エマが泣いてる。

 そう思って目を開けたんだけど、目の前にいたのは見たことのない、だけど知っている人だった。その人越しに知らない天井を見上げて、何度か瞬きをする。知らない天井に知らないベッドに、知っているけど知らない人。ここはどこだ。

「起きた?」
「うん。……イメチェン?」
「気にするのそこか」

 私を跨ぐようにして四つん這いになっていたその人が、ひとつ笑って体勢を崩し、のしかかってくる。それを受け入れて、少し迷ってからその後頭部に触れた。紫と青のツートンカラーに、襟足の伸びた髪。笑い方は変わらないけれど、メガネもしていないしピアスも違う。纏う空気も少し、変わった気がした。
 指通りのいい髪を何度か梳いているうちに、空いた左手を握られた。指と指の間を撫でて、手の甲を摩って、それからゆっくり一本ずつ指同士が絡められていく。そういうことをしたい時のお誘いみたいなものだ。これも変わっていないらしい。

 でもこれ、浮気になったりしないかな。同一人物ではあるんだろうけど、なんとなく何かが違う気がする。こっちの方が成長してるというか、大人っぽいというか。嫉妬深い人だから、自分だったとしても許してくれなさそう。

「あの、ここどこかな」
「オレの部屋」
「へえ……よく分かんないけどいい部屋だね。蘭ちゃんは?」
「流石に三十になっても兄貴と暮らしてたりしねえよ」
「え、三十歳なの?」
「うん」
「私十六だから、竜胆くん、これ犯罪になっちゃうよ」

 流石に未成年に手を出すのはヤバいんじゃないのと聞けば、少し顔を持ち上げて私を見下ろした後に、竜胆くんは鼻を鳴らして笑った。そのまま鼻の頭に唇が落とされる。楽しそうな様子を見るに、私の発言の何かがお気に召したらしい。

 そのまま再び倒れ込んできた竜胆くんに縺れあうように抱き締められて、腕の中に閉じ込められる。重い香水の匂いだ。私の知っている竜胆くんも香水は重めなんだけど、それよりもずっと鼻に残る。胸に顔をくっ付けてその匂いを吸い込みながら、やっぱりこの人は私の知っている竜胆くんと同じ人で、でも違うのだなと思った。

 私のそんな気付きを知ってか知らずか、竜胆くんはまた喉を鳴らして楽しそうに笑って私の髪に指を通す。

「キスもアウト?」
「さあ……したいの?」
「したいよ。ずっとしたかった」
「……私とキスしてなかったの?」
「ずっと出来てなかった」

 特に何ともないですよとばかりの、逆に感情を限りなく封じ込めたみたいなその声になんとなく事態が呑み込めた。多分この竜胆くんは、タケミっちが見てきたという未来の竜胆くんだ。私がイザナを庇って死んだ未来の竜胆くん。私とキスなんて出来るはずもない。

 背中に腕を回して何度かあやすように叩いてやれば、また竜胆くんは笑って擦り寄ってきた。少しくたびれたトレーナーとスウェットは部屋着なのだろうか。部屋中に染み付いた香水の匂いの中に少しだけ竜胆くんの匂いがある。胸に顔を押し付けてその匂いを嗅ぎ分けながら、少しづつ状況を整理していく。
 エマを庇って稀咲に殴られたのだ。マンジローを泣かせてしまった。大寿くんはあの後ちゃんと竜胆くんに私の気持ちを伝えてくれたのか。タケミっちはイザナを助けてくれた? 今一番気がかりなのは、イザナのことかもしれない。


 そもそもここはどこだろう。これを考えると胸の辺りがギュッと痛むけれど、多分今私を抱き締めている竜胆くんはもう死んでいる。私もあのまま死んだのかもしれない。ということは、ここは死後の世界?
 しかしそれにしては嗅覚も触覚もしっかり働きすぎている気がする。でも死んだことがないから、死んだ後のことが分からない。このままじゃ埒が明かないし竜胆くんに聞いてみようかな。

「あの」
「なに?」
「私って、死んでる?」

 意を決して尋ねたけれど、数秒の沈黙が訪れただけだった。竜胆くんが腕に込める力が強くなる。潰れたカエルみたいな声が出たけれど無視されてしまった。
 竜胆くんが押し黙って私も何も言えなくなると、なんの音もしなくなる。静かすぎて顔をくっつけた胸から平坦な竜胆くんの心臓の音がして、それより少し早い私の心臓の音も聞こえてきた。音はそれだけ。


 何も言わない竜胆くんの心臓の音を耳を澄ませて聞きながら、死んだはずなのに心臓の音は聞こえるんだと思った。もしかしてこれって、私に都合のいい夢だったりするんだろうか。実はこの竜胆くんはタケミっちの言っていた未来の竜胆くんではなかったりして。私にキスが出来なかったっていうのも、ちょっと喧嘩をしてただけとか。竜胆くんはキスが好きだから、ほんのちょっとを大袈裟に話してくれただけなんじゃないの。

 そうだったらいいのに。私が居なくなったせいで生きていられなくなってしまった竜胆くんなんて居なくて、全部が全部夢。三十歳になった竜胆くんは私ともしかしたら結婚なんてしちゃったりして、家族も増えて、幸せで。それでいいのに。それが、いいのに。


 そんなことを願っているうちに、竜胆くんは小声で私を呼んだ。少し泣きそうに聞こえるその声に、なるべく優しく聞こえるように何かと尋ね返す。

「なんでオレのこと置いてったんだよ」
「……ごめんね」
「この十二年間、ずっとリコのことだけ考えてた。お前ならこうするかもって色々やって、これやったらお前が怒ってくれるだろうなってこともして……」
「うん」
「オレ、お前に嫌われるようなことばっかりしたんだ。人も殺したし、誰かを不幸にしたし、正直ここでお前のこと抱いた程度じゃ痛くも痒くもないぐらいには罪ばっか犯してきた」
「……うん」

 思うところはあるのだけれども、今はその背を撫でることしか出来ない。相槌を打って合間合間に名前を呼んで、そばにいる。今更遅いのかもしれないけれど、それでもそばに。

 私が死んだのかは分からないけれど、竜胆くんの知っている私は、竜胆くんの腕の中で死んだのだ。私が竜胆くんを傷付けた。私の知っている竜胆くんも、そうして傷付いているのだろうか。呪いを抱えて、私が死んだあとも一人で苦しんで生きていくのか。
 そう思うと胸が重くなって、ふっと息が詰まる。竜胆くんの言葉に何も返せなくなって、また無言が訪れる。そうしていると余計に呪いなんて残さなければ良かったんじゃないかと思ってしまうのた。

「……竜胆くん」
「……ん」
「竜胆くんがそうなったのって、結局私のせいだよね。私があの日竜胆くんにそばにいてって言わなきゃ、竜胆くんは私がいなくても生きていってくれたの?」

 その腕から逃れるようにして上半身を起こして、竜胆くんを見下ろす。仰向けになって私を見上げた竜胆くんの瞳は僅かに潤んでいた。手を伸ばして頬に触れてその目尻を撫でれば、抑えるみたいに手を上から握られた。

 お互い再び黙りこくって見つめ合う。隙間なく閉じられたカーテンの向こうで朝を告げる鳥が鳴いているような気がした。時間を示すものが周りに一切ないし灯りがつけられているから判断が出来ないけれど、外は朝なのかもしれない。

「オレは死んだけど、リコ、お前は死んでねえよ。それを踏まえて答えて欲しいんだけど」
「うん」
「オレが今ここでお前に一緒に死んでくれって言ったら、リコは死んでくれる?」

 竜胆くんは笑って私の手を握る。私はそれを見下ろして何度か瞬きをした。空いた左手を竜胆くんの顔のすぐ側について、目覚めた時とは逆の姿勢になる。

 その言葉を信じるなら、私はどうやら生きているらしかった。今も死にかけていて、だからこそこんな夢ともなんとも言えない幻を見ている。ここは死後の世界と現の世界の狭間なのかもしれない。


 紛れもない愛に満ちたその笑顔を見つめながら、はじめて竜胆くんにそばにいてほしいと願った日のことを思い出す。一ヶ月しか共に居られなかった大切な友人。許されない罪を犯した人。それでも私の大切な、大好きな竜胆くんだった。
 あの頃からもうずっと、竜胆くんがそばにいてくれなきゃ息が出来ない。竜胆くんは私の生きる理由で、意味だ。竜胆くんがいなければなんの意味もない。

 きょうだいたちのために死ねる。竜胆くんと一緒に生きていたい。自分が死ぬ未来を教えられてからというもの、そればかりが私の頭の中でぐるぐると回っている。どちらも愛で、私の本音だ。

 ああ、そうだ。竜胆くんに答えなきゃ。

「私でいいの?」
「リコがいい」
「そういうことじゃなくて。私ね、タケミっちに聞いてたから自分が死ぬかもって覚悟は決めてたの。だから、伝えられなかったけど竜胆くんに呪いの言葉を残してる。私以外の誰のことも好きにならないで、永遠に私だけを見ててって」
「……」
「私のことは一番私がよく分かってる。そっちの私、死ぬ前に竜胆くんに、私のことは忘れてって言わなかった?」

 竜胆くんの笑顔が途切れる。覗き込んだ竜胆色の瞳が揺れていた。それが答えだ。私は竜胆くんに、私のことを忘れてと告げて死んだのだ。

 なんとなくだけど、そうなんだろうなとは思っていた。多分いざって言う時に私は自分を忘れてとか他の人と幸せになってとかしか言えなくて、だから大寿くんに託してこうなってしまった方が良かったのかもしれないとすら思うのだ。だって、大寿くんは自分の思考なんて挟まずに私の言葉をそのまま竜胆くんに伝えてくれる。忘れないでと私を好きでいてが、そのまま竜胆くんに伝わる。

 私は私を分かっているつもりだけれど、信用はしていない。たとえこの先何があったって、どれだけ愛していると言ってもらったって、私がいなくなってダメになる竜胆くんを知ってしまった以上は忘れてとしか言えないだろう。二人とも死ぬとなったら私と死んでと言えるかもしれないけど、そうじゃないならきっと無理。

「本当に私でいい? 竜胆くんの知ってる私と、今竜胆くんの目の前にいる私は、一緒でも違う。今私の目の前にいる竜胆くんと、私が知ってる竜胆くんが違うみたいに」
「……今のオレは嫌いってこと?」
「ううん。竜胆くんの全部を愛してる。どんな竜胆くんでも大好きだし愛してるって胸を張って言えるよ。竜胆くんの腕の中で死んじゃった私もね、そうなの。竜胆くんがどれだけ変わったとしても、また人を殺しちゃったんだとしても、誰かを不幸にしたんだとしても、私はあなたの何もかもを愛してる。嫌いになんてなれない」
「……ずっとお前に会いたかった。叱って欲しかった」
「うん」
「忘れても幸せになっても誰かを愛しても、全部嘘なんだろ。分かってたんだよ。嘘だって分かってたけど、オレ、お前の残した約束を破ってなきゃ生きていけなかった」
「うん」
「叱ってくれよ。殴っていいし、嫌いだって言ってくれていい。泣いてもいいよ。だから、頼むからオレのこと叱って、これからはそばにいて」
「……それは、私じゃダメなんだよね」

 竜胆くんだってそれは分かっているのだろう。なんの言葉も返ってこない。
 鼻の奥がツンとして、その頬に涙が落ちた。ぐしゃりと顔を歪めた竜胆くんの瞳から溢れ出して横に落ちていく涙と私の涙が、不格好な混ざり合い方をする。

 竜胆くんのその願いを叶えるのは私じゃない。竜胆くんの腕の中で死んで行った私だ。

「オレはこんなになって、リコにダメだって言われたことほとんど全部やったのに……それでもリコは、地獄までついてきてくれんの?」
「行くよ。何があったって、私は竜胆くんのそばにいる。そこが地獄だったとしても、絶対に。言ったでしょ。私のことは私が一番よく分かってる」
「……」
「でも、ごめんね。私はあなたと一緒に死ねない。竜胆くんのこと待たせちゃってる。泣き虫だから、もしかしたら泣いてるかも。だから私、行かなきゃ」

 あなたを待っている私がいるように、私を待ってくれている竜胆くんがいる。アレで泣き虫な人なの。私のために泣いてくれる人。私のことを、それぐらい大切にしてくれる人。
 その答えに満足してくれたのか、竜胆くんはまだまだ泣きながらも笑ってくれた。そのまま手を引かれて倒れ込む形になりながら思いっきり抱き締められて、名前を呼ばれる。私も名前を呼んで抱き締めて、涙が止まりそうになかった。

 置いて死んでごめんも、そばにいたかったも、私の言っていい言葉じゃない。

 重い香水の匂い。それから微かな竜胆くんの自身の匂い。香水はもうちょっと軽くてもいいんじゃないのかなと思うけど、でも全部好きだ。何もかもが好き。

「さっきの質問の答え」
「うん?」

 掠れた声で竜胆くんが言う。返した私の声も、涙で震えていた。

「リコがあの日そばにいてって言わなきゃ、オレはリコがいなくても生きてられたのかってやつ」
「……」
「無理。あの日そばにいてって言われなくても、オレはリコのそばで生きていきたいって思ってたから、遅かれ早かれそばで生きてってオレが言ってた」
「……そうなの?」
「そうだよ。知らなかっただろ。オレの方がお前より先にお前のそばで生きていきたいって思って、好きになって、一緒じゃなきゃ生きていけなくなってた」

 広々としたベッドに並んで寝そべって、竜胆くんが腕の力を僅かに緩めて私の顔を見下ろしてくる。それを見上げて、浮かべられた笑みにまた泣きたくなった。手を伸ばして涙で濡れた目尻に触れれば、少し擽ったそうに目が細められる。

 知らなかったと返せば竜胆くんはまた笑って、私を抱き締める腕に力を込めた。胸に顔をくっつけたせいでその心音がよく聞こえる。さっき聞いていたよりも少し早く感じられるそれに耳を澄ませているうちに、なんだか眠くなってきた。

 何か他に、伝えなきゃいけないことがあったっけ。ここを逃したらもう二度と、この竜胆くんには会えない気がしている。だって、そっちの私も伝えたいことが沢山あるはずなのだ。竜胆くんが十二年間私を思い続けてくれていたように、きっと私だってずっと竜胆くんのそばで竜胆くんを思い続けていた。
 好きも大好きも愛してるも、忘れないでもそばにいても、きっと今度こそ例えそこが地獄でも私がきちんと伝えてくれる。だからそちらは、そちらの私に任せたい。ちゃんと言わなきゃ伝わらないってことも、もう分かってるはずだから。

「竜胆くん」
「なに、リコ」
「私、こうやって竜胆くんの腕の中で眠るのが好き。朝目が覚めた時竜胆くんの腕の中にいられると、すごく安心する」
「……オレも、リコがオレの腕の中で眠ってくれるのが好きだった。目が覚めた時にお前がオレの腕の中で眠ってるとさ、ずっとこうしてたいって思うんだよ」
「あはは。両思いだ、私たち」
「だな。……そっちのオレにも、それ伝えてやって。絶対喜ぶから」
「うん。今度こそちゃんと私の口から伝える。あなたの腕の中で眠りたいって、ちゃんと」

 抗いようのない微睡みの中に意識が沈んでいくのを感じる。甘えるように擦り寄れば、少し笑って抱き締め返してくれた。こうしていくと心臓の音すら溶け合っていくみたいで、言葉にできないぐらい心が満たされる。


 ねえ竜胆くん。やっぱりあなたの全部が好き。それをちゃんと私も竜胆くんに伝える。だからちゃんと、あなたもそっちの私に伝えてあげて。


 あなたが好きだと言ってくれるだけで、私の全部が報われるの。


 +


 事前にイザナやリオから聞いていたとおり、病院の中庭は桜が咲いていた。渡り廊下からそれを見下ろして、今度桜を見に行くのもいいかもしれないと考える。あれで花より団子なリコは花見よりも食に夢中になるような気がしなくもないけど。

 桜を見るのは数分程度でやめて事前に聞いていた病室を目指していれば、以前リコがこの病院に入院した際に担当だった看護師にすれ違った。あちらもオレのことを覚えていたようで、驚いたように目を見開かれる。話を聞けば、前回は毎日顔を出していたのに今回は一ヶ月間一度も見舞いに来なかったから別れたのかと思っていたとだいぶ婉曲した表現で伝えられた。
 別れていないだとか今度もまたリコの担当になったのだとかなんだとか適当に一言二言交わして別れ、また病室を目指す。すぐそこだからと言われていた通りに角を曲がって一番奥の部屋には一分も掛からずに辿り着いた。ネームプレートを確認してからドアを開ける。


 目覚めてからも二週間以上入院していたせいで、リコに最後に会ってから一ヶ月以上経っていた。前に約束した海に連れ出す約束の日からも昨日で一ヶ月を迎えてしまったし、ケーキの試食を毎日繰り返しているらしいリオなんて少し見ないうちにかなり太っていて驚いたものだ。お義母さんも止められてはいないようだけれど、リコ本人が見たらそこまでしなくていいからと怒りそうなレベルだった。
 花と果物や菓子類の飲食物、割合でいえば二対八程度の見舞い品が積まれている棚の前を通って窓側に回り込み、出しっぱなしの椅子に座る。花は大寿がせっせと届けてくれていた分と、長期休暇に入ってからはその弟妹たちがわざわざ届けてくれている分でほとんどだ。高校に届けていたと思ったら大寿の家まで届け出すなんて、ストーカーとしか思えない。またリコはどこかで面倒なのを引き寄せたんだろうか。


 オレの意識が戻ったと聞いて文句を言うためだけにわざわざ連絡を寄越してきた大寿の怒り心頭と言った声を思い出しつつ、懇々と眠り続けるリコの手を握る。記憶の中のものよりも体温が下がり、痩せているような気がした。後者に関しては勘違いではないだろう。前者に関しても日々の修行の結果として基礎代謝が上がって体温も高かったわけだから、この一ヶ月以上の運動の出来ない期間に平均体温が下がった可能性は十分にある。
 意味もなく手を撫で摩り、換気のためか薄く開かれた窓から吹き込む風によって靡くカーテンを見る。いつから開かれているのかは知らないが、窓はそろそろ閉めてもいいだろうか。リコは寒いのが苦手だから、今も実は寒がっているかもしれない。

 帰る前には必ず閉めようと決めて、再び視線をリコに戻す。痩せた頬に、酸素マスクがあっても分かるぐらい血色の悪い唇。すっかり伸びた前髪はセンターで分けられていて、新鮮だった。

 例えリコの意識がなくとも、オレたちにとってはこれが一ヶ月ぶりの再会だ。色々と言いたいことはあった。なぜこんな無茶をしたのかだとか、勝手に呪うだけ呪って死のうとするなだとか、言いたいことがあるなら大寿を介したりせずに直接言えだとか。
 でもそのどれもが今ここで言葉にするべきことではない気がして、握り返されることの無い手を握ったまま言葉を探す。リコが聞きたいであろうこと。こういうところでは欲張りな女だから、あれもこれもと自分の眠っていた間の何もかもを知りたがりそうだ。


 ここは順序立てて話していくべきかと思い、リコのしたかったことでオレに果たせたことをあげていく。マンジロークンの背中を押したこと。イザナを助けたこと。大きなことでいえばその二つぐらいだろうか。そう数は多くないのだ。

 リコのしたいことは、基本的にきょうだいたちに関することだ。背中を押して抱き締めて、話を聞いてやる。迷った時には手を引いて、歩けないなら歩けるようになるまでその隣にいる。オレにだってその真似事は出来るけれどやっぱりリコがいないとダメなようで、オレにはもうお手上げだ。

「イザナに関しては心配しないでくれていい。鶴蝶もまあ怪我はしてるけど無事。リオが太ったのはリコが起きないとどうにも出来ねえかな」

 きっと一番聞きたがるであろうきょうだいたちの話をしながら、イザナのついでとは言え律儀にオレの方まで見舞いに来てくれたその姿を思い出していく。長兄のシンイチロークンなんてもうてんてこ舞いですという顔をして、貴彦さんに泣き言を言ってしっかりしろと叱られていた。リオも太り過ぎだと叱られていたし、上二人は相変わらずだと言えるだろう。

 そう、貴彦さんと言えば、だ。実はオレも手酷く叱られてしまった。兄もそれに頷いていて全然庇ってくれないしで、なんならリコのきょうだいたちよりもオレの方が叱られたかも。
 揃いも揃って自分を投げ出すようなことばかりするなと言われたのだ。どんどんおかしなところまで似てきて困ると最後の方には呆れられてしまったぐらいで、イザナだってそうだそうだと言っていた。まあイザナもお前は周りをちゃんと見て警戒しておけと拳骨を落とされていたけれど。


 でも本当だよな。どんどんオレはリコに似てきている。それで多分、リコもオレに似てきてるんだろう。

 イザナは喧嘩の時に関節技ばかり使うようになってきて隙を見せたらやられると愚痴を言っていたし、鶴蝶には笑い方が似てきていると指摘された。前者はオレがリコに関節技を教え込んだせいだとして、後者はどうなんだろう。オレがリコに似てきたのか、リコがオレに似てきたのか。それともお互いがお互いに似て来ているのか。

 そうやってここが似ているあそこが似ていると言われる度に、思うのだ。もっとそういう所を増やしていきたい。一緒にいるにつれ似ているところが増えていけば、それが良いところでも悪いところでも、オレたちが一緒に過ごしている証明になるだろう。

「リコが起きない間に色々変わってる」

 細くなった手首に触れて、祈るようにその手を額に当てる。この祈りは誰に捧げるべきものなのだろう。信じてもいない神か。どうかリコを連れて行かないでくださいと死神にでも祈るべきか。それとも、リコ自身にオレと生きてくれと乞うべきなのか。

「天竺のさ、オレら四人以外の面子が皆逮捕されちまってんの。獅音もだぜ。リコに借りるって言ったのに返せないってイザナも言ってたし、獅音もアレでリコには懐いてたからきっと心配してる」

 後の面子とはリコはあまり付き合いはなかったけれど、全く話したことがない仲だったわけじゃない。アレで気の良い奴らなのだ。オレたちに直接何か言ってきたり見るからにソワソワしていたのは獅音だけだったけれど、他の連中だってきっと自分たちのチームに入れていた稀咲のやらかした事だからと気にしてくれてはいたはずだ。
 半年は鑑別所から出てくることも出来ないだろうと貴彦さんは言っていた。だからアイツらが出てきたら、今度は改めてリコにちゃんと紹介したい。オレたちのダチだ。リコとも仲良くなれるかどうかはさておき、どこかしらで紹介はしておきたいと思っていた。


 あれもこれもとどんどんリコとしたいことが増えていく。海にも連れて行ってやりたいし、いっその事まとまった休みにでも旅行に行くのもいいかもしれない。去年の夏は色々あって祭りにも行けなかったから、今年こそ花火を見に行こう。秋も冬も、リコの行きたいところならどこへだって連れて行く。

 それにちょっと重いかもしれないけど、次のお前の誕生日には指輪を贈りたいと思ってたんだ。何も最初から左手の薬指に嵌めてくれだなんて言わないけれど、オレがリコとの未来を真剣に考えてるんだってことを知って欲しくてさ。

「起きてくれるならいつだっていい。本当にいつだっていいんだよ。でもオレは一秒でもいいから早くリコと話がしたいし、オレの名前を呼んで笑って欲しい。話したいことが沢山あるんだ。何もオレだけじゃない。オレと鶴蝶しかまだ聞かされてないけどエマちゃんはとうとう告白されたっつってたし、マンジロークンだってなんか悩んでるみたいなんだよ。二人ともお前に話が聞いて欲しいんだって」

 マンジロークンに関しては直接そう言っていたわけではないけれど、リコと同じように何でもかんでも顔に出るからオレにはよく分かった。東卍も解散させて、イザナたちに聞けば家にもあまり寄り付かなくなって、アイツは一人で悩んでいる。きっと今回の件に関することだろう。すぐ抱え込むところはお前らそっくりなんだよな。
 リコがいつも可愛い可愛いと溺愛してるエマちゃんだって、マンジロークンのこともあって色々悩んでいる顔をしていた。告白の話はオレに聞かせてもそれは聞かせる気がないようだったから触れてはいないけど、早くお姉ちゃんに会いたいって何回も言ってたよ。

 イザナと鶴蝶だって分かり易すぎるぐらいにはリコを気にしているし、シンイチロークンやリオも毎日この病室に通っているのだとお義母さんが言っていた。そうやって、みんながお前を待ってる。

「それにリコ、早く起きないとこのままじゃ留年することになりそうだぜ。あのリオだってストレートで卒業まで漕ぎ着けたのに、そんなの嫌だろ?」

 茶化すようにそう言っても、言葉が返ってくることはない。二人きりの病室では無言になると何も聞こえなくなるのだ。意味もなく脈を測ってリコが生きていることを確認した。いつだって笑って泣いてと表情のコロコロ変わる騒がしさがこうもなりを潜めていると、不安にだってなるし、怖くもなる。

「なあ、いつかさ、オレがいないと生きていけないって言ってくれただろ」

 あの時オレは、オレだってそうだと言葉を返せた記憶がない。そばにいてくれと願って、愛していると囁いて、それで自分の気持ちの全部を伝えた気になっていた。

 手を引いて歩いてもらっていたのも、見つけてもらっていたのも、オレの方だ。リコがオレから目を逸らさないでいてくれたから、オレもリコから逃げたりなんてしなかった。リコがオレのそばにいてくれると分かっていたから、オレだってリコのそばにいられた。
 こうなってみて、それが身に染みて分かってきたんだ。オレはリコがいないとダメだ。一緒にいて。隣で生きて。そうしてくれれば、いくらだってリコの手を引いて歩いていける。お前が手を引いてくれなきゃ真っ直ぐ歩けないオレがお前の手を引いて歩くなんておかしいかもしれないけど、それでも歩いていけるようになるんだよ。


 額に押し当てた手を強く握る。目覚めるのはいつだっていい。何ヶ月でも何年でも待っていられる。残してくれた呪いがあるから、オレはきっと前を見て生きていける。

 だけどやっぱり、隣にいてほしい。

「リコ、お願い。一緒に生きて。オレもう、お前がいないと生きていけないんだよ……」

 ああもう仕方ないなって笑って、オレを呼んで。私がいないとダメなんだからって言ってオレを抱き締めて。


 祈るようにそう呟いて顔を上げる。心做しか滲み出した視界でリコを見つめれば、重たげに開かれた瞼の向こう側の瑠璃色の瞳と目が合った。思わず動きを止めて数秒間見つめ合う。困ったように目尻が緩んで、仕方ないなとばかりに瞳が細められる。その次の瞬間にはもう涙が止まらなくなってしまっていた。
 椅子を蹴っ飛ばすみたいにして立ち上がって、放り出すようにしてメガネも外して顔を近付ける。握りっぱなしのリコの手のどれかの指が僅かに動いて、縋るようにオレに触れた。見下ろした顔にぱたぱたと涙が落ちていく。

「リコ」

 言いたいことが沢山あったのに、そのどれもがもう言葉になりそうにもなかった。何度かゆっくり瞬きをする度に長いまつ毛が揺れる。声を出そうとしたのか酸素マスクの下で唇が微かに動いて、少し眉が顰められた。声は出ないし喉は痛むのだろう。

 ナースコールに手を伸ばして押しながら、何度も名前を呼ぶ。その度に答えるようにして瞬きをして、リコはオレから目を逸らさないでくれた。何かを伝えるようにして口が動かされる。

 なきむし。きっとそう言いたいのだろう。

「おまえのせいだよ」

 みっともないぐらいに震えて嗚咽混じりの声でそう言えば、仕方ないなとばかりの顔でまたリコは笑った。

デブ刈る山路は笛の音

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