たまたま早く目が覚めて、準備も終わって、何となくもう家を出ようと思ったから兄を置いて出てきた。別に兄が遅くに起きたわけじゃないけれど、本当になんとなくで一本か二本か先の電車で私はシンイチローくんを迎えに行くことにしたのだ。
 眠くもないのに出てきた欠伸を噛み殺しつつ、駅を出て一度立ち止まって伸びをする。兄からのメールを開いて今電車に乗った、聞きたいことがあると書かれていることを確認してから歩き出した。聞きたいこととはなにかと返信することも忘れない。

 今から目指すはここの辺りでは一番大きな病院だ。私も何度か入院している、例のあそこ。あの怖い看護師さん元気かなあ。ケースケが退院してからは会っていないのだ。まあ入院なんてしないのが一番で、顔見知りの看護師さんなんて出来ないのが一番なんだろうけど。
 もう一度欠伸をしてからそういえばと思って携帯を取り出し、着信履歴を辿ってその名前を探す。昨日色んな人から電話が来たせいで履歴の下の方まで見ないとその名前がなかった。もう。大親友なんだから誕生日ぐらい祝ってくれてもいいのに。

 何回かのコールの後に応答拒否されたので、めげずに何度か掛けながら足を止めずに病院を目指す。私のしつこさをよくよく学んでいる大親友は、六回目の着信でげんなりとしつつも電話に出てくれた。どうせ出ることになるんだから一番最初に出てしまえばいいのに。

「おはよう。大寿くん知ってた? 実は私、昨日誕生日だったんだけど。まあ一昨日学校で話したから忘れたわけないよね」
『くだらねえ……要件はなんだ』
「いや普通に別になんにもないけど。なんで祝ってくれなかったのって責めるための電話だよ」
『は? そんなゴミみてえな事で二度と電話してくんな。切るからな』

 心底煩わしそうに大寿くんが言ってきたので思わず待って待ってと声をあげて、見えるはずなんてないと分かっていてもやめてよと手を振る。切らないでよ。暇だったんだから、電話ぐらいしてくれたっていいじゃん。そういえばかなりの大きさの舌打ちをされた。
 とは言いつつ切らないあたりが流石大親友だよなあと思ったのだが、こういう時こそ油断出来ないのだ。前なんて恋バナを振った時にずっと電話を切らないでいてくれたから、珍しいねと言ったら普通に携帯を置いて部屋を出ていたとかいうこともあった。だから今回は相槌を打たざるを得ないような会話を振ることにする。

「酷いよ大寿くん。覚えてたなら電話の一つや二つ、せめてメールぐらいくれても良くない?」
『テメェのために時間を使いたくねえんだよ』
「おめでとうの一言だよ⁉︎ 大寿くん、時間は有限とは言うけどね、大親友のために使う時間ぐらいキープしようよ!」
『今電話してやってるだろうが。文句あるならもう切る。二度とその声聞かせんな』
「待って待って待って、嘘! 嘘だから! ありがとう嬉しい、私のために時間を割いてくれて本当にありがとう!」
『黙れ』

 言わせておいて酷い奴だ。大親友が酷いこと言うよと泣き真似をしてみたら先程よりもキツい舌打ちをされたので押し黙り、そういえば昨日サボったけれど学校では特に変わったことはなかったかと聞く。黒龍を引退して不良活動から足を洗った大寿くんは、それでも大物なので学校まで大寿くん狙いの不良が押し掛けてくることも珍しいことではない。私目当てと大寿くん目当てで、これまで半々だったのが七対三の比率に変わったぐらいだ。

 数秒思い返すような沈黙の後に、大寿くんがひとつ声を上げる。学業に関することは基本的に聞けば教えてくれるのだ。放置しておいた方が後々厄介になってから巻き込まれて面倒だとそちらも学んでくれたらしい。まあそこを学ばれてしまった以上、私も面倒事になるより早く大寿くんを巻き込むだけだけどね。スピード勝負だ。

『明後日からの期末試験、数学は未受験者は留年だっつってたな』
「は⁉︎ えっ、明後日……えっ! 待って、範囲も分かんないんだけど!」
『知らねえよ。テメェでどうにかしろ』
「なんでそんな酷いこと言うの⁉︎ 大親友が留年してもいいの⁉︎ 昼休みの度に大寿くんの教室に押し掛けるよ⁉︎」
『……留年したら、テメェとは縁を切る』

 あまりにも残酷な宣告に酷いよと悲鳴を上げれば、煩わしそうに黙れと再び言われた。死ねくたばれの類は余程怒らせない限り滅多に言われなくなったけれど、最近はとにかく私の話を聞きたくないのか黙らせようとしてくる。困ったものだ。
 大親友の頼みだよと散々喚いて何度か黙れと言われても無視したことが幸をなしたのか、一際大きいため息をついた後に後でメールで試験範囲を教えるといってくれた。わーい。私の粘り勝ちってわけ。

 ああ、でも。私、そもそも明後日の期末試験まで生きているのかどうかが分からないんだった。死んでしまえば留年もクソもないのだ。
 大寿くんと話して上がっていたテンションが下がってきて、思わずため息をつく。

「あのさあ、誕生日祝ってくれなかったこと呪ったりしないから、せめて私が死んだら葬式は顔出してよ」
『はあ? そんなくだらねえ事で人を呪うな』
「だから呪わないってば! お母さんたちに大寿くんのこと大親友だってもう説明してるからね! 仕方ないから形見分けで私の卒アルとか持ってってもいいしさ……」
『それこそ呪われそうだろうが。というかそもそも葬式ってなんだよ。死ぬ予定でもあんのか』
「んー、ない! と、言いたい!」

 言えないけどと付け足して、その場でくるりと一度回る。スカートの裾が靡いて、更にタイミング良く風まで吹いたものだからぶわりと広がった。このスカート、きっとエマちゃんも好きだと思うんだよね。それこそサイズが違うからこのまま譲ることは出来ないけれど、仕立て直すなりなんなりしてエマちゃんにも着てみてほしい。絶対に似合う。

 これが私服は最後かもなんて思って、今度竜胆くんとデートに行く時にでも着ようと思っていたスカートを履いてきてしまった。シンイチローくんとマンジローとエマちゃんに見てもらって似合ってると言ってもらえればそれでいいかな。……嘘。竜胆くんにも見てほしい。

 宣告された死の時間が近付くにつれ未練がましくなっていく自分に再びため息をつきながら、歩く足は止めずにもう一度くるりと回る。昨晩の竜胆くんとの電話がダメだったのかもしれない。今までも気付いていた本心から目を逸らせなくなって来てしまっていた。

「いや、私だって死にたくないんだけど……やっぱり、きょうだいを前にすると勝手に体が動くっていうか?」

 大寿くんは興味がなさそうに相槌を打ちつつも、電話は切らないでいてくれている。私が突拍子もないことを言い出すのは何も今始まった話ではないから、聞きたいことはあってもひとまず聞かずに話の先を促してくれているのだろう。良い大親友である。

 冬の冷たい風に攫われた前髪を抑えながらも、他のみんなにはしていたように声音を取り繕うこともなく話を続ける。誰にも言えなかったことがスルスル出てきてしまうのは、大寿くんが私の友達だからだ。大寿くんも多分、それを分かっている。

「今日私イザナを……三番目のお兄ちゃんね。そのお兄ちゃんを庇って死ぬかもしれないらしくて」
『例の抗争でか?』
「そうそう。その抗争でイザナを庇うんだって」
『まるで未来を知らされたみたいな口ぶりだな』
「……本当にね。笑えるよね。笑えるんだけど、信じないわけにもいかなくてさ」

 大寿くんだって知ってるでしょうと言外に思っていたことが伝わったのか、大寿くんは電話の向こう側でひとつ息を吐き出した。タケミっちの名前を直接出すつもりはないが、大寿くんもタケミっちを普通の人間じゃないと思っていたことは知っている。知り合いなのかと聞かれてそれまでの関わりを話したことだってあったし、何度かやっぱり普通の子じゃないよねと意見を交換したりもしていた。

 それ以上詳しいことは言わずに話を続ける。死ぬかもしれなくて、それで今、死にたくないと思っている。きょうだいたちのためなら死ねると思うこの気持ちと、竜胆くんのそばで生きていたいと思う気持ちと、死にたくないというこの感情は全部同時に成立している。全てが全て私の本心だった。

『オレに言ったってどうにもならねえだろ。テメェはどうせ何があったってきょうだいを庇う。だったら遺言でもなんでもテメェの男に言ってやれ』
「いや、無理だって。私ね、ちょっと前に竜胆くんに別れてって言おうかと思ったわけ。でもそれ言う前に竜胆くんに絶対別れないって言われちゃったし、それにさ、別れてって言葉は本心じゃないの。竜胆くんには絶対にバレる」
『別れたい以外に伝えたいことがねえ訳じゃねえんだろ』

 図星だ。一切容赦のないその言葉に思わず押し黙る。大寿くんは私が押し黙ったことを分かっていても一切口車を止めず、追及するように喋り続けている。

 どうせ死ぬなら伝えてから死ね。確かにその通りだ。伝えないで死ぬより、伝えて死ぬほうがいい。私としてはそうだけれど、でも竜胆くんはそうじゃない。伝えて死んで、それは呪いになる。
 タケミっちは私の死に方はそこまで詳しく知らないらしくて、何か竜胆くんに言葉を残したのか、イザナに何か愛でも伝えて死んで行ったのか、それは分かっていない。だけど分かるのだ。自分のことだから、分かってしまう。


 私はきっと、死ぬその時に竜胆くんを呪った。私の言葉は呪いになった。幸福を願ったのかもしれない。忘れてとでも言ったのかも。死にかければ本心じゃなくたって私はそれしか言えなくなる。怖いからだ。竜胆くんが私を覚えたまま、その心に私がいつまでも残ったまま、やがて前を向けなくなって生きていけなくなることが怖い。
 死んでまで呪いを残すだなんてそれこそ最低最悪の行いだ。だったら何も残さないで死んだ方がいいに決まってる。

 少し歩を弛めながら、反論するために口を開く。大寿くんが真剣に私に向き合ってくれている以上、私ももう逃げないし逃げたくない。多分、この機会を逃せば私は誰にも本心を打ち明けられずに死ぬことになる。

「そばにいてとか、ずっと忘れないでとか、この先も永遠に私だけを好きでいてとか、重くない? だって死ぬんだよ? それ伝えた何時間か後に私は死んでさ、竜胆くんの中にはその言葉だけが残る。それってもう呪いじゃん」
『言葉を残そうが残さまいが、テメェらはもうお互いを呪いあってるだろ。死ぬのがテメェじゃなくて灰谷だったとして、テメェは何も伝えず抱え込んだまま死なれたらどう思うんだ?』
「……それは…………」
『言葉だけでもいいから残して欲しかったっつって泣き喚くだろ。たとえそれが永遠に残る呪いだったとしても、何か残されることをテメェは望むはずだ。灰谷がそうじゃないなんてテメェの物差しで推し量って押し付けるなよ』
「…………私は、竜胆くんがいないと生きていけない。でも、竜胆くんもそうなら、それは悲しいと思っちゃうの。私がいなくても生きててほしい。前を向いてほしい」

 でもと一旦言葉を切って、息を吸う。鼻の奥がツンとして、思わず流れてもいない涙を拭った。じわじわと視界が滲み始める。
 大寿くんは何も言わない。私の言葉の続きを待っている。

「でも……私のこと、やっぱり忘れないでほしい」
『相変わらず傲慢だな』
「辛辣」

 スンと鼻を鳴らしながら笑ってそう言えば、仕方ないとばかりにため息をつかれた。やっぱり辛辣だ。だけどちゃんと私に向き合ってくれているのが分かる。大寿くんは私の最高の大親友だと、また思った。
 忘れないでほしいと一度言葉に出してしまったせいで止まらなくなった涙を携帯を持っていない方の手の甲で拭いながら、それでも歩は止めずに病院を目指す。きょうだいたちの顔を今見たらもっと泣いてしまいそうだ。

『まあでも、今に始まった話じゃねえな』
「何が?」
『お前のその傲慢さ。灰谷に関することじゃお前はいつだって傲慢で、めちゃくちゃで、自分勝手だっただろ』
「……そうかな」
『普通の女は恋人の学校に乗り込んで同級生の女威嚇したりしねえんだよ』

 だってそれはと反論しつつも、でも確かにそうなのかもしれないと考える。私はもうずっと竜胆くんの関係することじゃわがままでめちゃくちゃだった。感情の制御すら上手く出来てなくて、でも竜胆くんが私を甘やかすからここまでそのまま来てしまったのだ。

 はんと一つ鼻を鳴らした大寿くんが、高賀と私を呼ぶ。大抵の人には名前で呼ばれるから、苗字呼びは逆に新鮮だと大寿くんに呼ばれる度に思う。まあ、その大寿くんも滅多なことでは私を呼んでくれないんだけどね。だからこれはレアだ。

『最後まで振り回してやりゃあいいだろ』
「……私がずっと竜胆くんのこと振り回してきたみたいな言い方する」
『実際そうだろ。あの時だって手を引くだのなんだの言って結局関わって来やがったし、灰谷との予定だって無理矢理変えたんだろ』
「あれは……ゆずちゃんの一大事だったから仕方なかったの。竜胆くんだって納得してくれてたし……なるほど、これが振り回してるってことね」

 クリスマスのあの日を思い出したのか苦々しげに言ってきた大寿くんに合わせて記憶を呼び起こし、確かにとまた頷いてしまう。言われてみればあれも振り回していることになる。

 でもそこで思い出したのは、何年も前に廃車場でイザナとマンジローと喧嘩をした時のことだった。あの時竜胆くんは私に確かにそう言ってくれたのだった。本当に今更だけどそれを思い出して、また鼻を鳴らす。

 どうして忘れてたんだろう。ううん、都合が悪いことからは目を逸らしていただけだ。忘れてたんじゃない。見ないふりをしていただけ。

「竜胆くんがね、前に言ってくれたの。泣き虫でも、わがままでも、弱くてもいいって。もっと振り回してくれていいって、竜胆くんが私に言ってくれたんだった」
『なら言質は取ってるんだな』
「うん」
『だったら言ってやればいいだろ。忘れるな、他の女なんて好きになるな、永遠に自分だけ見てろ。それがテメェの本心なのに、馬鹿みたいに自分を忘れて幸せに生きてくれだなんて言って死ぬのは無駄死にもいいところだ』

 大寿くんの言葉には一切容赦がない。無駄死にとまで言われてしまった。
 でも、その言葉に勇気を貰っているのも事実なのだ。言ってもいいかな。最後まで、振り回してもいいのかな。竜胆くんを呪って死んでも、いいのかな。


 これは呪いだ。間違いなく竜胆くんを蝕む呪いになる。私が残せる唯一の呪いで、そして本音。
 きょうだいを庇って死ぬことに否やはない。ずっとそう思っているし、この先もその考えは永遠に変わらないだろう。文字通りきょうだいたちを私の命よりもずっと大切に思い、愛している。
 だけど竜胆くんのことだって、やっぱりどうしようもないぐらい好きだ。大好きで、愛してる。その愛だって永遠に損なわれたりしない。だから竜胆くんを呪って、一生その心の中で生き続けるぐらい望んでもいいのだろうか。好きも大好きも愛してるも、全部竜胆くんに伝えても、許されるのだろうか。

 思わず口に出してそう言ってしまっていたらしい。大寿くんは私のそんな考えを笑い飛ばして、馬鹿にするように私を呼んだ。それからハッキリとお前は馬鹿だと言ってくる。酷い。

『さっきも言ったが、テメェらはもうお互いを呪いあってんだよ。テメェが何も言わず死のうが、何か言ってから死のうが、灰谷は永遠にお前に呪われ続ける。だったら爪痕ぐらい残してやれ。今更怯むな』
「……」
『気狂い同士呪いあって狂いあってた方がお似合いだろ』
「……気狂いって、また言ってる。でもありがと。ちゃんと竜胆くんに伝える。もう呪っちゃってるなら、今更何考えたって仕方ないもんね」

 でもやっぱり少し不安だから同席してくれないかと聞けば、本気の死ねが帰ってきた。なんて酷い大親友だ。行く末まで見守ってくれてもいいのに。


 死に向かっているとは言えきちんと話すと決めたら少し軽くなってきた心で、今後もう二度と伝えられないかもしれないから大寿くんにも感謝を告げる。私が死んでも泣いたりしないでねと言えば、オレをなんだと思っているのかと返された。大親友だと思ってるよと迷いなく答えて、曲がり角を曲がる。もうすぐそこが病院なのだ。
 案外話している間に時間が過ぎていたらしく、曲がり角を曲がって十数メートル程先の対向車線側、公道と病院の敷地のちょうど狭間の院名の書かれた看板のあたりにいるシンイチローくんを見つけた。その隣にはタケミっちとマンジローもいて、三人は何か話しているようだ。タケミっちは今日までシンイチローくんの警護をしてくれているのかもしれない。やっぱり優しい子だ。

 電話越しに大寿くんにも病院に着いたことを伝えつつ、シンイチローくんを呼んで大きく手を振る。同じようなタイミングでこちらを見た三人が、それぞれ手を振り返してくれた。

「大寿くん、本当にありがとう。ついでに私の代わりに期末試験受けといてくれない?」
『ふざけんな。そんなことしたらオレまで目ェ付けられんだろうが』
「そんなの今更だよ。だって私たちもう散々やらかして……」

 もう少し歩いてから渡ろうと思って、そういえばエマちゃんが居ないなとシンイチローくん立ちに向けていた視線を正面に向ける。少し先でエマちゃんはシンイチローくんのものらしき財布を片手に自販機の前に立っていた。横顔も可愛い。流石私の妹。


 そう思って大寿くんと話していたのだが、エマちゃんより先の光景に気付いた瞬間に言葉が出なくなる。かなりのスピードで駆け抜けるバイク、それに乗った二人組、振りかぶられたバット。それから、何度かイザナと鶴蝶くんに見せてもらった天竺の特服。
 二人組は揃ってヘルメットをしているけれど、私が気付いたのと同時に向こうも私に気付いたのだろう。間違いなく運転手の男と目が合った。それと同時に、私はもう大寿くんに言葉を託して駆け出していた。


「大寿くん、ごめん、代わりに竜胆くんに伝えて」


 あの辺りに行ったら渡ろうと思っていた場所を通り過ぎて、マンジローが私を呼ぶ声を無視してエマと叫ぶ。今までも意識しないで呼び捨てにしてしまっている事があったらしいんだけど、今のは少し、わざとだ。


 数秒程度の時間が、その数十倍にも感じられた。エマがやっと私に気付いたのかこちらを見て、何度か瞬きをする。視界の隅に入るバイクは減速しているようだけれども、もう遅い。遅すぎる。それじゃ遅すぎるんだよ、半間。


 後ろに何かあると気付いたのか振り返ろうとしたエマを押し倒すような勢いでせめて頭を少しでも守れるように思いっきり抱き締めたのと、凄い勢いで左の側頭部が殴られて自販機横のブロック塀に右半身を叩き付けられたのはほとんど同時で、でも私がエマを抱き締める方が少しだけ早かった。


 腕の中で痛みに呻いたエマを守るように抱き締めながら、少し先でバイクを止めて唖然とこちらを見ている二人に視線を向ける。目に血が入って痛いし、そもそも視界がぼやけてもうよく見えないしで、緩慢な動作でヘルメットを取った運転手の男──半間がどんな顔をしているのかはよく見えなかった。だけど高賀とはっきりと呼ばれたことだけは分かって、笑ってしまう。肺がダメになったのか息が上手く出来なくて、それなのに笑ったからか口から血が出てきた。


 駆け寄ってきたシンイチローくんとタケミっちにエマと揃って抱き起こされ、マンジローが医者を呼びに行ったからと聞かされながら、意識が沈む。


 +


 次に意識が浮上した時、一番最初に視界に飛び込んできたのはマンジローだった。

 ガラガラとうるさい車輪の音と、頭上を飛び交うよく分からない専門用語みたいな何かと、マンジローが私を呼ぶ声。それらに揺すり起こされるみたいに目を開けて、一度閉じるともう二度と開けたくないぐらい重い瞼を懸命に開けたまま保つ。無理に口角を上げてらしくもない笑顔を作るマンジローが、もう感覚のない私の手を握りながら必死で呼び掛けてくれていた。


 ああ、そうだ。私、殴られたんだった。運転手が半間で、多分私たちを殴ったのは稀咲。二人の狙いは元からエマだったのだろう。私が一番嫌いな、素手の相手に後ろから武器を持って殺す気で掛かる、最低な行為。普通にそういうことを出来てしまう稀咲はやっぱり嫌いだ。半間も、これで少し嫌いになった。自分から友情にヒビを入れにきやがって。

 霞む意識でそんなことを思いながら、マンジローの手を何とか握り返そうかと思ったのだけれど、無理だった。指先どころか顔すらもう動かせそうにない。息をする度にせり上がってくる血のせいでもう口の中が血の味しかしなくて、だけどそれもよく分からなくなってきていた。

「エマ、は」
「喋るな。怪我はしてるけど、エマは無事だから。リコの方が、リコの方が……」

 押し黙ってぎゅっと眉を寄せ、何も言えなくなってしまったのか口をはくはくと動かすだけのマンジローを見上げる。脈拍が弱ってきているとお医者さんらしき人が言うのと、もっと声を掛けてあげてとマンジローが言われているのが聞こえた。全部私のことかな。
 にしても、エマが無事なら、それは良かった。あの子を守れなければなんの意味もなくなってしまう。可愛い妹。大切な妹。愛しい妹。ずっと変わらず、笑顔の似合う大好きな妹だ。

 マンジローが私を呼んで語り掛ける声に唸るように途切れ途切れの返事をしつつ、ふと思う。
 もしかしたら、タケミっちがやってきた未来ではエマも死んでしまっていたのではないか。シンイチローくんもエマも私も死んで、それでみんなダメになってしまったんじゃないの。一度そう思うと何だか本当にそうな気がしてきて、もう一度エマの名前を吐き出すように呟く。


 エマを守れた。いつかの約束通りに、死神からも、運命からも、ちゃんと。本当はまだまだあの子を守ってあげたい。そばにいてどんな苦しみや痛みや辛いことからも、その何ものからも私が守ってあげたいのだ。

 けれど、多分それは無理だ。もう全身の感覚がなくて、息すら上手く出来なくて、いつだったか一虎にシンイチローくんと共に殴られたあの日よりもずっと、「もう死ぬんだなあ」という確信がある。
 悔しいし本当は嫌だけれど、仕方ないからここから先はきょうだいたちとケンチンくんにエマを託さなきゃ。守ってあげて。笑わせてあげて。泣かせるのはダメ。あの子は笑顔が似合う。大切にして、愛してあげて。自慢の妹なの。私の宝。愛しい妹。ずっとずっと変わらずに、大切な妹。

「マンジロー……」
「何? いや、いい。なんにも言わないで。なあ、タケミっちが今リンドーくんに電話してる」
「りんどうくん……?」
「そうだよ。リコの大好きなリンドーくん。会わなきゃダメだろ。伝えたいこと、あるんだろ……」

 そうだ、竜胆くん。好きも大好きも愛してるも、なんにも伝えられてない。忘れないで。覚えていて。私以外の人の事なんて愛さないで。お願いだから、私だけを見ていて。
 伝えると決めたのに、そのどれひとつとして伝えられていないままだ。また明日と約束したのに、その約束を叶えられていない。私もう、竜胆くんに会えないのか。


 大寿くんはちゃんと竜胆くんに伝えてくれるかな。抗争で死ぬって伝えていたのに、それよりずっと早く死ぬなんてめちゃくちゃな気狂いだって笑ってくれるんだろうか。そうだよね。本当に、そう。私だってそう思う。もうめちゃくちゃだよ。

 兄の聞きたいことも結局なんだったのか分からないままだし、イザナにケーキを作ってってお願いしたのに。イザナ。そう、そうだ。イザナが。イザナを助けなきゃ。

「まんじろ、いざなを」
「イザナ?」
「いざなを……たけみっちに」

 もう上手く呂律が回らなくなってきていて、全部が伝えられそうにない。悪いけれどタケミっちに託していいだろうか。イザナを助けて。お願い。キミにいろいろなものを背負わせてしまうけれど、だけど、どうかお願い。お兄ちゃんを助けて。

 息が吸えずにひっくり返ったような呼吸をしながら、残った全ての力を振り絞って指先を動かしてマンジローの手を握り返す。私を覗き込む瞳から溢れた涙が顔にあたってくすぐったい。その感覚はまだ残っているみたいだ。

「まんじろ……」
「聞きたくない。頼むからやめろ。やめてくれ。死ぬなよ……死なないでくれよ、姉ちゃん」

 ああ、その呼び方は初めてかも。姉ちゃん。いい響きだ。もしかして今やっと姉だって認めてくれたのかな。そうなら嬉しい。あなたの姉として死んでいけるなら、うん。凄く嬉しい。
 泣かないでと何度か言って、その度に涙を流すマンジローを見上げる。私の弟。可愛い弟。竜胆くんに嫉妬したりする可愛いところ、この先もずっと忘れないでね。あなたの中でそんなところも大切にして、誰かに寄りかかって生きていって。


「だいすき…………おねえちゃんが、まもるからね」


 たとえそばにいられなくたって、離れてしまったって、変わってしまったって、永遠にあなたを守ってあげる。あなたの考えてる事はよく分かるの。きっと私が一番よく分かる。

 一度瞬きをしたらもう目を開けていられなくなって、瞼を閉じてどんどん小さくなっていく自分の心音とマンジローの泣き声を聞く。泣かないでよ。きょうだいには笑ってて欲しいの。

 でもそんなことを言えるはずもなくて、血を吐きながら何とか息をして、薄れていく意識で竜胆くんを思った。迷ってばかりの私をいつだって導いてくれた、私だけの星。私が死んだら泣いてくれてしまいそうだ。ずっと私を思って生きてくれそう。
 悲しいのに、それが嬉しい。忘れないで。覚えていて。私以外の人の事なんて愛さないで。お願いだから、私だけを見ていて。この先ずっと永遠に。


 もう喋れない。だからこうして心の中であなたを呪う。あなただってこれまで私を呪ってきたんだから、これでおあいこだ。だって最後に思うのが家族やきょうだいじゃなくて、竜胆くんのことだなんて、あはは。こんなに嬉しい呪い、ないもの。

 竜胆くん。名前を呼んで、抱き締めて。それでいいって私を認めて。私の全部を愛してるって、お願い、もう一度言って。
 あなたのキスが欲しい。その腕の中で目覚めたい。あなたのその全部が欲しいの。

 でも、もう私たちは全部を交換しあっていたんだっけ。だったら竜胆くんは私のもので、私は竜胆くんのものだ。もう誰にもあげないし、何を言われたって返すことだってしない。竜胆くんが私以外の誰かのものになってしまうんなら、その全部、抱いたまま死なせて。

 妙に穏やかな微睡みの中で、竜胆くんを思い出して、心の底から死にたくないなあと思ってしまった。このタイミングでどうやら私は、再び私の星を見つけてしまったらしい。ああ、そうだ。行き着く先も、帰る場所も、全て竜胆くんだった。だからこそ、あなたの隣で生きていたい。


 ねえ竜胆くん、馬鹿みたいだけど、きっと私たち運命の二人ってやつだと思うの。生まれた時からきっとずっと、あなたに出会うために生きてきた。だから、もうめちゃくちゃだけど、願わせて。あなたの隣で生きていけるその未来を、どうか。

禍福は糾えるデブの如し

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