物心ついた時にはもう妹は妹で、家族だった。
思い返せば、記憶の中にはいつだって妹がいる。まあ自我と記憶が確立された頃には妹は産まれていたんだから、それが当然のことだ。でもそんな妹とのことで、特別強く記憶に残っていることがひとつある。
オレが幼稚園を卒園する前だから、もう十年以上前のことだ。まだ妹は入園していなかったから、きっと五歳頃のこと。
あの頃の妹は、もうそれはめちゃくちゃにオレにべったりだった。朝起きるのも夜寝るのも当然オレと一緒。今は敢えてお互い話には出さないが風呂だって一緒に入っていたし、食事の内容だって同じがいいと駄々を捏ねていた。
そんな妹と唯一一緒に居られない時間が幼稚園に通っている間だったのだ。通園バスに乗せられる時もギリギリまでオレの手を掴んで離さなかったし、帰りだってオレが降りてくるのをバス停で母の隣で毎日待っていた。オレにとっては妹がそうやって俺を見送り、待つことが日常だった。
妹はまだまだ幼かったし、オレが幼稚園に行っているから会えないというより、週の大半の昼間はオレに会えないとしか認識していなかったのだろう。園のない土日はやはりオレにべったりで、朝から夜までずっと一緒に過ごした。今思えば、あの時点で妹の友達作りの下手さは発露しつつあったのかもしれない。
その頃のことだ。どうしようもないぐらいに妹を傷付けたことが一度だけある。
きっかけは些細な兄妹喧嘩で、今思えば妹の可愛いわがままでしかなかった。幼稚園に行かないで一日一緒にいてと月曜日の朝に甘えられたのだ。土日を挟んで久々にクマたちに会えると思っていたオレは、もう詳細なんて覚えていないがそれに対してなかなかに酷い返しをしたらしい。今でも酒に酔うと父はその朝の話をするものだから、断片的に覚えているだけの幼い妹の愕然と見開かれた瞳と涙を堪えるために強く唇を噛み締めた不格好な表情が余計に記憶にこびり付いてしまっている。
その日は妹の見送りも迎えもなかった。オレの言葉を聞いて母のベッドに逃げて出て来なかった妹を思っていた一日中ソワソワしていたし、迎えが来なかった時には自分はやらかしたのだと察してしまうぐらいには妹がオレを見送ることも待つことも、本当に当たり前のことだった。
だけど、一緒のバス停で乗り降りしていたクマが何故妹が居ないのかと聞いた時、確かオレは本当のことを話せなかったのだ。安い見栄だ。知らないと返して、逃げるように家に帰って、それでも妹に会おうとして、結局会えなかった。妹が熱を出して寝込んでいたからだ。
あの頃のオレはもう柔道やらなんやらを始めてはいたけれど今よりずっと体が弱くて、でもそれは妹も同じことだった。オレに比べれば随分とマシだったけれど、それでも一度風邪を引けば長引くし、熱を出せばなかなか下がらない。
あの日だってオレが手酷く泣かせたせいで連鎖的に体調を崩し、熱を出してしまっていた。オレまで連られて熱を出させる訳にはいかないからと、両親も祖父もオレを妹に会わせようとはしなかった。
とはいえ、止められたからと言って素直に言うことを聞く子どもでもない。寝たフリをしておいて夜中に起きて妹を見に行くだなんていう、今思えばなかなかに親泣かせなことをした。いつも勝手に布団に侵入してきた妹がいないとなんだか違和感があって上手く寝られなかったのだと言い訳をさせてほしい。
なんとなく起きているだろうなとは思っていたけれど、侵入した母の部屋で妹は本当に起きていた。来ると思っていなかったのか驚いたようにオレを呼んで、その後に鼻を鳴らして泣き始めたことをよく覚えている。それでも、まだ家事をしている母や入浴していた父に気付かれることもなく侵入してきておいて近寄らず立ち尽くすオレを見て、一人は寂しかったのかぐずりながらも笑ったのだ。
あの瞬間の衝撃ったら、ある程度語彙の増えた現在でも言葉にできるものではない。今でも鮮明に覚えているような、それこそ雷が落ちたような衝撃だった。
守らなければ、と思った。手を引いて、守って、そばにいてやらなければならない。一人で泣くことも出来ないような妹だった。寂しかったくせにそれを声にも出せないで、泣いているくせにオレを安心させるためか笑ってしまうような、本当にただの妹だったのだ。
何も言わず自分の発言を謝ることもせずに近寄ったオレの手を握って、嬉しそうに笑って熱で掠れる声で何度も名前を呼んでいた。小さな手は熱かったし、瞳は涙だけで潤んでいたわけではない。既に氷の溶けた氷嚢を頭に乗せて、妹はオレに謝りすらした。たどたどしい声でごめんねと謝られた時、オレは何を返せたんだろうか。
妹がわがままを言うのが下手くそなのも、人を上手く頼れないのも、きっとあの日のオレのせいだった。あの時点で珍しかったそのわがままをオレが手酷く切り捨てたせいで、妹は今でもわがままな自分を嫌って、憎んですらいる。人に甘えることが苦手で、甘えることより甘えられることを、頼ることより頼られることを望むのだ。自分だって甘えて頼りたい時も、それを押し隠して笑えるようになってしまった。
友達が出来ないと泣かれたことだって一度や二度ではない。オレが何かをやらかす度にそのしわ寄せが妹にいって、結局ここまで妹には対等な同性の友人というものが居ないままだ。高校に上がってから二人ほど学校以外のプライベートでも遊びに行くような友人は出来たようだけれど、それも異性。本当は同性の友人にずっと憧れていたことも知っていた。
そんな妹から普通の青春の機会を奪ったのはまず間違いなくオレだろうという自覚がある。妹がオレ達のチームに入ると決めた理由も、強くなりたいと願ったのも、根っこの部分には竜胆がいる。だけどその遠因は全てオレだ。
もしもオレの作ったチームの下っ端が灰谷兄弟に喧嘩を売って負けたりしなければ。もしもオレがチームを作らなければ。もしもオレが喧嘩ばかりの生き方を選ばなければ。もしもオレが、兄でなかったのならば。
そうすれば、妹は普通に生きられたはずなのだ。
昔からオレの後を着いて回ってばかりだった。何度喧嘩をしたってオレに怒って泣いたって、最後にはやっぱりなんでもないですよとばかりにけろっと笑ってオレの後を着いて回る。馬鹿だのデブだのとオレを詰ってばかりだけど、肝心な時は兄と呼んでくれるのだ。下手くそな甘え方でオレに甘えて、不器用な頼り方でオレを頼ってくれた。
だけど、その役目をオレはそろそろ手放さなければいけないのかもしれない。オレが手を引いて道を示して先を歩いてやるのも、もう終わりが近付いているのかもしれないと、最近は特に思う。
妹は、リコは変わった。いいや。変わったのではなく、いつからかオレのせいで押し隠すようになってしまった自分の弱さを、本人ですら嫌って憎むそれらをさらけ出せる相手を見つけたのだ。弱くていいと言って、その全てを受け止めてくれる相手に出会った。
もちろんオレだってリコに同じことを言える。弱くたって泣き虫だってわがままだって、その全てを受け入れられると断言出来る。だけど、それではダメなのだろう。
リコには竜胆がいなければいけない。オレやマンジローたちきょうだいでは補えない部分を、竜胆は補えるから。オレたちきょうだいがリコの死ぬ理由になれるのだとしたら、竜胆はリコが生きる理由だ。
相変わらずランプの消えない手術室を見つめながら、隣に座るシンイチローに語り掛けるまでもなく独り言のように呟く。
「オレさ、本当は寂しかったんだよな」
「何が?」
お互い無言で過ごす時間はさして居心地が悪くもなかったが、なにか喋って気を紛らわせたかったのは同じだったのだろう。シンイチローはこちらを見ることもせずにオレに問い、すっかり温くなっているであろう缶コーヒーに口をつけた。
独り言では終わらずに会話になりそうなので、言葉を探す。何が。上手く伝えられる自信が無いけれど、一言で言ってしまえば全部だ。
とは言え、全部なんて言ったって伝わらないだろう。延々と続く緊張やすぐ側にある妹の死に対する怯えでよく回っていないと自覚出来ている頭を何とか回して、伝わりやすそうな言葉を選んだ。
「リコが竜胆と一緒にいるの見てると、寂しかった」
あの小さかった妹が、オレの後を着いて回るばかりだった妹が、今ではオレ以外の誰かに手を引かれて、誰かの手を引いて歩けるようになった。幼い頃は「お兄ちゃん」のちゃんが言えなくて「お兄」とオレを呼んだような妹が、今でも変わらずにオレをそう呼ぶ口で愛おしげに竜胆を呼んで、笑いかけるのだ。
リコがあちこちできょうだいを増やすせいで、巻き込まれるようにして気付けばオレだって七人きょうだいの次男になっていた。ケースケも入れれば八人きょうだいだ。そうやってリコは大切な人をどんどん増やして、どんどんオレを置いて先に行ってしまう。
時折迷って一人で歩けなくなったリコの背を押して手を引いてやって、そうして喜んでいたのはオレだ。兄ぶることで満たされていたわけではないけれど、ずっと変わらずにオレの後を付いて歩く妹を望んでいた。先に行って欲しくなかった。
シンイチローはそこまでは語らなかったオレの心情にすら気付いたのか、喉を鳴らしてひとつ笑って手術室からこちらに視線を移す。浮かべられた笑みは、兄としてのものだ。
「兄貴ってそういうもんだろ」
「……シンイチローもそうなのかよ」
「そりゃあな。イザナが過保護になるのも正直分かる。リコもエマもずっと変わらずに小さくて可愛い妹のままでさ。なのに本人たちはどんどん成長して大人になって、オレらを置いていって、別の誰かと生きていくんだぜ」
こんなにちっちゃかった妹がさあと少し伸びた声で言って、缶コーヒーを握っていない方の手が腰ほどの高さの位置をうろつく。オレもそれを目で追いながら、確かにそれぐらい小さかったよなと思い出した。リコは小さい頃から平均と比べても随分身長は高かったけれど、それでも同じように平均よりも上背があったオレからしたらずっと小さく見えていた。
シンイチローたちに出会ったのはリコがある程度デカくなった後だったけれど、それでもやはり小さい妹であることに変わりは無いのだ。リコはずっとエマのことを小さくて可愛い大切な妹と溺愛していたけれど、オレらからすればリコだって小さくて可愛い大切な妹だった。
ぽつりぽつりと愚痴とも苦言とも言えない言葉をこぼしながら昔を懐かしむシンイチローにオレも同調して、呟く。
「嬉しいんだけど悲しいんだよな」
「本当に。嬉しいけど悲しいし、やっぱり寂しいんだよ。イザナもマンジローも鶴蝶もそうだぜ。勝手にどんどんデカくなりやがって」
「特に鶴蝶だな」
「あー、アイツなあ。まさか中二の時点でオレらよりデカくなるなんて思わないだろ」
今ではきょうだいたちの中で一番背の高い末の弟を思い出して、またシンイチローが笑う。それに連られてオレまで笑ってしまった。イザナとマンジローがここに居たら、身長のことばかり言うなと起こったかもしれない。でも、デカくなったっていうのはそれだけじゃないんだよな。
竜胆とマンジローが離れて二人きりになってから広く感じるベンチに並んで、多分今オレとシンイチローが考えていることは一緒だった。
竜胆はもう数時間前にここを離れたけれど、マンジローも今、もうここには居ない。花垣の彼女に到底信じられないような話を聞かされて、それでもその言葉が胸に響いたからこそケースケとドラケンと共に抗争に向かったのだ。
迷うようにしながらも振り返りはせずに病院を出ていったその背中を思い出す。随分と大きく、成長して見えたものだ。だからこそオレもリコとの思い出なんかを振り返って鑑賞に浸り、もの寂しい気持ちになってしまった。弟妹はどうしてこうもオレたち兄を置いて前へ前へと進んでいってしまうんだろうか。
ため息ともなんとも言えない息を吐き出す。そのタイミングでふとオレを見たシンイチローが目を細めて笑った。
「でも、オレからすればリオ、お前もだよ」
「は?」
「お前もどんどん大人になって行きやがって。あーあ。弟も妹も成長ばっかで嫌になる。そのくせして、全員ずっと可愛いままなんだからさ……ホント、嫌になるよ」
オレからゆっくり目を逸らして小さな声でそう言って、仕方ないなとばかりの笑顔を浮かべてシンイチローは前を見た。思わずその視線を追ったが、正面にあるのは何の変哲もないクリーム色の壁だけだ。
またブツブツと小声で文句を言っているシンイチローに嫌そうには見えないけどと口を挟んでも良かったのだが、それはやめた。オレまで小さい弟妹扱いされていることにこそばゆくもあったし、なんとも言えない感情が込み上げてきたからだ。
場違いな照れ臭ささに戸惑っていれば、反対隣から声が上がった。シンイチローと揃ってそちらを見上げれば、実はずっとそこで壁に身を預けて立っていた祖父が横目でこちらを見下ろして笑っている。
「二人揃って何黄昏てんだ。オレからすりゃあな、シンイチロー、テメェもずっとガキのまんまなんだよ」
「……そりゃ、貴彦さんからしたらオレたちみんなガキだろ」
「ああ、そうだよ。テメェらは全員揃ってずっと馬鹿でどうしようもねえガキのまんまだ。一番の馬鹿は勝手にバカスカきょうだい増やしやがって、オレなんてもう両手でギリギリ足りるか足りないか、それぐらいの孫持ちだ」
鼻でひとつ笑って一番の馬鹿と揶揄されたのは、間違いなくリコだった。やっぱりリコが一番だよなとシンイチローもそれに乗っかって、自分が馬鹿だと言われたことはスルーすることにしたらしい。その調子の良さに祖父はまた笑い、パチリと瞳を閉じて呟いた。
「馬鹿のくせして面倒なもんばっか引き寄せやがって。ガキがじいちゃんより先に死のうとすんじゃねえ」
どこか祈るようなその声音に、シンイチローもすんと押し黙った。そのまま二人揃って手術室を見る。何度か医者が出入りしているその奥では、まだ妹が戦っている。身長が伸びて筋肉もついて、それでも薄っぺらさの拭えないオレたちからすれば華奢な体に全部背負い込んで、今もまだ必死で足掻いているのだ。
瑠璃からあやかった名を付けられたオレの小さくて可愛い、大切な妹。幼い頃はその名前ですらオレとお揃いがいいと泣いたことがあった。瑠璃唐草と茉莉花でどちらも花だと、当時のオレたちからしたらちんぷんかんぷんな理由で祖父と両親はそんなリコを言いくるめていたっけか。
なあリコ。お前がどんなに変わったって、離れて暮らしたって、たとえそばにいられなくたって、どれだけ大きくなったってさ。やっぱりオレにとってお前はずっと小さくて可愛い、大切な妹のままなんだよ。いつもオレの後を着いて回って、なんだってお揃いがいいって泣いたあの日のお前となんにも変わらないんだ。
正直悲しくなってきたしやっぱりまだ早いんじゃないのかって今更思い始めてるけど、お前が竜胆とこの先を生きていったとしても、それでもオレらが兄妹であることにはなんの変わりもないだろ。お前はオレの妹で、オレはお前の兄ちゃんだ。
だから、頼むから、どうか生きてくれ。これまで通りの生活なんて出来なくていい。歩けなくなるんなら支えるし、喋れなくなるんならお前の目を見ただけで言いたいこともやりたいことも全部分かるぐらいになる。それぐらいする。お前が二度と目覚めなくたって、オレのことを呼んでくれなくたって、別にいいんだ。生きてくれさえすればもうそれでいい。
鼻の奥がツンとして、視界が潤み出した。ぎょっとこちらを見たシンイチローが、自分だって涙目になりながらオレの背を摩る。イザナとマンジローと竜胆が泣くせいで泣けていなかったのに、今更になって涙が止まらなくなりそうだった。
リコ。オレの妹。勝手に大きくなって、どんどん先に行ってしまう。竜胆が言っていた通り自分一人じゃ止まることすら出来ない。
お前は知らないだろうけど、お前がオレたちきょうだいや竜胆が居なくなったらダメになると言うように、オレたちだってそうなんだよ。お前がいないと、みんなダメになるんだ。
震える息を吐き出しながら俯いて涙を拭っていれば、黙りこくっていた祖父が凄い勢いで壁から背を離して何歩かよろめくようにして足を動かした。シンイチローと揃ってそちらを見上げる。呆然としている祖父の視線を辿って、思わずオレたちも飛び上がるようにして立ち上がった。どっと心臓が騒ぎ出して、涙がピタリと止まる。
手術中のランプが、消えていた。
+
こんなのが夜ノ塵の総長なのかというのが多分一番最初に思ったことで、その次には確か、でも顔はタイプだなと考えた。以前オレの第一印象を聞いた時には妙に照れながら顔がタイプでモデルかと思ったと言っていたから、お互い初見の印象は似通っていたのだろう。
お互い兄に置いていかれて、ちょうどそこにリオの置いていった食料があったから昼時だし嫌がらせも兼ねて食べてやろうと言うことでオレたちは公園に向かって、それから身の上話とも言えないような雑談をして。リコはよくリオの話をした。馬鹿でデブでダメダメな兄だと罵倒しながらも、話すことはと言えばリオのことばかり。本人が言っていた通り友達が居なくて話せる話題がないというのもあったのだろうが、口では散々なことを言いつつリオのことが大好きだというのも隠せてはいなかった。
正直、下心がなかったとは断言出来ない。今はもちろんその全てが好きだけれど、本当に顔がタイプでもあるのだ。
だけどリコの初めての友達として一緒に過ごしたあの一ヶ月間は、下心を抜きにしたって心底楽しい時間だった。休日に兄以外との予定を入れたのなんてオレだって初めてで、浮かれていたしいつもリコに会う日を心待ちにしていた。
そして、オレたちが人を殺した日。観衆も大勢いたせいで言い逃れできる状況ではなく、逮捕も年少にぶち込まれるのも殺した瞬間にもう確定したようなものだった。兄と一緒ならば何も怖くはなかったし、こんなものかとすら思っていた。
でもリコとの約束を思い出して、しない方がいいと分かっていたのに電話をしてしまったのだ。あの日、オレとリコは会う約束をしていた。だから約束を破ったことを謝らなければと思って、咄嗟に。本当に咄嗟に電話をしてしまった。
ダラダラ流れる鼻血を止めるために鼻の付け根の辺りを抑えながら、痛みに顔を顰める。似たような動作と顔で鼻を抑えている兄が辺りを見回して、それから一点を見て苦々しい表情で舌打ちをした。目線の先を追えば、花垣に銃を向けた稀咲がいる。
「アイツ……」
「兄貴、貴彦さんに連絡して」
「……ん」
それ以上は何も言わずに携帯を取り出した兄を横目で見ながら、稀咲の動きをしっかりと追う。今は花垣に気を取られているようだが、その目的がリコとマンジロークンを手に入れることならば、アイツは二人のきょうだいたちに躊躇いなく銃を向けるだろうからだ。
リコのしたいことをする。リコがここにいればしたであろうことは、オレが代わりにすると決めた。
なんでそんな無茶するのと泣いて怒る様子が簡単に思い浮かぶ。その時は最初に無茶をしたのはリコの方だろと言えば、きっと決まりの悪い顔をしてそういうことじゃないでしょと泣くのだ。その涙を拭ってやりたいといつだって思う。
昔からずっとオレの前ではよく笑ってよく泣く女だった。オレはリコにとっての初めての友達だったからだろう。友達というものがよく分かっていなかったリコは、友情よりも重い感情を最初からオレに投げ掛けてくれていた。オレももちろんそれは分かっていて、受け止めていた。
リコはオレがいないと生きていけないと言うけれど、オレだってそうだ。リコがいないと生きていけない。お互いへの感情が本当に重すぎて笑えてくるけれど、結局それが本音だった。
年少にいる間にリコから届いた手紙は今でも全部とってあって、今でもたまに読み返す。どんな修行をしているとか、チームでどんなことがあったとか、オレへの恨み言だっていくつか書かれていた。約束を破ったことを責めて怒って、だけど最後にはいつも早く会いたいと書かれていたのだ。
オレのことなんて忘れてしまえばいいのに、リコの手紙はいつだってオレとの未来のことばかりだった。恨み言の後には決まってあれをしたいこれを見たいどこに行きたいと続く。その全部が、オレと一緒に、だ。
きっと最初にリコを手放せなくなってしまったのも、リコがいないと生きていけなくなってしまったのも、オレの方だ。年少を出たあの日、オレに駆け寄ってきて平手をかましてその後に下手くそな泣き方で声を上げてわあわあと泣いたリコに抱き締められた時に、オレはもう何があったってリコを手放せなくなってしまっていた。絆されて、そばにいることをずっと望んで生きてきた。
いつだったか、行き着く先にも辿り着く先にもオレが居るとリコが言ったことがある。どこに居たって見つけて手を引いて、そばにいてくれるのがオレだと。
それは違う。リコがオレを見つけてくれたのだ。灰谷蘭の弟としてじゃなく、オレをオレとして見てくれた。リコと一緒にいればオレはずっとただの「竜胆くん」で、リコはそんなただのオレを必要として、いつだってどこからだって見つけ出してくれた。
オレの行き着く先に居たのも、辿り着く先に居るのも、ずっとリコだ。オレはただ、オレの元に来てくれたリコの手を引いて隣を歩いているだけなのだ。オレの方が手を引かれて歩いてすらいただろう。リコのそのどこまでも前しか向けないような真っ直ぐさがあったから、オレはここまで来れた。全部リコのおかげなのだ。
オレの愛する、吹けば飛ぶ風船みたいな女。あちらこちらに大切なものを作って、その大切なもののために身も心も砕いて、それでも笑っていた。自分の壊れやすさすら知らずに馬鹿みたいに沢山のものを背負って、色んな人に愛を与えて、そのくせして自分は一人で隠れて泣くのだ。
だから、弱いところも泣き虫なところもわがままなところも、リコが嫌って憎んで捨てようとしたその全てをオレが代わりに許して認めて愛して抱き締めてやる。その背を撫でて抱き締めて、何度だって名前を呼ぶから、きょうだいたちの前では泣けないのならオレの前で泣いて。きょうだいたちには笑って愛を捧げることしか出来なくなってしまうのなら、オレの前では泣いて愛を求めてくれていい。
下手くそな泣き方も、肝心な時にオレに遠慮して頼ってくれないところも、一人で何でもかんでも抱え込もうとするところも、そのぐしゃぐしゃな泣き顔も、自分の弱さを憎む言葉だって、全部が好きだ。オレを優先出来ないところだって愛している。
リコが俺の手を引いて。そうじゃなきゃもう歩けない。真っ直ぐ歩くなんてそんな、それどころか前がどちらかも分からなくなってしまうのだ。
お前はオレの北斗七星みたいなものなんだよ。リコのいる方に歩いていけば、オレの手を引いて道を示してくれれば、オレはいくら迷っていたって正しい道に辿り着ける。オレのそばにいてくれれば、もしリコが迷った時だってオレは必ずリコを引っ張りあげられる。
お願いだからそばにいて。オレから離れたりなんてしないで。もうずっと前から、リコがいないと生きていけないんだ。お前が俺を見つけてくれたあの日からずっと、リコと生きるためにオレは生きてるんだよ。
例えどれだけ願われたって泣かれたって、忘れてなんてやらない。他の誰かを好きになんてなるはずがない。リコ以上に愛せる人とこの先巡り会えるはずがないのだ。永遠にリコを見てるよ。そうでもしてなきゃ歩くことすらできないんだから仕方ないだろ。
それに、忘れてなんて言葉は聞きたくない。あの日リコが言おうとしていた別れてくれって言葉だって、全然本心なんかじゃなかっただろ。リコはさ、自分で思ってるよりもずっと分かりやすくて、それで隠し事が下手くそなんだよ。オレはそれをよく知ってる。お前が隠し事が下手くそだってことも、本当は泣き虫でわがままだってことも、きっとオレが一番知ってる。
呪ってくれていい。その分オレだってリコを呪うし、これまでだって呪ってきた。愛する女に呪ってもらえることほど嬉しいことなんてないだろ。オレごと切り捨てて、一緒に死ぬ覚悟だってもう出来てる。
オレの全部はリコのもので、リコの全部はオレのものだ。死んだって他の奴にはくれてやらない。もしもオレがお前を置いて死ぬなら、お前はその先永遠に誰かを愛することなんてしないで、オレだけを愛していて。リコがオレを置いて死ぬんなら、オレは一生お前だけを愛して生きる。オレからお前を奪った何もかもをぶち壊して、お前の全部に呪われたままでいると誓う。
オレの心も、未来も、もう全部がリコのものだ。リコがオレを見つけてくれたあの日からずっと。
イザナと鶴蝶が稀咲に食って掛かっているのを見て思わずため息をつく。なるべく冷静でいろと言ったのに。でもまあ、その方が二人らしいか。殴り掛からずに銃を警戒しているだけ、二人も一応考えてはいるのだろう。
射殺さんとばかりに稀咲を睨み付けるマンジロークンは、それでもイザナを気にしているようだった。リコが手術室に運ばれる直前まで付き添っていたのはマンジロークンだとリオから聞いたから、もしかしたらその時にイザナを頼むとでも言われていたのかもしれない。
だけど、リコのきょうだいにそれをさせるわけにはいかないのだ。病院で言った通り、それをするのはオレの役目だ。信じるのは大寿に譲ったんだから、せめてそれぐらい、オレがしたっていいだろう。
花垣やイザナや鶴蝶の剣幕に押されて見るからに焦り出した稀咲が下げていた銃口を上げようとするのを確認しながら、兄に声を掛ける。
「兄ちゃんは鶴蝶の方よろしく」
「は?」
「多分リコがやろうとしてたこと、コレだ」
そう言い切るよりも、稀咲が鶴蝶を撃ち抜く方が早かった。右肩を撃たれた鶴蝶はよろめいて、イザナは目を見開いて呆然としながらも咄嗟に鶴蝶に手を伸ばした。花垣がリコのやろうとしていたことを思い出したのか顔を強ばらせて叫ぶようにイザナを呼んで、マンジロークンが身を翻してイザナに駆け寄る。
その姿を見て、ああこの馬鹿がと思った。お前が動いたら意味が無いだろ。それはオレがやるから、マンジロークンは稀咲をどうにかしろって。
一気に踏み込んで、射線を横切るようにしてイザナの肩を掴んで押し飛ばす。間に合ったなとどこか冷静に思った瞬間には銃声が響いて、胸と腹の辺りが一気に熱を持って、もう体が地面に倒れ込んでいた。
半歩遅れてオレに続いた兄が鶴蝶の腕を引っ掴んで自分の方に引き寄せたのを目線だけで確認する。状況が飲み込めないのかしきりに瞬きをする兄と目が合って、次の瞬間には四方八方から名前を叫ばれた。
膝をついてオレを覗き込み名前を繰り返すマンジロークンを突き飛ばすようにして退かせた兄がオレの体をひっくり返して仰向きにさせ、らしくもなくだらだらと汗を流しながら引き攣った笑みを浮かべて何度もオレの名前を呼ぶ。何か言葉を返そうかと思ったけれど、言葉が出てこなかった。
撃たれたのなんて初めてだから知らなかったけれど、めちゃくちゃ痛い。これまでに経験したことの無い、死を意識せざるを得ない痛みだ。
「なん、なんで、なんで庇ったんだよ……」
フラフラと歩み寄ってきてオレの顔のすぐ側に膝をついたイザナが、自分だって血を吐きながらボロボロ泣いている。一度泣くと止まらなくなるところがリコに似ているなと思って、笑ってしまった。どうやら完全に庇いきることは出来なかったようだが、泣く力も喋る力も残っているらしい。オレは痛くて無理。
死にかけてるなと自覚するような怪我なんてこれが初めてなんだが、リコはこれまでに何回死にかけてきたんだっけか。その度にこれぐらいの痛みに耐えてきたんだとしたら、オレはリコのことを抱き締めてめちゃくちゃに褒めてやりたい。それがなくたって抱き締めるし褒めるけれど、痛いのも辛いのも苦しいのも嫌だと泣きながらこれまでこれ程の痛みに耐えてきたんだとしたら、尊敬する。
今も懸命に生きようとしているであろう愛する女を思い浮かべながら、兄やマンジロークンの言葉に耳を澄ませる。イザナは泣きすぎていて何を言っているか分からないし、そもそもイザナも撃たれていることに変わりはないのだ。オレの横に鶴蝶と揃って倒れ伏して、これは現実逃避のようなものだけれど、結構愉快な絵面かもしれない。大の男が三人撃たれて死にかけているわけだから。
「竜胆お前、絶対に寝るなよ。寝たら死ぬからな」
兄の言葉にそんな雪山で遭難したんじゃないんだからさとは思ったけれど、声が出なくて適当に頷いておいた。眠いというか、瞼が重いのだ。気を抜いたら意識が落ちて行きそうだった。
見るからに焦った顔をしたマンジロークンが、リコみたいなことをするなとオレに怒っている。リコのしたかったことをするとは言ったけれど、まさか身を呈して庇いに行くとは思っていなかったらしい。自分だって咄嗟にイザナの元に駆け寄っておいてよく言う。
「リコの手術終わったってゆきちゃんからもリオからも連絡来てる。成功だってよ。意識が戻るかは分かんねーけど、リコは生きてる。竜胆に何かあったらアイツ泣くぞ」
「……リコ…………」
ああ、良かった。意識なんてもう戻らなくてもいい。それでもオレはお前のそばにいる。生きていてくれるならそれでいいのだ。死ぬならオレの隣で死んで。
泣いて欲しくはないけれど、今は泣き顔が見たいとも思う。オレのためだけに泣いて欲しい。なんでこんな無茶するのと叱ってくれ。そういうところは嫌いだと言ってくれても構わないのだ。その全部を、オレが受け止める。オレはリコの全てを受け止めて、抱き締めるから。
だんだん回らなくなってきた頭でリコのことを思い出して、もしこれが走馬灯ならばオレはこんな時もリコのことしか考えられないのかと笑ってしまいそうになった。
泣き虫でわがままな、可愛い女。全部引っ括めて愛しい人。
お前のしたかったことはちゃんと成し遂げた。イザナは多分無事だ。鶴蝶も撃たれはしたけど生きてる。お前の愛したきょうだいたちは、みんな無事。
らしくもないなと自分でだって思うのだ。愛する女のきょうだいを庇ってこうして死にかけているなんて、本当にらしくないことをしている。
リコのせいだ。リコに出会って、こんなにも変えられてしまった。お前と一緒にいるうちにオレまでこんなにも馬鹿になったよ。一緒にいると似てくるとは言うけれど、こんなところが似なくたっていいだろう。
だんだんと兄たちの声も聞こえなくなってくる。どうにも瞼が重くて目を開けていられなくなって閉じれば、ぐっと楽になった。痛みが引いていく。これは本当に死ぬかもしれない。
意識が泥沼に沈むようにして落ちていく。目が覚めたその時は、お前がオレの腕の中で眠っていればいいのに。完全に意識がなくなる前にそう思った。
渡りにデブ