起きてから体温を測ったり採血をしたりして、いつも通り軽く問診もして、朝食を食べて部屋を出た。ここ最近の日課の朝の散歩だ。リハビリとして歩き回るのは良い事だとお医者さんにもお墨付きをもらっているから、心配性な兄たちもそれならと認めてくれている。
渡り廊下から階下を見下ろして花壇の花がなんなのか予想をしたり、すっかり顔見知りになった看護師さんに今日の献立を教えてもらったりしながらゆっくり階段を降りて二つ下の階を目指す。階段を降りきっていくつかの角を曲がった先の、一番奥。もう何回か訪ねているからここだとは分かっていてもルームプレートに書かれた名前を確認してから、その病室のドアを開けた。
個室に移されてから今日で四日目なのに、窓際の棚には花や果物が沢山置かれていた。一昨日と昨日の夕方にここを訪れた時には大親友だと紹介された八戒のお兄ちゃんや彼氏であるリンドーくんのお兄さんが来ていて、ケンちゃんも一緒について来てくれたから全体的に身長が高くて威圧感があったことを思い出す。
昨日のお昼に来た時から更に増えた見舞い品を意味もなく横目で確認しながら壁際に回って、ベッドのすぐ側に置かれた椅子に腰かけた。しっかりと上下している胸と、少しずつ血色が良くなっている頬を見てからその顔を覗き込む。鼻から顎までをすっかり覆う酸素マスクさえなければ、きっと寝ているだけに見えただろう。
「おはよう、お姉ちゃん」
返ってこないと分かっていても挨拶をして、複数の点滴の針が刺さった腕を揺らさないようにと気を付けながら手を握る。もう三週間以上寝たきりのお姉ちゃんは、生きる上で必要な栄養やその他のたくさんのものをこの点滴で補っているのだ。下手に触って抜けてしまったら、どうすればいいのか分からない。
昼間と夕方はこの病室にひっきりなしに人が来る。だけど比較的朝早いこの時間だけは、同じ病院に入院しているウチぐらいしかここを訪れないのだ。だから朝、日課の散歩のルートにここを組み込んだ。聞こえていないとは分かってもお姉ちゃんと二人きりで話したいことが沢山あって、お姉ちゃんが目覚めるのを待っていられなかったから。
棚に乗せられた花を見る。姉はまさに花より団子といったような人だから、見舞い品も食べ物がフルーツや日持ちする焼き菓子などがほとんどだ。だから割合でいえば少ない花はそれでもよく目を引いた。
ヒナが持ってきた何輪かのガーベラは花瓶に活けられていて、その隣に一昨日その大親友が持ってきた観葉植物の鉢植えが置かれている。高校の教室のお姉ちゃんの机の上に三日前に置かれていたものらしい。最初はなんの嫌がらせだと話題になったそうだが、一昨日にも一輪の造花が置かれていた時点で誰かがお姉ちゃんに対して意味を込めて贈っているのだろうと判断して持ってきてくれたそうだ。
隣席に造花が置かれているのを放置していると呪われそうだからといって届けてくれているが、それを聞いてリンドーくんのお兄さんも確かにと頷いていた。執念深い女だから、自分に対しての贈り物を届けないで放置していたら呪われそう。二人にはお姉ちゃんのそういう側面もよく見えていたらしい。
そんなこと言ってるの聞いたら呪うより先に怒りそうだけどな。そう思いながら記憶よりも細くなった手首を握る。十年以上の時間をかけて少しずつ培ってきた筋肉はこうなってしまってから見るからに落ちてきている。元の力を取り戻すには並々ならぬ努力が必要だとお医者さんも言っていたし、そうでなくともどんどん痩せていくお姉ちゃんの姿は痛ましかった。
「ね、早く起きて。話したいことが沢山あるの」
もう三月も折り返しは過ぎた。リンドーくんも三番目の兄も卒業式に出席出来なかったけれど、それでもとっくに卒業してる。逆にお姉ちゃんは、その大親友に聞いた感じだと進級が危ういんだって。お姉ちゃんの家族はウチのことを気遣ってか何も言わないけれど、リオからこのままだともう一度高校一年生をやることになると聞かされていたから、ウチもそれは分かっていた。
さすがに高校側もつい最近集中治療室から抜けられたばかりでまだ意識の戻らないお姉ちゃんにいきなり留年云々の話をぶつける気はないようだけど、でも覚悟はしておいた方がいいかも。マイキーと一緒に高校一年生をやる覚悟。ウチとも学年的には一年差になっちゃうね。
あと、それからね。ケンちゃんに告白されたんだ。ずっと前からウチのことが好きだったんだって。付き合って欲しいって言われた。
前にお姉ちゃんが絶対両思いだって言ってくれたけど、本当はあんまり信じてなかったの。だってケンちゃんだよ? あんなにかっこいいし優しいし絶対モテるのに、ウチのことを好きになってくれるなんて思ってなかった。告白された時、すごく嬉しくて泣きそうになっちゃった。……嘘。本当はちょっと泣いたりもしちゃったの。次なんてない方がいいけど、もしも次に何かあった時はオレが守るからって言ってくれた。
だけどまだ、返事が出来てない。なんて答えるかなんてもうとっくに決まってるけど、お姉ちゃんに直接この話がしたいの。相談したい。きっと自分のことみたいに喜んでくれるよね。最初はちょっと嫌そうな顔するかも。お姉ちゃん、ウチに過保護だから。
「ケンちゃんもね、ゆっくりでいいって。だからお姉ちゃんが起きてくれて、この話してから返事はしようと思ってるの。……早く起きて」
お姉ちゃんは、出会った時から私よりずっと背が高かった。私が九歳で、お姉ちゃんが十一歳。マイキーを片手で引っ張って無理矢理動かして、ウチは「ああこの人、すごく強い人なんだ」って思った。強くて、かっこよくて、その背中は大きい。何歩も先を行く大人に見えてた。
ニィのこともマイキーのことも普通に殴るし蹴るし、手が出るのが早いよね。何かやらかした時は基本的に言葉より拳で、ウチがマイキーと喧嘩した時もいっつも代わりに怒ってくれてた。真兄が彼女にフラれてへこんでる時はいっぱい笑ってからちゃんと話を聞いて、ウチらが悩んでる時も何も言わないでそばに居てくれた。
お姉ちゃんはずっとウチの憧れだった。いつだって前を向いてるし、綺麗だし、滅多な事じゃ泣かないし。お姉ちゃんの泣き顔なんて、全然見たことない。ニィとマイキーと喧嘩した時にリンドーくんに泣き付いてたのを見たぐらいで、記憶の中のお姉ちゃんはいつだって笑ってる。
だけど今こうやって、ずっと意識が戻らないお姉ちゃんのそばで、だんだん細くなってく手に触ってると思うの。お姉ちゃんはきっとウチたちの前では泣けないだけだった。本当は泣き虫で、お姉ちゃんだって誰かに寄りかかってないと生きてなんていけなかった。きょうだいの前では、ずっと頑張ってくれてたんだよね。
あんなに強くて大きくてかっこよく見えてたのに、こうしてみると小さくて柔らかくて細いし、普通の女の子にしか見えない。それなのに喧嘩ばっかりでいっつもどこかしら怪我してて、ずっとウチを守ってくれてた。でも、お姉ちゃんだって誰かに守られたかったんじゃないのかなって思う。全部自分一人で抱えて、ウチらのために沢山投げ出して、今もずっとこうして眠り続けてる。そんなお姉ちゃんだって、誰かが守ってあげるべきだった。
ねえお姉ちゃん。ウチのこと庇ってお姉ちゃんがこんなことになるなら、なんの意味もないんだよ。
伸びた前髪を手を伸ばして横に分ける。やっぱり可愛い。センターで分けるのも似合うと思ってた。目が覚めたらそうやって分けててってお願いしてみようかな。
こうしてね、お姉ちゃんが目を覚ましたらお願いしたいこととか、話したいことばっかりが増えていくの。一緒に買い物にも行きたいし、遊びにも行きたい。何より約束していた誕生日を祝わせてほしい。プレゼントも用意してるの。当日に渡せなくてごめんね。でも絶対にお姉ちゃんは喜んでくれるっていう自信がある。ありがとうって笑って、ウチの頭を撫でてくれる。大切にするからって約束してくれる。
「お姉ちゃん」
抑えきれなくなった涙が溢れてきて、お姉ちゃんの手の上に落ちた。泣かないでよと少し困ったようにウチを呼ぶ声が聞こえないことが悲しくて、ますます涙が止まらなくなる。泣かないでエマって言ってよ。そうしたらウチは、お姉ちゃんのせいで泣いてるんだよって言える。お姉ちゃんが起きてくれないと、それも伝えられないんだよ。ありがとうも、なんでこんなことしたのも、なんにも言えない。
ぼろぼろ溢れる涙を拭いながら、それでもお姉ちゃんを安心させたくて笑ってそちらを見る。目が合うことはない。お姉ちゃんはずっと眠っている。
「愛してるから殴ってでも止めるって、ああいうことだったんだね。ウチ、やっと分かったの」
昨日、マイキーがウチの病室に来てね。ウチらを殺そうとした稀咲はもう死んじゃって、もうどうしようも出来ない。だから残った半間をどうにかしたいって、すごい苦しそうな顔してウチに言ってきたの。どうにかするって何って聞いたら、殺すかもって。
それ聞いてね、普通にマイキーのこと殴っちゃった。人のこと殴るのなんてはじめてで、全然マイキーからしたら痛くなんてなかったと思う。だけどベッドから降りて、何回も殴るっていうか、叩いた。なんでって言って、涙が今みたいに止まらなくなって、何回も。マイキーは抵抗なんてしなかったし、ずっと叩かれっぱなし。苦しそうな顔で、泣きそうな声でごめんって言って、涙は出てないのに泣いてるみたいだった。
お姉ちゃんのその愛してるから殴ってでも止めるっていう考え方、ウチ、正直よく分かってなかった。でも、あのマイキーの顔見てたら、こういう事なんだって分かっちゃったの。マイキーはウチのお兄ちゃんで大切な家族。愛してる。愛してるから、そんなことして欲しくない。ウチもお姉ちゃんも、ニィもカクちゃんも、それこそリンドーくんだってそんなこと望んでなんてない。マイキーだってそんなこと分かってるはずなんだよ。
「お姉ちゃん、ウチ、マイキーのこと止められたのかな。これって真兄たちに話してもいい事だと思う? ……分かんないの。分かんないから、お姉ちゃんにも一生に考えて欲しい」
マイキーだってそう考えて、自分一人じゃどうにもならないって思ったからウチの所に来たんだって分かってる。自分だけじゃ止まれないから、ウチとお姉ちゃんに止めて欲しくて、でもお姉ちゃんは起きてなくて、だからあんなに苦しんでた。もう泣きたい投げ出したいって顔をして、でも一人じゃ逃げることも出来なくて、マイキーはウチらに助けを望んでる。
だけど、ウチ一人だけじゃダメなの。お姉ちゃんも居なきゃダメ。きょうだいみんなで止めなきゃダメ。でも、ウチもどうやって真兄たちに話せばいいのか分かんないの。だから起きて。お願い。お姉ちゃん、起きてよ。マイキーが一人で泣いてる。ウチらがそばにいなきゃ。お兄ちゃんはひとりぼっちになるのが得意だから、ウチらが探し出して、そばにいるよって言ってあげなきゃ。
「起きて、お姉ちゃん……人を殴るのって、あんなに痛いんだね。お姉ちゃんもずっと痛かったんでしょ。痛いのも辛いのも全部耐えて、ウチらのこと守ってくれてありがと。次はウチだって、お姉ちゃんのことも、きょうだいのことも、守りたい」
今までみんながウチを守ってきてくれたように、ウチだってみんなを守りたい。小さくて可愛くて大切な妹だって抱き締めて愛してくれたみたいに、ウチだってみんなのことを抱き締めて愛したい。
そのためには、きょうだいみんな揃ってなきゃダメなんだよ。お姉ちゃんだってお兄ちゃんだって居なきゃ、ウチ、幸せになんてなれないよ。
「リンドーくんもね、そろそろ退院出来そうなんだって。お姉ちゃんに会いたがってるってニィが言ってたよ」
涙が止まらなくて、でも今更泣き顔を見せたら不安にさせるかもなんて思って、持ち上げた手の甲に顔を隠すみたいにして額を押し当てる。大好きなお姉ちゃんの手は暖かかった。
いつもウチの手を引いて歩いてくれた、ウチより少し大きな手。この手にまた頭を撫でてもらいたい。大丈夫だよって背中を撫でて、頑張ったねって褒めてほしい。痛かったでしょって、もう殴ったりしたらダメだよって言ってよ。そうじゃなきゃお姉ちゃんだってもう殴ったりするのやめたらって言えないでしょ。ありがとうも何にも伝えられない。
お兄ちゃんだってお姉ちゃんに会いたがってる。止めてもらいたいと思ってる。きょうだいだから分かるの。ウチらみんなきょうだいだから、考えてることだって分かるんだよ。お姉ちゃんがそうだったみたいに。
「お姉ちゃん、大好き。エマって呼んでよ。ありがとうって言わせてよ」
泣かないでって、ウチのことを抱き締めて。
+
普段はペラペラペラペラと喋り続けあっちへこっちへと動き回る妹も、眠っている時は静かだ。宛てがわれた病室は個室だし妹は眠り続けているしで、オレが喋らなければ無言が続く。エマに聞いた限りでは毎日一輪ずつ造花を届けに来ているらしい妹の大親友も、オレを見るなり嫌そうな顔をしてさっさと帰っていった。入室から退室まで三十秒も掛からなかっただろう。
妹から目を逸らして窓の外を見る。夕焼けが眩しかった。乗用車や救急車が出たり入ったりしていて、出入口のあたりも騒々しい。急病人でも担ぎ込まれてきたのかもしれない。
大して面白いものもない外を見続けるのも飽きてきて、また妹に視線を戻す。センターで分けられた前髪は、こちらの方が似合うからとエマが毎朝毎朝分けているらしい。確かに似合っている気がする。まあエマがそう感じたのならば間違いないはずだ。
エマはエマで、妹の件とはまた別で色々と悩んでいることがあるらしかった。説明されてはいないが、何となくマンジローのことだろうなと察している。アイツは今回の件があってからどうにも揺らいでいて不安定なようで、佐野家に帰らないこともあると聞いた。オレと鶴蝶は一先ずということで退院後一ヶ月は妹の実家で世話になることが決まっているけれど、これまで通りに佐野家にも顔を出している。マンジローには会うこともあれば、会わないこともある。
妹の顔を覗き込み、目尻に触れた。軽くまつ毛を撫でる。近付いて触れてみると分かるけれど、案外まつ毛が長いのだ。
妹に──リコに出会ったのは、もう十年以上前。オレが施設に引き取られてすぐの事だったから、正確には十二年近く経つのだろうか。リコの母さんがオレたちと同じ施設の出身で、ちょうどオレが引き取られたその日にもボランティアとして施設を訪れていたのだ。そこで声を掛けられて、その次の週には家に招かれ、今の今まで付き合いが続いている。
正直、最初にオレと同い年の息子と二つ下の娘がいるのだと聞かされた時はまさかここまで付き合いが続くなんて思ってもいなかった。それどころかこんなきょうだいと呼び会える程の仲になれるだなんて、当時のオレに言ったって信じやしないだろう。
オレがリコたちときょうだいになれたのも、リコたちをきょうだいだと思えるようになったのも、きょうだいたちがオレの手を絶対に離さないで今日まで隣にいてくれたからだ。時折それが鬱陶しいと思うことすらあったぐらいには、みんなオレの手を離そうとなんてしなかった。この何日間かで改めてそれを実感している。
特にリコは、もう頑固だなんて言葉じゃ足りないぐらいにはきょうだいたちに拘って、絶対に誰の手も離そうとなんてしない。出来ないと言った方が近いのかもしれない。
ひとりが嫌いなのだろう。恐れているとも言える。離さないから離れないでとオレたちに望んでいるのだ。多分そこはきょうだいたちの中ではオレとリコが一番似ていて、だからこそよく分かった。
ひとりは怖いし、寂しい。一度手に入れて自分のものになったと安心していたものが離れていくのは、何より恐ろしい。オレにはその気持ちがよく分かる。だから手放したくない、手放されたくないと思う気持ちも痛いぐらいに分かっている。
元々、リコは泣き虫でわがままだった。オレと出会った時には人前ではあまり泣かないようになっていたけれど、いつだってリオに引っ付いて甘えてその後をついてまわって、一人になればどこに行って何をすればいいのか分からなくなってしまう。だからオレも兄ぶってその手を引いて歩いたりした。そうすればリコが笑うから、そうしてやるべきだと思ったのだ。
昔からリコは馬鹿だった。何も変わってなんて居ない。友達が出来ないといつも泣いていたし、公園に遊びに行ってみんなに逃げられたと号泣しながら帰ってきたこともあった。リオはリオで小学校に上がった頃にはかなり友人が出来ていて、放課後には校庭やら友人の家やらに遊びに行くことも多かった。だからそういう時には決まってオレがリコを軽く散歩に連れ出したり、リコたちの母さんにお小遣いを貰って駄菓子屋に出掛けたりした。そうすると馬鹿なリコは大抵泣いていたことを忘れて笑うのだ。
最近ではオレたちの前では全然泣かなくなったけれど、元々妹たちの泣き顔は苦手だ。昔は言語化出来なくて見たくないとしか思っていなかったけれど、今はいつだって笑っていてほしいから苦手なんだと自分で分かっている。
だけど、リコが一度だけオレの、オレだけのせいで泣いたことがある。出会ったばかりの頃、くだらない喧嘩をしてリコを殴った。アイツだって殴り返してきたけれど、今と比べれば修行だなんてものはせずに適当に武術を習っていただけの頃のリコの拳なんて痛くも痒くもなかった。でもオレは手加減を一切しなかったから、リコは痛かっただろう。
なのにオレが施設に戻るまでは一切泣かなかったのだ。それどころか数十分後には普通に笑って、本当に普通の顔でオレと夕食を食べて、いつも通り玄関まで見送りにだって来た。だからオレも普通の顔をして、リコは気にしないことにしたのだと判断して施設に戻った。
だけどその次の日に、わざわざ電話をしてしたリオによって夜中にリコが一人で泣いていたことを聞かされたのだ。痛いのかと聞けば痛くないと言って、なんで泣いているのかと聞いても答えやしなかったらしい。それでもリコは泣いていた。隠れて、誰にもなんにも言わずに。
そういうところがあるのだ。誰かを頼れない。甘えることが出来ない。頼る前にも甘える前にも、自分一人で出来るのではないかと自分を過信して手遅れになる。手遅れになってからじゃこうやって、オレたちはお前を信じて待つことしか出来なくなるのだと分かっているようで分かっていない。
だから、もしそれがオレたちではなかったんだとしても、無条件で頼って甘えられる相手を見つけたならそれは良いことなんだと思う。本音を言えば悔しいし、オレたちのことだって頼って欲しい。リコはいつだって支える側に回りすぎて、オレたちはそんなに頼りないのかと思ったことだって一度や二度じゃない。
だけどやっぱり一番に、幸せになってくれることを望んでいる。隣にいるのが竜胆でも、そうじゃなくても別にいい。幸せだと笑って頼って甘えて寄りかかって生きていけるなら本当に誰だっていいし、恋愛をして生きていくことだけが幸せじゃないとリコが思ったならば、オレたちきょうだいと生きていくのもありだろう。幸せに出来る自信はある。
この一ヶ月近くで明らかに細く頼りなくなった手を握る。深く目を閉じている様子は眠っているだけにしか見えなかった。本当に眠っているだけで、今にも起きてくれればいいのに。お前が目覚めることを待ち望んでいるのはオレたちきょうだいだけじゃない。
友達が出来ないと泣いてオレやリオの後をついてまわるばかりだったリコは、もうオレたちがいなくても自分で交友関係を広げて行けるようになった。この病室には毎日たくさんの人が顔を出しているし、見舞い品だってどんどん増えていっている。
お前が起きなきゃ、果物や菓子なんかはオレたちが消費しなきゃいけなくなるだろ。お前は案外リオと揃って食い意地張ってるのに、オレたちが食っちゃってもいいのか。なんで食べたのって怒るなよ。お前が起きないのが悪い。
手の甲と指を撫でる。リコの手はそこらの女よりも固くて広い。人を殴ってばかりなせいで、よく見ると傷が残っている。これまでずっと誰かを守ってきた手だ。オレが握って引いてやっていた手。
「なあ、泣かせてごめん」
聞こえないよな。聞こえてないことは分かってるよ。分かってるけど、謝りたい。
「あの時は殴って悪かった。痛かったんだろ。正直さ、もう何で喧嘩したのかもオレ覚えてねえんだけど、お前は覚えてんのかな。……忘れてそうだよな。忘れてんだとしても、ごめん」
薄く開かれた窓からまだまだ冷たい冬の風が吹き込んできて、カーテンがひらひらと揺れている。あと十日もすれば四月だ。春と言っても差し支えのない季節になる。中庭の辺りに植えられた桜なんかはもう綺麗に咲いていて、ここに来る前にエマと見てきた。それで、いつかきょうだい皆で桜を見に行こうと約束をした。
オレたち、これまでも色んなところに行ったりしてきたけど、花見はしたことなかっただろ。来年でも再来年でもいいから七人揃って、じいちゃんも一緒にさ。お前はケースケのことも呼びそうだよな。竜胆と蘭もくっ付いてきそうだし。そうしてどんどん賑やかになってくんだよ。
「別に、強くならなくてよかったのに。普通に生きて、笑って、幸せになってくれればオレはそれで良かった。オレのせいで強くならなきゃいけなかったってのもあるんだろうけどよ」
竜胆のそばにいるために強くなって、その途中でオレが年少に入れられたせいで余計にリコは強くなろうとした。殴ってでも止める。もう二度と同じことはさせない。送られ続けた手紙にもそう書いてあったし、出所してから避け続けていたけれど、第一次きょうだい戦争なんぞと呼ばれているきょうだい喧嘩の後にははっきりと本人からそう言われた。
オレが今こうしてここに居るのも、なんだかんだと言いつつ少しはまともに生きているのも、きっとあの日リコが正面からぶつかってくれたからだ。逃げずにオレと向き合って、シンイチローやエマたちの話を素直に聞くしかないぐらいにはボコボコにしたから。だからオレは、きょうだいたちに向き合うことが出来た。きょうだいたちをきょうだいと呼べるようになれた。
感謝はしている。オレの手を離さないでいてくれたこと。ちゃんと殴って止めてくれたこと。その愛が本物なんだと認めざるを得ない程には愛を伝え続けてきてくれたこと。
リコの強さがなければ、オレは今ここにはいない。きっともっとスレて人を不幸にして、シンイチローやエマを嫌って、マンジローのことは憎み続けていた。向き合うことから逃げ続けていた。
だけど、こうして意識の戻らないリコを見ているとやっぱり思ってしまうのだ。強くなんてならないで良かった。修行を始める前のリコが弱かったのなら、弱いままでいてくれれば良かった。リコの手にした強さが、回り回ってずっとリコを傷付けている。その強ささえなければ、リコはきっと普通に生きていけた。
ああでもそうしたら、エマが助からなかったのかもしれない。シンイチローだって羽宮一虎に殴られて、そのまま死んでいたのかも。それは嫌だ。二人には死んで欲しくない。だからってリコにも傷付いて欲しくないし、死んで欲しくないのだ。生きていて欲しい。きょうだいたちには幸せになってもらいたい。笑っていてくれればそれでいいと、幸福だけを願える。
「オレさ、竜胆に庇われたんだ。アイツ、本当にお前に似て来てる。オレのために死にかけて、でもリコならそうしただろうからって笑うんだぜ。お前らホントおかしいよ」
本当に、そんな所まで似てこなくたっていいだろう。おかげでオレはリコと竜胆のことを認めざるを得なくなってしまった。命を救われてしまったし、嫌なところまで似てくるところを見せられると、やっぱりお前らさっさと別れろなんて言えなくなってしまうのだ。
手を伸ばして、目尻を撫でる。こうして涙を拭ってやればよかった。遠慮なんてしないで泣いているところを見せて欲しかったし、頼って欲しかった。リコが目覚めたらちゃんとそれを伝えよう。これまでにも回りくどく伝えてきたつもりだったけれど、リコにはきっとちゃんとそれが伝わっていなかった。だから次は、はっきりと伝える。
オレを頼ってくれていいし、甘えてくれていい。すぐに頼るのも甘えるのも難しいなら、まずは何か困った時に相談するところから始めて。なんでも聞くし、一緒に考える。リコがそうしてくれたように、オレが、オレたちきょうだいがこれからはリコを支えていく。
お前が食べたいって言ったから、退院してすぐにケーキ作りも練習し始めてるんだよ。今までに作ったどのケーキよりも凄いものを作って、絶対にリコを驚かせてみせる。試食係のリオがどんどん太ってきてるけど、そこは目を瞑って欲しい。押し付けがましいけど、全部お前のためだから。
「早く起きろよ。このままじゃ二段どころか三段ケーキになるし、オレがパティシエになっちまう」
お前が起きてくれなきゃ、どこで止まればいいのかも分からないだろ。もういいよ、そんなに食べれないからとどこかでストップと言ってくれなきゃオレのケーキ作りの腕は上がり続けるし、リオだって太り続けることになる。
「エマだってお前に伝えたいことがあるみたいだし、シンイチローだって一回お前のことちゃんと怒るって言ってたぜ。庇ってやんねえからな。……伝えてこなかったけどさ。リコだって、オレからしたらずっと変わらずに小さくて可愛くて大切な妹なんだよ。愛してる。お前のそばにいるよ。一人になんてしない」
ひとりぼっちが寂しくてずっと泣いていたオレの妹。竜胆と喧嘩した時は胸ぐらい貸すし、泣きたい時はいくらでも泣いていい。迷ったならオレが手を引くし、どんな時だって一緒に悩む。
お前がオレたちの幸せを願ってくれるように、オレたちだってお前の幸せを願ってるんだ。早く目を覚まして、それを伝えさせて。お前にとってオレたちが幸せであることが幸福の条件であるように、オレたちの幸福だってお前の幸せがなければ成り立たないものなのだと、そろそろ分かってくれ。
人事を尽くしてデブを待つ