはいけない沈黙だった。私がそんなこと思ってるなんていざ知らず、エマちゃんは意を決したように顔を上げて私を見つめ、口を開く。
「リコちゃんのその怪我って、ニィがやったんだよね」
「……転けただけだよ?」
「誤魔化さないでよ。真兄もリコちゃんも隠し事下手くそだもん。ウチもカクちゃんももう分かってる」
「エマと話したんだ。リコにそこまで怪我させて、それでもリコが庇おうとするなんてマイキーかイザナしかいない。でもマイキーはリコが怪我した日は一日家に居たらしいし、イザナだよな」
打ち合わせてたのかってぐらい見事な連携で、私にもシンイチローくんにも口を挟ませないようにエマちゃんと鶴蝶くんは私に詰め寄ってくる。思わずシンイチローくんと顔を見合わせてしまった。妹と弟だと思っていた子達にここまで追い詰められるとは。場違いだとは分かっていても、二人の成長にちょっと口角が緩む。
でも私達も、エマちゃんと鶴蝶くんには話さなければならないと昨日のうちから決めていたのだ。これは家族の問題で、二人も、イザナの家族だから。でもそれを話す前に、鶴蝶くんの言葉をひとつ否定しておかなくてはいけない。
「ひとつ言わせて欲しいんだけど、私は鶴蝶くんに殴られて怪我をしても、エマちゃんに殴られて怪我をしても、二人を庇うよ。イザナとマンジローしか庇わないわけじゃない。エマちゃんと鶴蝶くんのことも大切だし家族だと思ってるから、庇う」
「リコちゃん……」
「リコ……」
「話すよ。二人にはちゃんと話す。本当はマンジローにも話したいんだけど……まあ、それはちゃんと私とシンイチローくんから話すから、今日は先に二人に話すね」
イザナは知らないのだ。こんなに強い目をしている二人が、こんなにも大きくなったこと。私たちが思っているよりもずっと優しくて、強いこと。心からあなたを愛していることを。
+
順を追って話をした。私が言葉に詰まるところはシンイチローくんが説明をして、シンイチローくんが言い淀むところは私が言葉にする。そうしてかなり時間はかかったけれど、きちんとエマちゃんと鶴蝶くんは私たちの話を聞いてくれた。途中で鶴蝶くんが涙目に、エマちゃんが泣き出してしまって私も泣きそうになったり、シンイチローくんがその場の誰よりも泣いたりしたけれど、二人はきちんと現状を理解してくれたのだろう。
袖で涙を拭いながら相変わらず鼻を鳴らしているシンイチローくんに少し呆れた顔をしながらも、エマちゃんは赤く充血した瞳で真っ直ぐ私を見つめる。鶴蝶くんも私を見ていた。二人は私の言葉を待ってくれている。だから私は傷だらけで不格好でも、笑ってみせるのだ。
「覚悟が足りなかったの、結局。だからイザナが泣いてるのを見て、殴れないって思った。躊躇って本気で殴ることが出来なかった。私が弱かったから」
「弱くなんてない。リコのそれは優しさで、イザナを大切にしてるってことだろ」
「そうかな。……そうだといいな」
弱さだと自分では思っていたんだけれども、鶴蝶くんにとって私のあの迷いは優しさになるらしい。エマちゃんもそうだよと頷いてくれたし、シンイチローくんも嗚咽混じりにそうだと認めてくれた。私のあの迷いは弱さではなくて、優しさで、イザナを大切に思っているが故のものなのだと。そうなのかな。それで、いいのかな。……ううん。そうだと、いい。
三人の優しさに胸が熱くなる。こんなに優しい人たちが私の迷いを優しさだと認めてくれるなら、私はそれを信じたい。あの時の迷いと躊躇いは優しさで、弱さなんかじゃないのだと。
「でもね、イザナの悩みを軽く見てたのは、私の失敗。イザナにもっとちゃんと、大切だって言葉にすれば良かった。ずっと甘えてたの。分かってるって思ってた。イザナも同じ気持ちで居てくれてるって」
照れくさかったの。お兄ちゃんみたいに思ってるとか、イザナは私の家族だよとか、そういうことを伝えるのが照れくさくて、伝わってるでしょって思って逃げてた。それが私の失敗で、慢心だ。言葉にしなくたって伝わることはあるけれど、こればっかりは言葉にしなきゃ伝わるはずない。
だからちゃんと、次は言葉にする。分かってくれるまで、信じてくれるまで、これからずっとイザナに伝える。血が繋がってなくたって、離れて暮らしてたって、そばにいられなくたって、イザナは私の家族だ。大切な幼馴染みで、友達で、お兄ちゃんで、家族。この先永遠にそう。イザナが何をしたって、どれだけ変わってしまったって、遠くに行ったって、私たちはずっと家族。シンイチローくんもエマちゃんも鶴蝶くんも、お兄だって、イザナの家族。やめてなんてやらない。イザナがどれだけ嫌がっても一生家族でいてやる。
それに。
「思い出したの。あの日シンイチローくんと鶴蝶くんに誓ったこと」
「あっ」
「えっ」
「誓ったこと?」
「うん。イザナが逮捕された日、私誓ったの。もしまた人を殺そうとするなら、誰かを無意味に傷付けようとするなら、その時は私が殴って止めるって。ボコボコに殴って、手足を潰して、二度と立ち上がる気力も湧かないぐらいにする。相手が言葉で止まらないなら拳で止めるしかないんだよ。イザナはきっと今私たちの話なんて聞いてくれない。だからボッコボコのギッタギタのメッタメタにして、もう誰かを傷付けようなんて思えないぐらいに、私が矯正する。それでその後に、ちゃんとイザナと話す」
本当はイザナが出所したその時にボコボコにしようと思っていたんだけど、アイツは私から逃げたせいで失敗したのだ。その後も逃げ回り、再会出来た時には私がイザナを本気で殴る勇気がなくて、こんなことになってしまった。
イザナは黒龍で相当暴れていると聞く。無関係な人を巻き込んでいるとも聞いた。それはシンイチローくんがイザナに教えた不良の在り方から逸脱していて、誰かを傷付けることだ。だから制圧する。壊れた家電を殴って直すのと一緒。今のイザナが私たちの話に聞く耳を持たないでどんどん一人で先に行ってしまうなら、私はその背中に飛び蹴りをかまして、這いつくばらせてでも足を止めさせて、無理矢理でもいいからまずは私の気持ちを知ってもらう。
人を殴れば当たり前のように手は痛くなる。私もそうだ。イザナを殴れば手が痛むし、心だって痛む。でもそれはイザナも一緒。私を殴った手が痛まないはずがない。私を殴りながらあんなに辛そうな顔をしていたのに心が痛まなかったはずがない。
「エマちゃん、今度はあなたに誓う」
私の言葉にまるであの日のように顔を青くさせているシンイチローくんと鶴蝶くんは無視して、エマちゃんの手を握り込む。私は弱いから、誰かに誓ってでも居なければ意思が揺らぎそうになってしまうのだ。流石に今回の件は思うところがあるからもう揺らがないだろうけれど、それでも。
離れたニィをずっと思っていた、大切にしていたこの子に、私が誓いたい。
「イザナのことは私が絶対、ボコボコに殴ってでも止める。エマちゃんの前に、手足を潰してでも引き摺ってくる。だからエマちゃん。あなたはイザナの名前を呼んで、抱き締めてあげて。シンイチローくんや鶴蝶くんマンジローと一緒に、イザナに家族を、愛を教えてあげて」
エマちゃんは大きな瞳で真っ直ぐに私を見つめている。眩しいぐらいに強くて、優しい瞳。イザナにそっくりだ。血が繋がってないなんて信じられないぐらい、本当にそっくり。私の大好きな目。
「リコちゃんも」
「私?」
「リコちゃんも、ニィの名前を呼んで抱き締めてあげて。リコちゃんだってニィとウチの家族だよ。お姉ちゃんだよ」
「……うん」
もう流さないようにって思ってたのに、泣かないようにって思ってたのに、涙が頬を伝っていく。何とか絞り出した肯定の言葉が震えて不格好で情けなくて、でも、エマちゃんは私を抱き締めて笑ってくれた。シンイチローくんも鶴蝶くんも泣き出した私の頭を撫でてくれる。余計に涙が止まらなくなって、今日一日でどれだけ泣くんだろうって自分に呆れる。
ねえ、イザナ。私たちみんな、イザナが居たから出会えたんだよ。イザナがいたから家族になれた。それなのに、イザナが逃げたりしないでよ。
イザナの痛みも苦しみも悲しみも、全部私が受け止める。だからイザナは私の愛を受け止めて。
デブでデブを釣る