『リコ死ぬかも。今すぐ病院来い』
「は?」
『いやだから、は? じゃなくて。いいから早く来い』
「は?」
借りてきた映画を見ている最中に着信を知らせた携帯を横目で見たかと思えば勝手に映画を止めて応答し、流れるようにスピーカーにした後の応答がこれである。思わずオレもポップコーンを食べる手を止めて竜胆を見た。恐らく電話の相手であろうガリ男と竜胆は無益な応酬を繰り返し、その合間にも竜胆の顔色がどんどん悪くなっていく。蒼白な顔で壊れたスピーカーのごとく聞き返し続ける弟の姿が見ていられずに手を伸ばして携帯を無理矢理取り上げ、スピーカーを切ってオレが話を聞くことにした。この状態の竜胆に何を言っても無駄だ。
ガリ男と呼ぶよりも早く、電話の向こうで慌ただしい物音がして何とも機嫌の悪い声が蘭に変われと不遜に言った。この声は分かる。ガリ男とガリ子の祖父の高賀貴彦だ。親愛を込めてゆきちゃんと呼んでいる。
「ゆきちゃん? 蘭だけど、どうしたんだよ」
『あ? こンの馬鹿はその説明も出来てねえのか……リコがシンイチローの店で強盗に殴られた。搬送された時点では心臓は動いてたが、運ばれてる途中で出血性ショックで心停止したそうで、今処置を受けてる。心臓はひとまず動き出したそうだからまあ死にはしないだろうが万に一つがねえとも言えねえだろ。竜胆連れてすぐ来い』
「おっけー、場所は?」
『去年の秋にも入院した病院。夜間入口から入ってこい。名乗れば通すように言っとく』
「ん。多分そこなら三十分かかんねーわ。すぐ出る」
『おう。オレは居ねえけどまあ平気だろ。……アイツ意識飛ばす前に竜胆の名前呼んでたらしいから、早く会いに来てやってくれ』
「りょーかい」
電話を終えてそのまま、ソファーに座り込んだまま呆然としている竜胆の前を通り過ぎ、消していた電気をつけた。竜胆は眩しそうに下を向いたが、顔色がめちゃくちゃ悪い。そんな顔で出てったらガリ子が泣くぞ。アイツお前に関わることじゃすぐ泣くんだからよ。
テレビの電源を切って、仕方ないから竜胆の携帯も俺のズボンのポケットに突っ込んでテーブルの上からバイクの鍵をとる。今の弟にバイクの運転をさせる訳にも行かないし、後ろに乗せていくか。このまま運転させて竜胆に事故らせたらオレがガリ子に殺されそうだ。自分だって無免で相当荒い運転をするくせに、いつも自分のことは棚の上にあげてオレばかり怒る。アイツはそういう女だ。
「おい竜胆、病院行くぞ〜」
「……リコは…………」
「そのリコに今から会いに行くんだろうが。ゆきちゃんも多分大丈夫だって言ってたし死んでねえよ。ってか、お前はガリ子のことそんな弱いと思ってんの?」
「…………」
「なら竜胆がそばにいてやれよ。で、守ってやれ。ほら、早く行くぞ。竜胆の名前呼んでたってよ、目が覚めて竜胆くんがそばにいたら驚くんじゃね?」
まだ顔色は悪いがしっかりと顔を上げてこちらを見たその手を引き、立ち上がらせる。本っ当にめんどくせ〜弟だ。兄ちゃんが手を引いてやらなくては今は立ち上がることも出来ない。向こうも向こうでなんだかんだと兄に背を押されて手を引かれているようだし、兄離れの出来ていない妹と弟は関係は進展してもまだまだオレたち兄を必要としている。
それでもいつかはオレたち兄の元から離れて二人で手を引き合って生きていくのだろうかと漠然とした未来を想像しながら、竜胆の手を引いて夜の街に繋がる扉を開けた。
+
血を流して倒れ込む私とシンイチローくんの上を、ヒラヒラと天使のような妖精のような、羽の生えた小さな何かが飛んでいる。弓矢を持って真っ白な翼をはためかせ、荘厳な何かを歌いながら徐々に私たちに近付いてくる。ぼんやりとした視界でそれを何となく見つめながら、あ、と思った。この曲、うちの中学の校歌だ。
そうは思っても指の一本すらもう動かず、うちの中学の校歌を歌いながら舞い降りてくる謎の生物を目で追う。ひらひらひらひらと羽が揺れるたび、たるんだ腹の肉が揺れている。大きく口を開いて歌を歌えば、顎と頬の肉がぶるぶる震える。布一枚しか身にまとっていないからその体型がよく分かるのだ。絵に書いたようなデブである。それからそのデブの群れの中で三つ編みを揺らしにこにこ笑っている、デブの群れと同じ格好をした美人。歌うのに夢中で自分にぶつかってくるデブを弾き飛ばし殴り飛ばし蹴り飛ばしている。笑顔に見合わず気性が荒いらしい。蘭ちゃんとうちのデブみたいだなあ。
……いや蘭ちゃんとうちのデブじゃん。は?
この人たち何やってんのと思ってぱちりと瞬きをすれば、いきなり視界が切り替わった。うわあ見たことのある天井。去年の秋に一週間ほど見続けた天井に似ている気がする。いや気がするっていうか、絶対そうでしょ。
全身重くて頭も動かせそうにないので天井をまじまじと見つめていれば、だんだんと全身の感覚が戻ってくる。指先に、というよりも手全体に熱を感じた。誰かが私の手を握っている。よく知った熱、というよりも手のひらだ。この人はよく運動をするからか基礎体温が高くて、手のひらはいつも暖かい。心做しか冷たい気がするのは、体調が悪いか、あんまり寝れていないからか。心配かけただろうからなあ。
起きたよとアピールするために指先に力を込める。すごい、全然動かない。私どれぐらい寝ていたんだろう。喉がカラカラだから一晩だけってわけではないと思うんだよね。二日、三日。そんなものかな。
殴られた左腕は固定されているらしくぴくりとも動かないし、そもそも顔を動かせないので確認はできない。というか確認したくない。完全に裂けてたし骨見えてたし、うわダメ気持ち悪くなってきた。もう左腕は諦める。私の黄金の左腕が失われてしまった……。すごい損失ですよこれは。
私が起きたことに気付いてくれたらしいその人──竜胆くんは、慌てすぎて椅子から滑り落ちたらしくけたたましい音を響かせながらもぎゃんと私の名前を叫んだ。良かった、聴力は生きてるっぽい。うんそうだよリコだよ竜胆くん。ナースコール押して。
よろよろ立ち上がって私の顔を覗き込んだ竜胆くんは、呆然としつつも私の視線の意味を的確に察してナースコールを押してくれる。そのままじっと私を見下ろし、顔をぐしゃりと歪めた。瞳が潤む。
あ、と思った瞬間にはその紫の瞳から落ちてきた涙が私の頬に落ちる。まるで私が泣いてるみたいだ。初めて見る竜胆くんの泣き顔を見つめながら、そんなことを思う。何か言ってあげたいんだけどもう喉がカラカラでなにか飲まなければ何も言えそうにないので、何とか動くようになった右手でその涙を拭ってあげる。
これじゃあいつもと逆だ。いつもは私の涙を竜胆くんが拭ってくれるのに、今は竜胆くんの涙を私が拭っている。ああでも、これも悪くないかも。私のために流してくれるその涙を拭い、頬を曖昧に撫で、少し笑ってしまった。
+
「毎度毎度大怪我を負って……! 今回は心臓が止まって本当に危険だったんですからね! 分かってるんですか!」
「はい」
「分かってるんですか、と聞いてるんですよ!」
「はい分かってます!」
吠えるように叫んだ看護師さんに押されて私も叫べば、うるさいですよと怒られた。理不尽すぎるでしょ。私の背を支えてくれている竜胆くんに助けを求めればキッと睨まれた。もしかして私の味方居ないの?
竜胆くんがナースコールを押してわりとすぐに駆け付けてくれたこの看護師さんは、昨年入院した時にもお世話になった人である。今度は転けたとは言い訳しなかったものの普通に怒られているので、人の心は難しい。嘘。迷惑かけてすみません。
看護師さんに続いて入室してきたこちらは初見のお医者さんに痛いところはとか違和感のあるところはとか聞かれて、声が出ないので水が飲みたいとアピールをしてそういうことじゃないとばかりの顔をされたり、シンイチローくんの病室に居たそうなのだが連絡を受けて巨体を揺らして飛び込んできてくれたデブが足を滑らせて地面に突っ込んで額を切ったりと散々だった。
兄が私のために必死で走ってきてくれたのは嬉しいんだけど、何も無いところで転けた挙句に額を切って血を流す惨状を作り上げるのはやめていただきたい。その数秒後にシンイチローくんまでデブに躓いて転けたせいでお医者さんは絶叫していた。二次災害どころか三次災害だ。しかもシンイチローくんは絶対安静を言い付けられていたらしいのに、病室からわざわざ脱走してきてくれたらしい。心配はとても嬉しいけど、本当にもうちょっと落ち着いて。
お医者さんの要請に応じてわらわらとやってきた複数人の看護師さんに背を押されて連れ出される直前まで二人は私の名前を呼んでくれていた。まだ掠れる声で大丈夫だよと答えて手を振ればなんとか納得してくれたようだったから良かったんだけど、それはそれとして綺麗な看護師さんたちに囲まれて分かりやすく嬉しそうにしていたのはどう弁解するつもりなんだろう。妹の無事が嬉しくてっていう面じゃないだろ、あれ。
病院から両親にも連絡をしてくれたらしく、母は今向かってくれているらしい。祖父は蘭ちゃんと一緒に来てくれるそうだ。あの二人本当に仲良いよね。この前ゆきちゃんが云々とか言い出したから誰のこと? と聞いたらお前らの爺ちゃんと言われて飛び上がるほど驚いた。友達かよ。ゆきひこだからゆきちゃんらしいけど、祖父相手になんでそんなにフランクに迫れるのか分からない。そしてなんで祖父もそれを受け入れるのか。一周まわって驚きが恐怖に変わる。
ぼけーっと看護師さんの話に頷いていれば、本当に聞いていますかとため息をつかれた。一応聞いてます。
「はあ……そちらの彼氏さんにもちゃんとお礼を言ってあげてくださいね。この一週間ずっとそばにいてくれたんですから」
「えっ、竜胆くん一週間もそばに居てくれたの? ありがとう大好き心配かけてごめんね! ん? いや待って? ……一週間⁉︎」
「オレも大好き」
「一週間って何⁉︎ 七日間ってこと⁉︎」
「リコ頼むからもうこんな無茶しないでくれよ……」
「二日とか三日じゃなくて⁉︎ 私一週間も寝てたの⁉︎」
「心配で心配で頭おかしくなりそうだったんだよ……」
「正確には八日ですね。今日で搬送されてきてから九日目です。腕の裂傷に関しては昨日抜糸も終わっていますが、あなた寝ながらすごい暴れるので固定してますからね」
「えっ……二の腕から手首までグワーッて裂けて骨も折れてた気がしたんですけど……折れてませんでした?」
「生きててくれてよかった……本当に良かった……」
「折れてませんでしたよ。傷も二の腕から肘の辺りまでです。でもかなり深い傷ですから全治半年近くかかります。その間は過度な運動も控えてください」
「分かりました、左腕は使わないようにします」
「分かってないですよね」
どうやら私は負ったことのないほどの傷に脳が混乱して少々過剰に考えすぎていたらしい。折れてなかったらしいしそこまで裂けてなかったみたいだし、黄金の左腕は失われていなかった。グズグズ鼻を鳴らしながら私の背に縋り付いて肩に顔を埋める竜胆くんが前に回した手を撫でたり握ったりしてあげながら、看護師さんと話す間流していたその言葉に相槌を打つ。欠片も理解してませんよねと看護師さんはぐちぐち言っているが、うーん聞こえませんね……。
どうやら竜胆くんは私の想像していた何倍も私を心配してくれていたらしい。さっきから顔は見せてくれないけれど肩は竜胆くんの涙でもうびしょびしょ。本当にこれじゃいつもと逆だ。泣き付かれるのってこんな感じなのね。空気読めてないけど、案外いい。
「ねえ、竜胆くん」
「ん」
「ずっとそばにいてくれたんだよね。ありがとう。私意識飛ばす前に竜胆くんのことずっと考えてたんだよ。会いたいなあって思ってたの。だから目覚めて一番最初に会えたのが竜胆くんですっごい嬉しかった」
「……ガリ男から電話があった時、もう終わりだって思ったんだ」
「うん」
「リコ死ぬかもとか言うし、病院来たら手術中だし、イザナ泣いてるし……もう二度とリコに会えないかもって思ったら怖くて怖くて」
イザナ泣いてたんだ、とは思ったもののそこはつつかずに竜胆くんに話の続きを促す。アイツも最近私の事妹として認めてくれたみたいだしなあ。止めてくれたのに聞かずにシンイチローくんの店に突っ込んで行ったのは私だし、まあ会った時に泣かれることぐらいは覚悟しておこう。マンジローとエマちゃんにも心配をかけただろうし、師範の心臓に悪いことをした自覚もある。色んな人に心配してくれてありがとうと言ってから謝罪行脚だ。
看護師さんは空気を読んでくれたのか後でまた来ますと言って病室を出ていった。その動きを目で追っていて気付いたのだが今度もまた四人部屋なのに私しかいない。もしかして呪われてるのかな。このままじゃ一生誰かと同部屋になることがない気がする。まあ入院するなって話なんですけど。
「オレ、リコがいないとダメだ」
「私もだよ。竜胆くんがいないとダメ」
「頼むからもう無茶しないで。リコに何かあったらもう生きていけない」
「うーん、私が死んだせいで竜胆くんが死んじゃうのは悲しいから、無茶はしないようにする。それに竜胆くん、私のことこれからもそばで見張っててくれるんでしょ? 危ないことしたり無茶しそうになったら止めてよ。ね?」
「分かった。監禁してでも止める」
「えー、じゃあ私も竜胆くんが無茶するならどこかに閉じ込めなきゃ……毎日美味しいご飯作ってあげるからね」
私が無茶しようとしたら監禁してでも止めてくれるらしい。竜胆くんはこういう時に冗談を言わないので多分本気だ。監禁かあ。当然今までされたことないんだけど、まあ竜胆くんならいっか。監禁とは言いつつ優しいので兄には会わせてくれそうだし、不自由のない生活をさせてくれる気がするし。
しかし私にも今後やらなければいけないことはあるわけで、そう易々と無茶をした結果監禁されましただなんてことになる訳にもいかない。これからは無茶をしたら監禁だと念頭に置いて動かなくては。次からは殴られる前に殴ろう。腕を裂かれる前に相手の腕を裂く。もがれる前にもぐ。完璧な計画だ。
まだまだぐずっている竜胆くんの腕をあやす様に軽く叩きながら、殊更優しくなるように心掛けて名前を呼ぶ。こういう竜胆くんは珍しいし、可愛い。竜胆くんももしかして私が泣いている時こんな気持ちなのだろうか。
「よしよし、泣かないで竜胆くん。そばにいるよ。一緒にいる。花火大会も海も多分今年は無理になっちゃったけど、来年一緒に行こう。その次の年も行こうね」
「……ん」
「竜胆くんの行きたいところにも行こう。一緒にだよ。お兄と蘭ちゃんが一緒でもいいけどさ、二人で遠出したりして、いっぱい思い出作ろう」
返事の代わりに強められた腕の力に少し笑って、手を伸ばしてその頭を撫でた。竜胆くんはあたたかい。
+
母には泣かれたし祖父には怒られた。向こう見ずな性格はそろそろ直せと言われたが、そう簡単に直せるものでは無い。これでも私なりの最善を選んだつもりなのだ。そう言ったら竜胆くんにまた泣かれそうになってしまったため直す直すと弁解する羽目になったけど。
蘭ちゃんが祖父の金でお見舞いとして買ってきてくれたらしいお高いお煎餅は、一週間以上固形物を口にせず点滴で栄養をとっていた私には早すぎるということで額を縫合されて帰ってきたデブと買ってきた側の蘭ちゃんの腹に全て収まった。デブの食べ方はばりばりばりばりとうるさくて、食べられないとわかっていて選んだんだと豪語していた蘭ちゃんは小憎たらしい顔をしているしでべったりと私に張り付いている竜胆くんがいなければ暴れていたかもしれない。
因みに遅れてやってきた父は竜胆くんと蘭ちゃんを見て悲鳴をあげていた。祖父経由で二人のお爺様と会ったことがあるらしく、そのお爺様によく似た二人を父はかなり警戒している。というか怯えていると言った方が正しいかもしれない。竜胆くんが家に遊びに来ているといつも大袈裟なぐらいの反応をするから竜胆くんが「お義父さんに嫌われてるかも……」と不安になっていたので抱き締めて慰めてあげた。だけど分かりやすいぐらいには蘭ちゃんの方が苦手らしく、祖父と蘭ちゃんのコンビが父にとっての真の天敵だからその二人と比較すれば竜胆くんは好かれてる方だと思う。この前何があったのか知らないけど祖父と蘭ちゃんに囲まれて半泣きになっていたし。
それでも父も竜胆くんと蘭ちゃんの方をチラチラ気にしつつも「自分から危険に突っ込んでいくことはやめなさい。あと竜胆くんと距離が少し近くない?」と言ってくれた。後半はよく分からなかったので流したが、多少不服そうな顔をしていた父も蘭ちゃんと祖父にこれが私たちの普通だと言われて壊れたロッキング遊具のように首を縦に振っていたから何かしら結論が出たのだろう。距離が近いと言われても不安そうにしている竜胆くんを抱き締めるのは当然のことなので。
そんな風にして家族たちは私を心配しつつ叱りつつ労ってくれたのだが、私の家族はまだまだ居るわけである。血は繋がらないけれどそんなこと関係ないぐらい大事なきょうだいたちが、わんさかと。
「リコお前もう二度と外出んなよ……」
「それは流石にちょっと…………」
「次なにか無茶したらオレが監禁するって約束になってるから」
「竜胆が? それならまあ……いいか…………」
「イザナはそれでいいんだ……」
祖父と蘭ちゃんに捕らわれた宇宙人のように挟まれていつかのように半泣きになりながら父が部屋を出て行き、兄もシンイチローくんの病室にまた様子を見に行くと去っていったあと。竜胆くんに私が寝ていた間の話を聞いている時に、予告もなく弾丸の如く病室に突っ込んできたイザナはもう見るからに窶れていた。しかし私を見て瞳を潤ませて顔を歪めて良かったと心底安堵したように呟き、その直後ベッドに腰かけて私の背中に抱き着いている竜胆くんを見て目を吊り上げて鬼のような顔になった。
距離が近いとか離れろとか言うイザナとこれがオレたちの普通だの兄ならば心を広く持てだのと言う竜胆くんとで数分ほどいがみ合い、結局竜胆くんは私を背後から抱き締めるスタイルを継続し、イザナは私の右手を両手で握って正面から顔を見つめることにしたらしい。私の意思が何も反映されてないんだよなあ。まあ良いんですけどね。二人には本当に心配かけただろうから。
そしてその後の私たちの会話は前述の通りになるわけだが、いや、イザナはそれでいいんだ? さっきは竜胆くんと私の距離が近いと文句言っていたけれど、これでやはりイザナはイザナで竜胆くんを信用しているらしい。まあ少年院で極悪の世代とか言って連んでたらしいし、そもそも竜胆くんはすごくいい人で信用しない理由がないしで、妥当な信頼である。
にしても二度と外に出ないのは無理。竜胆くんと制服デートもまだ片手で足りないぐらいしかしてないし。せめて私が中学を卒業する前にあと二十回ぐらいしたい。エマちゃんが来年中学に入ったらお互い制服で遊び回る約束もしているし、そもそも家の中で出来る修行には限界がある。数ヶ月前にサンドバッグを家に設置したいと言った時に父には泣いて止められ母からは家が揺れそうだからやめてと言われているのだ。今は使えないが私のこの黄金の左腕をこのまま腐らせておくのはこの世の損だろうから、今後とも修行は続けたい。
その旨を二人に伝えれば、イザナは去年のきょうだい喧嘩での私のパンチを思い出したのか僅かに顔を引き攣らせ、反対に竜胆くんは表情こそ見えないものの「無茶することなくやるなら、まあ。それに殴られるよりも殴った方がいいし」と言ってくれた。だよね。やっぱり先手必勝というかなんというか、今後は初手で相手の手足を潰していくべきかもしれない。
イザナは竜胆くんの応援を受けた私が俄然やる気になって捲し立てる左腕を使わないトレーニング方法を聞いているのか聞いていないのか、額を手で覆って唸っている。まだ顔色は悪いし萎びて見えるがだいぶ本調子に戻ってきてくれたようだ。この後いっぱいご飯を食べていっぱい寝てほしい。私も食べて寝て修行するので。
どうやら私がこの調子で修行修行と言っている方がイザナは元気が出るようだし、竜胆くんも竜胆くんで殺られる前に殺れ精神を見せてきている。なら二人がもうちょっと元気になるまでこの話を続けるかと思っていたのだが、イザナはそれまでの迷い方がなんなのかというぐらい唐突に口火を切った。
「場地圭介と羽宮一虎」
「え、何? ケースケと誰?」
「それ。リコのその傷の原因」
「……なるほど」
本気でケースケと誰のことを指しているのかが分からなくてイザナを見つめ返せば、イザナはこちらを見ることなくじっと私の左腕を見ている。なるほどなるほど。今は鎮痛剤が効いているらしく痛くないけれど、しばらくは痛むだろうと看護師さんに言われたこの左腕の原因ね。痛いのは嫌なんだよなあ。延々と鎮痛剤を打ってもらうわけにもいかないし、慣れるしかないんだろうけれど。
遠慮がちに伸びてきたイザナの指先が私の左手の人差し指を握る。ちょっと二の腕から肘にかけては引き攣るような感覚はあるけれど、指先に痛みはない。痛くないよと言ってもイザナは敢えて意識してかなり軽く触れているのであろうにほんの少しも力を加えようとはしなかった。
「東卍のメンバーなんだろ」
「ああ。マイキーのダチだって」
「え、なのにシンイチローくんの店からバブ盗ろうとしたの? マンジローの手に渡るものなのに?」
「あー……竜胆」
「ん。オレたちもリコの祖父ちゃんと警察から聞いた話だけどさ、そいつらマンジロークンのために盗もうとしたっつってんだって」
「……はあ」
「二日前がマンジロークンの誕生日だったろ。誕生日プレゼントっつってバブ渡そうって考えて盗みに入ったらしい」
「ふーん……?」
イザナが言葉を濁して竜胆くんに言わせた時点で何となく嫌な予感はしてたんだけど、斜め上を来た。友人の実兄の店から盗んだバイクを友人本人にプレゼントか。で、その盗んだバイクは実は元から友人の手に渡るはずのものだった、と。しかも盗みには失敗して、友人の実兄と血の繋がらない姉を殺しかけている。
これは、なんというか。
私は今まで目に見えて私を心配してこうやって駆け付けてくれた竜胆くんやイザナや家族を気にしていたけれど、その家族の中でも一番に気にするべき相手がいたようだ。ケースケがあの場にいたことを覚えていたのに目覚めてすぐ連絡を取ろうとしなかったのは私の失敗だな。
途端に無言になった私を心配気に見つめてくれるイザナと背中から回した手であやすように脇腹を優しく撫でてくれる竜胆くんには大変感謝している。なので、ここはどうか怪我人に免じて巻き込まれてもらおう。イザナは兄だし、竜胆くんからしても私の弟は弟みたいなものだろう。判定が緩すぎるとか言わないで。
「そこに居るよね。入ってきなさい、マンジロー」
他に入院患者もおらず、室内にいる唯一の三人である私たちが静まり返っていた室内には私の声がよく響いた。ベッドの上に座っているイザナと竜胆くんがぎょっとしたように蘭ちゃんたちが退室してから開きっぱなしだった引き戸の方を振り向き、今更気配に気付いたのか驚いて口々にマンジローを呼んでいる。二人が一度に動いたせいでスプリングがぎしぎし言った。
マンジローは本当に気配を消すのがうまいのだ。私も多分、去年の第一次きょうだい戦争の火蓋を落としたマンジローがその行動に至った原因が、私とシンイチローくんとエマちゃんと鶴蝶くんの会話を病室の外でずっと聞いていたことだと知っていなかったらマンジローの気配に気付かなかった。今回は私の第六感の勝利だ。
しばらくの沈黙のあとマンジローは遠慮がちに引き戸の反対側から顔を出してこちらを覗く。黒々とした瞳は伺うようにしてじっと私を見ていた。その顔からして先程までシンイチローくんの病室にいたのかもしれない。イザナは真っ直ぐここに向かってきたと言っていたし、シンイチローくんの病室に誰がお見舞いに来ているのかなんてことは私たちには分からないのだ。
入室する姿勢を見せずに私を伺うマンジローの名前を再び呼び、まだ重い左腕を上げて手招きをする。右手がイザナに相変わらず握り込まれているせいでもあるが、多分今のマンジローにはなるべく平気なところみせた方がいい。私たちは本当によく似ているから、マンジローの考えることはよく分かる。
「座って。椅子とベッドどっちがいい? ベッドならイザナに詰めさせるよ」
「……」
「マンジロー、座って。話がしたいの」
「……椅子でいい」
流石に二度も呼べば大人しく入室してくれたものの、マンジローは私たちに程近い場所に立ち尽くしてそこから踏み込んで来ようとしなかった。だからまた強引に名前を呼ぶことでマンジローを動かす。竜胆くんとイザナはマンジローがいたことに相当驚いているのか、未だ無言だ。行動で驚きを示すことにしたらしく、右手を握り込むイザナの両手に力が入り、竜胆くんは私の首筋に擦り寄ってきたが。
「来てくれてありがとう、マンジロー」
「……別に」
「マンジローが来てくれたことが私は嬉しいんだよ。言うのが遅れてごめんね。お誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう」
「…………」
出会ってからのこの四年間、ずっと当日中に伝えるようにしていたけれど今年は無理だった。起きたら二日も過ぎてるんだもの。さすがの私も時間を巻き戻すことはできない。
マンジローだって私の考えることは分かるはずで、ここで嫌味なんて言うわけないと理解していただろうに驚いた顔をしている。私は弟に自分の腕が裂けたぐらいで嫌味は言わないし、怒りもしない寛容な姉だ。そもそもこれはマンジローのせいではないし。結局その行動の目的がなんであれ実行犯が悪い。その一言に尽きる。
「プレゼント用意してあるんだよ。もっと遅くなるけど退院したら渡しに行くから楽しみに待っててね」
「……怒ってねーの?」
「マンジローを? マンジローのこと怒らなきゃいけないようなことはなかったと思うんだけど 」
「だってそれ、傷残るんだろ。場地と一虎がシンイチローの店に盗みに入ったのはオレのためで、ならその傷だってオレのせいじゃん」
リコのことキズモノにしたと真面目くさった顔で神妙に言い、こちらの反応をマンジローは伺っている。キズモノ。キズモノねえ。それこそ本当に今更な気もするんだけど。
それよりも私としてはプレゼントの方を喜んで欲しかったなと思うんだけど、まあ今のマンジローには難しい話だろう。純粋に私の心配をしつつ、この怪我を自分のせいだと思ってもいるのだ。複雑な気持ちだろう。兄も姉も自分の友人に殴られて入院することになっていて、二人とも一生その傷を抱えていくことになったんだし。
ぐるぐるぐるぐる面倒な時の私みたいに悩んでいるであろうマンジローにどうやって、今のこの気持ちを伝えるか。やっぱりここは直球しかない気がする。空気を読んだのかイザナと竜胆くんは黙っているけれど、うん、巻き込まれてください。
「マンジローはさ、ちょっと難しく考えすぎ」
「でも、」
「うん、言いたいことは分かるよ。だけどね、私別にこの傷のことそんなに気にしてない。跡が残るって言われたって、実際私の体って結構もう痣の跡とか残ってるんだよ。あんまり目立たないけどさ」
「……」
「イザナとかマンジローとかに殴られた時の痣も目立たないけどまだ残ってるよ。でも二人にも残ってるよね。ね、残ってるでしょイザナ」
「お前オレのこと殴る時加減しねえよな」
「イザナが加減しないのに私がしてたら不平等でしょ。でもほら、マンジロー。正直私にとってこの腕の傷も、もし残ったとしてもそこまで気にするものじゃないの。名誉の勲章だよ。傷一つでシンイチローくんのこと助けられたんだもん。安い方」
竜胆くんはまた不満気なオーラを全身で発しているものの、本当に安い方だと思っているのだ。私があそこで間に入らなければシンイチローくんは間違いなく死んでた。裂けたのが腕でまだ良かったぐらいだ。シンイチローくんの頭が裂けてたら、私は死んでも死にきれない。
言葉にはしていないがそこまで汲み取ってくれたのだろう。そもそも状況的に言って私が言うまでもなく、私のこの腕の傷一つでシンイチローくんが助かったことは事実なのだ。結局私たち二人とも死にかけたらしいけれど、今生きてるんだし、それ以上のことはない。命あっての物種って言うでしょ。
それでもまだこちらをじっと見つめて不満や不安や怒りや懺悔やらを抱いているらしいマンジローに、どうにかこうにか言葉を尽くす。
「それにキズモノにしたって言うけどさ、そもそもこれマンジローにやられた傷じゃないよ。なんだっけ、カズトラくん? その子に殴られて出来た傷だし。私たちに見つかった時点で逃げれば良かったのに、逃げなかったのはその子だし、ケースケを置いて逃げようとしなかったのもその子」
そこはまあ、実は評価していなくもないのだ。殴られたことは一生許す気はないけれど、友達を見捨てて自分が助かる方を選ぼうとしなかった。出口に近いところにいたのは自分で、ケースケを置いていけば逃げられたのかも知れないのに、だ。
まあでもやっぱりあそこで殴り掛かってくるのは野蛮だよな。おかげで私の次の目標は、振り被られた獲物を見切って避けずに無傷で受け止めて相手をボコボコにすることになった。獲物に頼るなって話だ。素手で来い、素手で。
「次は絶対にあんな簡単に殴られたりしないよ。私に向かって素手じゃなくて獲物を振り被ったことを夢に見るほど後悔させてやる。しばらくマンジローとも満足に戦えなくなるのは悲しいけど、イザナがマンジローの相手するって言ってるし」
「オレそんなこと言ったか?」
「言ったでしょ、お兄ちゃん。あ、そうだ。これ聞いておきたかったんだけど、竜胆くんは私の体が傷だらけだと嫌? 腕の傷は結構目立つ残り方するかもしれないけど、キズモノは遠慮しておきたい?」
「そんなことない。傷も含めてリコの全部が好きだよ。ってかマンジロークンはキズモノ云々とか気にすんなよ。なるべく怪我なんてしてほしくないし痛い思いもしてほしくねえけど、オレ別に傷がいくつあったってリコのこと嫌いになんてならないし、キズモノだとか別に気にしねえから。そもそもキズモノだなんて思ってないし」
「ほんと? ありがとう、私も竜胆くんの全部が好きだよ。ほら、マンジロー聞いた? 竜胆くん別に気にしないって。だからこの傷も平気平気。私は傷自体には別になんとも思ってないし、竜胆くんも私のことキズモノだなんて思ってないって言ってくれてるし、マンジローも気にしないでよ」
言ってねえだろとブツブツ言ってるイザナは無視して、揺らぎ始めたマンジローの瞳をじっと見つめる。今はまだ時間が掛かりそうだし、きっとマンジローも全部を受け止められてはいないのだ。大切な友達の手で兄と姉が殺されかけたなんて、きっと私でも受け止めるのに何年もかかる。
それなのにマンジローはこうやって私に会いに来てくれて、私の前で気持ちを話してくれた。今はそれだけで十分。あとは私たち家族がマンジローのすぐ隣で、マンジローが受け止められるその日まで一緒に生きていくだけ。
「マンジローの考えてること、私分かるよ」
「……本当に?」
「うん。でもさ、マンジローが私が原因で誰かを傷付けたりしたらすごく悲しい。シンイチローくんだって、悲しむよ。私たちはマンジローのお兄ちゃんで、お姉ちゃんなの。家族なの」
「……うん」
「そもそも私、マンジローがそんなことしたらマンジローのことを殴って止めなきゃいけなくなっちゃう。私のためを思ってやってくれてもだよ。そんなの二人とも悲しいし、周りのみんなも悲しいでしょ」
「……そうかも」
「そうなんだよ。だから、マンジロー。殺しちゃダメ。殺すのは絶対にダメ」
「…………」
「二人は少年院に入るかもしれないけど、何ヶ月後か何年後かに出所してきて、マンジローが会ってみて、どうしても自分の気持ちが抑えられないと思ったら私を呼んで。私がマンジローを適度なところで止める。もしどうしてもダメそうなら、私が変わりにボコボコに殴るよ。半殺しはセーフだからね」
吐き出させることも大事だけど、やりすぎもダメだ。マンジローは特にそう。どこか危ういところがある。私たちは似ているけれど、私は幼い頃からずっと祖父に踏み越えてはいけないラインを教え込まされてきた。そもそも踏み越える気もないし、周りの人たちをそのラインの手前から引き戻す役目を与えられて生まれてきたから、こんなに喧嘩も力も強いのかなとも思う。
でもマンジローはそうではない。一歩力を込めすぎた足で踏み込めば割れる薄氷の上に立っている。タカが外れればダメになる。姉として本当に情けない話だけれど、ダメになるところが想像できてしまうのだ。
「家族を頼って。イザナと私はマンジローと同じかそれ以上に強いし、お兄と鶴蝶くんだって強い。シンイチローくんとエマちゃんは私たちよりずっと心が強くて、私たち、この先も支え合って生きていくの。お互いの弱いところを補って、強いところで手を引いていこう。ね? ……泣かないで、マンジロー」
「泣いてねーし……」
「泣いてんじゃねえか。あー、ほら、何? リコもこう言ってんだし、な。……家族なんだよ、オレたち。オレもまだ良くわかんねえけどさ。だからまあ、オレたちのこと頼れよ。マンジロー」
「ほら、イザナもこう言ってるし。……ねえマンジロー、半年後ぐらいになっちゃうかもしれないんだけど、バイク乗っても問題ないってなったらさ、私のこと乗せてバブ走らせてよ。マンジローの後ろ乗りたいな」
返事はなかったけれど、涙をこぼしながらも私を真っ直ぐ見つめてきたその瞳が全てだろう。イザナは静かに泣き続けるマンジローの頭を困ったように、どうすればいいのか分からないといった手付きで撫でながらそれでも暖かい目でマンジローを見ている。どうせまた喧嘩は繰り返すんだろうけれど、二人はこうやって兄と弟として、家族として少しずつ前に進んでいるのだ。
まじまじとイザナとマンジローを見つめていれば、いつのまにかイザナに投げ出されていた私の右手を竜胆くんがそっと握る。その手を握り返しながら、どうかもう少しだけこの光景を見ていたいと思った。
可愛いデブにはダイエットをさせよ