「竜胆くん」
「お願い、生きて」
「私の事なんて忘れて」
「他の誰かを愛して、幸せにしてあげて」
「お願いだから」
「普通に、私が居なくても、真っ当に」
「幸せになって」


 +


 眠りに落ちているその間だけは、愛した女が会いに来てくれる。

 それに気付いたのは、リコが死んで一年程経ってからの事だった。


 最初はなんて最悪な悪夢だと思っていた。他ならぬ己の腕の中で血を吐きながら死んでいった、この世の何よりも愛した女が、眠る度に呪いの言葉を吐きながらまた死んでゆくのだから。

 見上げる瞳がどこまでも澄んでいて暖かいのがより一層の地獄を思わせるのだ。その体が冷たくなるのも、動かなくなるのも、一度閉じた瞼が二度と開かれなかったのも、この目で見た。夢に見るほどにその死に際が脳に焼き付いている。それなのに、夢の中でこちらを見上げる瞳だけがずっと熱を失わない。
 血に塗れた苦しそうな声はその苦しみの中に緩やかな感情を灯し続けている。オレの名前を呼ぶ声。呪いを吐く声。全て同じ声だ。全て同じ、愛した声。


 何もかもがオレを苦しめるその悪夢が愛した女との逢瀬に変わったのは、その呪いに気付きを得た瞬間だった。


 +


 同じ組織に属するとはいえ、結局はそれぞれの思考で動きそれぞれの思想を持った人間だ。一筋縄ではいかないのが当たり前。それもここまで組織がデカくなってしまえば、日々内部抗争だなんてものすら起きるわけである。幹部がほんの少し外に情報を流そうと、目零しされるどころか気付かれもしないのが関の山だ。

 兄と共にあちらこちらを回って金を取り立て、人を殺し、誰かを不幸にする。銃弾一発で人は死ぬのだとこの十二年間で何度も身に染みて理解してきた。当たりどころが悪く一発で死にきれず苦しむ人間を見れば、あの日のリコはどれほど苦しかったのだろうと漠然と思う。だからなるべく一発で殺してやるようにしている。


 頬に飛んだ返り血を拭い、鉄臭さと硝煙の匂いに鼻を鳴らす。ヅカヅカと遠慮なく血の海を踏み付けて乱雑に積み上げられたデスクから目当ての書類を探す兄を横目に、革張りのソファーに座り込んだ。自然とため息が口をつく。緩慢な動作で振り返った兄はしばらくこちらを見つめてから、口角を上げてお手本のような笑みを作る。

「疲れたか?」
「いや、別に。早く寝たいだけ」
「……ふーん」

 早く寝たい理由に当たりはついているのだろう。すんと真顔になって手元の書類を漁る作業に戻る。探し物は兄の方が得意だ。だから仕事用の携帯を取り出して、届いていた事務連絡に返信をしていく。この後の殺しはパス。反社が定時退社なんて笑えることだが、出来るだけ長く眠っていたいのだ。余計な仕事はしたくない。
 オレが定時退社を強く望んでいるということは既に組織内では知れた話であり、特に幹部ともなれば誰もがそれぐらいは知っている。だから兄はともかく、オレには元々期待もしていなかったのだろう。返信後直ぐにお前ではなく兄はどうなんだと返ってきた。仕方が無いので兄に問うてやる。

「兄貴、この後もう一件どうかって」
「予定入ってるからパスって言っとけ」
「ん」

 そういえば今日は久々にリオとサシで飲むと言っていたっけか、と考えながら、そこまでは伝えてやる義理もないのでそのまま用事があるからパスとだけ送る。既読がついて以降返信はなし。まあこんなものだろう。
 兄にだけ働かせるのはどうかと思うが今更立ち上がるのも面倒なので、暇を潰すために私用の携帯を取り出してそちらも連絡が来ていないか確認する。四件の通知が来ていた。特に理由はないが一番上から開いて確認していく。


 感情を匂わせないが硬すぎもせず砕けすぎてもいない文章に目を通し、思わず口角が上がるのを自覚する。どうやら無事に逃げ仰せたらしい。出国の手助けや逃走経路の手配ぐらいしか出来なかったが、上手く行ったならそれは良かった。
 ここからは国内で適当に目撃情報を散らした後に国外でも情報を撒き、その計画が成功することを祈るぐらいしか出来ることはなくなるだろう。血の繋がらない姉に似たその行動力に敬意を評し、もしかしたら義兄と義弟になれていたかもしれない自分たちの曖昧な関係にも区切りを付けるため、最後までサポートすることはとうに誓っている。もしもリコが生きていたならば、絶対にそうしていただろうからだ。

 計画の無事を祈る文章の後にもう連絡は寄越すなと書き足し、そのまま送信する。既読がつくかどうかも確認せずに会話履歴を削除してそのアカウントも削除した。足がつく可能性を少しでも減らすため、この携帯も明日には処分しなくては。

 次に届いていた警察関係者からの連絡にも無難な言葉と情報を返しておく。近々組織が丸ごとひっくり返るはずだ。狙うならその時だろう。
 返信に悩んだのはその次の連絡だった。年に一度や二度の挨拶程度しか言葉は交わさないが、これもまたリコの繋いだ縁だと互いの連絡先だけは通信媒体を変えても伝え続けていた。リコに代わって一つ頼み事をしていたのもある。今回の件は、その頼み事に関するものだ。

 伺うような返事をしたもののすぐに既読がついて返信が寄越され、しばらく応酬を続ける。明確な一言が返ってきたタイミングで兄から声が掛かった。懐に携帯を仕舞いながら顔を上げる。

「見つかったから帰んぞ」
「だいぶ時間かかってたけどそんなゴチャゴチャしてたのかよ」
「見りゃ分かんだろ。整理整頓が出来ねえ奴だったらしい」

 辺り一面に投げ捨てたように散らばっている資料が血を含んで赤くなっているのを指差し、兄は笑う。それから資料を踏み付けるようにして血の海を渡り、玄関マットで丁寧に足を拭きながら声を掛けてきた。

「嬉しいことでもあったか」
「は?」
「そう言う顔してるぜ、竜胆」

 下に向けていた顔を上げてこちらを見てニヤリと笑う兄に、思わず口元を手で覆い隠す。ニヤケが抑えきれて居なかったらしい。恥ずかしいな。

 なんて返そうか迷ったのだが、兄はそこまで聞く気は無いのか早く行くぞと言って資料をひらひらと振りながら、扉を開いて外へと出ていく。慌てて立ち上がってその背を追った。今日の運転はオレなのだ。
 オレより少し大きく感じる背を追って階段を下りながら、先程答えられなかった問に言葉なく答える。


 そうだよ、兄貴。リコの大親友から連絡があったんだ。別にそれが嬉しいわけじゃなくて、その連絡の内容が嬉しくてさ。

 花垣武道が、リコのことを探ってるみたいなんだよ。


 +


 悪夢がリコとの逢瀬に変わってから、目覚めるその瞬間こそが地獄に変わった。

 目覚める度にリコは死んだのだと突き付けられる。腕の中で冷たくなっていったその体すらもがもう手元に存在しない。夢の中でなければ二度と触れることも出来ないのだ。リコのあの瞳がオレを見つめることなんてもう二度とない。あの声がオレを呼ぶことも、もう二度と。
 カーテンの隙間から漏れ込む陽射しが苦しみを呼び寄せる。朝を迎えることなく死んで行った愛した女。朝焼けが似合っていた。星も届かない夜の暗闇なんかではなく、どうせ死ぬなら朝焼けに包まれて死んでいって欲しかった。いいや。死なないでほしかった。

 初日の出を見に行った時、寒さに負けて赤くなった鼻の頭と頬を恥ずかしそうに笑いながら指差して、オレの名前を呼んで、赤くなってると呟いたのだ。お揃いと照れ臭そうに、それでも嬉しそうに笑う横顔が朝焼けに照らされていた。長いまつ毛はほんのり影を作って、寒さに震えていた。吐き出された白い吐息すら愛おしかった。

 こうなってから知り合った人間に気晴らしに女でも抱けばいいと言われた時、笑ってしまった。笑えて笑えて仕方がなくて、なるほど確かにそれもありかもしれないと思ったのだ。結局無理だったけれど。

 宛てがわれた女は背の低い体の華奢な、恐らく世間的にいえば可愛らしい顔立ちをした女だった。最初は特に何も思わなかった。ああ、今からこれを抱くのかとそれだけ。腕に触れられたその瞬間に、頭の中であの愛おしい声に名前が呼ばれるその時までは。
 命乞いすら聞く間もなく女を撃ち殺してその血を頭から浴びながら、死体を呆然と見つめながら、そこでまたオレは気付きを得た。歓喜のあまり震える手で頬に飛んだ血を拭い、嬉しくて嬉しくて泣けて仕方なかった。

 ああ、リコは今でもオレの中にいる。永遠にオレを呪ってくれている。

 それからは何もかもに躊躇いがなくなった。女は抱けないままだったけれど、他は大抵問題がない。殺すこと、奪うこと、不幸にすること。その全てに躊躇うことも、抵抗を覚えることもない。どうせならどこまでも堕ちてしまおう。そちらの方がきっと目印になりやすい。


 今朝も目覚めの地獄の中で、あの日のことを思い出す。兄と慕った男を庇って、撃たれて、呆気なく死んでいったリコ。銃声が響いた瞬間、声も出なかった。倒れ込んだ体を奪い取るようにして抱きかかえた時に、やっとその名前を呼べたのだ。痛みに喘ぐような呼吸をしながら、血を吐きこぼしながら、出会ったあの日のように笑って見せた。

 いつもはすんとした真顔でいることが多いのに、オレの前ではよく笑ってよく泣く女だった。待ち合わせをした駅前で、何もかもを跳ね返すような不機嫌な真顔でいたくせに、オレを見た瞬間に幸せそうに笑うのだ。オレを呼ぶ声はいつも優しくて暖かかった。名前を呼ばれる度に、自分の名前を好きになった。
 泣きたい時だって分かりやすくて、何もかも溜め込んでいるのはすぐに背中や態度に出る。だからそういう時は抱き締めて名前を呼んで、オレはそばにいると何度も囁いた。そばにいる。離れたりなんてしない。強くなくていい。弱くたっていい。オレの前では弱くていいから。

 最期の時まで泣きながらも笑っていたんだから、リコはずっと変わらないままだったということなのだろう。誰かのために自分を投げ出せる。きょうだいのためならば命すら捨てられる。

 そして最期のその時まで、ずっとオレから目を離したりなんてしなかった。向き合うことから逃げない。逃げられない。その全部が好きだった。愛していた。そして何度も、その全てを失ってくれればいいのにと祈った。

 余計なものばかり引き寄せる。面倒で厄介な問題ばかり引き寄せて、リコはいつだって死に愛されていた。生の象徴のような活動的な女だったのに、いつだって問題ごとに巻き込まれて怪我ばかりして、何度だって死にかけた。そして最期はこの腕の中で呆気なく死んでいった。


 長兄が死んで、妹も死んで、だからもう一人の兄は自分が死んででも庇う。そのきょうだいたちは皆血の繋がらないきょうだいだ。お互いがきょうだいと名乗りあっていただけ。きょうだいのように過ごしてきただけ。きょうだいのように愛し合っていただけ。それだけなのに、きょうだいはリコの全てだった。
 そしてきょうだいたちも同じようにリコを愛していた。だからだ。あれからダメになったのは何もオレだけではなかった。これがリコの守りたかった景色なのかと思えば笑ってしまうぐらい、きっとリコが生きていれば酷く怒った後に泣いたのだろうなと考えるまでもなく分かってしまうぐらい、現実は悲惨だ。

 庇われた兄は、イザナは、記憶に蓋をすることでしか自分を守れていない。その癖して死んでいった愛しいきょうだいたちを忘れることなんて出来ずに、残ったきょうだいたちに執着している。全員が全員血が繋がってなんていないのに、死んだ三人を起点にして四人は今でも依存と執着と愛を捨てきれずにいる。離れられず、離せず、咎められずに今日までずっと、苦しみの中で生きている。
 オレにはその四人をどうにかすることなんて出来るはずもなかった。出来るのは、リコならこうしただろうという己の考えに従ってそばにいるか、支えるかすることだけ。その役目ももう終わったけれど。

 イザナが忘れながら狂っていたんだとすれば、マイキーは、マンジロークンは忘れられずに狂っていった。自分がおかしくなっていく自覚がずっとあったのだろう。止められた人間はもういない。狂っているか、死んでいるかだ。残されたきょうだいたちでは傷の舐め合いこそ出来れど、止めることなんて出来るはずもなかった。
 だから手を貸した。会うことはしなかったけれど連絡は取り合って、終わりたいと望むなら終わりにしてやるべきだと国外へと逃がした。きっともう会うことは無いのだろう。いや、もしかしたらがあるかもしれないけれど。


 またやってきた眠気に身を任せつつ、きょうだいを深く愛するところも好きだったと思い出す。忘れていたわけではないけれど、浮かび上がってくるのだ。長兄と妹を失った時点で諦めてくれれば良かったのにという手遅れな願いと一緒に。


 +


「マイキーが死んだ」
「へえ」
「花垣武道のせいだ……アイツのせいで俺はまたきょうだいを…………」

 やっぱりの次に、やっとかと思った。震える手で携帯を取り出して電話相手のリオに叫ぶように泣き喚いているイザナを見ながら、浮かぶ笑みを隠すために口元を手で覆い隠す。歓喜のあまり手が震える。

 イザナの隣で呆然としている鶴蝶と目が合った。ゆっくりとその目が見開かれていく。それから鶴蝶はイザナとオレを順繰りに、それこそ迷うように見つめて、何も言わないことを選んだのだろう。そっとイザナの背に手を置いてオレから目を逸らした。
 鶴蝶ならオレを見逃してくれるだろうと思っていた。リコの影響を一番受けていたのに、客観的にリコを見れていたのは鶴蝶だ。リコが死んでからのオレをきょうだいたちの中で一番きちんと見ていたのも鶴蝶。だからこそ、オレを見逃すだろうと思っていた。


 蹲って、記憶から消したはずの十二年前に死んだきょうだいたちの名前すら呼びながら泣いているイザナの背を撫でる鶴蝶と、それを呆然と見下ろしている兄を横目で見てから踵を返した。口元を覆い隠していた手で私用の携帯を取り出して、電話帳を開いて比較的上の方にいるその名前を押す。間を置くでもなく電話に出た相手を呼ぶ声が歓喜で震えた。

「もしもし、大寿? オレだよ、竜胆。花垣武道が動き出した。お前に会いに行く可能性が高い。もしも会ったら手筈通り、すぐに連絡を」
『……了解した。佐野万次郎はどうなった』
「無事に逃げ仰せたよ。羨ましい……また後で詳細は連絡する」

 慣れた気配がする。まだ話したいことがあったのだが、足を止めて電話を切って振り返ればやはり、真顔でこちらを見る兄がいた。だらりと降ろされた手が握るのは拳銃ではなく携帯だ。誰かと連絡をしていたのだろう。
 真顔ではあるが、これまでずっと一緒に過ごしてきたんだから言葉を探していることは分かる。促すように軽く首を傾げれば、ぐしゃりと表情が歪んだ。らしくもない顔だ。思わず笑ってしまう。

「マイキーを逃がしたのか」
「ああ。逃げたがってたから」
「……イザナはアレだ、まだいい。稀咲に殺されるぞ」
「オレのことも? 笑えるな。いいよ、殺したいなら殺せばいい。もうずっと厄介には思われてただろうし」
「竜胆、話を聞け。お前、この件以外にも外に情報流してるんだよな。このままじゃそれも含めて足がつく。そう長くは持たない。それぐらい分かるだろ。お前は何をしようとしてる?」
「兄ちゃんこそもう分かってるだろ。マンジロークンは死んだ。オレはリコならこうしただろうって思って逃がしただけだ。オレが逃がさなくたって誰かが逃がしただろうよ。そもそも逃がさなくたって、花垣武道はマンジロークンに辿り着いた」
「……目的は花垣の方か」
「そういう訳じゃあない。でも花垣武道は目的のひとつだ。オレはアイツに会って話をしなきゃいけない」

 託せるのはもうアイツだけだ。本人は託されるつもりなんてないのかもしれないが、そんなのは知ったことではない。気付きを得てからずっと、アイツがリコのことを探り出すのを待っていた。
 兄は分かりやすく顔を顰めて、幼い子どもに言い聞かせるかのようにオレの名前を呼ぶ。これまで一緒に生きてきた己の半身。離れれば生きていけないんじゃないかとずっと思っていた。でもオレたちと同じように一蓮托生を名乗っていたあの兄妹だって、妹を失ってもその兄は今日までずっと生きている。リコがいなくてもリオが生きていけているように、オレがいなくたって兄は生きていける。
 手筈は整っているのだ。リオはかなり渋ったけれど、もしもオレになにか会った時には兄を連れて逃げると言ってくれた。一蓮托生のきょうだいたちの片方ずつが欠けるなら、残された片方ずつが補い合えばいい。簡単な話だった。


 いくら言葉を尽くしても無駄だと分かったのか、兄の顔が絶望に近い色に染まる。何故そんな顔をするのかは分かる。これまでずっと、この十二年間ずっと迷惑をかけてきた。リコを失ってまともじゃなくなったオレのそばにいてくれたのは兄だ。目覚めの地獄の中で苦しむオレの名前をいつだって呼んでくれたのも、兄だ。もちろん感謝している。愛してもいる。でも。

 今度はオレが兄に言い聞かせる番だった。

「馬鹿な女だよな。オレが居なきゃ生きていけないって言っておきながら、オレはどうなのかなんて気にもせずに死んでった。オレのことを愛してるって言っておきながら、何かあったら殴ってでも止めるなんて言いながら、結局オレを置いていった」
「……」
「残していったのは呪いだけだ」
「あれは呪いなんかじゃない」

 間髪入れずに否定してきた兄に、思わず笑ってしまう。呪いなんかじゃない。そうだよな。そうなんだよな。分かってるんだよ。そんなこと、もうずっと分かっていた。

「ずっと前から、知ってるよ」

 オレを呪えるほど器用な女じゃなかったことぐらい知っているんだ。


 +


 忘れることはしなかったし、他の誰かを愛することもしなかったし、幸せにすることもしなかった。普通に生きることなんて出来るはずもなかったし、真っ当なんて言葉とは程遠いところで生きている。


 最初に約束を破ったのはオレだった。出会ったばかりの頃の、ただの友人としての約束。逮捕される前に公衆電話から連絡を入れた時、リコは泣いていた。最初に約束を破ったのは竜胆くんなんだからねと繰り返して、それでもオレに会えないのが悲しいと、声を押し殺すようにしてずっと。

 その次に約束を破ったのはリコ。無茶はしないと言ったのに無茶をして、イザナに殴られて、入院沙汰に発展した。あの時は肝が冷えたものだ。その後だって無茶はしないと何度も約束したのに、その度に破って、今思えば約束を破ることばかりの女だった。その癖して、果たせなかった妹を守るという誓いに報いるようにして兄を庇って死んでいったのだから、本当に馬鹿な女だ。

 お前の守った兄は今、お前の死に心をズタズタに引き裂かれてダメになって、それでも死ぬことなんて出来ずに苦しんでいる。庇われたイザナだけじゃない。鶴蝶も、リオも、オレも。一抜けしていったマンジロークンも、ずっとお前を探していた。そうして残されたオレたちはずっと苦しみの中で、お前の影を追って生きている。


 夢の中ではリコが会いに来てくれる。悪夢はオレたちに唯一許された逢瀬の時間だ。死にゆくだけの愛した女を抱き締めて、途切れ途切れのその声に耳を澄ます。暖かな瞳。愛しさを滲ませたその声。眠っている間だけは、リコはオレのそばにいてくれる。それが一番目の気付きなんだとしたら、二番目の気付きは最後に残されたあの呪いにあった。
 兄の言う通り、アレは呪いなんかじゃない。そんなことオレだってとっくに分かっていた。オレに何度も告げられた愛の言葉が嘘偽りのないものだったことなんて、他ならないオレが一番分かっている。不器用な女だ。オレを呪うことなんて出来るはずがなかった。そんなところも含めて、何もかもを愛していた。

 アレは約束だ。愛した女が、リコがオレに残してくれた、約束。自分は約束を破って死んでいったのに、オレにはいくつもの約束を残してくれた。血の繋がらないきょうだいのために命を投げ出して、その癖して最後に残したのはオレへの一方的な約束だった。きょうだいたちへも家族へもなんの言葉も残さずに、どうせそんなこと無理だと分かっていただろうに、約束だけを置いてオレの腕の中で死んだのだ。

 リコが死んで数年経ったあの日。宛てがわれた女を抱こうとして、腕に触れられたその瞬間。頭の中であまりにも鮮明にリコの声が響いた。他の誰かを愛して、幸せにしてあげて。その声が聞こえた瞬間に、引き金を引いていたのだ。ああ、そういう事だったのかと。


 そこからはもう一瞬だった。殺すこと、奪うこと、不幸にすること。その全てが全て、いつの日かリコに叱ってもらうための材料にしかならない。
 オレが次にまた何か罪を犯すなら殴ってでも止めるといつかのリコは言ってくれた。それと一緒なのだ。人を殺して、誰かを不幸にして、残された約束は全て破る。リコの愛してくれたオレから掛け離れようと、絶対にあの約束を守ったりしない。


 だから、だからどうかせめて、オレを叱りに来て。
 死んだ後でいい。地獄の底でいい。殴って詰って、許さないでくれたっていい。もう全部嫌いだと突き放されてもいい。それでもいいから、もう一度だけでいいから、リコに会いたい。


 リコがオレが居なきゃ生きていけないと泣いたように、オレだってリコが居なきゃ生きてなんていけなかった。そばにいてくれなければ、真っ直ぐ歩くことさえ出来なかった。手を引いて歩いてやるふりをして、手を引かれていたのはオレだ。リコが死んでそれに気付いた。もう二度と会えなくなってから、ようやく気付けた。

 文字通り全てを愛していた。そしてきょうだいたちのためならば何もかも投げ捨ててしまえるその愚かさを、ひたむきな愛を、愚直なまでの信念を、憎んでいた。何度も何度も何度も願ったのだ。どうかそんな感情捨ててしまってくれ。どうかオレだけを見てくれ。どうか、己を投げ出すようなことはもうやめてくれ。
 オレの居ないところでばかり死にかけて、オレに話が届いた時にはもう事は終わったあと。手術室の前で手を組んで信じてもいなかった神に祈ったこと。管に繋がれて刻々と眠り続けるその手を握って目覚めを信じたこと。目を開けてきょうだいたちに笑いかけるその姿に、本当に監禁でもして閉じ込めて飼い殺してしまおうかと幾度となく考えたこと。

 腕の中で死にゆくだけになったその柔い体を抱き締めた時に、結局こうなってしまうのかとどこか冷静な自分が現実逃避をしていた。肝心な時にはそばにいられないのだ。もう何もかも終わった後にしか、全て手遅れになった後にしか、その体を抱き締める権利すら与えられはしなかった。


 そんなリコがオレに残してくれた約束を呪いに変えて、今日までずっと、いつかリコに叱ってもらうためだけに生きてきた。何もかも約束を破っても、最後のひとつだけは守り抜いてここまでやってきた。でももう、良いだろう。


 仕事だ、オレとはそちらの国で集合だと言って無理矢理日本から追い出した兄からひっきりなしに寄越される連絡を全て無視して、リオからその合間に送られてくる連絡もまた無視する。メッセージだけは確認しておくかと二人分のトーク画面を順に確認していけば、早まるなだとかリコはそんなこと望んでいないだとか、そういう言葉ばかりが並んでいた。
 二人がそう言うのならばきっと本当にリコは望んでなんていないのだろう。確かにそういう優しい女だった。最後の最後で望んでもいないことを口にしておれの幸せとやらを願ってしまうぐらいには、優しくて馬鹿で、愛しい女だ。


 兄を国外に送り出し、その元にリオもいる時点でやり残したことはもうほとんどない。マンジロークンの逃亡にも手は貸したし、逃げ切ったことも確認した。イザナはきっと鶴蝶が無理矢理にでも支えて、いざとなったらその手を引いてどこまでも逃げるだろう。
 あとやり残したことといえば、二つだけ。全身鏡の前で身支度を整え、あの日リコに贈ったラピスラズリのネックレスにひとつ口付けを落としてから胸ポケットに仕舞い込む。形見分けとして譲ってもらいはしたが、これはもうずっとリコのものだ。瑠璃の名を付けられた美しい女。この世の何よりも一番愛した、ただ一人の愛しい人。これさえ持っていればきっと、リコはオレを見つけてくれる。


 もう夕方を越えて夜を迎えたこともあってか、街には家族連れはチラホラとしかいない。車を運転しながらもそれを見る度に、オレたちにもこんな未来があったのかと思う。籍を入れて家族になって、子どもに恵まれて、休日はこうやって連れ立って歩く。これまでに接する機会がなかったからか子どもはあまり得意ではない。でもきっと、リコに促されて首も座っていないような赤子を抱く未来だって、オレたちにはあったはずなのだ。オレたちが家族になれる未来だって、絶対にあったのだ。

 しかしリコが死んだ今となってはそれは夢物語でしかない。現実に訪れることは二度とない、ただのオレの願望だ。


 でもそのオレの願望を、あの日伝えられなかった言葉を、花垣武道ならばリコに伝えられる。

 魔法使いか、エスパーか、未来人か。いつかのリコはその三択をぶつけたが、答えは一番最後だろうとオレは確信している。リコ伝にオレとリオの連絡先を手に入れて、わざわざ高校まで会いに来たその足でオレとリオに頭を下げながら言ったのだ。リコちゃんと約束したんです。リコちゃんが幸せになるためには、竜胆くんとお兄さんが生きていなきゃ意味がないんです。
 あの頃は何が何だか分からず薬でもやっているのかと疑ったが、実際に命を救われてしまった以上認めざるを得なかった。アイツは何かしらの方法で未来を知ることが出来るか、未来から来ているかしていたのだ。恐らくその未来ではオレとリオが死んで、リコが潰れていた。だからオレたちを救って、リコも救って、恐らくマンジロークンを救う手立てを探していたのだろう。

 未来から戻ってきた花垣武道ならば必ずマンジロークンを探り、そしてリコのことも探るだろうという確信があった。その取っ掛りとして、大寿はちょうど良かったのだ。経営者として顔が知られているし、何よりその弟のことがあって以来大寿は目で見てわかるほどではないが塞ぎ込んではいた。オレが何も言わずとも、花垣武道から接触されれば断ることはしなかったはずだ。
 その大寿から花垣武道に接触されたという報を受けて、今こうして急いで家を飛び出してきた。イザナもその足取りを探っていただろうから、時間はあまりない。急がなければ、オレも花垣武道も殺される。


 大寿の経営するレストランの近くで車から降りて、そこからは足で歩いて道を進む。なんとなく当たりをつけて裏へ裏へと進んでいけば、そこに三人が突っ立っているのが見えた。その奥に二人分の人影が倒れ込んでいる。やはり時間が無い。ホルスターから引き抜いた銃を構え、左端の男の胴を迷いなくピッタリ三発撃ち抜く。

 倒れ込むその姿にぎょっとしたように振り返ったイザナと鶴蝶を無視して、踏み付けるようにして乗り越えて奥の人影を覗き込んだ。リコが長兄に似ているのだとしきりに言っていた瞳が見開かれる。

「よう、花垣。稀咲ならあと何分かで死ぬぞ」
「竜胆、くん……?」
「懐かしい呼び方だな……イザナ、鶴蝶。どうする、ここでオレを殺すか?」

 お前は数分も持たないだろうがと花垣武道に一言告げて、まだこちらを呆然と見ているイザナと鶴蝶を振り返った。イザナの目がオレと倒れ込んで途切れ掛けの呼吸を繰り返している稀咲とを行ったり来たりする。それから愕然と目を見開いて後退り、リコの名前を震える声で呼んだ。

 そう。リコが撃たれたのと同じ三発だ。苦しいだろう。それから痛くて辛い。痛いのも苦しいのも辛いのも嫌だと泣いたリコは、痛みと苦しみと辛さに苛まれて死んでいった。だから今、その全てを味わってくれ。そうして死んでいけ。お前に殺されたオレの愛しい女と同じだけ苦しんで、痛みを抱えて。

「竜胆……お前はずっと、この時を待っていたのか」
「ああ、そうだよ。オレの愛しい女で、お前の姉貴だ。仇はこの手で殺すとずっと決めていた。サツが来るぞ。イザナ連れてお前はさっさと逃げろ」

 言うまでもなく、鶴蝶は蹲って泣きながらきょうだいたちの名前を呼び出したイザナを抱え上げるようにして持ち上げて、それでも呆然とこちらを見ている。この組織もこれで終わりだ。マンジロークンは死んで、稀咲もこのまま死んで、イザナにはもう何かをする気力はない。泥舟と共に沈む必要なんてないのだ。早く行けと声を掛け、また花垣武道を覗き込む。


 握り込んだ銃の引き金に再び手を掛けながら、スーツの胸ポケットからネックレスを取り出す。見せつけるようにして目の前に掲げ、ラピスラズリだと聞かせた。

「お前、過去に戻れるんだろ」
「え……?」
「御託はいい。戻れるんなら、変えてくれ。二月二十二日リコは死ぬ。イザナを庇って稀咲に撃たれて、オレの腕の中で死んでいった」
「……竜胆くん、まさか、」
「それで伝えてくれ。オレはリコがいなきゃ生きてなんていけなかった。ずっと一緒にいたかった」

 己も死にかけながらもオレを止めようと声を上げる花垣武道を笑いながら、銃口をこめかみに押し当てる。そういうところがリコのきょうだいたちの長兄に似ているというのは、少しだけ分かってしまう気がした。


 最後の約束だ。今日この日までずっと仇を討つために、花垣武道に全て託すために、いつかリコに叱ってもらうためだけに生きてきた。十二年間ずっと、他の約束は破っても生きてというその約束だけは守ってきたのだ。


 なあ、リコ。オレを叱って。殴ってもいいよ。何したっていいんだ。嫌って憎んで、許さなくていい。泣いてもいいし、怒ったっていい。何だって受け入れる。何をされたって受け入れられる。

 だから頼むから、オレに会いに来て。お前のそばじゃないと息が出来なかったのはオレだ。お前がいてくれないと生きていけなかったのはオレ。リコがいないとダメだった。リコはオレの全てだった。

 優しくて馬鹿で、愛しい女。この世で一番愛した人。


「ずっと、愛してる」


 鶴蝶とイザナがオレを呼んでいる。馬鹿野郎、早く行け。リコの愛したきょうだいたちだ。まだお前たちは地獄になんて来るなよ。マンジローくんはもう仕方ない。でも地獄でまできょうだいたちにリコを占領されたらたまったもんじゃないのだ。


 引き金を引く。ラピスラズリを握り締める。愛しい女の名前をした石。その瞳の色の宝石。名前も瞳も声も姿も、何もかもを愛している。ああ、今更思い出した。その全てはもうずっと前からオレのものなのだ。


 リコ、お願いだ。またその声でオレの名前を呼んで。その瞳でオレを見つめて。オレの腕の中で目覚めて。リコがいなきゃ、生きていけないんだ。

幕間 鎮魂歌、或いは福音

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