「高賀リコは十二年前の十月二十五日、何者かによって刺殺されています。犯人は未だ逮捕されていません」

 ナオトのその言葉に、どっと心臓が鳴る。まさか。この記事には被害者の名前なんて書かれていない。リコちゃんが死ぬわけない。そう否定したいのに、そう言われた途端にそうだったような気になってしまうのだ。

 被害女性の背中には数十箇所の刺傷があり、心臓を刺され即死した女性に数分間攻撃を続けたものと思われる。短い文章で簡潔にまとめられたその殺害状況と、最後に見た彼女の優しい笑顔とがどうにも繋がらずに、視界が一気に潤んだ。ボタボタと涙がこぼれ落ちていく。
 ナオトはそんなオレの様子に何も言わず、恐らく彼女の兄たちは犯人を追っていると続ける。十二年間ずっと、虎視眈々と復讐の機会を待ち侘びている。病室で会ったあの時のリコちゃんと竜胆くんの様子を思い出して鼻を鳴らして、涙を拭う。

 出会ってからごく短い期間しか付き合いはなかったけれど、リコちゃんはオレにもいつだって姉のように優しく接してくれた。交わした会話を思い出す。東卍が自分たちのチームと同じように二分化しなければいいと心配していた。マイキーくんとドラケンくんが仲直り出来たのはオレのおかげだと言ってくれた。また頼ってと。


 そこでふと、思い出した会話の中に違和感を覚えてバッと顔を上げる。突然なんだとナオトはこちらを見上げ、オレはそれを無視してバラバラとナオトのまとめたファイルを捲る。

「なんですか、何か気になることでも」
「リコちゃんが言ってたんだよ! 東卍が自分たちのチームみたいにふたつに割れて面倒なことにならなければいいって……! リコちゃんが殺されたのは集会の後だったんだろ⁉︎ 関係してるかもしれない!」
「……なるほど。確かに当時事情聴取の結果、そういう発言は上がっていたはず……ああ、これです」

 オレの手元からファイルを取り上げたナオトが慌ただしくページを行ったり来たりして、あるページをどんとオレの目の前に突き出す。手書きの資料だ。恐らくナオトが事情聴取の記録を見てで気になった発言などを纏めたんだろう。食いつくようにしてそれを眺める。
 ナオトにはもうすっかり見慣れたものなのか、オレが資料を読むのに合わせるようにして所々を指で示した。

「高賀リオは妹とチームの仲間が殺されたことにかなり憔悴していたらしく、当時有益な証言は得られていません。ですがチームの幹部だったという何人かが、確かにそんな発言をしています。チーム内で不和が起こるように、外から何者かに扇動されていたと」
「これだ。当時の東卍がマイキーくん派とドラケンくん派に分かれて派閥争いをしていたように、リコちゃんのチームもリコちゃん派とお兄さん派に分かれてしまってたんだ。山岸がリコちゃんのチームは異例のツートップ制で、どちらかを排除して自分の好きな方だけを本当のトップにしようとしてる動きも最近はあるって言ってた……」
「確かにそれなら頷けますね。どちらかの派閥の過激派が、もう一人の被害者……この男は、チームの副総長だったそうです。その男と何らかの言い争いになったか、それこそ副総長を殺して成り上がろうとでもしたところを高賀リコが目撃し、咄嗟に割って入った。もしも高賀リオ派閥の人間だったなら、それほど都合のいいことも無いでしょう」

 潰したい方のトップが目の前に割って入ってきて、自分の手元には武器がある。心底理解出来ない考えだが、確かに犯人からすればそれはチャンスが降って湧いたようなものだっただろう。邪魔な人間を殺して、自分は副総長に成り上がり、自分がトップだと慕う人間が真のトップになってチームを治めていく。
 そんなくだらない理由で人を殺したのかと犯人に対して怒りが湧き上がってくる。そんな理由でリコちゃんを殺したのか。そしてリコちゃんを大切に思う人達の人生さえも狂わせたのか。

 リコちゃんの笑顔がまた脳裏に浮かぶ。マイキーくんのことを話す時の優しい表情や、竜胆くんと一緒に居た時の心底幸せそうな表情。その全部がくだらない理由で奪われて、今はもうこの世界のどこにもない。

 顔を上げ、キッと力強くナオトを見つめた。もう涙は出てこない。

「ナオト。オレ、過去に戻って絶対にリコちゃんを救う。リコちゃんはマイキーくんの大切な人だ。マイキーくんに必要なのはドラケンくんとリコちゃんだよ」
「……まあ高賀リコの事件に関しては、日時も分かっていますし犯人の目的も推測は出来ています。それに、確かに彼女達のもたらす情報は大きかったとこうなった今では認めざるを得ません。高賀警備はまず間違いなく東卍の抑止力たり得ていた」
「ああ。オレがリコちゃんを救って、リコちゃんの生きている未来をまた取り戻す!」


 +


 兄の蹴った空き缶が壁に当たる音が響く。凹んだそれが見当違いな方向に跳ね返っていくのを見ながら、手元の小石を私も軽く壁に投げ付けた。そんな私たち兄妹を見つめるクマの顔には疲労が滲んでいる。

 集会終わりに幹部すらも帰して三人で集まるのは、何も珍しいことではない。だからみんなそういうものだと理解しているし、これまではなんの声も上がらなかった。そもそもウチはヒラから先にさっさと帰して、一部の古参や幹部陣と込み入った話をするスタイルで今までやってきていたのだ。これがウチのやり方である。
 それが、今回はヒラの中でも雑魚中の雑魚の癖に何か自分を勘違いしているおめでたい奴に空気をぶち壊された。

「何度も言うが、そろそろどうにかするべきだ」
「私とクマだってそう思ってるよ。でもだからってここで手ェ出してボコボコにして、何か変わる? ここまで耐えたんだ、もうちょっと待つべきでしょ」
「じゃあ聞くがテメェらのそのやり方で何が変わるんだ? 変わってねえだろ、ここまで何にもよ。それどころか馬鹿共は余計に調子に乗って、とうとうオレらの話に首突っ込もうとしてきやがった」
「確かにさっきのアレはなかったと思うよ。でもここまで耐えてきたのはお兄だって一緒だよね。アイツらがここ最近輪をかけて調子に乗ってることにも絶対何か裏がある。今ここで動いたら相手の思う壷でしかないんだよ」
「だからってこのままじゃずっとオレらが耐えることになるぞ。裏に誰かがいるのは馬鹿なオレだって分かってる。何かしらの目的があるってこともな。でもこの三ヶ月で状況が少しでも好転したか? 欠片もしてねえよな」

 再び蹴られた空き缶が、今度は先程の比ではない耳障りな音を立ててだいぶ遠くに吹っ飛んで行った。兄はもうそれを追ったりはしない。ドラム缶に掛ける私と壁に寄りかかるクマを順繰りに睨みつけ、わざとらしいぐらいに大きなため息をついてみせる。そんな兄の態度にクマはまた顔色を悪くさせ、なにか言葉を探すように一度口を開いた。が、何も思い浮かばなかったのかすっと口を真一文字に引き結んで、じろりと兄を睨み付ける。

 兄対私とクマの言い争いが始まって既に二時間近く経つ。過激派が目立つようになってから四ヶ月、私たちが指針を定めてからあと数日で三ヶ月。状況は兄の言うように一切好転することなく、着実に悪化し続けている。
 そんな現状に痺れを切らしたのが兄だ。この言い争いが始まったのは約二時間前だが、既に一週間は私たちの膠着状態は続いている。早急に手を打つべきだという兄と、まだ様子見を続けるべきだという私とクマとで堂々巡りが続き、集会のない日でも私たちは顔を合わせて延々と話し合いという名の口論を続けていた。


 確かに兄の言う通りではある。これ以上放置していれば状況は悪化するだけで、永遠に良くはならないだろう。このままじゃ本当に内部から夜ノ塵は崩壊する。過激派はそれだけ膨れ上がり、尚も過激な言動は助長され続けている。
 だからといってここで私たちが手を出してはなんの意味もないのだ。幹部陣や古参メンバーもそれを分かってくれている。過激派の行動に頂点というものがあるのかは分からないが、あるのだとすればそろそろピークに近付いていることは間違いないのだ。裏にいる人間もそろそろ焦ってきているのだろう。過激派の目に余る行動は増え、今日なんて私たちと幹部の話し合いにすら「自分たちだって夜ノ塵のメンバーなんだから話を聞く権利はあるはずだ」などと言って割り込んできた。過激派なんてやっていてこんな所まで恥知らずにも突っ込んでくる馬鹿共にそんなこと思い浮かぶはずもない。そう言って探ればいいと囁かれているはずなのだ。

 しかしその目的は依然として分からないままだ。それどころかあちらこちらがきな臭くて、もう何が何だかよく分からなくなってきている。死神が副総長をやっているというチームには何を思ったのかあの羽宮一虎が入ったと聞くし、死神は死神で余程楽しいことでも控えているのかここ最近ずっとニタニタ笑っていて気味が悪い。その笑顔のままケースケのことを話題に出されマンジローの幼馴染みなんだろうと言われた時なんて、頭に血が上って机と椅子を蹴っ飛ばして将棋盤で殴りかかってしまった。
 ただでさえ内輪揉めを起こして謹慎中だと聞くケースケとは絶対に一度話をするべきだし、なんだかんだとケースケのことを気にしているマンジローとも時間をとって話をしたい。でも私は今そんな時間を確保する余裕が無い。弟が頭を張っているとは言えど、所詮東卍は私のチームではないのだ。他所のチームのことより今は夜ノ塵の問題をどうにかしたかった。

 どうせ今日も平行線のまま終わるのかもしれないが、これ以上兄の鬱憤を溜めさせると次の集会で過激派を名指しで呼び出して殴り倒しかねない。そうなれば本当に相手の思う壷だ。
 落とし所を決めるためにも、睨み合う兄とクマを呼ぶ。

「お兄の言う通りだよ。何も良くなってない。それは私とクマがあの日決めた方針が悪かったってことになる。ごめん」
「……」
「でも、お兄には悪いけどもうここまで来たからには相手の思う壷にハマることだけは避けたいの。今は部分的に内部分裂みたくなってるけど、それでもまだチームとして機能してる。私やクマだって、これまでみんなで頑張ってここまで来た私たちのチームがこんな所で終わるのは嫌だよ。嫌だから、これ以上分裂の原因は作れない」
「……リコ、それでもオレはここで踏み込むべきだと思ってる。チームが割れたとしてもだ。もしダメになってもまたチームを作ればいいだろ」
「……お兄、それ、本気で言ってるの?」

 どうにか落とし所を作ろうと回していた思考が、兄の一言でピタリと止まる。すんと表情が落ちるのが鏡も見ていないのに自分でよく分かった。

 私たちは、少なくとも私は、ここまでこのチームとしてみんなでやってきたことに意味があると思ってる。夜ノ塵の名前を背負わせてもらえるようにとここまで頑張ってきたつもりだ。最初は強くなるため、竜胆くんのためという理由で入ったチームだけど、この四年で大好きで大切なチームになった。替えなんてないと思っている。
 しかし今の発言からして、兄はそうではないようだ。ダメになったら他のチームを作ればいい。つまり兄は、このチームでなくても良いと思っている。信頼出来るメンバーを引き連れてまたチームを作って、そうしたら夜ノ塵はどうなる? 捨てるつもり?

 ふつふつと胃の底から怒りが湧き上がってくる。キッと兄を睨み付ければ、兄は兄で私を睨み付けながらまた口を開いた。クマはさっきから何も言わない。

「オレとお前がまたトップに立って、クマを副総長にして、他の奴らも連れてチームを作ればいい。夜ノ塵はデカくなりすぎた」
「だから捨てるって? 揉め事起こして内部分裂させて、その尻拭いは全部下っ端に押し付けて、私たちは新しくチーム作ってそこで何ともありませんって顔してやってくの?」
「そうは言ってないだろ」
「言ってるでしょ。お兄の言ってることってそういうことだよ。デカくなりすぎたから何。デカくしたのは私たちだ。尻拭いをすべきなのも私たち。捨てることが尻拭いになるとか思ってるわけじゃないよね」
「リオ、お嬢の言う通りだ。今回の件に関してはオレたちが責任を持ってどうにかしなくちゃならん。悪いが、そういうことならオレはお前にはついていけない」
「だから、そういうことじゃないって言ってんだろ。過激派だけでも切り捨てるべきだっつってんだ。その為には一度名前を変える必要もあるかもしれねえだろうが」

 その言葉にドラム缶から飛び降りて、勢い良く後ろ足で蹴っ飛ばす。ガシャンと大きな音が響いた後に三人とも口を噤む無言の時間が訪れた。入口や裏口で誰かが入ってこないか監視をしてくれていた幹部陣が揃ってこちらを見ているのも分かっているが、何か言う余裕が今の私にはない。
 けれど、兄の言葉を聞いた瞬間に私の中ではもう結論が出た。

「お兄の考えはわかった。よくわかったよ」
「おい、お嬢……」
「クマは黙ってて。……私とお兄のツートップ制を続けてくなら今後もこんなことって起こるかもしれないでしょ。今回は横槍入れられて過激派なんてのが出てきたけど、派閥自体は昔からあった。名前変えて新しいチーム作ってみんなでそっちに移って、同じことの繰り返しにならないなんて言える? 言えないよね」
「……何が言いたい?」
「そのままだよ。可能性の話をしてる。その可能性も踏まえて、私は夜ノ塵の名前を捨てたくない。捨てて欲しくない。でも私がそう言ったってトップの片割れであるお兄がそうは思わないって言うんなら、もういい、問題ごと潰す」
「……」
「私がこのチームから抜ける」
「……は?」

 何言ってんだよと言い出した兄を睨み付ける。結局そういうことだ。私と兄がトップを続ける限り、きっとこの問題はついてまわる。だったら私が抜けて、兄だけがトップに立てばいい。
 ざわめき出した幹部陣は無視して、混乱しているらしい兄とクマに向き直る。

「私が抜けたら暫くは騒がしくなるし、私派の人間は暴れると思うよ。お兄は叩くならそこを叩いて。もう次にこんな問題起こそうなんて思わないぐらいに叩いて、潰して、言うことを聞かせればいい」
「お嬢が抜ける必要は無いだろ」
「確かにそうかもね。でもこうしないと変わらないよ。状況を変えたいんでしょ。崇拝の対象を失った烏合の衆を叩き潰して吸収しなよ。でも絶対に夜ノ塵の名前は捨てないで。他にチームを作るなんて二度と言わないで」
「……お前本気で言ってんのか?」
「本気だよ。最初から私はずっと本気。それでお兄もずっと本気でしょ。お兄は本気で次のチームを作ることを提案してた。でも悪いけど、私はそれにはついていけない。夜ノ塵を捨てるぐらいなら私を捨てて」

 結局それが本音だ。このチームが大切で大好きだからこそ、私が抜けてなんとか体裁を保てるなら喜んでここから抜ける。

 これ以上は言うこともないし今は兄の話も聞きたくないので、二人の間を通って入口の方に向かう。止めようと手を伸ばしてきた幹部陣を振り払って、そういえば言っていなかったことがあったと思い出した。振り返り、声を上げる。

「次の、二十五日の集会。その日を最後にするから」

 しんと静まり返った廃工場内には私の声がよく響く。クマはまだ信じられないとばかりにこちらを見ているけれど、兄は私が本気で言っているのだと気付いたのだろう。何故そうなるとばかりに呆然としているが、これが今の私に出せる最善の答えだと言うだけだ。
 私がチームから抜けることとチームがこのまま瓦解することは、天秤にかけて比べるまでの事柄ではない。私は私が夜ノ塵の一員であり続けることよりも、夜ノ塵が続いていくことをとる。それだけのこと。

 全員が全員こちらを見て固まっているだけで何も言ってこないのを良いことにさっさと背を向けて歩き出す。背が伸びて腕も長くなって袖の長さはちょうどいいとは言えずとも捲ればどうにかなる程度になっていたこの特服もあと一度で着納めだ。私が抗争でダメにする度に何故か兄のサイズで仕立てて、毎度私がそれを着ていた。一組の特服を分け合ってここまでずっと二人でツートップとしてやってきた。でもそれもここで終わり。

 十分に廃工場から離れたあたりで立ち止まって滲む視界を誤魔化すように瞬きをする。堪えきれずに頬を伝った涙を拭いながら、今日は家に帰るのはやめようと思った。


 +


「もしもし、いざなぁ、迎え来て……」
『……オレ、イザナくんじゃねーケド』
「えー……ケースケ……?」
『そう、ケースケ。お前今どこ居んの?』
「昔よく行ったジャングルジムの公園……」
『一人?』
「うん」
『あー、今から行くわ。すぐ着くから待っとけ』

 一時間近くベンチに座ってグズグズ鼻を鳴らして泣いていたけれど特服だけ家に置いてきたせいで寒くなって余計泣けてきて、そろそろ佐野家にお邪魔しようとイザナに迎えを頼む電話をしたはずが出たのはケースケだった。適当にかけたせいで相手を間違えたらしい。通話が終わったあとに履歴を確認すれば、確かにケースケに連絡をしていた。
 ちょっと一人になりたいから迎えに来てって連絡するまで放っておいてと事前にしたお願いを素直に守ってくれているイザナには、ケースケが迎えに来てくれるらしいからやっぱり大丈夫だとメールを送っておく。一分も経たずに遅いだとか今迎えに行こうとしていただとか私を心配しているくせに嫌味ったらしい言葉が延々と連ねられたメールが返ってきたけれど、締め括りは日付も変わってるんだから気を付けるようにとのことだった。なんだかんだと私を妹認定してくれているイザナは、私の夜間外出には良い顔をしないのだ。たまに竜胆くんに話すぞと脅してくることもある。

 その竜胆くんから寄越されるメールに目を通しつつ時間を潰していれば、ケースケは宣言通りすぐに来てくれた。排気音が聞こえてきて顔を上げる。バイクを降りて近寄ってきたケースケは私の涙でぐちゃぐちゃの顔を見てぎょっとし、焦ったように羽織っていたパーカーを私の顔に向かって投げてきた。嬉しい気遣いだけどやり方が乱暴すぎる。

「……なんで泣いてんだよ」
「……なんか、全然上手くいかなくて。……ね、相談していい?」
「ア? まあ別にいーけど、帰らんくていいのか。イザナくんに迎え頼むつもりだったんだろ」
「ケースケに送ってもらうって言ったし、平気でしょ」

 ベンチから立ち上がって口では良いと言いつつも微妙な表情をしているケースケの手を引いて、パーカーを肩にかけながらブランコに向かう。そのまま手を離し背を押して右側のブランコにケースケを押しやり、私はもうひとつの方に腰掛けた。

 この公園でケースケたちと騒ぎ回っていた頃は全然ちょうどいい大きさに感じていたのに、今じゃ足を折り曲げるようにして座らなければいけない。大人しくブランコに乗って私とは正反対に足をぐっと伸ばしているケースケの横顔を見つめ、小さくブランコを揺らしながら口を開いた。

「あと二日、いや、日付変わってるなら一日か。ともかく今月の二十五日で夜ノ塵から抜けることにした」
「……はあ⁉︎」

 私の言葉に数秒時間を置いてからぎょっとしたようにこちらを見たケースケのその間抜け面に少し笑う。再び浮かんできた涙を拭いながら、なるべく明るく聞こえるように声音を取り繕って近所迷惑だよと声を掛ける。ケースケは弟みたいなものだし、姉ぶってもいいだろう。
 注意を無視して尚もなんでだよとか言い募るケースケにまた笑って、今度は正面を向いた。雲に半分遮られた月を見つめる。今日は風がないから随分とゆっくり雲が流れている。

「ここだけの話なんだけど、今、ウチ結構揉めててさ。私派とお兄派の過激派がぐわーって増えてて、もうずっと面倒なことが続いてたわけ」
「……マイキーにも話してないのかよ」
「ん? マンジローには話してないよ。言ったじゃん。ここだけの話って。言っとくけど竜胆くんにも詳細は話してないからね。ケースケに話すのが初めて」
「…………なんでオレに話すんだよ。それこそリンドーくんとかマイキーに話しゃイイだろ」
「ケースケも悩んでそうな顔してるから」

 すっと月からケースケに視線を移してそう答えれば、私を見て何度か瞬きをした後に決まり悪そうに目を逸らされた。ケースケは私にはよくこういう顔をして、決まり悪いことがあるとすぐに目を逸らす。二年前からずっとそう。

 また月を眺めてブランコを揺らしながら、すんと鼻を鳴らす。やっぱり十一月が近付くと夜は寒い。ケースケは全然平気そうにしているけれど、寒くないだろうか。隠し事は下手くそなまま、我慢ばかりが上手くなる子だ。本当、私のまわりの年下の男の子はみんなそう。隠せてるつもりになって、全然隠せてないよと指摘するとさっと目をそらす。

「別に話さなくていいよ。でも、話したいなって思ったなら話して。ケースケも私の弟みたいなものなんだよって、何回も言ってるでしょ」
「……ん」
「うん。……お兄とねー、喧嘩? みたいなことしたの。お兄はもう過激派をどうにかしたいって言ってるけど、私はそれに反対した」
「……なんでだよ。どうにかした方がいいんじゃねーの」
「だってさ、この三ヶ月ぐらいずっと我慢して、目瞑って、耐えてきたんだよ? 今過激派が特に動きを強くしてるのは、過激派の裏にいる人間が焦ってきてるからって分かってるの。ここで下手に動いたらこれまでの我慢も、耐えてきた時間も、全部無駄になる。相手の思う壷」
「……」
「それが嫌だったの。でもお兄と意見の落とし所が見つかんなくて。そしたらお兄が何かあったらまたチーム作ればいいみたいなこと言い出してさ。夜ノ塵捨てるのって聞いたらそういうわけじゃない、でも名前を変えることも必要かもしれないだろーみたいなこと言ってきて」

 そこでまた鼻を鳴らして一旦口を閉ざせば、ケースケも押し黙る。この子は愛情深い子だ。そして多分きっと、私と同じような考え方をする子。自分を蔑ろにしているわけじゃないけど、自分という個を賭けてでも大切な全を守ろうとする。
 はあとため息をついて、大きくブランコを揺らした。ケースケはまだじっと、恐らく月を眺めている。気付けば私より大きくなっていたその背中を見つめながら、ケースケにだけ聞こえるように呟く。

「難しいね」
「……なにが」
「夜ノ塵に居たいけど、私が抜けることで少しでも状況がマシになるんなら抜けた方がいいって思っちゃう。ケースケもそう思う?」

 問い掛けてもケースケからは何も返ってこない。そうだろうなと思っていたので私も月を見上げ、ひとつ笑った。兄たちに啖呵をきった瞬間にはこれしかないと思っていたのに、今になって私は後悔している。なんて情けないんだろう。

 人生は選択だと言うけれど、でもその選択肢のどちらを選ぶことも許される時は確実にある。そしてどちらも選びとってしまえるような人もいる。私はというと、残念ながらこれで不器用なのでいざって時に自分を捨てる方しか分からなくなる。

 いつからか私の中に鎮座する天秤は、片方のきょうだいたちや大切な人たちを乗せた皿が地面にめり込むように鎮座し、もう片方の私が乗った方の天秤はいつまでもゆらゆらゆらゆらともう比べる相手も居ないのにずっと高いところで揺れ続けている。風に吹かれればひっくり返るような軽い皿だ。私はそこから随分下にある地面を眺め、気まぐれに足を揺らし、もう片方の皿からの声に言葉を返す。
 もちろん私だって、選べる時はどちらも選ぶ。ご存知の通り強欲なのだ。だけどどちらかしか選べない時は絶対にある。今がそれなのかもしれない。曖昧な言い方なのは、私にはこれがそうなのかどうか判断する能力が備わっていないからだ。力ばかりが強くなって、誰かに支えられて手を引かれなければ正解も分からないままここまで来た。

 兄と竜胆くんはそんな私の手を引いて、導いて、色々なことを教えてくれる人。竜胆くんは私が選択を迫られて捨てたものを拾い集め、気付けば私の先に立って手を引きながら捨てて落としたものをひとつひとつ私に手渡してくれる。兄は肝心な時だけ兄ぶって、全部わかってるみたいに私を諭して、仕方ないなと道筋を示してくれる。だからその温かさに触れる度に、愛されているのだと知る度に、二人を失ってしまったらどうなるのだろうと最近はよく考え、怖くなるのだ。

「あれもこれも全部って欲ばれたらいいのに、それじゃダメって言う人たちばっかりで、いつだって何かを選んでいかなきゃいけない」
「……」
「だから私は選んだの。夜ノ塵と、私。それで私を捨てることにした。だけどケースケもさ、そういうタイプでしょ。東卍と自分、大切な人と自分ってなったら、自分を捨てられちゃう。で、今話しながら、それはやだなって思ってた」

 すっとブランコから立ち上がり、月に背を向けるようにしてケースケに向き合う。まじまじとこちらを見つめる目は私を通り越して月を見ているようで、案外真っ直ぐにこちらを見ているのだ。

 自己犠牲はやめろと言われたことが一度だけある。だけど私にはそんなつもり欠片もなくて、これまで入院沙汰に発展したことだって全部そうすべきだと思ったからそうしてきたことだ。自分を犠牲にしてるんじゃない。いつだって大切な人たちを選んでいる。私を選んでくれた人たちに報いたいと思っているから行動に移しているだけだ。
 でもケースケがそんな私と同じように何かと自分を天秤にかけて、否かけるまでもなく自分を捨てるようなことは悲しいと心底思う。どちらも選んでしまえばいいのにと思ってしまう。どちらも選んで抱え切れなくなってしまうなら、そばにいる誰かを捕まえて半分でも肩代わりさせてしまえばいい。私がしろと言われて出来るかは別だけど、私はケースケにそうして欲しいと思った。

「ケースケの悩み事は無理に聞かない。でも私の悩み事とお願いは聞いて」
「……なんだよ」
「自分の抱えきれない荷物は人に背負わせちゃっていいんだって、ちょっとでもいいから頭に置いておいてよ。躊躇うなら背負わせた分だけ荷物を背負ってあげて。共倒れしないように他の人にもどんどん背負わせてって」
「よくわかんねー」
「うん、私も自分で言ってて何が何だかって感じだもん。でも、覚えててよ。上手に出来るか分かんないし、そもそも出来る気もしないけど、お姉ちゃんがお手本で先に見せてあげる」
「お手本」
「ケースケが今なにか大切なものと自分を天秤にかけてることは分かるよ」
「かけてねえけど、別に」
「じゃあケースケが気付いてないだけだ。気付いてないだけで、もう傾いた天秤の軽い方の皿にケースケは一人で乗ってる。私もそう」
「……」
「でもこれをひっくり返すのって簡単なことじゃないでしょ。だから、私がまず最初に夜ノ塵も私も選んでみせる」
「……はあ」
「あ、分かってないでしょ。んー、だからね、私は夜ノ塵をやめないで現状をどうにかしてみせる、ってこと」

 こちらを見上げて少し眩しそうに目を細めながら、ケースケが頭を回しているのが分かる。馬鹿な子だけど、理解をすることは諦めない子だ。だから色んな人に好かれるし、周りに人が寄ってくる。誰かのために生きていける子。優しい子。
 しばらくそうして考え込んだ後、ケースケはぽつりと呟いた。

「辞めるってもう言ったんじゃねえの」

 何か思い出すような、振り返るようなその言い方に少し笑ってしまう。ケースケの悩みは聞かないと言ったのに、何となくわかってしまった。その天秤の片側で常に重く大きくなり続けるものの一部も、何となく。

「言ったね。二十五日の集会が最後ってみんなに言ってきた」
「なのに辞めねえの?」
「どうにも出来なかったら、辞めるよ。どうにか出来るなら、辞めない。」
「ふーん……」
「どうなったかは連絡する。だからもし私がどっちも選べたなら、ケースケもどっちも選んでいいんだって思いながらこれからは生きて。それでも一緒に生きてくれる人に自分の分の荷物も持たせられないって思うんなら、私を呼んで。一緒に背負うよ」
「……リコっていっつも姉貴面するよな」
「ケースケも私の弟みたいなものでしょ。……さあ、帰ろ! 送ってくれるんだよね。そろそろイザナに本気で怒られちゃう」

 依然としてこちらを見上げているケースケに近寄って、ここに引っ張ってきた時のようにその手を掴む。無理矢理引っ張って立ち上がらせて、ケースケの言うところの姉貴面で手を引いて歩かせた。竜胆くんと兄が私の手を引いて歩いてくれるように、私もこうして誰かの手を引いて歩けるのだ。

 そのまま公園から出てケースケがバイクを止めた場所まで向かい、尚も手を引かれるままのケースケに運転してよと頼む。ノーヘル無免許深夜徘徊とスリーアウトだけど、まあ今日のところは仕方ない。ここまで呼び出して付き合わせたのは結局私なんだし。
 ケースケは意外にも安全運転を心掛ける人間だったらしく、道中は快適だった。マンジローとイザナにも見習って欲しい。アイツらはアトラクション気分で運転するところがあるのだ。私を後ろに乗せててもお構い無しで、危険運転を繰り返す。

 二分程度で佐野家に辿り着き、私がバイクから降りたのと同時に玄関をガラガラ開いてイザナが出てくる。めちゃくちゃ怒ってるよ。まあ帰るって言ってから何十分も帰らなかったし……。怒られたくないからちょっとケースケに声掛けて誤魔化そうかな。

「送ってくれてありがと。こんな時間まで付き合わせてごめんね。話聞いてもらって楽になったよ」
「気にしてねえよ」
「そう? あ、パーカー返す」
「いい」
「……じゃあ次会った時に返すね」
「……」
「じゃあね。気を付けて帰りなよ」

 すんと押し黙ってしまったケースケの顔を覗き込みながら、軽く手を振る。またねと言えば手を上げてくれたから振ってくれるのかと思えば、ガッと手首を掴まれた。あれ、予想と違うぞ。
 どうしたのと聞いてもケースケは何も言わない。じっと私を見つめ、目を逸らし、また見つめ、逡巡した後に小さく呟いた。

「稀咲鉄太に気を付けろ」

 突然何を、と聞くまでもなくケースケはさっさと帰っていった。駆け寄ってきたイザナに頭を叩かれながらも、既に見えなくなってしまったケースケを追うようにじっとそちらを見つめ続ける。
 どこかで聞いたことがあるんだけど、どこだっけ。誰かとそう言う話をした記憶があるんだけど、全くもってケースケが気をつけろといった相手に覚えがない。会ったことはないと思う。でも名前は聞いたことがある。

 イザナに家に引きずり込まれて風呂に突っ込まれて、その間もずっと「きさきてった」のことを考えていた。どこで聞いたんだっけか。なんとなく名前を聞いた瞬間にビビっときたのは確かだ。名前を聞いたことがあるのも確か。警戒した方がいいと言うのも、事実だろう。
 何故か置いてあるひよこのおもちゃを湯船に浮かべてつつきながら、振り返ることが出来るだけ記憶を振り返る。最近は本当にゴタゴタしていたから、チーム関連のこと以外に気を配っていられなかったのだ。

 どこだっけなあと思いながら尚も記憶を振り返っていれば、浴室の扉が無遠慮に開かれた。おい入ってるんだぞと言いながらそちらを見る。この時間に起きてるのなんてイザナかマンジローだけだ。あとはたまにシンイチローくんも起きてるけど、今日は多分もう寝てる。

「リコ、場地に会ったんだって?」
「いや会ったっていうかここまで送ってきてもらったけど、何? お姉ちゃんの入浴覗くのやめない?」
「……」
「何、どうしたの」
「……場地、東卍から抜けた」

 その瞬間、これまで全く思い出せなかったのにどこでその名前を聞いたのかを思い出した。すっと表情が抜けて、感情が落ちていく。

 湯気がのぼる浴室に堂々と押し入ってきて湯船に浸かる私をじっと見つめながら、マンジローは感情を押し殺すようにして呟く。手の中のひよこがぷぴぃと間抜けな音を立てて形を変えた。何となくそうだろうなと思っていたからその言葉に驚きはないけれど、どうにも嫌な予感がする。あれもこれもそれも、悩まされてきた点がどんどん浮上していく感覚だ。

 すんとお互い真顔でしばらく見つめ合い、ぎゃーっとイザナがマンジローの名前を叫ぶ声が聞こえた。私の入浴に乱入してきたことに気付いたのだろう。それを皮切りにして、私は最早疑問を投げるでもなんでもなく確定したことを確認するようにして口を開く。

「稀咲鉄太」
「参番隊の新しい隊長にオレが任命した。愛美愛主でオレらの世代を仕切ってた奴だ」
「タケミっちがその場にいたなら反対したでしょ」
「ああ、稀咲のこと殴ってた。東卍をダメにするっつって」
「確定だな」

 ただの勘だ。根拠なんて何も無い。だけど今確信した。


 死神の言う「面白そうな奴」も、夜ノ塵を嗅ぎ回って過激派を扇動していた奴も、馬鹿なケースケが東卍を抜けるなんて選択をせざるを得ないぐらい考えを巡らせる原因も、東卍になにか仕掛けようとしているのも、全部稀咲鉄太だ。


 久々に頭の中で、糸が切れる音がした。

嘘つきはデブの始まり

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