「ずるい! ずるいずるいずるい!」
「ごめんってリコ……」
「竜胆くんの馬鹿! お兄も蘭ちゃんも馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿! うわあああ」
「うんうん、ごめんな。でもオレだって今日まで知らなかったんだよ」
「オレは知ってた〜」
「オレも知ってたぜ」
「デブ出てけ」
「だってよ出てけデブ」
「蘭ちゃんも出てけ」
「オレもかよ」
私のベッドに腰掛ける竜胆くんの背中にぐりぐりと頭を押し付けていたのに、デブがいつまで経っても部屋から出ていかずに妹が冷たいだとかなんだとか喚いているから顔を上げてギッと睨み付ける。出てけっつってんだろ。蘭ちゃんと騒ぐだけなら自分の部屋でやってな。しっしっと手を動かして追い払ってやれば、反抗期だなあと笑う蘭ちゃんに背を押されながらやっと大人しく部屋から出ていった。
そもそも服装が気に食わないんだよな。何がサプライズだよ何が。私がそれで喜ぶと思ってたなら頭おかしい。喜ぶわけないだろ普通にキレるわ。
二人きりになった部屋で再び竜胆くんの背中に頭を押し付けながら、ううと呻く。竜胆くんはそんな私に何も言わずにされるがままだ。
「ほんとお兄ずるい……」
「まあ敢えて黙ってたんだろうしなあ」
「ね! 私に言わない理由ないよね⁉︎」
頭を押し付けるのをやめてこの数ヶ月でまた大きくなった気がする背中に腕を回してぎゅっと抱き着く。竜胆くんは前に回した私の手に触れて戯れに指を握ったり離したりしながら、私が悲しんだり怒ったりしているのが面白いのか笑った。笑わないでよと声をあげれば、また笑いながらごめんごめんと謝る。謝意がこもってないです。
頬を背中に寄せてぐぐっと体重をかけるが、竜胆くんはやはりこんなものでは怯まない。兄は体の固いデブなのでちょっと背中を押しただけで痛い痛いと喚くのだが、竜胆くんの体の柔らかさは一時期とはいえ体操をやっていて柔軟には自信のある私でも舌を巻くものがある。でもそれもそれでムカつくので、体重はかけたままにする。
「……絶対私も同じ高校受ける」
「その頃にはオレらもう三年だぜ」
「でも一年は一緒に居れるじゃん! 三人だけほんとずるい」
まだ見慣れない高校の制服を着込んだ竜胆くんの背に張り付いて叫ぶように言えば、竜胆くんは今度は困ったように笑う。私はそれを無視して頬擦りするようにして竜胆くんに擦り寄った。このままこの制服に私の匂い付けちゃおっかな。
竜胆くんの受験が終わるのは比較的早かった。一月の終わりには推薦試験が終わっていて、その試験もかなり簡単なものだったらしく合格は確実だと試験終わりに集まって蘭ちゃんと一緒に三人で呑気に話をしていた。でも、試験中に隣の教室からめちゃくちゃデカい音が聞こえてきて何かと思ったと竜胆くんが思い出したように言った時に、アレ腹が鳴る音だろと蘭ちゃんが澱みなく、それこそ見てきましたって顔で答えたのは今思えば、明らかにそういうことだった。あの時私はその発言のおかしさに気付かずに「へえ〜そうなんだ。うちのデブじゃないのに隣の教室まで響くぐらい腹鳴らす人なんているんだね。あっそういえばデブといえばアイツも今日受験でね」なんて話していた。蘭ちゃんが私の話を聞きながらずっとニヤニヤしていたのも今思えばそういうことだ。なぜあの時の私は気付かなかったのだろう。
試験中に何かやらかしたらしく試験官に睨まれたと言っていたデブの元に合格通知が届いた日、竜胆くんと蘭ちゃんの手元にも合格通知が届いたそうだ。わざわざ会いに来てそれを報告し、制服の採寸が終わって手元に届いたら誰よりも早く見せるとまで言ってくれた竜胆くんに飛び付いておめでとうと言った時は本当に良かった。竜胆くんに着いてきた蘭ちゃんも一緒になってデブの合格祝いに祖父が買ってきたケーキを食べることになったところも良かった。……いや、いま思えばデブに食わせることを考慮しても明らかにケーキは多かった気がする。そういえばデブにお前でも受かると言って高校をいくつか紹介していたのは祖父だ。そして祖父は最近蘭ちゃんとメル友になったらしい。デブと蘭ちゃんと祖父の三人で寿司を食べに行っただのイタリアンがどうのだとと言っていた。もしかしなくても祖父もグルだな。
しかし私はそんな周囲のおかしさに気付かず、竜胆くんが制服が届いたから着てみせると言ってくれた今朝、浮かれて服装はとか髪型はとか延々と考えていたのだ。部屋を片付けて余計なものはデブの部屋に無理矢理突っ込んで、先日喧嘩を売ってきた他所のチームの雑魚から戦利品として献上された釘バットもデブの部屋に押し込んだ。それ振り回してダイエットしろよとデブに対する嫌味も忘れなかったのだが、今思い出せばムカついてきて暴れ出しそうなぐらいあの時のデブはニヤついていた。普段ならオレはデブじゃないとかなんだとか言い返してくるのに、不自然なぐらいにやにやにやにやと。とうとうデブだって認めたのかなとその時は流したのだが、こうなってしまえばあれはその後の私の反応を想像してニヤけていたのだとよく分かる。くそが。兄じゃなきゃその丸々とした体を使ってサッカーをしていたところだ。
竜胆くんよりも早く我が家に到着し我が物顔で上がり込み、相変わらず蘭ちゃんの顔がタイプで甘い母からお菓子を受け取って兄の部屋に向かっていった時の蘭ちゃんのあの顔。兄同様に不気味なぐらいニヤついて、普段何も持ち歩かない蘭ちゃんにしては珍しいぐらいの荷物を抱えていた。鼻歌すら歌って三つ編みを揺らしながら階段を昇っていくその背中を見た時の私はヤバい薬やっちゃったのかな……それなら殴って正気に戻さなきゃなんて思っていたけれど、全然違う。アイツらは最初から正気だ。正気でこんなことをやらかしている。暴走癖があると色んな人から言われる私よりもヤバいやつら。
何も知らない竜胆くんに蘭ちゃんも来たよといえば相当驚いていたけれど、それでもあの時の私たちはまだ平和だった。制服に着替えてくれる竜胆くんを部屋の前で待つ時間もずっとソワソワしていたし、着替えてからドアを開けて照れくさそうに笑う竜胆くんを抱き締めて似合ってるといいながらもう凄く舞い上がっていた。今度一緒に制服で出掛けようねと約束をして、放課後は学校まで迎えに行くからねなんて言って、本当に幸せだったのだ。閉めたドアが乱入者たちによって強引に開かれるその時までは。
私たちの幸せな時間にニヤニヤどころかもう堪えられないとばかりに大爆笑しながら乱入してきた二人を見たその瞬間私は呆然とし、ついで目を見開いて乱入者たちを見つめている竜胆くんからバッと体を離してその制服を見、また乱入者たちの格好を確認した。そして竜胆くんにぎゅっと抱き着いて絶叫。二人して泣くほど笑っている馬鹿共を睨み付けることも出来ずにただ叫ぶことしか出来なかった。
だって、彼ら三人は揃いも揃って同じ制服を着ていたのだ。
蘭ちゃんと竜胆くんが同じ制服なのはまだ分かる。同じ高校に行くと言っていたし、まあそりゃ同じ制服だろう。でも一匹のデブは? 我が兄であるデブは、なぜその制服を着ているのか。答えなんてひとつしかない。デブも竜胆くんたちと同じ高校に進学するのだ。
デブの進路に私が何も興味がなくて、デブも私に何も言ってこなかったのがいけなかった。デブが祖父と話し合って進路を決めている時期に私はイザナの進学する高校をエマちゃんとパンフレットを見ながら制服で選んでいたし、形だけとはいえ受験勉強のようなものをする竜胆くんを応援するばかりで祖父にしばかれて毎日夜遅くまで中学一年生の基礎を学んでいるデブを一切気にしていなかった。デブはデブでどこか適当な私立に入るのだろうと思っていたのだ。素行が悪く不良でチームのトップなんてやっていて馬鹿で授業にもまともに出ないデブでも入れて卒業出来る学校。祖父の口利きか、汚い話だが金の力でどうにかするのだろうとしか思っていなかった。そしてそれは今思えば、素行が悪く不良で少年院に入っていた経歴すら持ち合わせ警察にお世話になった回数も数知れないがお爺様が祖父同等かそれ以上に権力も金も持ち合わせている竜胆くんと蘭ちゃんだって入れる学校だということになる。
そこまで瞬時に思考を巡らせた私は竜胆くんに咄嗟にタックルをしてベッドの上に投げ飛ばし、自分もベッドに飛び込んで体勢を起こしたその背中に縋り付いて冒頭のように喚き散らした。そしてデブと蘭ちゃんを部屋から追い出し、竜胆くんに縋り付いてずっとグズっている。
「ほんと、ほんとにずるい……二年早く生まれればよかった……」
「そしたら同級生だな」
「うん……いや、やっぱり年下でいいや」
「お、考え変わった?」
「変わった。竜胆くん、高校で美人局みたいなのに絡まれたりして壺とか絵とか買わされそうになったら言ってね。私がその女ボコボコにするから。私は男女平等パンチの使い手だから安心して」
「こっわい考え方してんな……ないと思うけど絡まれたらちゃんと言うよ。いやほんとないとは思うけど」
「あと可愛い同級生とか綺麗な先輩に告白されたりしても私にちゃんと言って。それがなくても迎えに行くけど、門のとこまで行って抱き着いて威嚇するからね」
「…………オレを?」
「相手の女の子を」
ちょっと迷ったように言葉を発した竜胆くんに間髪入れずに返せば、ガッと私の腕を払って振り返って飛び付くように抱き締められた。予想していなかったその動きに押されて背中からひっくり返りそうになりながらも、ぐっと体に力を入れて竜胆くんを受け止める。スプリングが軋んだ。壊れそうで怖いな。
私の発言の何が琴線に触れたのか竜胆くんはなんとも嬉しそうに可愛い可愛いと繰り返しながら私の頭を撫で回し、もう片方の手で私との距離をゼロにせんとばかりに自分の方に背中を押して距離を詰めてくる。今日は甘えたなのは竜胆くんなの?
「ほんと可愛い」
「なに? どこが?」
「そうやって嫉妬してくれてるとこ。大丈夫だよ、リコ以外の女なんて塵みたいなもんだから。心配しないで、オレのこと信じて」
「嫉妬? 塵? えっ、なに、嫉妬? ……嫉妬……嫉妬かも…………」
なるほど嫉妬。上機嫌に私の額や鼻の頭にキスし始めた竜胆くんを甘んじて受け入れながら、なるほどと頷く。言われてみれば嫉妬かも。竜胆くんの制服に私の匂いを付けちゃおうと思ってたのも、女の子が近付いてきたら教えてねと言っているのも、確かに言われてみれば嫉妬だ。新発見。
新たな気付きに感謝して私からも竜胆くんの鼻の頭に唇を落とす。竜胆くんはスキンシップが好きみたいで最近はよくこうやってちゅっちゅちゅっちゅ二人きりの時はキスをしてくるのだが、私もキスを返すととても喜んでくれる。現に今もとうとう私の肩を押してベットに寝かせて顔中にキスし始めてくれたし。うーん、くすぐったい。竜胆くんのすっかり伸びた髪が頬にかかって思わず身を捩れば、ぎゅっと手を握られた。暫し二人で見つめ合う。
「……竜胆くんのこと信じてるけど、お兄にも頼んどく。竜胆くんが女の子にモテてたらお兄が竜胆くんのこと抱き締めて私の代わりに威嚇してって」
「いやちょっと待ってそれはやめて。話変わってくるだろ」
「お兄アレで力加減の出来るデブだから、竜胆くんのこと潰したりしないよ」
「そういう話ではないんだよなあ……ってかオレとしては抱き締められるならリコがいいんだけど」
「でも私竜胆くんと一緒に高校通えないもん……竜胆くんかっこいいから絶対モテモテになるよ。優しいし」
「そんなことないって。リコ以外にはオレ全然優しくないよ。リコだからこんな優しくしてんの。そもそも留年しないぐらいしか学校なんて行かねーと思うから女ともそんな接点できねえよ」
「分かんないじゃん。竜胆くんにそんな気がなくても女の子が竜胆くんのこと好きになっちゃってすこいアピールしてくるかも。その子がすごい可愛くてスタイル良くて……でも私より可愛くてスタイル良い子ってあんまりいない気がするな…………」
「リコのそういう自分に自信あるとこ超好き。でもさ、オレ絶対に揺らがないからほんと安心して。リコより可愛い子なんてどこ探してもいないよ。オレの中ではリコが一番可愛い。リコのことが一番好き」
「私も竜胆くんが一番好き……分かった、お兄じゃなくて蘭ちゃんに頼むね。竜胆くん蘭ちゃんといつも一緒だからそれなら違和感ないでしょ。蘭ちゃんなら女の子威嚇しても変じゃないし、蘭ちゃんに先に威嚇してもらって放課後私が威嚇する。完璧だ……」
「……うん、もうそれでいいよ」
竜胆くんは呆れたように笑って私の上に覆い被さり、またひとつ額にキスを落とした。
+
今年の夏は充実した夏になりそうだ。エマちゃんとお泊まりして、向日葵を見に行って、竜胆くんと花火大会に行って、デブや蘭ちゃんも入れて四人でまた海に行く。去年海に行った時は私が無免許の人間の運転するバイクの後ろには乗りたくないと断固拒否したため路線バスで移動したが、今年は三人揃って高校入学早々に二輪の免許を取ったのでバイクでの移動が決まっている。無免は流石にどうかと思うんだよね。いや私も普通に兄と祖父に教えてもらったし乗れるけど、流石にね。長距離移動は怖い。
竜胆くんと兄は私が後ろに乗っていれば安全運転を心掛けてくれるけれど、蘭ちゃんはダメだ。飛ばしに飛ばしまくる。よく免停になってないなって感じ。私がもっと安全運転してと怒っても、お前の方が運転荒いだろとかなんとか言って話を誤魔化してくるし。私だって後ろに人乗っけるなら飛ばしたりしないわ。
佐野家の庭でバーベキューもしようという話になっているし、イザナとは色々やらかしてマンジローのお友達を虐めてくれた黒龍九代目総長のしおんちゃんの尻に線香花火を突っ込もんで火を付けてやる計画を立てている。私が手を出すまでもなく九代目黒龍はマンジローの作ったチームによって壊滅寸前まで追い込まれているのが現状だが、一度イザナが体裁を整えて引退したにも関わらず再び何でもありの無法チームにさせてしまったのはしおんちゃんの罪である。罪には罰を。尻には線香花火を。
イザナを介して知り合ったしおんちゃんはまさにバカワイイってこういうやつのことを言うんだなあという言動をする愛すべき馬鹿であり、ちょっと手が出るのが早くて暴力的なところもあるが一度ボコボコに殴って立ち上がれなくしてやってからは素直に私の言うことを聞く可愛い年上の男の子である。竜胆くんと蘭ちゃんもしおんちゃんのことを馬鹿だと言っており、なんと兄にまで馬鹿だと言われている。自分をデブだと認めない兄と馬鹿だと認めないしおんちゃんとは仲良くなれるかと思ったのだが、同じ馬鹿同士逆に相性が悪かったみたいだ。
しおんちゃんは夜ノ塵の面々からも「お嬢の新しい舎弟」としてそれなりに気に入られており、この前竜胆くんと一緒に上野動物園に行った時にはうちのチームの下っ端数人と一緒にライオンの檻の前で盛り上がっていた。頭に獅子のスミを入れてるぐらいだから相当ライオンが好きなんだろう。ちっちゃい男の子みたいで可愛い。狂犬とか言われてるらしいけど私の手にかかればしおんちゃんはちょっと体の大きいチワワだ。
チワワと言えばワンちゃん。ワンちゃんはイザナの引退と共に黒龍をやめた──なんてことはなく、しおんちゃんの側近として九代目黒龍でも頑張っていたらしいが、色々やっちゃったらしく今少年院に入っている。最後に会った時はかなり黒龍の雰囲気に呑まれて荒れていたのだが、次会った時もあんな感じだったら殴り飛ばして正気に戻そうと思っていたのにその次が来なかった。それでも大事な友達なので出所したら一度ビンタするからねと毎度毎度手紙の冒頭に書きつつ、今度は一緒に料理しようねという気持ちも込めてレシピをびっしり書き込んだ便箋を祖父に託している。何度か寄越された返事にはあれが食べたいこれが食べたいと書かれていたから案外元気にやってるのだと信じている。
そんなこんなで充実した日々を送る私は今、八月の生温い風邪を掻き分けるようにしてシンイチローくんの店に向かってバイクを走らせていた。時刻は深夜三時で既にバスもなく、移動手段は歩くか走るか自転車かバイク。流石にこんな時間にそれなりの距離を歩く気もなかったので、祖父からシンイチローくんに譲られて私も乗り慣れているフェックスで公道を爆走している。補導リスクはあがるが自転車よりもこちらの方が早い。
今日は佐野家にお泊まりする二日目で、午前中には軽いバイトとしてシンイチローくんの店で店番をやっていたのだ。まあ適当に顔見知りのお客さんと話してどのバイクがいいかとか最近何があったとか話すだけの本当に簡単な仕事とも言えない仕事なんだけど。その時店に財布と携帯を置いてきてしまったみたいで、迎えに来てくれたエマちゃんと買い物をして料理をしてとはしゃいでいたからか私がそれに気付いたのは日付が変わってからだった。竜胆くんや家族と連絡を取る以外であまり携帯を使わないのでつい忘れてしまっていたのだ。
イザナとマンジローと三人でやっていたゲームを無理矢理切り上げ、朝になってからでいいじゃんと言う二人を黙らせて、シンイチローくんも遅いし迎えに行くだのなんだのと行って佐野家を出てきた。
なんとなくだけど、胸騒ぎのようなものがして。私は嫌なところで勘が当たるので、今回も何か嫌なことが起こるような気がしたのだ。
フェックスを走らせること十分ほど。警察に捕まることもなく辿り着いた商店街の前で止まって、警察対策で被っていたフルフェイスのヘルメットも外す。シンイチローくんの店は商店街の中にあるわけではないけれど、シャッターが降ろされている以上裏口から入る必要があるので、商店街を通った方が早いのだ。絶対持ってけと何故かイザナに押し付けられたマンジローの携帯でイザナに電話をかけながら、人っ子一人居ない商店街を覗き込んだ。……にしては、慌ただしい人の気配がするんだよなあ。
「あ、もしもし? イザナ? 私。着いたよ」
『早くね? めちゃくちゃ飛ばしただろ』
「あんたたちが早く帰ってこいって言ったんじゃん。んー、……あー、あのさイザナ、固定電話あんでしょ。警察呼ぶ準備して」
足音を殺して気配を消しながら足早に商店街を抜け、シンイチローくんの店の裏口を目指す。訳もなく心臓が逸っている。嫌な予感は増すばかりだ。
は? だとか、なんでだよだとか喚いているイザナを無視して歩を進める。マンジローの声も聞こえてきた。あんまり騒ぐなよ。エマちゃんも師範も起きてきちゃうでしょ。せっかく黙って出てきたのに、気付かれたら怒られてしまう。いや、もうそう言う問題でもなくなってきている気もするけど。軽い現実逃避だ。
歩き慣れた道を通って、とうとう裏口に辿り着く。……やっぱり。
「すぐに警察呼んで。場所はシンイチローくんの店。この後私返事出来なくなるからね」
『シンイチローになんかあったのか』
「それはまだ分かんない。でもお店に強盗が入ってる。裏口空いてるし、これ、外からなんかで殴ってガラス割られてるから、多分武器も持ってるよ。今から中確認しに行くから」
『リコ駄目だ、行くな。警察は今マイキーが呼んだ。エマ、お前は爺ちゃん起こしてこい。リコ、警察がすぐ行くって言ってるから、外で待ってろ』
「待ってる間にシンイチローくんがなんかされたらどうするの? それにもうお店の中だから無理。今更戻らないから」
『獲物持ってる相手にお前が何が出来るんだよ! いいから戻れ、頼むから』
「少なくともシンイチローくんより私の方が強い」
『今はそんなの関係ねえだろ! 店から出てくれ、頼む。リコ、頼むよ』
「ごめんねイザナ」
ガラスを踏み締めないように足元に気を使って、物音一切立てずにそれでも足早にシンイチローくんの元を目指す。今一番うるさいのは多分私の心臓の音だ。それぐらいに暴れ回っていて、外に音が聞こえないか不安になってくる。
イザナの言うことは最もだけれども、警察を待ってる時間はない。もしも私がここで引いて外にいる間にシンイチローくんに何かあったら。剰え殺されてしまったりしたら? それより最悪なことなんてない。
相手の人数も装備も目的も分からない以上圧倒的に不利なのはこちらだが、だからってここで引くことなんて出来ないのだ。シンイチローくんは私の大切なお兄ちゃんだ。
戻れとか今からそっちに行くとかいうイザナの言葉を一切無視して、話し声がする方に足を向ける。良かった、シンイチローくんの声だ。それからあとひとつ、まだ幼い声。ああ、なんだかどこかで聞いたことがあるような。
かすかに開いた状態だった店先に繋がるドアを完全に開けて、咄嗟にシンイチローくんを呼ぶ。シンイチローくんは相対していた黒服の強盗と共にこちらを見て、目を見張った。そうだ、そういえば携帯と財布を取りに行くって連絡していなかった。そりゃ驚くよね。どこか場違いにそんなことを思いながら、私は、必死で現実逃避をする。握り締めたマンジローの携帯がばきりと軋む。ダメだ壊してしまうと思っているのに、力が制御できない。
「ケースケ、なんで……」
私はその黒服の強盗を、まだ幼い声を持つその少年を、知っている。
目を見開いて汗をダラダラ流しながら私とシンイチローくんを交互に見て、強盗は、ケースケは意味もなく口を開いたり閉じたりしている。そのそばにあるのはシンイチローくんがマイキーの誕生日に贈ると言って整備していたバブだ。警察官の孫の前で無免推奨しないでよと文句を言ったら、シンイチローくんは見逃してくれよと笑っていた。私もそれにつられて笑って、それで、それから。
なんでとか、なんのためにとか、どうしてとか。聞きたいことが沢山ある。でもぐるぐる絡まりながらも止まらない私の思考が、どこか冷静に状況を分析していた。
ケースケは武器になるようなものは何も持っていないように見える。じゃあ何でバブを繋いでいたチェーンロックを切断したのか。どうやってガラスを割ったのか。あのケースケが、人の店からバイクを盗む計画なんて立てるのか。──一人じゃ、ないんじゃないの?
それまでどこかに消えていた第六感的な部分が一気に私の中に戻ってきて気持ち悪いぐらいに背筋が粟立って、その瞬間にはシンイチローくんの頭を抱えるようにして飛び付いていた。遅れて聞こえてきたケースケの叫び声何を言っているのかを認識するよりも腕に衝撃が走って、シンイチローくんごと床に倒れ込む。
衝撃がすぐに燃えるような痛みに変わって、今まで感じたこともないようなそれに体勢を立て直すことも出来ずにシンイチローくんの体の上で喘ぐように何とか息をする。悲鳴すらも出てこないし、そもそも息が上手くできない。
ダメ、痛い。なにこれ。本当に何、これ。何されたの私。殴られた? あの時視界に入った何か、工具みたいな、多分それで腕を思いっきり殴られて、それで。多分腕が捥げたのだ。じゃなきゃこんなに痛いはずがない。いつかの喧嘩で捥いだドアミラーに今更詫びたくなってくる。痛かったよね。ごめんね。腕が捥げてやっとその痛みに気付いたよ。
私の下でシンイチローくんが呻く。庇い方が足りなくて頭を殴られたみたいだ。でも、血は出ているけれど多分意識はある。そもそも床に広がっていく血が私の腕から流れるものなのか、シンイチローくんの頭から流れるものなのかがもう分からない。兎に角腕が痛いのだ。恐る恐る見た腕は多分骨が何本も折れているし、傷口はもう何が何だかぐちゃぐちゃで、血やらなんやらは見慣れていると思っていたのに意識が飛びそうになった。二の腕から手首の辺りまで、裂けてる。
人の体って裂けるのなんで裂けちゃうのともう思考が意味のわからない方向に向き始め、止血なんて出来そうにもない。そもそもこれ止血したら多分肉に触れる。こんな状態での止血の仕方なんて分からない。シンイチローくんの上から退こうにも体が全く動かず、そもそも血が止まらないし痛いし息が出来ないし、とうとう頭もあげていられなくなってシンイチローくんの胸に乗せた。弾みで落ちそうになった頭をシンイチローくんの力の入っていない手が支える。良かった、生きてる。やっぱり意識がある。
とはいえ私は満足に呼吸がもう出来ていないので、多分もうすぐ意識を失うだろう。もうシンイチローくんのTシャツも私のワンピースも元が白色でしたなんて信じられないぐらいに真っ赤になってきている。これ多分位置的に私の血だな。……人って確か血を失いすぎると死ぬんだよね。
ああ嫌だ死にたくない。腕が裂けて死ぬとか、嫌。そもそも竜胆くんともう離れないって約束したのに、ここで死んだら約束が守れない。竜胆くんは怒ると怖いから、私が約束を破って死んだら一生私のことを呪って生きてくれそうだ。竜胆くん。竜胆くん、死にたくないよ。まだ一緒にいたい。
とうとう走馬灯なのかなんなのか笑う竜胆くんや怒る竜胆くん、呆れる竜胆くんや照れる竜胆くんがぐるぐる頭の中を回り出す。走馬灯でも竜胆くんのことばっかりとか、私本当に竜胆くんのこと好きなんだな……。そういえば、竜胆くんの泣き顔って見た事ない。竜胆くんは強いから私の前だと全然泣かないのだ。でも、私も竜胆くんにはなるべく笑ってて欲しいから、泣かないでいてくれると嬉しい。
あっちへ行ったりこっちへ行ったり、竜胆くんのことを考えながらもう何も出来ずに浅い息を何とかしていれば、私を覗き込んできたケースケと目が合った。泣いている。救急車、とか言ってる気がする。うん、そうだよ。早く救急車呼んで。私このままじゃ死んじゃうし、シンイチローくんも死んじゃうかも。
だというのに、ケースケはなぜだか私たちを工具で殴ったもう一人の強盗をガバッと抱き締めた。は? 救急車は? それ後でやれよ。私たちこのままじゃ死ぬんだけど。死んでしまうんですけど。
朦朧とした意識を覚醒させるようにふつふつと怒りが湧き上がってくる。地獄に一緒に落ちるとかアホ? 地獄に逃げてる暇あったら救急車呼んでくれよ。お前たちのせいで死にかけてる私たちに先ず向き合えよ。
馬鹿共がよ、と思いながら怪我はしていないがもう力の入らない右手で近くに落ちていたマンジローの携帯を引き寄せた。そのままシンイチローくんの耳に震える手で押し当てる。私のしたいことに気付いたのか、シンイチローくんが呻きながらも救急車を呼べと途切れ途切れの声でマンジローに言っている。私はダメだ。もう気力だけで意識を保っているし、正直末端の感覚がなくなってきてる。死を覚悟しつつある状態。
「リコ……リコは、腕が」
「も、げた……」
「もげたって……」
「りん、どー……くん……」
「がんばれよ、リコ」
シンイチローくんは自分も辛いだろうに私の背を撫で、頑張れ頑張れと声をかけてくる。でもシンイチローくん、私だってこんなこと言いたくないけど、もう寒いし、眠い。目を開けてられない。血が止まっていないだろうに何も感じないし、もう痛みもない。全身がふわふわする。浮いてるみたい。いや本当に浮いてるんじゃない? これ。
「リコ、もうすぐ救急車、来るからなあ。それまで、がんばれ。リンドーくんに会おう。な、リコ」
「……」
「リコ? ……リコ、起きろ、リコ……!」
何故か、いつかイザナと見たアニメの、倒れた子どもと犬に空から舞い降りた天使が寄っていく場面を思い浮かべながら、意識が沈んでいった。
デブ百まで食忘れず