祖父の住む別邸は、私たちの自宅からほど近い場所にある。徒歩五分掛かるか、掛からないか。普通の住宅街には似合わない和風の豪邸だ。
そちらに私と兄が──厳密に言えば私が呼び出されたのは、日曜日の昼過ぎのことだった。最初は私だけに来いと言っていたし私も一人で行くつもりだったんだが、ふと思い出したかのように祖父がそう言えば旨い肉があるからリオも呼べと言い出し、断る理由もなかったので頭を抱えながら受験勉強をしていた兄を連れ出して別邸に向かった。
結局兄はどんな闇の力が働いたのか、壊滅的な頭脳と生活態度で推薦を勝ち取った。しかし推薦で八割方合格は決まったと言え筆記試験もあるので、母によって勉強生活を強いられている。ストレスのあまり体重が結構落ちたらしい。笑った。
玄関の引き戸を開けて無遠慮にお邪魔し、靴を脱ぎ捨てて祖父の部屋を目指す。もう既に通い慣れた場所なので、私にも兄にも遠慮は一切ない。巨体を揺らして肉肉と歌いながら進む兄の背中に、クマたち夜ノ塵の幹部陣もなんだかんだ幼少期から通い詰めている場所ではあるが、まだ緊張が抜けないらしくここに来る度に肩に力が入っているのを思い出した。まあ見るからに祖父は堅気じゃないからね。
蘭ちゃんはこの別邸を自分の庭のように思っているらしく、たまに祖父と縁側で将棋をしたり日向ぼっこをしたりしているのを見る。さすがの私もそれには毎度毎度飛び上がって驚くが、まあそれも含めて日常風景というやつだ。まだ竜胆くんは祖父の前だと猫を被っていて礼儀正しくしている。
いくつかの部屋を素通りして奥まった辺りに辿り着き、兄はまた肉と叫びながらバシンと襖を開けた。食に支配されたモンスターかな?
「じいちゃん、肉」
「じいちゃんは肉じゃねえが」
「は? 肉食わせてくれんじゃねーのかよ」
「おいリコ、この馬鹿にどんな吹き込み方した? 肉は持って帰らせてやるから家で食え」
「家じゃ食えねーだろ! オレ今ダイエット中なんだよ!」
「ほーん、それはいい事だな。じゃあ佐野の家の方に持ってけ。イザナと万次郎なら食える量だ」
「ふざけんなオレの肉だ」
「デブお前そろそろ黙れ。お祖父ちゃん、デブがごめんね。おいデブ、お前いい加減にしろよ。肉だってお前に食われるよりイザナとマンジローに食われたいと思ってるわ」
喚いていたデブがすんと押し黙りしくしくとウザったらしい泣き真似を始めたので、その背を押して無理矢理床に座らせて私もその隣に座る。あぐらをかいて煙草を吸っていた祖父が、私と兄の顔を順繰りに見てから灰皿に押し付けて煙草の火を消した。私はさして興味が無いので祖父がなんの銘柄の煙草を吸っているかなんて知らない。匂いは重いけれど、死神とは違ってそこまで臭いと感じないのは多分幼い頃から繰り返された喫煙によって、祖父からはこの匂いがすると頭に刻み込まれているからなのだろう。
祖父は後ろ手に文机から何かしらの紙を取り、真顔で私に向けてくる。その真顔からして、きっと頼んでいた内容なのだろうと当たりをつけた。軽く頭を下げてから両手でそれを受け取って、兄にも見えるように体をそちらに寄せる。兄に紙の方は渡して私はクリップで上にとめられた何枚かの写真を手に取り、捲った。当たりだ。
無言で写真を捲る私と資料を読む兄とにじっと視線を向けていたであろう祖父は、数十秒経ってから重い息を吐き出した。兄が顔を上げてそちらを見たのが分かって、私は写真を隅々まで見つめ続ける。
「頼まれてたもんだ。それでいいな」
「うん。ありがとうございます。写真まで用意してくれると思わなかった」
「部下動かしてんだから写真ぐらい撮ってくるに決まってんだろうが。分かってると思うが、写真も報告書もここに置いていけよ。外に流れると面倒だ」
自分は機嫌が悪いですとばかりの声で祖父はそう言って、はんとひとつ息を吐き出してから私の名前を呼んだ。言外に顔を上げろと告げるそれに従って、大人しく祖父を見る。咎めるような視線を向けられても冷静でいられるのは、祖父に呼び出された時点でこの件だろうと何となく分かっていたからだ。
兄が無言で資料を寄越してきたので、受け取りながら写真を渡した。そっと資料に目を落とし、報告書と淡々と記されたそれを追っていく。やはり予想通りの事柄だ。
「動じねえな。片方はテメェのお友達じゃねえのか」
「お友達? ……うん、まあ。でも一応覚悟してたっていうか、そうだろうなって思ってたから」
お友達と言われると首を傾げてしまうが、親しくしている自覚はある。この一年近く週に二回は必ず顔を合わせていたし、都合が合えば休日に遊びに行ったりもしていた。大親友とはまた別のベクトルで親しいし、相性はいいのだと思う。
しかし、それとこれとは別だ。私たちの間にある感情を友情だと仮定して、その友情と別の感情を天秤に掛けた時に私たちは友情を切り捨てられる。私はきょうだいたちを選ぶし、アイツは稀咲を選ぶ。お互いそれぐらい分かっているのだ。
だからそんな分かりきったことで今更動揺していられない。
祖父は私の冷静な反応が面白くないのかまたひとつ鼻を鳴らして、煙草に火を付けた。燻る煙を目で追いながら、小さく息を吐く。やっぱりこうなるのか。
私のそんな感情を知ってか知らずか、兄は困惑したように私を呼ぶ。そうだよね。兄には何も告げずに、それどころか誰にも何も言わずに今回の件は私が勝手に祖父に頼んだのだし。
「例の稀咲鉄太と、それからこっちは半間だろ。どうしたんだよこれ」
「どうしたって、普通にお祖父ちゃんに頼んで調べてもらったの」
「チャカの流通現場張らせて?」
「うん」
兄がぐっと目の前に突き出してきた写真を顔の横に退けて、頷く。その通りだ。祖父に頼んで、祖父の部下を使ってもらって新宿で銃の流通場として知られるビルを張らせていた。
そこに入るのはヤクザや反社に成り切れない半端者ばかりだというのは私たち不良の間では知れた話で、稀咲が銃の調達をするならばここだろうなとタケミっちに話を聞いた時点で当たりをつけていたのだ。死神の知り合いのヤクザがそこに出入りしていることはずっと前から知っていたから、ここしかないだろうとすら思っていた。
しかしそこまで説明する義理も理由もないので再び押し黙り、手元の資料に目を落とす。警察を使って探らさたんだから、警察には既にマークをされている。二十二日の前に逮捕連行してくれないだろうか。出来れば穏便に済ませたいし、死を回避したいのだ。
「こいつらのこと逮捕する予定とかない?」
「出入りしか押さえられてないから、今はまだなんとも言えねえな。いざとなったら無理矢理檻にぶち込むことも出来なくはないが、今回の件はマル暴に花持たせるつもりだからなあ」
結局、逮捕する予定は今のところはない、と。
まあ二十二日に実弾ぶちかまして私か誰かを殺したら殺人罪で逮捕確定だと思うので、法の裁きを受けることになるのもほぼ確定かな。私も出来る限り死なない道を模索するつもりだが、きっと撃たれはする。死ぬか死なないかはもうその場での運次第だ。嫌な方向に吹っ切れてきたなと自分で思う。
祖父からの冷たい視線を受けて顔を上げ、何か言いたいことがあるなら言ってくれと軽く首を傾げてみせる。兄は何も言えなくなってしまったのか押し黙って写真を見つめ続けていた。
「どこでこれを知った?」
「……これとは」
「惚けるなよ。テメェは稀咲と半間、この二人が来るはずだっつったよな。そして実際に二人が来てる。どこでそれを知ったんだ?」
「……」
聞かれるだろうとは思っていたが、タケミっちの名前を出すわけにもいかないので押し黙る。適当に誤魔化してもいいのだが祖父にはすぐにバレそうだ。で、バレた時の反応が怖い。
祖父は非現実的なことを嫌いはしないが信じもしない人なので、タケミっちが未来から来て教えてくれたのなんて言ったって信じるはずがない。そもそもタケミっちは私を信用してそれを打ち明けてくれたのだし、人に聞かせるのもどうなのかという話だ。
改めて考えてみると、未来から来ただなんて信ぴょう性に欠ける話ではある。これまでに救われてきた以上信じないだなんて馬鹿なことはしないが、何も知らない初対面の状態でそんなことを言われたら流石の私ももう二度と近寄らないだろう。
現実逃避のようにそんなことを考えていたのだが、祖父にもう一度名前を呼ばれた。早く話せということだ。協力してもらった以上無言を貫くわけにはいかないので、何かしら言わなければならない。
ひとつため息をついてどうにかこうにか誤魔化すかと思い口を開いた時に、隣で押し黙っていた兄がふと声を発した。その言葉にぎょっとしてそちらを見てしまう。
「ちょっとお兄」
「やっぱり花垣なのかよ」
祖父の手前、それは違うとも否定出来ずに兄の腕を叩く。空気を読んでくれ。ここでタケミっちの名前を出したら下手に嘘をついて「普通」に引きずり戻されたら困る私は否定をできないし、祖父もタケミっちの存在に気付いてしまうだろう。
兄もそれに気付いたのか、あっと声を上げたものの時既に遅し。祖父は花垣ねえと復唱しながら私たちをまじまじと見つめている。
「花垣っつーと、アレか。タケミっちだっけか?」
「……」
「竜胆とリオが通り魔にやられた時も、そういや居たなあ。万次郎もソイツのこと話してたなあ?」
「…………」
「するとなんだ、ソイツがリコになにか吹き込んだっつーことか?」
兄と小突きあって責任を押し付けあっていたのだが、だんだんと責めるような口調になっていく祖父に視線だけで咎められて二人揃って動きを止め、お前が何か言えと言外にお互いを責めながら下を向く。
祖父はそんな私たちの小競り合いを無視して、あれやこれやとぶつぶつ言っている。これで私のきょうだいたちとの親交もある祖父は、骨折したシンイチローくんのお見舞いにも行っていたらしい。それもタケミっちの名前が出ていなかったかと詰問するような口調で尋ねられたので、はいと頷いた。
どこまでがセーフで、どこまでがアウトなのかのラインを見極めるのが難しい。タケミっちが未来を知っていると分かるような情報は完全にアウトだろう。シンイチローくんを助けたというのは、ギリギリセーフな気がする。祖父的にはアウトだなんだのと言い出すともうキリがないので、自分の判断でどうにかするしかない。
「どうにも怪しい気がすんだが、テメェらのその反応見るに勘違いでもないようだな」
「…………花垣は稀咲のこと探ってんだよ」
「なんのためにだ?」
「東卍引っ掻き回したから。花垣は東卍の壱番隊の隊長だ。ケースケに東卍を託されてて、そのケースケも稀咲を探ってた。跡を継いだ人間が先代の成し遂げられなかったことを成し遂げるのは珍しい話じゃねえだろ」
「ほう」
兄が祖父を言いくるめにかかったので、私もそこに乗ることにする。ケースケの名前を出したのはなかなか良かった。私とシンイチローくんが一虎に殴られて怪我を負ってからケースケをも良く思っていなかった祖父も、最近ではその態度を軟化させてきているのだ。特にケースケは真っ直ぐな子だから、祖父としてはそういうところが中々高ポイントなのだろう。
「稀咲はマンジローに拘ってるんだよ。マンジローを孤立させるためにケンチンくんが刺されるように誘導したり、一虎を良いように使って抗争を起こさせたりしてる。それに柚葉にナイフ握らせて大寿くんのこと殺させようとしたりもした。だからタケミっちと、今私たちが三つ巴になってる抗争でもなにかしてくるはずだって予想したの」
「それで次はチャカ持ち出す可能性もあるだろうと考えた、と」
「そうです」
兄と揃って頷けば、祖父はひとつ笑ってまた煙を吐き出した。肘をつきながらこちらを見てニマニマと笑っていて、どうにも気味が悪い。
信じたか信じていないか、丸め込まれたか丸め込まれていないか、裏をつくかつかないか。祖父の行動に関するところで今知りたいのはそれだけなのだ。
「テメェらも嘘つくのが上手くなったもんだな」
「……」
「でもそこで黙りこくるところは変わらねえ。良いだろう、騙されてやるよ。そのド下手くそな嘘に免じて、今回ばかりは見逃してやる」
嘘が上手くなったのかド下手くそなのかどっちだよと兄が小声で呟いたので、余計なことを言うなとその贅肉だらけの脇腹を抓っておいた。どこが脇腹かも分かったもんじゃないな。兄が呻いて飛び上がる。
祖父はそんな私たちの様子に笑いながら、もう一度煙を吐き出してゆるりと目を細めた。
「三月の終わりで引退するんだったな?」
「ああ。あと一ヶ月半ぐらいだな。綺麗さっぱり辞める」
「はい。リオが大学に進むタイミングで、私もチームを辞めます」
「ならいい。今回が最後だ。オレの孫たちはチャカ持ってる相手に無防備に向かってくような馬鹿じゃねえと信じさせてくれよ」
「……はい」
思わず一瞬返事に詰まれば、祖父は気付かなかったようだが兄が横で気配を揺らした。ぎょっとしたような視線を無視して祖父の方を見続ける。せっかく上手くいっているんだから余計なことはするなと祈ったのが通じたのか、数秒後には兄も揺らぎを鎮めて祖父の方に向き直っていた。
+
学校終わりに迎えに来てくれた竜胆くんと街を歩くのは久々で、なんなら竜胆くんに会えるのも久々だった。事前に決まっていた竜胆くんとの逢瀬に朝から浮かれすぎていたらしく大寿くんには気配からうるさいから消え失せろと何度もキレられたし、私も売られた喧嘩は買う主義なので、放課後には私たちの周りの予備の机までなくなっていた。悲しいね。
そんなこんなで嘆く教師とクラスメイトたちの畏怖の視線を無視してホームルームが終わるなりさっさと学校を飛び出してきたのだが、正門前で携帯を弄りながら待っている竜胆くんのかっこいいこと。この制服姿もそろそろ見納めなのかとは思いつつ自分の欲求に従って抱き着いて、驚いたように瞬きをしながらこちらを見た竜胆くんににっこりと笑ってみせた。
「気配消すの、また上手くなったな」
「特別なことは特にしてないけど、一応言われた通りに周囲に気ィ使ってるから、多分それかも」
竜胆くんはイザナからも私からも事の経緯を聞いているので、稀咲のやろうとしている事が何なのかは分からなくとも、その目的の一部は確実に私とマンジローだということは伝わっている。そもそも私は以前に稀咲は面倒な羽虫でストーカーみたいなものだと軽く説明していたし、納得も理解も早い方だった。
イザナと同じく私たちに危ないから稀咲には近寄るなと言ってきたけれど、こちらの回答としても変わらずまあそういうわけにもいかない。だから当日までは周囲に気を配りなるべく静かに過ごすということで妥協点を作り、私は竜胆くんにお目こぼしを受けている状態だ。以前告げられた監禁宣言はまだまだ時効を迎えていない。
ひとまず駅の方に行こうと歩き出した竜胆くんの手を勝手に握って緩急を付けて振りながら、その斜め後ろを歩く。目線が元から近いので歩く度に揺れる金と青の髪がよく見えた。冬の冷たい風が吹く度に揺れるその髪を見ていると、竜胆くんの全部が好きだなあと思う。何十回か、何百回かの気付きだ。
「どっか行きたいところあるんならそこ行くけど」
「久々に会えたんだから私は竜胆くんと一緒に居れればそれでいいや。竜胆くんこそ行きたいところとかある?」
「オレもリコと一緒に居られればそれでいいよ」
思わず足を止めそうになってしまって、無理に体を動かしたのでつんのめる。間抜けな声を上げてその手を引っ張ってしまったせいで、竜胆くんも驚いたように振り返って私を見た。その名前の色の瞳が、どこか咎めるような感情を灯しているのがわかる。もしかして引っ掛けだったかな。
しばらく見つめ合う。誤魔化すように笑ってどこに行くかと聞いてみたけれど、何も返ってこなかった。手を握りあって立ち尽くしたまま、耐えるように竜胆くんの視線を受け止める。もう何を言ってもダメな気がするのは勘違いだといい。
竜胆くんの言葉に動揺してしまったのは、単純にタケミっちが未来の竜胆くんから託されたというあの言葉を思い出したからだ。私のそばにいられればいいと言う言葉も、私が一緒でなければ生きていけなかったと言う言葉も本音なんだと分かってしまったから、余計に苦しくて、ああやっぱり死にたくないと思ってしまう。竜胆くんを置いて死にたくない。死ねない。
そんな私の考えを知ってか知らずか顔を顰め、半身振り返っていた状態からしっかりと全身をこちらに向けて私に向き合った。両手首を握られて、逃げることは許さないとばかりに距離を詰められる。
「オレに隠し事してるだろ」
「隠し事っていうか……悩み事?」
隠し事はしないと約束した。だから、なるべくしないようにしている。嘘じゃない。
それにこれは屁理屈だけれど隠しているというよりかは悩んでいることであって、私は分かりやすいそうだから何かしら悩んでいることはバレバレなんだろう。だから隠しているのかと言われれば別に隠してなんてないよと返せる。分かりやすく悩んでるもの。
そこまで言わずとも私のその屁理屈としか言い様のない考え方に気付いたのか、竜胆くんは大きくため息をついた。適当言うなとばかりに睨まれたので、目を逸らさずに軽く肩を竦めて返す。
「それ、オレには話せないことなのかよ」
「話すのが怖いこと」
そう返せば、竜胆くんは押し黙る。私の言う話すのが怖いことがどんなことなのかと予想している顔だ。ろくな事じゃなさそうと小さくこぼされたので、曖昧にそうかもともそうかなとも取れるような言葉を返しておく。ろくな事じゃないのは確かだ。
心配そうな視線を私に向けてくる竜胆くんを見ていると、結局、やっぱり好きなんだよなあというところに思考が行ってしまう。こうやって私の心配をしてくれるところも、それでも私の意思を尊重しようとしてくれるところも、全部好きだ。優しい人。大好きな人。愛しい人。
そんな大切な竜胆くんが、私が死んで生きていけなくなってしまうのはやっぱり悲しいし、辛いし、嫌だった。竜胆くんが私の幸福を願ってくれるように、私だって竜胆くんの幸福を祈っている。たとえそばにいるのが私じゃなくて、その隣に別の誰かが居たんだとしても。私はもう、死んでいたとしたって、ずっと。
欠片も本心ではないけれど、別れようと言ったら竜胆くんはなんて言うんだろう。私の意を汲んでくれるのか、怒るのか。どうしてそんなことを言うんだと追求されるかもしれない。うん、そんな気がする。竜胆くんが私を愛してくれていることは、今でも不安にならなくもないけれど痛いぐらいには分かっているつもりだ。
私は竜胆くんが好き。竜胆くんのそばで生きていきたい。でも、そう遠くない日に死ぬかもしれない。その私が死んだ先の世界で、竜胆くんが私と過ごした日々に囚われて生きていけなくなるのはどうしようもないぐらい嫌だった。傲慢だとは分かっていても、やっぱり竜胆くんには生きていてほしい。
取り返しのつかないことになりそうだけど、ここで別れを告げてみようか。私なんて忘れてよと全く思えそうにもないことを言ってみて、なんで別れたいのかと聞かれたら別に好きな人が出来たからとか在り来りで、でも私にはありえないことを言ってみたりして。
そうしたら、ここで全部終わりに出来たら、竜胆くんは私が死んだって生きていってくれるのかな。
「竜胆くんはさ、置いていかれるの置いていくの、どっちが怖い?」
「……は?」
「手放すのと手放されるの、どっちが嫌?」
私は全部怖くて、全部嫌だよ。
竜胆くんのそばにいたい。その隣で生きていきたい。この先もずっと、竜胆くんと一緒がいい。その全部が好きだ。たまにイラッとする時もあるし、そういうところどうにかしてよと怒りたくなる時もある。嫌いなところをあげてと言われたら、多分なんだかんだ言いつつあげられる。
でも結局、その嫌なところも直して欲しいところも、全部引っ括めて竜胆くんが好きだ。ずっと好き。何もかもが好き。竜胆くん以外の誰かにこれ程恋をすることなんてこの先一生ない。竜胆くんの全てをいつだって愛している。
愛しているからこそ、竜胆くんには生きていてほしい。きょうだいたちを庇わないのは無理だ。きょうだいたちのことだって愛している。私の全てだとすら思う。竜胆くんへの愛と、きょうだいたちへの愛はやっぱり違くて、でも同じぐらいに重い。
私の中できょうだいたちのために命を投げ出すことと、竜胆くんのそばで生きていたいと願うことは両立することが出来る。出来てしまっている。そのふたつの愛に優劣をつけることは、出来ない。
私が竜胆くんにここで何か酷いことを言って怒らせて、それで竜胆くんが私を嫌いになって離れていってくれるなら、きっと私は竜胆くんを躊躇いなく傷付けられる。私が死んでざまあみろって笑ってくれるならそれが本望だ。私のことを忘れて生きていってくれるなら、私がそばにいられなくたって別にいい。感情はともかくとして、頭ではそう思っている。
置いていかれることより置いていくことの方が怖くなった。だから置いていくことになってしまう前に、ここで手放したい。竜胆くんに私がいなくたって生きていってもらうために。
ぎゅっと苦しそうに眉を寄せて竜胆くんは私を見ている。その顔で見つめられていると、だんだん笑えている気がしなくなってきた。私はもしかしたら今、自分でも気付かずに泣いているのかもしれない。
「それがリコの悩み事?」
「…………まあ、そんな感じ」
「嘘だろ」
声が震えそうになるのをどうにかこうにか鎮めて何とか返したのだが、取り付く島もなく吐き捨てられた。やっぱり分かってしまうらしい。懸命に笑顔を取り繕う。
竜胆くんはそんな私を怒ったように見下ろしながら、不機嫌さを隠しもせずにまた口を開いた。
「オレは全部嫌。前にも言ったよな。オレはもうこの先二度と、絶対にリコを離してなんてやらない。オレから離れていこうとするんなら外に出さないし、足だって潰す。きょうだいにだって会わせない」
「……」
「何言われたって別れないし、お前をもう離さないから。嫌いだって言われても今更手放せない」
別れたりしないからと再び繰り返されたその言葉に、思わずそこまで分かるんだと呟いてしまう。分からないわけないだろと返ってきた。
「なあ、悩んでるならオレに話してくれよ。一人で抱え込むなって」
「……ありがとう、ごめん。でも今は話せない」
「じゃあいつ話してくれんだよ」
「いつか。きっといつか、話すよ」
来るかも分からないいつかだけれど、話せるんならちゃんと話す。約束する。
だから今は、竜胆くんに何も話せない私の弱さを、あなたの言葉があったとしてもあなたを手放すことばかりを考えている私を許して欲しい。突き放して、あなたが私を忘れて生きていくことを望んでいる。私がいなくたって笑って生きていって。私以外の誰かを愛して、幸せにしてあげて。
全部本心なんかじゃないけれど、でも確かに望んでもいるのだ。私にとっての幸福は竜胆くんのそばで生きていくことで、きっと竜胆くんにとっての幸福もそれに近い形をしている。だけど、今ここで竜胆くんを手放せばその幸福の形はいずれ変わっていくのではないかと思ってしまっている。
少し不満そうにしつつもひとまずは納得してくれたらしい竜胆くんが再び私の手を引いて歩き出したので、大人しく手を引かれて歩く。身長はほとんど変わらないのに私よりも広い背中を見て、いつか私以外の誰かがこうやって竜胆くんに手を引かれて歩くのだろうかと思ってしまった。この悲しさや寂しさは、今捨てておいた方が良い感情だ。
「竜胆くん」
「ん?」
半身振り返った竜胆くんが、私を見て首を傾げる。何か言いたいのかと尋ねるその目を無視して、パッと手を振り解いてその首に腕を回した。擦り寄るようにして抱き着いて竜胆くんの名前をまた呼ぶ。
どうかしたのかと聞きながらも、竜胆くんは私の背中に腕を回してくれた。そのまま背を撫でながら私の名前を呼んでくれる。その手が暖かくて、泣き出しそうだった。
あなたが名前を呼んでくれるだけで、私は私を許していける。弱い私を愛して生きていける。それがたとえ残りひと月に満たない期間だったとしても、あなたの声に勇気をもらって生きていかせて。
ねえ竜胆くん、お願い。お願いだから、私が死んだって、あなたは私との全部を捨てて前を向いて生きていってよ。
本心と見栄と嘘がごちゃ混ぜになったそれは、結局言葉には出来ないままだ。
デブと鋏は使いよう