ひっくり返った頭では何も考えられない。全部教室に置いて出てきてしまったし、階段では足を踏み外して蘭ちゃんに支えてもらわなければ頭から落ちていただろうし、タクシーから降りる時に思いっきり転けて膝が痛い。一度は溢れた涙もぴたりと止まって、逆にもう一滴も出てこなさそうだった。そこまで思考が回っていないのだ。感情が追いつかない。
 現実逃避をするみたいに、飛び出してきてしまったせいで大寿くんとの発表を台無しにしてしまったと考える。でも何も呼び止められなかったから、あれは認めてくれたと捉えてもいいんだろうか。どうしても私を引き止めたいならぶん殴ってでも止めてきていた気がするのだ。

 経緯を整理する。学校をサボっていた蘭ちゃんに兄から電話が掛かってきて、出てみたらタケミっちだった。竜胆くんと兄が通り魔に襲われた、詳しい話はともかく後にして早く病院にと言われたから、蘭ちゃんは咄嗟に私のところに来てくれたらしい。なんにも連絡が来ないから知らないんじゃないかと思ったんだって。確かに私なら、その二人に何かあったと聞けばとち狂った頭で一番最初に思いつくのは蘭ちゃんに連絡を取ることだっただろう。

 どうして二人がそんなことにとか、なんでタケミっちが一緒にとか、色々と思うところはあるのだ。でも全部が全部思い浮かんだ端から溶けていって、思考が長く続かない。頭のど真ん中をを支配するのはただの不安。


 蘭ちゃんは自分より動揺している私を見て落ち着いたと言っていた通り見た目はもうすっかり正常に見えるけど、別にそんなことは無いだろう。証拠にタクシーから降りる時にスライディングした私に蹴躓いて自分だって転けかけていたし、今も四階と言われたのに六階に向かってエレベーターのボタンを押し、六階で二人で迷ってタケミっちに「六階のどこ?」とメールをして「六階じゃなくて四階です」と訂正されるような始末だ。
 エレベーターやエスカレーターを使うという考えが二人揃って吹っ飛んだせいで階段を使って降りながら、最悪な展開ばかりが頭の中でぐるぐる回っている。怪我をしたから早く来いみたいなニュアンスの連絡だったそうだけど、怪我ってどこまでが怪我? 突き詰めていってしまえば私とシンイチローくんのあの日のアレも怪我だし、ケースケが一虎に刺されたのも怪我だろう。

 二人に何かあったらもう立ち上がれる気がしない。竜胆くんがもしも死んでしまったら、生きていける気がしない。


 また足を踏み外して転げ落ちそうになったのを蘭ちゃんに引っ張って止められながら、震える足ではこれ以上は無理だと判断して手摺りを握って一段ずつ降りていく。急かすことはせずに背中に当てられた手のひらが今はありがたかった。

 怖い。知りたいのに怖い。会いたい。会って無事なのか確認したい。そばにいたい。でも怖い。竜胆くんがもし大きな怪我をしていたら。意識がなかったら。もし、死んでしまっていたら?

 考えれば考えるほど動転して吐きそうになりながら、蘭ちゃんに背を押されて歩く。海なんて行けなくていい。何もいらない。竜胆くんに生きていて欲しい。それだけなの。

「だから違いますって! オレにはヒナが……あっ、リコちゃんと蘭くん来ましたよ! 二人とも、こっちです」

 曲がり角を曲がってすぐ、並んで椅子に座る二人とその二人の前に立って何か喚いているタケミっちが見えた。その隣には千冬もいる。タケミっちの声に反応してこちらを見た千冬が蘭ちゃんから目を逸らすようにして私と目を合わせて、ぎょっと目を見開いてえっと声を上げた。いつもなら年上に対して失礼だとかなんだとか言ったかもしれないけれど、そんな言葉出てきそうにない。それどころか、言葉がひとつも出てこない。

 代わりに出てきたのは涙だ。

「なっ、えっ、……え⁉︎」
「千冬うるさ、えっリコちゃん⁉︎ えっ⁉︎」
「うるせえのはお前らだろ」

 吐き捨てた蘭ちゃんに背を押されて歩かされて、さっと飛び退いたタケミっちと千冬の立っていた二人の真正面に立たされる。滲む視界の中で、不自然なぐらい押し黙った竜胆くんと兄が伺うようにこちらを見上げていた。
 少しでも視界がクリアになるようにと何度か瞬きをして、その度に溢れてくる涙を手の甲で拭いながら、二人を見下ろす。怪我をしたのは二人揃って腕だろう。包帯が巻かれているから。

 心配したとか、怪我なんてしないでよとか、色々言いたいことはある。あるんだけど、声が出てこない。それに今なにか喋ったらもう止まらなくなる気がするのだ。


 私の背中をひとつ叩いた蘭ちゃんが、いつものように軽快に兄に声を掛け始めた。それに兄もケロッとしていつも通りに答えている。二人ともナイフが掠っただけで、縫うほどの怪我でもない。大袈裟に包帯とか巻かれてるけど別に平気。チラチラと兄がこちらを見ているのは分かるから、きっと私を安心させようとしているのもあるのだろう。蘭ちゃんが兄に返事をしながらまた私の背中を叩く。
 兄が意を決したように私の名前を呼び、何度か携帯に連絡したんだがと言ってきた。携帯。携帯か。そう言えば持っていた。けれど確認する余裕もなかったし、なんの着信音も受信音もしなかったから電源が切れているのかもしれない。

 意味もなく携帯を入れたブレザーのポケットに触れた時、竜胆くんが私を呼んだ。ぴしりと音がしそうなぐらいぱたっと自分の動きが止まったことが分かった。

「……リコ、ごめん、心配掛けたよな」
「…………竜胆くんのばかぁ……!」

 心配掛けたとか、もうそういうレベルの話じゃないだろう。立っていられなくてズルズル座り込んで、その膝に縋り付くみたいにしてわあわあ声を上げて泣いた。躊躇いがちに私に伸ばされた手が次第に慰めるみたいに結んだ毛先を梳いて頭を撫でて、包帯を巻かれた方の腕で涙が拭われていく。

 竜胆くんが少し嬉しそうにしている空気を感じて、手を伸ばしてその腹筋のあたりをバシバシ叩く。笑い事じゃないのだ。
 竜胆くんと兄が怪我をしたと聞いて、もう何も考えられなくなった。なんでもっと早く話しておかなかったんだろうと、あんなくだらないことで悩んで連絡を疎かにしたりしたんだろうと、死んでしまいそうなぐらい後悔した。涙も出てこないぐらい不安で不安で、ずっと手が震えて、今だってそうなのだ。

「私に危ないことするなって、無茶するなって言うんなら、竜胆くんもそんなのやめてよ」
「うん、ごめん」
「相談して、頼って。心配ぐらいさせてよ。竜胆くんが私にそうしろって言ったんだよ。私だって、竜胆くんのこと支えたいんだよ」
「そうだよな。リコの気持ちまで考えられてなかった。でも、今ならあの時リコがオレに心配掛けたくないからって嘘ついた気持ち、分かるんだよ」

 涙を拭ってくれていた手が頬に触れて、ゆるゆると上を向かせられる。しゃくりあげながら見上げた竜胆くんは優しい顔をしていて、それを見たらまた涙が出てきた。

 あの時の、三年前の私は竜胆くんに心配を掛けたくなくて必死だった。弱い所を知られたくなかった。強い私だけを必要としてくれていて、弱い私はいらないと思われているんだと考えていたからだ。竜胆くんへの気持ちが何かも分からなかったのに、ただそれだけで竜胆くんを振り回して、竜胆くんに悲しい思いをさせた。
 でもそんな私を受け止めてくれたのも竜胆くんだ。弱くていいんだよって、泣いていいんだよって、わがままでもいいんだよって、竜胆くんはずっと伝えて来てくれた。私が泣きたい時は一番に気付いて抱き締めてくれたし、オレの前では泣いていいよと何度も言葉を尽くしてくれた。私が泣いても、泣き止むまでずっとそばにいてくれた。

「オレいっつもリコのこと心配する側だったからさ。心配掛けることなんてあんまりなかっただろ? だから今回はじめて分かった。リコにはいつでも笑ってて欲しい。悲しい思いも辛い思いもしないで欲しいし、泣かないで欲しいよ」
「……」
「でも、心配して欲しくなくて黙っててもリコは泣くし、こうやって結果的に心配掛けることになっても泣くんだよな。リコのそういうところ、好きだよ。やっぱり泣き虫なところも、わがままなところも、オレのために泣いてくれるところも、全部好きだ」
「……私も、竜胆くんの全部が好き」
「ありがと。……だからさ、これからは全部ちゃんと話すよ。隠し事なんてしない。リコがオレに全部話してくれるみたいに、オレもリコに全部話す。頼るし、心配掛けるし、オレのこと支えてよ」
「…………うん」

 今はひとまず泣き止んでと竜胆くんの手が私の涙をまた拭う。だから私は頬に触れたその手の上に自分の手を当てて、甘えるみたいに擦り寄った。
 竜胆くんの名前を呼んだ声が震える。嗚咽はまだまだ止まりそうにもない。でもちゃんと話すと決めた。竜胆くんにきちんと思いを告げると決めたのだ。兄たちに背を押されて、三年前のあの日出せなかった答えがやっと出せた。竜胆くんにその答えを聞いて欲しい。

「竜胆くん」
「なに、リコ」
「私……わたし、竜胆くんがいないとダメになっちゃった」
「うん」
「竜胆くんがいないともうダメなの。竜胆くんがそばにいてくれなきゃ、もう生きていけないの」
「ダメでもなんでもいいよ。どんなリコでもいい。オレのそばで生きて。俺と一緒に生きて」

 竜胆くんへの気持ちと、家族やきょうだいたちに抱く愛は違う。ずっとそう漠然と思っていた。その違いがよく分からないままこの三年間を過ごしてきた。竜胆くんのことが好きだと分かって、そこで思考を止めていた。
 でも、最近やっと分かったのだ。違くて当たり前だった。当然だった。


 きょうだいたちとずっと一緒にいたい。姉として妹として、私はきょうだいたちを愛している。何に変えても守り抜きたいと思う。泣きたい時は抱き締めてあげたいし、何もかも信じられないなら前を向けるその時までずっと隣にいる。愛を受け止められないなら、溺れるぐらい愛の言葉を囁いて、もういいからってぐらい愛し続ける。踏み越えちゃいけないラインを踏み越えようとするなら、殴ってでも止める。
 その全部を、何よりも愛している。愛が返ってこなくてもいい。私の愛を受け止めてくれればそれでいいのだ。離れて暮らしていたって、一緒にいられなくたって、遠くにいたって、変わってしまったって、この先永遠に愛していると誓える。


 じゃあ、竜胆くんは?

 竜胆くんへの気持ちは、これは好きで、そして愛だ。でもきょうだいたちへの感情とは違う。きょうだいたちに抱く愛とは違う。それは今までも分かっていた。その先が、イザナに答えをもらってようやく分かったの。


 私は竜胆くんの全てを受け止めたい。何もかも全部受け止めて、溶け合えるならば溶け合ってしまったっていい。
 竜胆くんの全部が好き。少し猫背なところも、眠たい時にたくさん瞬きをするところも、蘭ちゃんのことが大好きで口癖みたいに兄貴が兄ちゃんがって話を聞かせてくるところも、体があたたかいところも、案外真面目なところも、全部好き。骨ばった輪郭、その名前の色の瞳、分厚い唇、大きな掌、しっかりした体。何もかもが好き。

 竜胆くんが私に向けてくれるのと同じだけ、ううん、それ以上に竜胆くんに好きを伝えたいし、私の感情を捧げたいと思う。そして竜胆くんにも私を望んで欲しいのだ。捧げた愛に、愛を返して欲しいと願ってしまう。竜胆くんの愛が欲しい。竜胆くんの、その全てが欲しい。
 そばで生きていたい。離れたくない。ずっと一緒にいたい。拒まれるのが怖い。捨てられるのが怖い。私以外の人を好きになんてならないで欲しいと思う。私だけを想っていて欲しいと思うのだ。

 竜胆くんがいないと、もう息もできない。

「りんどうくん」

 手を借りるようにして腰を上げて、竜胆くんの隣に座り込む。そのままその手を握った。願うように、祈るように竜胆くんを見つめる。仕方ないなとばかりの笑顔。私を見つめる暖かな瞳。緩やかにあがった唇。やっぱり、その全部が好きだ。


 壊れ物に触れるみたいに優しい声が私に応えるように名前を呼んだ。あなたが私の名前を呼んでくれる度に、私はまた私の名前を好きになる。あなたが居てくれれば、私は弱い私を受け入れられる。あなたの愛してくれる私を、愛していける。

「怪我、痛い?」
「そこまで痛くない。本当に掠っただけなんだよ」
「……でも痛い時は痛いって言ってよ。私も言うから」
「うん、言うよ。さっきも言ったろ。もう隠し事はしない」
「わがままも言っていいからね。私のそばでは泣いていいよ」
「……リコがオレにはわがまま言って、オレの腕の中ではちゃんと泣けるみたいに?」
「うん。私がそうするみたいに、竜胆くんもそうしてよ。私、竜胆くんの全部を受け止めたいの。竜胆くんの全部が好き。全部欲しい」

 首に腕を回して抱き着いて、その首筋に顔を埋めながら願う。全部を受け止めたい。全部が好き。あなたの全部が欲しい。あなたに私を愛して欲しい。

 竜胆くんの腕が私の背中に回る。僅かに震えるその腕に、竜胆くんたちが少年院を出所したあの日のことを思い出した。あの時からずっと私は、私たちは変わってなんていない。お互いのそばで生きていくことを望んでいる。互いの声で名前を呼ばれることをずっと望んで、それに励まされてここまで来れた。


 あの頃から、何も変わってなんていないのだ。もうずっとずっと前から私は、ずっと、あなたを愛していた。

「リコ」
「なあに、竜胆くん」
「一緒にいて」
「……うん。私も一緒にいたい」
「オレに、リコの隣で生きていさせて」

 泣き抱きそうなぐらい震えて小さなその声に、背中に回す腕にぎゅっと力を込めて返す。息を吸ったら竜胆くんの匂いがして、少しは止まってきていた涙がまた溢れ出した。やっぱり竜胆くんの何もかも全てが好きだ。

「私の隣で生きて、竜胆くん。もうずっと、ずっとあなたを愛してる」
「……オレも、お前を愛してる」

 その言葉だけでもう十分だった。


 +


 家族たちの中ではいの一番に駆け付けた父が兄に何か言うより早く蘭ちゃんに悲鳴をあげて飛び上がってからは、もうお祭り騒ぎだった。にわかに騒がしくなった中待合で、泣きすぎて重くなってきた瞼で何度か瞬きをしながら竜胆くんの肩に頭を預ける。

 私と蘭ちゃんが来るよりも早く兄も竜胆くんも処置は終えていたし、警察との聴取もほとんど現場で済ませてきてしまったらしい。隠し事はしないという言葉の通りに順を追って説明してくれる竜胆くんの言葉に耳を澄ませながら、何故か私たちの正面に突っ立って泣いているタケミっちを見つめる。
 千冬はというと、ケースケの親友なのだと私が紹介したせいで、あれやこれやと母と祖父にちょっかいをかけられているようだ。きょうだいたちの一員というわけではないが半分弟扱いでここまでやってきたケースケは、何でも食べるしいつも元気いっぱいなところが母と祖父に気に入られている。

「つまり、タケミっちと千冬が竜胆くんとお兄のストーカーをしてたおかげで刃物持った不審者にいち早く気付けた、ってこと?」
「ス、ストーカー……でも、はい。そうなるんですかね。一応竜胆くんにもガリ男くんにも今日は一日中気を張っててくださいって忠告はしたんですけど……」
「そんな、今日通り魔に襲われるかもなんて言われたって普通信じねえだろ」

 分かりやすく悪態をついた竜胆くんが、肩に預けたままの私の頭に自分の頭をくっつける。甘んじてそれを受け入れて怪我をしていない右腕を意味もなく擦りながら、未だにグズグズと鼻を鳴らしているタケミっちをじっと見つめる。私以上の泣き虫だ。ヒナちゃんにタケミっちを泣かせた女として敵視されると困るから、早めに泣き止んでほしい。

 それにしても、やっぱり不思議な子だ。話を聞く限りだと未来が見えているようにしか思えないし、竜胆くんも自分とデブを助けてくれたことはともかくとしてヤベェ薬でもやってんじゃねーの、と無言でタケミっちを警戒している。私と同じ反応だ。
 ひとまず大切な人たちを助けてもらったことのお礼は言おう。今のところは不可解な言動と壊滅的なセンスぐらいしかヤバイ薬をやってると疑う要因がないのだし。

「私からも、お礼を言わせて。ありがとう」
「そんな……! オレはただ、約束を守っただけなんです」
「私じゃない私との約束を?」
「……はい」

 充血して潤んではいるけれど、その目はやっぱりどこまでもまっすぐで力強い。つつかれたくない所をつつかれているんだろうに目を逸らしもしないし、揺るぎなく私たちを見つめている。眩しいぐらいだ。
 その様子に私たちの方が目を逸らして、思わず竜胆くんと目を見合わせてしまった。ぱちぱち瞬きをしながらアイコンタクトを交わして、お互いの意志を確認する。うん、そうしようか。

「キミは魔法使いか、エスパーか、未来人か。私はこの三つの中のどれかだと思うんだけど、結局答えはどれなのかな」
「えっ⁉︎ そ、それは、」
「……あはは。嘘、嘘だよ。聞いたりしないよ。話したくないんでしょ? 竜胆くんとお兄が助かったのは全部キミのおかげだ。私の知らない私との約束を守ってくれたのもキミ。魔法使いだったとしても、エスパーだったとしても、未来人だったとしても、結局私たちはキミに救われたんだ」

 だからキミの秘密を無理に暴いたりなんてしないよと付け足せば、タケミっちは目に見えて安堵して息を吐き出す。本当にわかりやすい子だ。隠し事がド下手くそ。私の周りにいる年下の男の子って、みんなそうなんだよね。
 竜胆くんも追求するのはやめてくれたようで、かなり回りくどく嫌味ったらしくそれでもタケミっちにお礼を言っている。なんだかんだ言いつつ感謝してるくせに、素直じゃないんだから。

 分かりやすく頭にハテナを浮かべつつもタケミっちは竜胆くんの話に相槌を打ち、ふと、相変わらず母と祖父に絡まれている千冬と、蘭ちゃんとデブに囲まれて縮こまっている父を見た。それから意を決したように私たちに、正確に言えば私に向き直る。竜胆くんはもうすっかりタケミっちに興味をなくしたらしく、私の指を一本ずつ握ったり手の甲に何か文字を書いたりして下を向いている。

「竜胆くんに聞いたんです。リコちゃんは柴大寿と同じ高校に通ってるんですよね」
「うん。大寿くんとは大親友だよ」
「大親友⁉︎」
「竜胆くんはそこまでは説明してないの? 私たち大親友なんだよ。だから大寿くんの家にもお邪魔するし、ゆずちゃんとも八戒くんとも知り合いなの」

 説明する必要ないだろと小声で呟いている竜胆くんの肩に擦り寄って甘えつつ、恐らくタケミっちが聞きたいであろうことに当たりを付ける。八戒くん関係のことだろう。
 でも私はその件に関しては、三ツ谷くんからは探りを入れられて、ゆずちゃんからは三ツ谷くんに話すなと口止めをされて、大寿くんには関わるなと言われているのだ。まあ竜胆くんと兄の命の恩人だから少々情報を漏らすぐらいなら許される、のかな。

 そう思っていれば、当たらずとも遠からず。タケミっちが聞きたがっていたのはやはりそれ関係の事だった。柴大寿の弟妹に対するDVを知っているかと聞かれたので、頷く。

「大親友だから、お互いのことはある程度知ってるよ。多分キミよりもずっと私は大寿くんを知ってると思う」
「リコちゃんは柴大寿を止めないんですか? 暴力で躾して縛り付けるなんて、おかしいですよ」
「もちろん目の前でやられたらそりゃ仲裁はするけど、一切合切やめなさいって止めることは私にはできないかな」
「なんで……!」

 タケミっちは驚いたように声を上げるけれど、まあ簡単な話だ。私もどちらかといえば殴って止めることを愛だと認識しているタイプの人間で、何より大寿くんの不器用さを知っている。不器用の一言で片付けていい度合いは越しているのだろうけれど、人の愛を否定できるほど偉い人間でもないのだ。

 同じお姉ちゃんとお兄ちゃんとして、弟妹を深く愛する気持ちは痛いぐらいに分かる。分かるからこそ、その愛を否定することなんてできない。

「キミにも、私にも、人の愛を否定する権利はない。込み入った話をここでしちゃうとプライバシーの侵害ってやつになっちゃうから詳しくは私からは話せないけど、大寿くんって本当に不器用な人なの」

 そんなやり方しか分からなかった人なのだ。

「もちろん大寿くんの暴力で支配するってやり方は間違ってると思う。まあ私が言える立場ではないんだけどね。でもそれはそれとして、大寿くんのやり方を否定しても、大寿くんの愛が間違ってるなんて言わないで」

 これは大親友からのお願いであり、大寿くんと同じく弟妹を愛するお姉ちゃんからのお願いでもある。愛に正解なんてきっとないのだ。そしてもし正解不正解があるのだとしても、他者が外からそれは間違ってるなんて言っていいものじゃない。その愛を向けられる本人たちが受け入れるか受け入れないかの話であって、その愛を向けられるのは私やタケミっちではないのだから。

 私の言葉を聞いて迷った様子ながらも頷いてくれたタケミっちに頷きを返す。頭の隅にでも私の今の言葉を置いておいてくれればいいのだ。八戒くんという友達のために自分よりも強い相手に立ち向かおうとしているのだろう。対峙する時にその愛を否定しないなら、たとえ大寿くんをタコ殴りにしようがその前歯を全て折ろうが、別になんだっていい。頑張れ。
 それでもタケミっちが協力してくれないかな……みたいな顔でこちらを見てくるので、それには笑ってしまう。この子はなんでこんなに全部顔に出るんだろう。疑ってる訳では無いけれど一生浮気なんて出来なさそうだから、ヒナちゃんは安心していい。

「大寿くんに、今回の件から手を引けって言われてる。で、私も大寿くんたちきょうだいの問題には首突っ込まないって約束した。だからごめんね。手は考えてるんだけど、協力はできない」
「……いえ。オレたちで何とかします。ダチのことッスから!」
「うん。頑張れ。ああそれから、稀咲、あれにはやっぱり警戒続けた方がいいと思う。何考えてるか分かんない頭のおかしい奴だよ」
「稀咲?」
「竜胆くんにはまだ話してなかったっけ。私のストーカー……信者? 私のこと神様か何かだと思ってるみたいで」

 なんだよそれとギャンと竜胆くんが吠える。うんうん黙っててごめんねとその頭を撫でて、そう言えば姑息でムカつく羽虫の話はしていたけれど最近ストーカーに進化したとは話していなかった。
 竜胆くんに軽く経緯を説明しつつ自分の中でも色々と整理していく。やっぱり姑息でムカつくやつだ。私が弱ってることが分かっていてあのタイミングを狙ってきたとしか思えない。次に会った時はあと三発ぐらい顔面にくれてやろう。

 そんなことがあったのかと目を見開いて私の話を聞いていたタケミっちは、思い当たることがあったのか何か考えているようだ。稀咲の顔をボコボコにしたかと聞かれたので、イエスと答えておく。した。まああれは私もパニックになってたからノーカウントでしょ。
 全部相手が悪いと私を全肯定してくれる竜胆くんにふむふむと頷いてだよねアイツが悪いよねと返していれば、タケミっちが徐になにか呟く。

「アイツは多分、リコちゃんのことを聖女だと思ってるんです」
「はあ?」
「聖女?」
「ジャンヌ・ダルクとか」
「あー、確かデブの本棚に伝記が入ってた。アレでしょ、救世主扱いだったのに最後は火刑に処されたっていう。神様扱いはされたことあるけど聖女は言われたことないな」

 レアだ。そして神様扱いされるより何となく気持ち悪い。救世主になってやるつもりもないし、そもそも私のどこにも救世主になれる要素がないだろ。本当にアイツは私の何を見てるんだろう。

 気持ち悪いなあと声に出して文句を言いながら、同じように稀咲を罵倒している竜胆くんの肩に再び頭を預けて、その手を握る。これでも俗物的な自覚があるんだけど、私のそんな面は見ないふりをするつもりなんだろうか。自分に都合のいい私を作り出して理解者面して、意味の無いことをする。
 考えているだけでイライラしてきたので他に話はないのとタケミっちを目線で促して、その顔が僅かに強ばったのを見てなるほどまだ何かあるのだなと察する。忙しい子だ。あれやこれやと抱えて誰かを救おうと必死になって駆け回っている。その必死さが好ましいから、手を貸せるだけ貸したくなるのだ。

「稀咲が言ってたんです。マイキーくんは弱ってて、もうダメかもしれないって。リコちゃんから見てもそう見えますか?」
「見えないね」

 悩む余地もないので即答する。何を言ってるんだと鼻で笑い飛ばしてやりたくなった。あの子が弱っててもうダメかもしれない? マンジローに対する侮辱だろうか。

「あの子は確かに今、一虎のことで色々考えてる。いつもはあんまり考えないで動く子だから、自分の中で折り合いつけて解決策考えてっていうのに時間が掛かってるの。私たちきょうだいはそんなあの子を支えるためにあの子のそばにいる。私たちがいる限り、あの子がダメになる日なんて来ないよ」

 そんな日絶対に来ない。私たちはあの子の手を引いて背を押して、あの子が答えを出せるまでずっとそのそばにいるのだから。答えを出せたあとも迷うのであれば、その迷いが終わるまで手を握って隣にいる。
 マンジローは私たちの大切な家族で、愛しいきょうだいだ。

「昔っから何も変わってない、甘えたな男の子なの。最強だなんだって言われても普通の男の子。カレーの人参が大きいと文句を言うし、手合わせで私が勝てば拗ねるし、今でも私の膝で寝てくれる。隠し事が下手くそで、笑ってたって泣いてたって可愛い私の大切な弟」

 もう一度言い含めるようにしてタケミっちにそう言って聞かせ、マンジローの髪を梳くあの感触を思い出す。私の膝の上で器用に寝返りを打ってウンウン唸っていたその姿。髪を梳いてやると眠りながら私に擦り寄ってくる。目覚めた時、まだ涙のあとの残る私の顔を見てギョッとしてイザナに泣かされたのかと聞いてきてくれた、優しい子。
 あの子の手を引いて背中を押してやるのが私の役目だ。兄たちが私にそうしてくれたように、私も弟を導きたい。悩む時も迷う時も、私が一緒に答えを考えてあげる。前を向けるその時までそばにいてあげる。あの子が私の弟である限り永遠に、ずっと。

 可愛い弟のことを私が思っている間にも自分なりに色々と考えているらしいタケミっちがぽつりと言葉を漏らした。

「ならなんで稀咲はそんなことを……」
「アレの中ではマンジローが本当に弱って見えてるか、もしくはキミに恩を売って取り入ろうとしてるか。なにか協力でも申し出てきたんじゃないの?」
「はい。黒龍のこと、実は東卍のみんなには反対されちゃって……千冬と二人でやろうかって話してた時に稀咲と半間が協力するって言ってきたんです」
「死神が? アイツ本当にいいように羽虫に使われてるな……」

 余程羽虫は死神にとって面白い奴なんだろう。私には全く分からないし巻き込まないで欲しい。不快なだけだ。

 それにしてもその二人がタケミっちと千冬に協力するなんて、ろくな事ではない。出来れば断るべきだと私としては思うんだけれど、この様子からしてもう既に一緒にやると決めたあとなんだろう。今更撤回しても余計面倒なことになる。

「単純に黒龍が目障りってのもあるんじゃねえの」
「黒龍が? あ、でも確かにそうか。東卍をもっと大きくしたいんなら、渋谷に目立つチームはいらないもんね。きょうだいで潰し合わせれば内輪揉めで潰れたってことに出来るし、タケミっち使って仲裁させれば黒龍にもタケミっちにも恩を売れる」

 竜胆くんの言葉にふむと頷く。確かにそうだ。人を使って自分は安全圏でのうのうとそれを見ているだけの羽虫らしい姑息なやり方。タケミっちを手助けしたとなれば、タケミっちのことを気に入っているマンジローはもちろん、東卍の他の幹部陣からも評価は上がるだろう。ハロウィンの抗争からさして羽虫の評価は下がらないままここまで来ているし、マンジローに有能アピールしたいなら有効な手だ。
 タケミっちもその可能性に思い至ったのかごくりと唾を飲む。そこまで仲良くしているわけでもない私でも分かるぐらいちょろい子だから、稀咲のこと良い奴かもとか思い始めていたのかもしれない。でも私たちの話を聞いて疑ってかかる姿勢を取り戻したようだ。

「まあ、何かあったら連絡してよ。今回の件本当に感謝してる。キミがいてくれたおかげで竜胆くんもお兄も生きてるんだからね。この借りは絶対に返すよ」
「リコちゃん……」
「キミの約束した私じゃない私も、突き詰めていけば私でしょ? 私との約束をキミは守ってくれたんだから、私もキミとの約束は守る。困ったら気軽に呼び出して」
「おい、だからってくだらないことで呼び出すなよ。あと私服でリコの隣歩くな。リコのセンスまで疑われる」
「ええ⁉︎ ひどいッスよ!」
「もー、竜胆くんったら」

 話が終わったことを察したのか兄と蘭ちゃんが私たちの名前を呼ぶ。その後ろではようやく解放された父が安堵のあまり涙目になっていた。
 タケミっちはまだ竜胆くんに抗議していて、竜胆くんはそれを適当にあしらっている。助けてもらったとはいえやっぱりそのセンスは受け入れられないらしい。私は好きだよ、あのどこで買ってきてるのか分からないTシャツ。

 騒ぎすぎて看護師さんに怒られているタケミっちとそれを笑う竜胆くんを見て、竜胆くんと兄の怪我が命に差し障るようなものじゃなくてよかったと改めて思った。生きていてくれることが一番嬉しい。

人間万事塞翁がデブ

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