あの日、ケースケが私に頭を下げるのを見たのは、マンジローだけだ。
昔三人で遊んだ公園のベンチに座る私に、突っ立ったままのケースケは深く頭を下げて何度も詫びながら泣いていた。親御さんに何度も謝っていただいた後だったし、そもそもケースケが本気で謝っていることも分かったから、私はケースケがごめんという度にもういいよと伝えた。いいよ、許すよ。平気だよ。全部私の本音だ。
だけどあの日以来ケースケは私を露骨に避け、どこかで偶然会うことがあっても目を合わせないようになった。その姿を見る度にマンジローは黒々とした瞳に影を浮かべて私たちを見つめ、私はそんな二人の狭間でなんてことはないと笑いながらずっと思っていたのだ。ケースケに私の許しは届いていないのだなと。
だから、先日の夜中にケースケと二年ぶりに向かい合ってちゃんと話が出来た時に、その目が私をしっかりと見つめていたその時に思ったことはまだ伝えずにいる。いつかはきっと伝えたいと思っているけれど。
ケースケ。馬鹿なくせに下手くそな隠し事ばかりする、愛情深くて優しい子。私のもう一人の弟。お手本はもう見せた。あとはあなたが選ぶだけ。もしも選べず人に荷物を背負わせられないならば、その時は私が姉として一緒に背負ってあげる。対価は、この愛を受け取ってくれればそれでいい。
+
「倍の人数がいてこれか」
「流石私たちの弟のチーム」
兄がぽつりと漏らした言葉にふむと頷きながらそう返せば、じとりとした目で睨まれた。なら乱入するなと視線がうるさいので適当に手を振って遮って、ケンチンくんに声援を送る。行け、吹っ飛ばせ。死神なんて地獄送りにしちゃいな。
先程クマから届いたメールからして、しおんちゃんも上手く相手を半殺しにするだけで済ませたらしい。タケミっちのお願いを受けて急遽しおんちゃんとクマに私たち兄妹の代理を頼んだのだが、加減の下手くそなしおんちゃんにしては随分上手な喧嘩だったのだろう。褒めてやってくれと書かれていたので、あとで電話をして褒めてあげることにする。
私たちをこの廃車場から引き離せなかった羽虫の無駄な徒労には嘲笑すら浮かべてやりたくなるが、どこまでも人を使うそのやり方はやはり嫌いだ。恐らくこちらが本命なのだろうが、ここまで延々と人を使って喧嘩を売られ続けていてどうにも許し難く感じる。なけなしのプライドがどんどん傷付けられていっているのだ。
乱戦を見つつもそう考えていれば、マンジローの姿が不意に目に入った。その先を行くのは恐らく羽宮一虎。車の上を跳ね回っているようだが、ああ、なるほど。
「マンジローの馬鹿が……」
「あー、車の影に何人かいるな」
「二人じゃね」
「アイツ見事に誘われてんな」
「それだけ周りが見えてないってことでしょ。あーもう、ほんとあんなごちゃごちゃしたとこじゃ足場もしっかりしてないし何が武器になるかも分かったもんじゃないのに」
竜胆くんの腕を軽く叩きながら届かないとは分かっていてもマンジローにダメ出しをする。蘭ちゃんの見立て通りに飛び出してきた二人に飛び掛られてマンジローは囲まれてしまっている。もう、本当に馬鹿。相手が私とイザナだったら今の一撃でマンジローの負けになっていた。
芭流覇羅が拳以外の手段で東卍を殺しにかかるまでは乱入は認められないと仕切りの阪泉くんに言われてしまっているし、今は静観するしかない。ケンチンくんに押され気味の死神を見て笑いつつマンジローを心配しなきゃいけないんだからあっちもこっちもで大変だ。
私だったらどうするかと聞いてきた蘭ちゃんにドアミラーを捥いで投擲すると答えれば兄と声を合わせてそれはやめろと言ってきたが、竜胆くんはドアミラーを捥ぐという言葉に疑問符を浮かべている。その顔が可愛かったので頭を撫でつつ、そういえば竜胆くんは第一次きょうだい戦争の現場にはいなかったのだなと思い出した。兄と蘭ちゃんは審判をやっていたけれど、竜胆くんは終了後に私のために駆け付けてくれたのだった。
あの頃から変わらず竜胆くんは優しいなあと思いつつ、あとでやってみせるねと宣言しておく。日々大寿くんと机を窓の外に投げ合っているので入学からの半年強でかなり投擲が上手くなったのだ。ドアミラーぐらいならかなりの精度で投げ飛ばせる自信がある。
そもそも外からの投擲がアウトなんてルールなくない?ルールを破るのはダメだけど穴を突くのはギリギリセーフな気がする。妨害目的じゃないとか言えば平気でしょ。ちょっとドアミラー捥いでみたらなんか飛んでっちゃったみたいな感じで。
廃車を一撃で破壊するマンジローに流石私の弟だと誇らしく思いながらその様子を眺めていたのだが、分かりやすく羽宮一虎が不穏な動きを始めた。その手の鉄パイプが何のためのものなのか知らないが、まあ、そうだろう。食事を終えて観戦に移った兄が私と羽宮一虎とを見比べて祈るように叫び出す。
「あー、おいおいおい。やめろやめろ!」
「準備運動しておいてよかったー!」
グッと腕を伸ばしながら兄に応えるように叫び、立ち上がる。兄はまだ早いんじゃとかもう少し様子を見てからとか饒舌になっているし、阪泉くんもどうしても止まって欲しいのか縋るような目でこちらを見てきている。ふむ。ここは譲歩すべきなのか。
でも、いくらマンジローのことを信じてるからって獲物を持ち出すクソ野郎に屈しないとは言えないし。この私だって工具で殴られたら腕が裂けるのだ。マンジローだってただの人の子なんだし、素手と獲物なんて力量差が目に見えている。
二人の様子に悩んでいれば、竜胆くんがため息をつきながら声を上げた。
「マンジロークンがアレで殴られるかなんかして倒れて二十秒起きなかったら乱入する。もしくは明確にリコが呼ばれたら間に入る。これでどうだ」
「うーむ……よし、乗った。二十秒経つか呼ばれるかね。いいよ、今は待つ」
それでも座ることはせずにじっとその様子を見守る。マンジローが羽宮一虎に後ろから殴られたのを見た時には竜胆くんと兄に行くなよとばかりに左右から手を掴まれたけれど、もしかして私は自制の効かない暴れ馬か何かだとでも思われているんだろうか。見守ることが必要なら見守るよ。それにあの子はきっと起き上がる。
そう思っていた通りにマンジローは数秒で体を起こす。が、血は出ているし間違いなくダメージは入っているのだろう。表情は険しい。
というかアレは何を話してるんだ。
「誰か読唇術とか使えないの?」
「……蘭。お前使えねえのか」
「は? 使えるわけねえだろ。オレなんだと思われてんの?」
「兄貴が読唇術覚えるよりがマンジロークンの考えてること理解した方が早いだろ」
「……何言ってんの? みたいな感じだと思う。理解出来ないこと言われて混乱してる感じ」
マンジローが私の考えていることがよく分かるように、私もマンジローの考えていることがよく分かる。イザナやエマちゃんに言わせれば生物的に近いかららしいんだけど、まあその理由はどうでもいいだろう。
どうしても話していることが気になってしまったので、乱入判定のされないギリギリまで車の上を飛び乗って近付いていく。何となく聞いておいた方がいい気がするのだ。
「羽宮なんて?」
「人を殺すのは悪者、敵を殺すのは英雄。……ちょっとよく分かんないな」
本当に理解が出来ない。追い付いてきた竜胆くんに首を振って答えながら、頭の中を整理して羽宮一虎の発言の意味を理解しようとする。そういえばアイツ、あの事件の日もマイキーが悪いとか言ってたんだよなあ。あの時も理解できなくてそのまま記憶から消し去っていたみたいだけど、少年院に入っていた二年間でその考え方は変わるどころか強固になったってことか。
話は少し変わるが、私の座右の銘は「罪には罰を。尻には線香花火を」だ。罪を犯したのなら罰を与え、償っていくのが当たり前だと思っている。尻に線香花火は罰のひとつ。正確に言えば、私のくだしてやれる罰のひとつだ。
羽宮一虎の言い方だと、あの日私とシンイチローくんが殴られたのはマンジローのせいだと聞こえる。自分たちはマンジローのために盗みに入ったのだから全てはマンジローが悪いだなんて、責任転嫁にも程があるだろう。そんなことをしたってマンジローは喜ばないと分かっていただろうに、何故これ以上マンジローに罪の意識を抱えさせようとするのか。
あの子は何も悪くないのに、あの日からずっと私たちに罪の意識を抱えて生きている。許しを受け入れないケースケとは違って、マンジローは延々と抱く必要も無い罪の意識に苛まれ、時折そういう目をする。欠片も悪くなんてないのに、だ。
ぐるぐる考えれば考える程思考が纏まり、意思が固くなっていく。言っちゃ悪いが私怨だが、弟を守るのが姉の役目だ。あの子は今両手両足を拘束されて鉄パイプで殴られてる。うーん、確実に殺す気だろう。私とシンイチローくんを殴った時は殺意がなかったと言われればまあ納得したけれど、こればっかりは絶対に殺意がある。素手の相手に後ろから獲物を持って殺す気で襲いかかる。役満だ。
「竜胆くん、見てて。これがさっき言ってたドアミラーを捥いで投擲するってやつ」
「……は?」
手頃な廃車のドアミラーを力いっぱい引っ張る。やっぱりこれって廃車だから色んな部品が脆くなってるんだよね。あの頃より力も増したし、なんの苦労もなく捥ぐことが出来た。隣にいる竜胆くんに見せつけるようにして空中に軽く放っては掴みを繰り返しながら、その重さや形を確認する。これなら行けるけど、もうちょっと近いところにいた方が良いかな。
また車の上を移動して手頃な位置で止まり、足場を確認する。うん、行けそうだ。羽宮一虎が英雄になるために敵を殺すだのなんだのと言っているのが聞こえるが、マンジローを敵と認識しているならその時点で私の敵だ。マンジローの敵は私の敵だからね。
「見ててね、竜胆くん!」
「ちょっと待って! ストップ! リコ、ストップ!」
「もう遅い、よっ!」
狙いを定めて投擲したドアミラーがひゅんと勢い良く飛んでいく。狙い通りの軌跡にガッツポーズをしたのと同じタイミングで、羽宮一虎の手の中の鉄パイプが弾き飛ばされる。ひゅー! 流石私! ナイスボール!
しん、と辺りが静まり返った。視線がこちらに向けられているのを感じて高笑いしたくなる。野球やれば良かったかな。唖然としながらこちらを見てくる羽宮一虎に向けた笑みは我ながら底意地の悪いものになっていただろう。ほら、殺しに来てみろ。お前の敵だぞ。
何か言って煽ってやろうかと思ったのだが、次の瞬間口から咄嗟に出てきたのは別の言葉だった。
「マンジローダメ! やめて、止まりなさい!」
羽宮一虎とその手下二人が一足で一気に蹴り飛ばされたのを見てすっと感情が落ちていく。ダメだ。あれはダメ。止めないと。
倒れ込んで気を失っているらしい羽宮一虎をじっと見ていたマンジローがぴしりと動きを止めて緩慢な動作で、私に視線を移す。そう。私はここにいる。死んでなんてないのだ。だから呼んで。私を呼ぶの。頼むから今、私を呼んで。
しかしマンジローは私を見つめこそすれど名前を呼ぶことはなく、その場に膝を着く。呼べって言ったのに、ああ、二十秒。マンジローが倒れてから二十秒するか、呼ばれるかしないと中に入れないのだ。
ぐるぐる焦ったように回り出す思考で、それでも何とか二十秒数えようと指を折る。私の動揺が手に取るように分かるのか、竜胆くんが代わりにすぐそばで二十秒を数えてくれているようだ。指を折ることも出来なくなりそうなほど今の私は混乱しているので、そちらは竜胆くんに任せて何とか落ち着こうと辺りを見回す。
ケンチンくんの行く手を阻む死神とパチリと目が合った。ニィっとその口角が上げられる。気味の悪い笑い方。面白くて堪らないらしい。お前なんて殴られて前歯全部折れちまえ。もしくはその癪に障る手首から先を捥がれてしまえ。
中指を立ててやりながらあわあわとあっちを向いたりこっちを向いたりしていたのだが、どうにも二十秒が長い。でも竜胆くんはちゃんと数えてくれてるし、もう乗り込んじゃダメかな。阪泉くんを振り返ったのだがダメらしく勢い良く首を横に振られた。なんてことだ。
そうしている間にも芭流覇羅の連中がマンジローに向かっていく。今から突っ込んで言っては間に合わない。本当に最悪。クソが。
あと五秒程度なのにそれが酷く長く感じる。早く終われと思っていたら、クソみたいな光景が目に飛び込んできてうわあと叫んでしまった。あの、あのクソ野郎。羽虫が。絶対わざとだろ。マンジローに飛び掛った雑魚も仕込みか? お前のその腰が乗ってない拳で有効打なんて与えられるわけないんだよ。
「あンのクッソ餓鬼があ……!」
衝動的に蹴り付けた廃車の外れ掛けのドアが内側にめり込む。物に当たるのはダメだと理解しているんだが、廃車なんだしこの状況だしもう目を瞑って欲しい。元はと言えば余計な知恵ばかり回るアイツが悪い。マンジローを守るとか言っちゃってよ、お前なんて私が一発殴ればそのメガネが顔にめり込んで大変なことになるからな。覚悟しておけよ。
竜胆くんが二十秒数え終わるのと同じタイミングで、勢い良く廃車の山に突っ込んでいく。誰を吹っ飛ばそうかと考えていたんだが、羽虫はまだ無理だ。仕込みなのは確信しているけれどマンジローを守ったことは確かだし、東卍はすっかりアレを評価するモードに突入している。ここで蹴り飛ばしたら面倒なことになるのが見えている。
じゃあ誰をと思ったのだが、あ。
「下がれクソ餓鬼!」
飛び上がっていつもの回転飛び蹴りを羽虫の横っ腹に叩き込む。そのまま間に割って入って、振り被られた鉄パイプを左腕で受け止めた。相対する馬鹿な弟がぎょっと目が見開き、焦ったように一歩後退ろうとしたその胸ぐらを掴む。
「リコ、なんで……」
「私はアンタたちのお姉ちゃんだから。それ以外に理由なんていらないよ。……ケースケ、分かるでしょ。もっと仕込まれてるはずなの、今は引いて」
最後はお互いにしか聞こえないような小声で囁いて、唖然としているその胸ぐらをパッと離す。そのまま軽く胸を押して後ろに下がらせた。
会話を悟られないように勢い良く振り返り、蹴っ飛ばした羽虫──稀咲を見る。わざとじゃないよ庇ったんだよという顔をして大丈夫かと声を掛ければ、目を見開いて頷かれた。なんだよその顔ムカつくな。こっち見んな。
芭流覇羅の連中は私の顔を知らない奴が大半なのか、突如乱入してきた私を訝しげに見てくる。中には何者だと聞いてくる奴もいた。私を知らないなんてもぐりか?
「東卍の伏兵か?」
「はあ? 何言ってんの、馬鹿? なわけないだろ。弟たちが心配で乱入しちゃったお姉ちゃんです。そもそもテメェらが先にルール捨てたくせに人にイチャモンつけんのやめろよな。私の事ここから追い出したいならこの抗争、最初からやり直せよ」
千冬とケースケが話しているのを横目で確認しながら、馬鹿にするように大振りな動作で両手を広げて肩を竦めてやる。わざとらしくため息をついてやれば馬鹿の一人が飛び掛ってきたので容赦なく殴り飛ばし、もんどりうって転がったその姿を鼻で笑ってやった。
本当、雑魚ほど身の程を知らないんだよな。相手との力量差がさっぱり理解出来ていないから雑魚から卒業できないんだよ。
千冬がきちんと話せるようにと時間稼ぎをしているだけなのだが、すっと立ち上がった稀咲が馴れ馴れしく声をかけてきた。うげーっと嫌そうな顔をしてしまうのを隠すために懸命に真顔を取り繕う。
「お前はオレたちの味方なのか」
「主語デカすぎだろ。なんだよオレたちって。芭流覇羅? 東卍? どっちの話してんの」
お前が芭流覇羅の裏にいることは分かってるんだよと言外に告げてやりながらはんとひとつ鼻で笑ってやったのだが、表情が変わらない。いや本当にこっち見んな。殴り飛ばしてやりたくなるわ。ムカつく面しやがってよ。死神とはムカつく面仲間か?
目を逸らしてマンジローを見たのだが、まだ意識が戻っていないようだ。でも一応稀咲も今後のためなのか作戦の一部なのか本気で守る気はあるらしく、部下を周囲に配置している。
「東卍の味方なのかと聞いている」
「だから、さっきも言ったよな。私は弟たちが心配でここに来ただけ。どっちの味方でもない。強いていえば弟たちの味方」
「……」
「っていうかこれ何? 時間稼ぎ?」
「高賀リコ」
「馴れ馴れしく名前呼ぶなよ気持ち悪いんだけど。なんで私の名前知ってんの? ストーカーかよ」
「お前の言う弟は、佐野万次郎と場地圭介か」
その言葉が不思議と響く。私から逸らされた目が辿る視線を思わず追い、ふと気付いた。マンジローのすぐそばで倒れていたはずの羽宮一虎が居ない。それを認識した瞬間にどっと心臓が騒ぎだし、何を考えるより早く急いでケースケを探す。どこだ。どうにも嫌な予感がする。こういう時の予感は外れと願ったって当たってしまうものなのだ。
果たして、私がケースケを見つけてその名前を叫ぶのと、羽宮一虎がケースケを刺すのはほぼ同時だった。
咄嗟に駆け寄ろうとして周囲への警戒が薄れたタイミングで襟首を掴まれて後方に投げ飛ばされる。ああクソ野郎が。私の「人間スカウター」は雑魚には反応しないポンコツなのだ。焦っていたのもあって何も気付かなかった。廃車の上を転がってほぼほぼ地面に近い位置でようやく受け身をとって止まる。骨に異常は無いはずだけどめちゃくちゃ痛いし、どこかで額を切ったようでダラダラと流れる血が邪魔だ。刺されて月日の経っていない左腕もろくでもないぶつけ方をしたようで痛くなってきた。
立ち上がろうとしたのだが、どうにも脳が揺れているようで足に力が入らなくて座り込んでしまう。だからといって休んでいられるわけもない。ケースケが刺されたのだ。あの子は馬鹿な子だから、刺されても止血なんてしないで動き回るだろう。誰かが止めてあげなきゃいけない。あの子は隠し事が下手くそで、すぐ無理をする子なのだ。誰かが、私が止めなきゃ。
回る視界でそれでも必死で手足を動かして廃車の山を登る。襲いかかってくる芭流覇羅の雑魚共は邪魔だったので全員山から突き落としておいた。まあこの高さなら死なないだろうし、悪いけど今は急いでるんだ。
吐きそうになりながらも山の天辺の方までなんとか辿り着く。倒れ込む血を吐いてケースケの前に千冬がいて、稀咲と相対していた。今なら殴り倒せるよなあとは思うんだけど、ケースケの方が優先だ。あの日ケースケに借りて今日返そうと思って着てきていたパーカーの袖で額の血を拭い、ケースケのすぐ横に膝を着く。意識がない。誰か携帯持ってないかな。救急車をすぐに呼ばないと。
脱いだパーカーを患部に押し当てて止血しながら、ケースケの名前を呼ぶ。
「ケースケってば本当に馬鹿なんだから……刺されたんだから、暴れちゃダメなんだよ。分かるでしょ。人って血が減ると死んじゃうんだよ」
「リコちゃん……」
「アンタのパーカーこれでダメになるからね。私に貸したのが運の尽きだから。……ねえ、ケースケ、お願い、起きて。死なないで」
稀咲が何か言っているようだけど今はケースケだ。タケミっちが震える声で私を呼ぶのも無視してケースケに呼び掛け続ける。
血が全然止まらないし、息がどんどん荒くなっていく。私の隣に膝を着いた千冬に救急車を呼ぶようにと頼んで、額から流れて視界を阻む血も拭ってもらう。
何度も名前を呼んでも何も返ってこないせいでどんどん心臓が早鐘を打つ。お願いだから死なないで。ケースケ、私まだ言えていないことがあるの。
「リコ、状況は」
「……竜胆くん」
「救急車はオレが呼びました」
「竜胆くん、どうしよう、ケースケ起きなくて」
「うん、分かった。でもリコ、今は落ち着いて」
異常を察してこちらまで来てくれたらしい竜胆くんの姿に言葉がつっかえて何も言えなくなる。それでも何とか言葉にしようとしたのだが、頷きと共に落ち着くようにと制されてしまった。息はあるし脈もしっかりしてると竜胆くんが確認していくのを見ながら辺りを見回して、ふと気付く。いない。
強引に切り替えのスイッチを押されたようにしてすっと感情が落ちていく。千冬の手を掴んで無理矢理ケースケの傷口を止血させるように導いて、ケースケの頭を一度撫でてから立ち上がった。
「リコ?」
「マンジローが居ない」
気付けばざわめきも収まっているし、見下ろした廃車場からは芭流覇羅の特服が消えている。兄と蘭ちゃんが焦ったようにこちらに手を振り、私が見た事に気付いたのか二人揃ってどこかを指差した。それを目で辿り、思わず息を吐いてたたらを踏む。
ああ、なんで。なんで私の弟たちはこんなに馬鹿なの。呼べって言ったのに。呼んでくれれば止めに行くって言ったのに。
「……竜胆くん、千冬、ケースケのこと頼んだ」
「ん。もしこの怪我でまたなんかするなら絞め落とすけど」
「それでいいよ。千冬、アンタもケースケのこと大切なら、欠片でも愛してるんなら、殴ってでも止める覚悟を決めなさい」
今の私に言えるのはこれだけだし、きっとこれ以上はもう千冬に言葉は必要ないだろう。三人に背を向けて東卍の特服を着た雑魚たちを踏み付けながら廃車の山を飛び降りるようにして下っていく。登ってきた時とは正反対に数秒で地上に辿り着き、マンジローに鎮められたのか倒れ伏す死神の横を通って、焦ったようにマンジローを呼ぶケンチンくんの横も素通りして、立ち尽くすタケミっちの前に立つ。やっぱりこの子は泣き虫だ。今も泣いている。
ああなったマンジローは殴り飛ばすのが一番だと私は知っている。でも意固地な奴だから私の名前を呼ぼうとしない。それも知っている。
だから、保険をかけたのだ。
「私を呼びなさい」
「リコちゃん……」
「私はキミとの約束を守った。だからキミも私との約束を守って」
「……」
「タケミっち。私を呼んで」
「……っ、リコちゃん! マイキーくんを、止めてください!」
「うん、任せなさい」
あの子が私を呼べないことを分かっていたから、私は、この子にもその権利を与えたのだ。
踵を返して足早に近付き、振り上げられた拳を左手で掴み止める。感情のない顔が向けられたので数秒見返し、力で押し負ける前にそのまま投げ飛ばした。馬乗りになって殴られていた羽宮一虎がなんでと呟きながら呆然とこちらを見上げてくるので、鼻でひとつ笑ってからそばに座り込んで額を叩いてやる。クソ餓鬼風情がなんでじゃないんだよ。
「私がお姉ちゃんだから。それ以外に理由なんていらないの」
そしてアンタが私の弟の友人である限り、理由なんてものはいらないままなのだ。
「退け」
「退かない」
「これはオレと一虎の問題だ。退けよ」
「そのアンタたちの問題とやらの当事者なんだけど、これでも」
立ち上がってこちらに寄ってきたマンジローと羽宮一虎との間に立ち塞がって、その目を見て話す。逸らした方の負けだ。
「シンイチローもリコもあの時死にかけて傷も後遺症も残って、更には場地を……」
「でも私も兄さんもケースケも生きてる。言ったよね、マンジロー。殺しはダメ。もし自分を抑えられないと思ったなら私を呼んで。そう約束したでしょ」
「そんな約束もう関係ねえだろ」
「関係ないわけないでしょ。……はあ、分かった。そんなに気に食わなくて羽宮一虎のこと殺したいって思ってるなら、先に私の事殴り倒してからにしてくれない?」
「……」
「女だから殴らないなんて今更言わないよね。私たちはそういうんじゃないもの。マンジローとコイツとじゃマンジローに軍牌が上がるし、このまま殴り続けてたらアンタは人殺しになる。私がそれを認めるわけないって分かるでしょ」
無言で振り被られた拳を受け止めて、左手でその頬を思いっきり叩く。これまで封印していた私の黄金の左腕の実力を思い知れ。グーで言ってやっても言いけれど、頭を殴られて血を流しているマンジローに今それをする訳にはいかない。
得意の蹴りも左腕で受け止めて、そのまま足を掴んで軽い投げ技をかける。向こうも私を引かせることが目的で本気を出していないんだから、私も本気でかかることはしない。退けだとか退かないだとか言い合いながら軽い技の応酬を続けていたのだが、千冬の声が聞こえて二人して動きを止めて咄嗟にそちらを振り返った。
「……場地…………?」
「あー、イッテェ……本気で殴りやがってよお…………リコ、マイキー! 一虎ァ! オレはこんなもんじゃ死なねえ!」
千冬に肩を貸されて立ち上がりながらガッと拳を突き上げるその姿に呆然としてしまう。その後ろで竜胆くんが額に手を当ててため息をついている。千冬に殴られたらしい頬を擦りながらあーだこーだと言っている姿に緊張感は欠片もなくて、鼻の奥がツンとした。
私と同じように呆然としながらその姿を見上げるマンジローに何か言おうとしたのだが、後ろから肩を引っ掴まれて突き飛ばされた。突然の行動に思わず倒れ込んでそちらを見上げれば、立ち上がった羽宮一虎がマンジローに何か言っている。ええ……なんか今いい感じに終わりそうになってたじゃん。涙も引っ込んだわ。ふざけんなよお前。庇ってやっただろうがよ。
マンジローは私が突き飛ばされたことでまたキレてるし、ケースケも困惑したような顔で羽宮一虎を見ている。そうだよね、私ももう意味わかんないわ。ひとまずケースケが自分は死なないとアピールしたことで少し良い方向に向かいかけていた空気をなぜぶち壊すのか。
再び激怒しているマンジローが羽宮一虎に殴り掛かっているので止めに行こうとは思うのだが、どうにも疲れた。誰か手を貸してくれないかなと視線を走らせていれば、ぱちりとタケミっちと目が合う。よし、君に決めた。私に手を貸して。
タケミっちも私の視線の意味に気付いたのか力強く頷き、こちらに駆け寄ってきてくれた。そしてそのまま私の横を通り過ぎてマンジローと羽宮一虎に向かって突っ込んでいく。え〜? なんで〜?
思わずそう口に出してしまっていたのだが、他のみんなは私を無視してマンジローとタケミっちの攻防を固唾を飲んで見守っている。これじゃ私が空気が読めてない奴みたいじゃないか。一人で転がってるのも馬鹿らしくなってすっと立ち上がり、鼻を鳴らす。なんなんだよ揃いも揃って。一人ぐらい手を貸してくれたっていいじゃん。
誰もそんなことの望んでない! とタケミっちが力強く叫び、学ランを投げ捨てる。その拍子に懐から何かが転がり落ちて、ハッとマンジローが目を見開いた。私もそれには見覚えがある。東卍が結成した日にみんなで買ったというお守りだ。あの子ずっと持ってたからなあ。どこかで落としたのをタケミっちが拾ってくれていたんだろうか。振り返ってみれば、あっという顔をして胸の当たりを触っているケースケがいる。
それからはトントン拍子で話が進み、陳腐な言葉で言い表せばなんというか、すごく感動的な空気になった。ケースケの思いが場を動かしたらしい。やっぱり私の弟はすごいな……弟最高。
しかし警察やら救急車やらのサイレンの音が聞こえてきたものだからそうも言っていられずに、阪泉くんたちが解散しろとギャラリーに呼びかけ始める。私も頭切ってるし残るか。医療関係者にこんな発言聞かれたら殺されそうだけど、疲れたから救急車に乗りたい。
「ほら、お前たちも解散しな。私が責任持ってケースケが病院着くまで見届けるから、ほらほら早く出てけ出てけ」
竜胆くんと千冬に肩を借りて廃車の山から降りてくるケースケを横目に見ながら、東卍の連中を手で追い払う。八戒くんが心配そうに三ツ谷くんの後ろからこちらを見て来てくれていたのでウィンクを返せば、ヒィっと悲鳴をあげて三ツ谷くんを盾にされた。意味ないなあ。私は三ツ谷くんの顔が好きなので逆に喜んで近寄っていくぞ。
あまり八戒を虐めてやるなとケンチンくんに注意されてしまったので肩を竦めて返し、早く出てけとその背を押す。ケースケを刺した奴は逃げました私は廃車の山から落ちましたと言って誤魔化す気満々なのだ。関係者がいると一発で犯人にされるから急いだ方がいい。
しかしそう上手くも行かず、ケースケが確り地に足をつけたタイミングで羽宮一虎がこの場に残って自首すると言い出した。私が残るとか再犯だから刑期長引くぞとか言葉は尽くしてみたけれど、頑なに首を横に振らない。頑固者め。せっかく逃がしてやると言ってるのに。
「うーん、まあそこまで言うなら……じゃあ三人で残るから、他はみんな急いでどっか行きなさい」
それでいいのかという顔をしつつも、ケンチンくんは東卍の下っ端たちに声を掛けて先を急かすことにしてくれたようだ。立ち止まってこちらを見ているマンジローにも早く行けと手を振る。話したいことはあるけど、それはまた後で。伝わったのかこくんと頷いて背を向け、羽宮一虎がその背に謝罪をした時は立ち止まったものの、何も言わず歩いていってくれた。
「竜胆くんも、行ってよ」
「……」
「お兄と蘭ちゃんと待っててってば。搬送される病院分かったら連絡するし、ね。すぐ会えるよ」
「……また無茶しただろ」
「えー、してないしてない。……うん、嘘。ごめんね」
これで肝を冷やしていたらしい竜胆くんに抱き締められるままにその背に腕を回して、あやすようにして軽く叩く。羽宮一虎の膝を借りて地面に寝るケースケが見たくないものを見てしまったという顔でこちらを見てきているので、べーっと舌を出しておいた。姉と交際相手が抱き締めあってるところをまじまじと見つめるな。お前もだぞ羽宮一虎。
渋る竜胆くんの背をまた叩き、何とか言い含めて廃車場を去っていくその背を見つめる。ちらちらとこちらを振り返って足を何度も止めるものだから、焦れたのか最後の方は蘭ちゃんと兄が引き摺るようにして無理矢理連れ去られて行った。
三人の後ろ姿に背を振りながら、私も二人のそばに座り込む。三人で話せるのは今を逃せば当分後になるだろうし、どうせなら話しておいた方がいいだろう。
「お前、外でもリンドーくんとあんなイチャついてんの?」
「あれが私たちの普通だから。何、文句あんの?」
「いや、コウキョーフーゾクに反するんじゃね」
「公序良俗ね」
手を伸ばして口元の血を拭ってやりながら、その馬鹿さ加減に笑う。笑われたケースケは不満そうに文句を言っているけれど、羽宮一虎は押し黙ったままだ。
サイレンの音がどんどん近付いてきている。もう時間はない。このままにしておくわけにもいかないので、フルネームで名前を呼んだ。他の呼び方をするには私たちはまだ時間がかかるだろうし、この二年間ずっとそう呼んできたし。
「ケースケはアンタの荷物を背負う覚悟を決めてるけど、アンタはケースケの荷物を背負う覚悟はある?」
「……分かんねえ」
「そう。……あのさあ、アンタもケースケも、結局難しく考えすぎなの。馬鹿は馬鹿らしく適当に生きてなよ」
「……」
「どっちも選んで掴み取って、重くて持てなくなったら荷物を半分にしてお互い支え合って背負いあっていけばいいの」
「…………どっちもはダメだろ」
「はあ? いいんだよ、別に。私もどっちも選んだし。ケースケだって目の前にチョコとストロベリーのアイスがあったらどっちも選ぶでしょ」
「どっちも食うけど、オレは今ペヤングの気分」
「お前に聞いた私が馬鹿だったわ。でもほら、どっちも選ぶんだよ。私もどっちも食べちゃうかも。アンタは? お腹がすごく空いてて甘いものが食べたくて、目の前にアイスがあってさ。どっちも選びたくならない?」
「……なるかも」
「でしょ。結局ね、そういう時にどっちも選ぶのと一緒なの。難しく考えなくていい。それでもやっぱり迷うようなら、ケースケを頼りなさい。馬鹿二人が集まったところでどうにもならなかったら、私を呼びな。一緒に考えてあげる」
俯いたままの羽宮一虎の表情は私には見えない。けれど、ケースケには見えているんだろう。いつもの優しい顔をして羽宮一虎の名前を呼んでやっている。この子はこうやって人を救える子なのだ。やっぱり私の自慢の弟。
ケースケはどちらも選んで見せたのだ。それをこんな間近で見たんだから、私がケースケのお手本になったように、ケースケは羽宮一虎のお手本になる。ケースケのこの真っ直ぐさを見ていれば全部何とかなるような気になってきてしまうし、さっきも言った通りそう難しく考える必要なんてない。迷った時は迷ったと言えばいいし、悩んだ時は誰かに相談すればいい。どうしても答えが見つからないんなら道を戻ることだってありだろう。
「……あの日のこと」
「うん」
「ごめん」
「いいよ、許すよ。……平気だよ、ケースケ、一虎。私はもうアンタたちを許してる」
「……」
すっとこちらに向けられた瞳が涙で潤んでいてもやけに澄んでいて笑ってしまった。これならもう大丈夫だろうと根拠はないけど確信する。
「この二年間はちゃんと受け止めて、考えられなかったんでしょ。これからまた少年院に入ることになるだろうけど、今度は自分で考えて罪を償ってきなさい」
「……」
「手紙は書いてあげる。外に出てきた時にアンタを待ってる人がいるんだってこと忘れないで」
「……うん」
瞬きと共にぽろりと溢れ出した涙がケースケの頬に落ちて、ケースケがそれを大袈裟に擽ったがるものだから、きっとこの子達はもう大丈夫だと思えたのだ。
正直の頭にデブ宿る