きょうだいたちがそれぞれ帰宅するか病室に戻るか仕事に行くかした後、私もあれやこれやと検査を受けたりして数時間。疲れたなあ眠いなあと思っていたタイミングで兄が病室に顔を出してくれた。
 見ない間に本当にめちゃくちゃ太ってるんだよコイツ。座ると椅子が軋んで本人も壊れるんじゃないかと脅えていた。なら痩せろよ。私のことが心配で食べ過ぎたとか本人は言っていたけれど、それを理由にして欲しくない。それほどには太っていて昨日と同じようにまたドン引きしてしまったのはご愛嬌だ。

 それでも今日はその太り方をとうとう母と祖父に叱られたらしく、見た目は変わっていないけれど心做しか萎びてはいる。でも心にストレスを与えて萎びたところで痩せなきゃ意味がないと思うんだよね。母たちもそろそろこのデブの食生活を管理してジムにでも通わせた方がいい。

 しかしデブがデブであるのは昔からのことなので、私としてはそこにはあまり興味がない。糖尿病で死ぬなよと思っているぐらいだ。
 なのでどうして竜胆くんがイザナを庇ったことを昨日教えてくれなかったのと聞けば、何の話ですかとばかりの顔をした後にああそう言えばと兄は声を上げた。忘れていたらしい。正気か? デブで馬鹿でアホで記憶力もゴミクズとかどうするつもりなんだろう。我が兄ながら情けなくて涙が出てきそうだ。


 そのまましばらくくだらないことを話して、家に帰るとまた怒られそうだから今日は佐野家に帰ると足取り重く病室を出ていった兄を見送って数分。久々に見ても相変わらず顔面だけは国宝級の蘭ちゃんが来てくれて、お互い無事でよかったねと話した後に特に顔に傷が残らなさそうでラッキーだと頷き合った。何度も言うけれど本当にお互いの顔だけはタイプなんだよ。

 そんな蘭ちゃんもこの後祖父の別邸にお呼ばれているということでさっさと帰っていき、私は私で眠くなってきたので看護師さんが来るか大寿くんが来るかするまで寝るかと思っていたし、実際に寝た。久々に長時間話して騒いだせいで思った以上に疲れていたらしく、もうぐっすりだった。


 それで何となくそろそろ起きるかなと目を覚ましてみたら、目の前に竜胆くんがいたわけ。ふーん、私に都合のいい夢ってことね、これ。
 いつからそうしていたのか私をじっと見つめている竜胆くんと数秒見つめあった後に、そうしてまだ夢を見ているみたいだと判断してもう一度目を瞑れば名前を呼ばれた。呆れたようなそれにもう一度目を開いて、また見つめ合う。伸ばされた手に鼻の頭を摘まれた。うん、現実だな。

「本当に今日も来たんだ」
「暇だったから。さっき大寿が来てたけど、また出直すっつって帰ってた」
「ああ……花のことちょっとで話したくてお昼ぐらいにメールしたんだよね。それかな」

 まさか連絡をしたその日に来てくれるなんて思わなかったから寝てしまっていてちょっと申し訳ないことをした。まあ大親友だからね。友情に免じて許してくれ。


 手を借りて上半身を起こし軽く伸びをする。背中と肩がパキパキ鳴って、体の内側が鈍く痛んだ。思わず顔を顰めれば心配そうに眉を寄せた竜胆くんが手を握ってくれる。あまり心配は掛けたくないし耐えられない痛みでもないので笑みを浮かべて頬にキスをすれば、同じようにキスを返してくれた。メガネのフレームが顔に触れて、意味もなく笑ってしまう。

 病院に運び込まれた時の自分の体の状況だとか、それこそ今の自分の状態だとかを私はよく分かっていない。難しいことは分からないし、両親やお医者さんも少しずつ向き合っていけばいいと言ってくれたからそれに甘えている。殴られたのは左でも右もぶつけてて頭部のダメージは左右関係なく重大でーとか、肋骨が折れて肺に刺さって損傷がーとか、もう何が何だかって感じなのだ。自分の体のことなのについていけないというかなんというか。
 それでも今こうやって普通に起き上がったり話したり出来ているのは、この一ヶ月の間に私の体が驚異的な回復力を見せたから、らしい。そこの所もよく分かっていないけれど、お医者さんが驚くぐらいどんどん回復していったんだって。褒めてもなんにも出ませんよと言ったら別に褒めてないよと返されたことも記憶に新しい。


 まあ自分でも、色々と向き合っていくのには時間が掛かるんだろうなあとは思っている。出来ることより出来ないことの方が多くなって、色々と諦めて捨てなければいけないことが出てきて、私はこれまでの私ではいられなくなる。エマを庇ったことは何一つ後悔していなくても、手にしたものを手放さざるを得なくなってしまうのは少し怖かった。
 笑いを引っ込めて黙りこくった私の考えていることが分かったのか、竜胆くんは座っていた椅子から立ち上がって何も言わずに私を抱き締めてくれる。背中に回された腕を受け止めて、着込まれたパーカーの背中を掴んだ。胸に顔を当てて心音を聴きながら、何度か深呼吸をする。こうしていると落ち着くのだ。

 若干前のめりになっていた竜胆くんがゆっくりベッドに腰掛けて、背中に回された腕に少し力が込められる。ここにいるよと伝えてくれているようだった。


 竜胆くんと一緒にいると目に見えない部分が満たされる。そばにいるだけで幸せだと思える。そして、これから先も一緒に生きていたいと心底思う。
 そのためにも隠し事はなしと約束をしたわけだ。まあ私は下手くそな言い訳でひと月以上隠し事を続けて、挙句竜胆くんを泣かせてしまったわけだけど。

 だけど、これってその隠し事とおあいこになるレベルの問題だと思うの。

「イザナたちから聞いたよ?」
「あー……」
「結構怒ってるんだけど、私。なんでそんなことしたのか教えて」

 これで案外怒っているのだ。無茶をしたとかいうレベルじゃないでしょ。私だってイザナを庇って死のうとしていたことは置いておいて、エマを庇った件に関しては本当に偶然だ。勝手に体が動いた。自分を棚に上げるなって感じかもしれないけれど、きっと分かっていてイザナを庇いに行った竜胆くんとは話が違う。
 困ったように竜胆くんは私の名前を呼んでくれたけれど、どうにかこうにか言いくるめようとしてくれていることが分かったので軽く背中を叩く。自分では分かってないかもしれないけど、竜胆くんも結構分かりやすいんだからね。

「でもリコだってそうしただろ?」
「……」
「お前の出来なかったことをしてやりたかったんだよ。心配掛けたのは謝る。でもオレだってお前のこと心配してたんだから、な? 許して」
「……もうしないって言ってくれるまで許さない」

 まあ許すも許さないもないわけだけど。

 イザナを庇ってくれたことは本当に感謝している。そうでもしてくれなきゃ、きっと死んでしまっていただろう。思い返すと私はちゃんと誰かにイザナを託せていなかったし、タケミっちだって色々抱えて手一杯だったはずだ。そんな中で誰に言われるでもなく自分の意思で竜胆くんはイザナを庇ってくれた。

 だけどやっぱり、無茶はして欲しくない。自分を投げ出してなんて欲しくないし、生きていて欲しい。竜胆くんがいなければなんの意味もないのだ。竜胆くんがいないと生きてなんていけなくなってしまった。

「分かった。もうこういうことはしない。その代わり、リコももう無茶しないでくれよ。面倒事に突っ込んでいくのはやめて、大人しくしてて」
「……うん。大人しくしてる」

 というか、このままだと大人しくせざるを得ないだろう。歩けるようになるまでだいぶ時間が掛かるだろうし、運動とかもなるべくしない方がいいとお医者さんに言われてしまったし、きょうだいや家族たちがこれからすごく過保護になりそうだし。

 それでもきょうだいたちに何かあったらきっと突っ込んでいってしまうのだろうけど、そうでもなければさしもの私も活発に動き回ってあれやこれやと面倒事に首を突っ込もうとは流石に思わない。今回の件で色々な人に心配を掛けすぎた。

 私の返事に満足したのか竜胆くんは良い返事と呟いて、あやすように背中を撫でてくれる。そうしているとやっぱり落ち着くし、このまま落ち着き過ぎて眠ってしまいそうだ。竜胆くんの腕の中で眠るのは大好きだけど、今はもう少し話をしていたい。

 ああ、そういえば。

「竜胆くんに言いたいことがあったんだった」
「なに?」
「私、竜胆くんの腕の中で眠るのが好き。退院したらまたお泊まりさせてね。それで私が寝てから起きるまでずっと抱き締めてて。寝る時も起きる時もそばにいてほしい」
「……オレもリコのことを抱き締めて寝るのが好きだよ。言われなくたって抱き締めて寝るけど、暑いから嫌とか言うなよ。何言われたってもう離さないからな」
「ふふ、離さないでいいよ。夏になったら冷房付けて毛布被って竜胆くんにくっついて寝るから。というか、竜胆くんこそ暑いの苦手じゃん。大丈夫なの?」
「大丈夫だって。朝起きてからシャワー浴びればいいだけだろ。あ、どうせなら朝から一緒に風呂入る?」
「もー、竜胆くんのえっち。まあ、その時改めて誘ってよ。断るか断らないかは、その時の私に任せる!」

 首筋に擦り寄ってきた竜胆くんを受け入れて、その頭に手を伸ばして髪をわしゃわしゃと掻き混ぜるようにして撫でる。やめろと声を上げられたけど無視した。昨日は目覚めてすぐにあれこれ検査をされて慌ただしかったし兄たちもいたから、こうして抱き締めてもらうのも抱き締め返すのも久々なのだ。事故の前にもお互い忙しくしていてあまり会えていなかったし、もう少しこうしてくっ付いていたい。

 ちょっぴり早くなったどちらのものかも分からない心音を聴きながら、このまま抱き締めあって何もかも溶け合ってしまえればいいのにと願う。竜胆くんにしか抱かない感情だ。きょうだいたちや家族に抱くのとはまた違う形の愛。この先きっと永遠に竜胆くんにしか向けられない、竜胆くんに捧げるためだけの愛。

 熱い吐息が首にかかって擽ったくて身を捩った。背中に回されていた腕が肩まであげられて、お互いに少し体を離して見つめ合う。熱っぽい瞳だ。思わず笑ってしまったけれど、ちゃんとそのメガネを外してあげる。

「……ちゅーしか出来ないけど、ちゅーする?」
「……する」

 お互い分かりきっていたことを聞けば、瞳同様熱っぽい声で答えられた。腕を首に回して先に唇の横にキスを落として、その肌の熱さに喉を鳴らして笑ってしまう。笑われたことが不服だったのか僅かに眉を寄せて顔を近付けてきた竜胆くんに何を言われるでもなく目を瞑って、寄せられた唇を受け入れた。


 竜胆くんはキスが好きだ。付き合う前からよく私にキスをしていたし、付き合ってからも事ある毎にキスをしてくれる。それこそ人目を憚らず自分のしたい時にしますって感じで、そんな竜胆くんのせいで私も竜胆くんとするキスが好きになってしまった。

 くっ付いて離れて角度を変えてとまさにキスの雨という言葉が相応しいぐらいのキスが続く。受け身で居続けるのもなんだかなあと思うので私からも何度かキスをして、ふと魔が差して目を開けた。ぱちりと目が合う。あ、竜胆くんってばずっと目開いてたな。前にそれやめてって言ったのに。
 お仕置だよという意味を込めて下唇に軽く歯を立てて、最後に軽く舌を絡めてから唇を離す。間抜けな顔をしてこちらを見ている竜胆くんの唇が濡れているのがなんだか可愛くて、また触れるだけのキスを落とした。

「はい、終わり。続きはまた今度しようね」
「……もう一回は?」
「だーめ。ここ病室だよ? 今度来てくれた時にもまたちゅーしてあげるから、それまで待ってて」

 そう言い含めれば一応納得はしてくれたのか、名残惜しそうにしつつも頷いてくれた。そのまま再び抱き締められたので私からも抱き締め返して、その背を撫でる。そうすれば擦り寄ってきてくれたので、また笑って腕に力を込めた。竜胆くんも竜胆くんで結構甘えたな人なのだ。こういうところはちょっと弟っぽい。

「そうだ。寝る前に蘭ちゃん来たよ。お祖父ちゃんとご飯食べるって言ってさっさと帰っちゃったけど」

 竜胆くんも誘われてたんじゃないのと返せば、そもそも蘭ちゃんが来ていたこと自体知らなかったのか驚いたように声を上げられた。あれで二人きりの時は兄のように接してくれるから私としては別に驚くことでもなかったんだけれども、竜胆くんとしてはそうではないらしい。
 少し焦ったように肩を掴まれて顔を覗き込まれる。見るからに不安そうな顔をされて、何となく何を心配しているのかは分かってしまった。思わず浮かんだ笑みは隠さないまま、何か言われるよりも先に頬に手を当てて口を開く。

「心配しなくても蘭ちゃんとは何にもないから。私が竜胆くん以外の人のことそういう目で見れないって、竜胆くんが一番よくわかってるでしょ?」
「いやでも……リコ、兄ちゃんの顔好きだろ?」
「まあ顔は好きだよ? でも蘭ちゃんもお兄ちゃんみたいなものだから、元々そういう目で見てないの。それ言ったら竜胆くんだって私の顔好きでしょ? お兄が痩せて私にそっくりになったらお兄のこと好きになる?」
「それは絶対にない」
「そういうこと」

 確かに顔はめちゃくちゃタイプだけど、だからって蘭ちゃんのことをそういう目で見たりはできない。好きな人のお兄さんだよ。竜胆くんがエマのことをそういう目で見ていないのと同じことだ。もしエマをそういう目で見てるんなら、流石の竜胆くんでも殴っちゃう。

 第一、私も蘭ちゃんもお互いの顔がタイプではあるけれど、顔がタイプだからって好きになるかと言われればそうではないだろう。竜胆くんの顔もタイプなわけだけど私は竜胆くんの顔を好きになったわけではないし。いや、顔も含めて全部好きなんだけどね。


 そう言ってもまだまだ不安そうにしている竜胆くんの頭を撫でて、頬をぐにぐにと円を描くようにして撫でる。そのままきゅっと内側に押して突き出された唇にキスをした。安心してよのキスだ。

「竜胆くんに永遠に他の女の子のこと好きになったりしないでって言ったのに私が他の人のこと好きになるわけなくない?」

 大寿くんから聞いたでしょと言えば、少しは安心してくれたのか大きく頷かれる。うん。どうやらちゃんと大寿くんは伝えてくれていたらしい。流石私の大親友。呪いだなんてものを託したのは申し訳なかったなあと少し思うけれど、これもまた大親友だからこそのお願いだったということで。

 その件に関してもちゃんと竜胆くんに言っておいた方がいいよなあと思ったので、頬から降ろした手で竜胆くんの両手を包み込むようにして握る。微妙に霞んでいる視界が鬱陶しくて竜胆くんに顔を近付ければ、何を思ったのかまたキスをされた。もう。そういうことじゃないぞ。
 仕方が無いので顔を離して、それでも竜胆くんを真っ直ぐに見つめる。これからそういう話をするんだからねと空気でアピールすれば、分かってくれたのか竜胆くんも少し姿勢を正した。


 どういう言葉で伝えよう。沢山迷って悩んで、でもこれしかないと私の中で答えはもう出ている。ずっと前からそう思っていたのに、目を逸らしていた呪い。

「私きっと、自分が死ぬってなったら竜胆くんに私のこと忘れてって言っちゃう。だから先に私が本当に伝えたいことを、今度はちゃんと口から伝えたい。いい?」
「いいよ。オレもリコの口から聞きたい」

 竜胆くんの目尻が柔らかく緩む。ひと月以上前に竜胆くんは大寿くんにこれを聞いていたわけで、覚悟はしていてくれたのだろう。受け入れる準備もきっとしてくれていた。

「……もし私が竜胆くんを置いて先に死んじゃっても、私のこと忘れないで。ずっと好きでいて。他の女の子のこと好きになっちゃいや。私だけをずっと見てて」

 我ながら凄く重い。どうしようもないぐらいに情けない呪いだとも思う。言おう言おうとは決めていたのに改めて呪いの言葉を吐くとじとりと手のひらが汗ばんで、喉の奥が引き攣りそうだった。


 竜胆くんを窺うことも出来ずに、視線を下に落とす。視界に入ってくる私の手と、その下でまとまった竜胆くんの両手。寝ている間にかなり筋肉が落ちてしまっていて、手だって頼りなくなってしまった。この手で誰かを殴ることはこれから減っていって、きっときょうだいたちは喧嘩なんてものから私を遠ざけようとして、私もそれを拒めない。だって、自分の体のことは自分が一番よく分かっている。

 そうしてだんだんと私は強さを手放していくのだ。竜胆くんを殴ってでも止めるために強くなって、この強さがあったから結構好き勝手出来ていたし、何より私自身が強くあることに拘っていた。
 でもこれからの私はどんどん弱くなっていく。いや、今の時点でもうずっと弱くなっているだろう。

 肩と背中に重しが乗せられたみたいにぐっと全身が重くなって、息が詰まる。弱くなるのが怖い。何度も言葉を尽くしてもらっても、弱くたっていいのだと認めてもらっても、私は自分の弱さを嫌って憎んですらいる。私の弱さは罪だ。強くなきゃ意味なんてないんじゃないかとずっと思っている。変われたと思ってもいつだって心のどこかで、強くなきゃ捨てられると声がしていて。

「リコ」

 名前を呼んで、浮かせかけていた手を勢い良く両手で掴まれた。我ながら分かりやすいぐらいに肩が跳ねる。いつの間にか呼吸を忘れていたようで、息を吸えば心臓がどくどくと慌ただしく音を立てた。

 優しい声だ。それが分かっていても、いや、分かっているからこそ顔を上げられない。冷や汗のような何かが背中を伝い落ちていくのを感じる。跳ね回る心臓の音が煩かった。

「こっち見て」
「……むり」
「それなら無理矢理向かせるけど。でもそうしたらお前が泣いてても涙拭ってやれねえよ。な、こっち見て?」

 ただでさえも霞んでいた視界がぼやけてくる。誤魔化すように何度か瞬きをしたのに、堪え切れなかった涙が私の手を握る竜胆くんの手の甲に落ちた。なんとか涙を止めるために息をはこうとしたら嗚咽が出てきて、それを皮切りにとうとう本格的に涙が止まらなくなる。
 そんな私の様子に仕方ないなとばかりに竜胆くんは笑って、手首から離された掌が涙でどんどん濡れていく頬に触れた。そのまま半ば強引に顔を上げさせられる。酷い泣き顔をしている自覚があるから、竜胆くんを今見たらもっと泣いてしまうから、顔を上げたくなかったのに。

 それでも頬を押さえる手を振り払うことも出来ずにみっともなく嗚咽して泣く私を見て、竜胆くんはまた笑う。その笑顔を見ていたら余計に泣けてきてダメだった。

「オレの前だと本当によく泣くよな」
「……だって、だって竜胆くんが、泣いていいって言うから」
「うん。泣いていいよ。弱くていい。わがまま言ってオレのこと困らせて。それでもっとオレのことを呪ってくれ」

 他の人よりもずっと熱い指が目尻に触れて涙を拭っていく。竜胆くんは日常的に運動をする人だから平均体温が高いのだ。その指先の熱に触れる度に、竜胆くんに見つめられる度に泣いてしまうせいで拭っても止まらないのは分かっているはずなのに、その手が離れることはなかった。


 もう何度目になるかも分からない応酬だ。私がこうなる度に竜胆くんは私に弱くて良いし泣き虫でいいし、わがままでいいと言ってくれる。何回それを聞いたって不安で堪らなくてこうやって泣く面倒な私に飽きもせずに、ずっとそばにいてくれる。

 竜胆くんのそばにいたくて手に入れた強さを手放して、このまま弱くなって、私はそれがどうしようもなく怖い。竜胆くんはその私の恐怖に気がついている。気がついていて、弱くていいと言葉を尽くしてくれるのだ。


 竜胆くんは笑みを崩さないまま、また私の名前を呼ぶ。さっきキスをした時に外したままメガネを戻さなかったせいで、その笑顔はなにか物足りないような気がした。メガネをしていないところなんてもう何度も見ているのに、まだ新鮮さを感じている。
 現実逃避をするようにしてそんなことを考えて、頬に当てられた手に意味もなく自分の両手を添えた。涙はまだまだ止まりそうにもない。

「大寿に言われて初めて気付いたんだよ。オレだってこれまでずっとリコを呪ってきてただろ。それでリコもオレのことを呪ってくれてた」
「……りんどうくんの言うことの、どれが呪いだったの」
「全部。これまでお前に言ったことの全部が呪いだった。それで今もお前を呪ってる」

 嗚咽混じりの聞き取りにくいであろう声もきちんと拾って、私の涙を拭い続けながら答えてくれる。

「泣き虫でいいし、弱くていいし、わがままでいい。オレの前ではいくらだって泣いていいよ。辛いんなら辛いって言って。痛いのも我慢しないで」
「……」
「だから、オレ以外の誰のところにも行ったりするな。お前のきょうだいにも大寿にも嫉妬してんの。ずっとオレのことだけ見てて。オレの隣に帰ってきて」

 呪いというにはあまりにも綺麗で、なのにそれは私だって分かってしまうぐらいの呪いだった。ただでさえも行き着く場所も帰る場所も竜胆くんのそば以外有り得なかったのに、こうして言葉にされてしまったせいで私は本当に竜胆くんのそばにしか帰れなくなった。

 何も言えずにただ泣く私の涙を拭って、頬を撫でて、竜胆くんはまだ笑っている。

「誰かを頼るのも甘えるのも、全部一番最初はオレがいい。リコの全部はもうオレのものだ。絶対に手放さないし、何を言われたって返したりしない。他の男のところに行くならオレがお前の全部を持ったまま死ぬ」

 本当に、どうしようもない呪いで依存で執着だ。私たちは最初から綺麗な恋なんて出来ていなかった。お互いに依存して、手放すぐらいなら抱えたまま死ぬことを望んでいる。

 でも、これでいいのかな。竜胆くんは呪ってくれって言って、私のことをもっと呪ってくれる。だったら私ももっと沢山呪って、締め付けて、私のものでしょって言っても許されるのかな。
 弱くなるのは怖い。強さを手放すのも怖い。だけど竜胆くんが強さを手放したあとの私を望んで、そんな私を愛してくれるんなら、私はきっとまだ私自身を許して愛していける。竜胆くんが認めてくれなきゃ、憎み続けることしか出来なくなる。

「りんどうくん」
「なに、リコ」
「私……わたし、弱くて、泣き虫で、わがままなの。竜胆くんが一緒じゃないと、生きてなんていけない。そばにいてくれないと、ダメになっちゃう」
「それでいいよ。オレが一緒じゃないとダメになるリコでいい。生きていけなくてもいい」

 竜胆くんの指先がまた涙を拭って、それからその手が頭と背中に回される。体と体を寄せあって、聞こえてくる心音に耳を澄ませる。早くもなく遅くもないこの音が好きだ。全部溶け合ってしまえればいいのにと何度だって思う。そうして溶け合って、ひとつになってしまいたい。


 竜胆くんの全部が好きだ。何もかもを愛している。本当は少し直して欲しいなと思うところとか、嫌だなと思うところとかもあって、だけどそれも含めてその全部を愛してしまっている。もうどうしようもないぐらいに、竜胆くんがいないと生きていけないぐらいに、愛しているのだ。

「死ぬかもって思った時に思い出したのはリコのことだったんだよな」
「……私も、竜胆くんのこと考えてた。竜胆くんのこと呪ってたの」
「きょうだいじゃなくてオレを? ……めちゃくちゃ嬉しいなそれ」
「呪われるのが?」
「そう。だって、それぐらいオレのこと思ってくれてるってことだろ」

 竜胆くんは誰に聞かれる心配もないのに声を潜めて、囁くみたいにして嬉しそうに笑う。背中に回された腕に力が込められた。心做しか声も弾んでいるようだった。


 呪われるのが嬉しいって、変なの。だって呪いだ。一生残り続ける呪い。それを向けられて嬉しいだなんて変わっている。私も、竜胆くんも。

 言葉には出来ないけれど、私だって嬉しいと思ってしまっている。呪ってくれていい。呪って欲しい。私の全部を求めて、愛して、そうして全てを呪って。

「リコ」
「うん」
「お前の全部が好き。愛してる。これからずっとオレの手を引いて」
「竜胆くんが私の手を引くんじゃなくて?」
「オレもリコがいないと迷うから、リコがオレの手を引くの」
「……でも私も迷っちゃうから、そしたら二人で手繋いで歩こ。どっちが迷ったら一緒に悩んで考えて、そうやっていこう」

 きっと私もこれから先だってたくさん迷う。だからいっその事二人で並んで、どちらがどちらの手を引くこともなく、それでも二人で手を引っ張りあって生きていけばいい。どちらか片方が迷った時は迷っていないもう一人が手を引いて、二人で迷うんなら立ち止まって二人で迷えばいい。迷った時に一人じゃなければ答えだって見つけられる。

 竜胆くんは少しの沈黙の後に小さく返事をしてくれた。まだまだ止まりそうにもないけれど少しは落ち着いた涙はそのままに、その肩に頬を寄せる。そうすると竜胆くんの匂いがした。ほんの少し汗の匂いの混じった、それでも大好きな竜胆くん自身の匂い。

「……もっと呪ってもいいか」
「いいよ」
「オレの隣で生きて。リコがいないともう生きていけない」
「……私も竜胆くんのそばじゃないと、もう息もできない。竜胆くんが一緒じゃないと生きていけないよ」

 あなたの隣で、誰よりも近くで生きていかせて。
 あなたが好きと言ってくれるだけで、名前を呼んでくれるだけで、私の全部が報われる。今もこうしてずっと報われ続けているの。あなたの全部が私を認めて許して受け入れて、その呪いという名の愛が私の生きる意味になる。

 竜胆くんのそばにいるだけで心が満たされる。一分一秒ずっと、竜胆くんへの愛ばかりが増していくのだ。肩に頬を寄せたまま瞳を閉じて、その背に腕を回した。こうしている間にも愛はどんどん募っていく。


 私たちの愛はきっと、祈りと願いと呪いの形をしている。


 +


 四月二日。兄の誕生日だ。
 今年は入院し続けているせいで誕生日プレゼントなんて用意出来なかったから、院内の売店で購入した白無地の便箋に手紙を書いて渡した。渡したいものがあるから来てと呼び出した時点でプレゼントを渡すことはもちろんバレていたけれど、まさか手紙を渡されるとは思っていなかったのだろう。渡した瞬間に号泣し始めて大変だった。

 こんなに小さかった妹がと膝下半分の辺りまで手を下げて私の小ささを捏造し始めるものだから思わず怒ってしまったのだけれども、私たちのアルバムを見たことがある蘭ちゃんが実際それぐらいだったと意味のわからないことを言い始めたのだ。イザナとエマもそれに乗っかったせいで、兄の誕生日を祝うためにわざわざ病室まで来てくれたケースケに連れられていた千冬とタケミっちには絶対に勘違いをされている。最悪だ。流石にそこまで小さくない。


 固形食が許されるようになったのでイザナの持ち込んでくれたケーキをちまちま食べて、食べきれなかった分は竜胆くんに食べてもらったりして、まあ和やかに時間は過ぎていった。いつも通りタケミっちに竜胆くんが突っかかって行って、更に今日は蘭ちゃんと兄まで悪ノリしたせいでタケミっちが一発芸をやらされていたのはまあ、仕方の無い事だったのだろう。ちなみに一発芸に関してはケースケが全くもって面白くないと一刀両断してしまったせいで、タケミっちは半泣きだった。可哀想に。


 最近スタートしたばかりのリハビリの時間に差し掛かるよりも早くみんなは帰っていって、こればかりは投げ出せることでもないので私もしっかりリハビリには取り組んだけれどこれがめちゃくちゃ辛いのだ。一ヶ月寝ていただけなのに全然歩けないし、正直もうやめたい。事故以前と比べると黄金の左腕の痺れは増したし、歩行の問題を除いても右足にも違和感があるしで、ここで私の華麗な伝説が終わるのかと思うと悔しくて堪らない。まあそれはそれとしてリハビリが辛すぎる。

 そんな泣き言を駄々を捏ねてお見舞いに来させた大寿くんに言ったら怠惰な人間とは縁を切ると脅されるし、わざわざ持ってきてくれたらしい学期末試験の問題を広げられるしで、もう私は普通に泣きそうになった。しかも学期末試験に至ってはわざわざ問題を私のためだけに作り直して五月の中頃には特例中の特例ということで受験を許可してくれるそうだ。全然嬉しくないんですけど。

 留年したら縁を切られるし怠惰なことを続けていても縁を切られるしで大親友が全然優しくない。勉強を教えてくれと頼んだら時間の無駄だから嫌だと断られたし。時間の無駄ってなんだよ。もしかして私が留年すると思ってる?

 そんなこんなでさっさと帰っていった大寿くんの背中を名残惜しい気持ちで見送り、適当に試験問題や教科書を眺めていたら夕方になっていた。窓の外の夕日を眺めて欠伸をする。それから何となく、教科書や試験問題を閉じてベッドサイドテーブルの隅にまとめた。


 理由はないけれど、あの子が来る気がしたのだ。


 数分後に静かに引き戸が開かれた時に、私はその予感が的中していたことを知った。ドアのすぐ側で立ち尽くすその人と数秒見つめ合い、窓際に置かれた椅子を指差す。言葉を発さずとも伝えたいことは伝わったのか、大人しくこちらに寄ってきて座ってくれた。

「久しぶり」

 返ってくる言葉は何も無い。それでも手を伸ばして少し伸びた髪に触れれば、それは大人しく受け入れてくれた。黒々とした瞳が真っ直ぐに私を見つめている。なのにその視線とは裏腹に、きっと私から目を逸らしたくて堪らないのだろう。考えていることはよく分かる。

「一ヶ月以上会えてなかったよね。四十日ぐらい? 髪は伸びてるけど、ちょっと痩せたかな」

 毛先を掴んでいた手で頬に触れて、軽く摘む。ああ、やっぱり痩せてる。家にあまり帰っていないとは聞いていたけれど、どこかでちゃんとご飯は食べているんだろうか。心做しか隈も出来ているし、睡眠が取れているのかどうかも心配だ。

 目尻を撫でれば、少し擽ったそうに目が細められた。そうすると全然変わっていないように見える。ううん、見た目の変化は元からそう大きくない。ただ纏う空気や浮かべる表情が変わっただけ。


 何も返してくれないことは分かっているので、私が勝手に喋ることにした。その間も目尻や頬を撫でて、触れることはやめない。

「エマに聞いたよ。殴られんだってね。でもエマも殴ってごめんって謝ってたから、ここはお姉ちゃんに免じて怒らないであげて」
「……」
「東卍も解散させたらしいじゃん。それで、お友達にも酷いことしちゃったんだって? みんなマンジローのこと気にしてたよ」

 エマと付き合いたいときちんと話をしに来てくれたケンチンくんから聞いた話だ。東卍を解散させてみんなでタイムカプセルを埋めた後に、マンジローは人が変わったようになってしまったんだと。みんなのことを殴って傷付けて突き放した。そうして実際に、距離が出来てしまった。

 佐野家に寄り付かないのも、今日まで私に会いに来てくれなかったのも、東卍のみんなにしたことと同じようなことをしようとしてのことなのだろう。だけど優しいこの子は私たちには手を上げられないから、少しずつ離れて消えていくことを選んだ。


 馬鹿な子だ。本当にどうしようもないぐらいの馬鹿。なんにも分かってない。

「お姉ちゃんに相談ぐらいしてくれても良かったのに」
「……リコ、起きなかったから」
「それはごめんね。……心配掛けたよね。ずっと待たせてごめん。肝心な時にそばにいてあげられないね」

 やっと言葉を返してくれたマンジローの頬をもう一度撫でて、そのまま身を乗り出すようにして両腕を使って抱き締める。お互いに少し無理な体勢になってしまったけれど、何も抵抗はされなかった。
 頭を抱え込むようにして髪を撫でて、無理矢理肩にその顔を押し付けさせる。所在なさげに投げ出された手が目に入って悲しくなった。この子はもう、自分から私に抱き着いてきてはくれないのだ。

 どうしようもないぐらい馬鹿で、だけど可愛い私の弟。怖いぐらいにお互いの考えていることもやろうとしていることも分かってしまうのだ。私たちはよく似ているから。だから、こんなにも可愛い弟が私たちから離れていこうとしていることが、今日この子に会うよりも前から分かっていた。

「初めて会った時のこと、覚えてる?」
「……」
「私はよく覚えてるよ。私側の強者だって思ったから。……あの時はね、まさかお姉ちゃんと弟になるなんて思ってなかった。私たち最初はただのライバルって感じだったじゃん」
「…………」
「でも今は、ライバルでもあるけどきょうだいでもあるし、家族でもある。私たちの関係って、そうやって積み重ねていくものでしょ。削っていくものなんかじゃない」

 マンジローが小さく息を飲んで、ぐっと肩に目元を押し付けてきた。そのままじわりと肩の部分が濡れていくのが分かって、私もだんだん視界が潤み出す。鼻の奥がツンとして、吐いた息が震えた。堪え切れずに溢れた涙を咄嗟に右手で拭う。


 最初は本当に、シンイチローくんの弟で「人間スカウター」が面白いぐらいに反応する強者としか思っていなかったのだ。それが今では大切で愛しくて堪らない弟になった。私はこの子のお姉ちゃんになれた。私たちは、きょうだいになれたのだ。

 本人に言った通りで、私たちの関係は決して今あるものを削って打ち壊していくようなものじゃない。少しずつ積み重ねて築いていくものなのだ。このままあと何年も一緒に過ごしたら、幼馴染みと名乗れるようにだってなるかもしれない。私たちは気が合うから友人にだってなれるかも。

 そうやって私はマンジローとの関係を少しずつ広げて、これから先も一緒にいたい。離れたくなんてない。

「マンジローの考えてること、分かるよ。離れていこうとしてるんでしょ。私たちのこと思って、私たちのために、消えようとしてる」

 肩がどんどん濡れていく。無言は肯定だ。声をあげることもせずにこうやって一人で泣いて、悩んで、勝手に全部を決めてしまおうとしている。少しも私たちにその荷物を分けてくれようとしない。そんなところがきっと私たちは似ているのだ。
 耐えられなくなって嗚咽しながら、どこにも行って欲しくなくて抱き締める腕の力を強めた。私を抱き締め返してはくれないマンジローの手が、何かを堪えるようにして必死でシーツを握り締めている。

「そんなのやめてよ。どこにも行かないで。離れようとしないで。お願いだから……お願いだから一人になろうとしないでよ」
「……」
「お姉ちゃんたちがマンジローの荷物も一緒に背負うよ。私たちきょうだいでしょ? きょうだいで、家族なんだよ。そばにいてよ。お姉ちゃん、マンジローがいないと幸せになんてなれないよ……」

 私たちのことを思って離れるなんて、そんなのめちゃくちゃだ。私たちはきょうだいみんな揃っていないと幸せになんてなれないのに、マンジローがそんな私たちの幸せを思って離れていくなんてなんの意味もない。


 荷物の分け方が分からないなら、お姉ちゃんがいくらでもお手本を見せてあげる。ケースケにだって私はちゃんとお手本を示せたから、マンジローにだって示せるはずだ。

 そうして何度だってお手本を見せてあげるから、そばにいて。困ったことがあったなら頼って。悩み事があるんなら、すぐに相談して。もう無理だって思ったなら声を上げてよ。私たちの呼び掛ける声を無視したりしないで。

 もう何も言えなくなってしまってしゃくりあげていれば、私と同じぐらい震えて歪んで不格好な声でマンジローが呟いた。シーツを掴む指先は、力が入りすぎて白くなっている。

「守られてばっかなんて、もう嫌なんだよ」
「なら、そばにいて、それで守ってよ。私こんなことになっちゃったし、それがなくてもチームは抜ける予定だったから、もうここでやめる。綺麗さっぱり終わりにする。喧嘩も多分、あんまりしなくなる。この一ヶ月間はもう取り戻せないよ」

 マンジローが嗚咽する声が耳に入る。泣くぐらいなら離れないでよ。そんなに苦しいなら、離れたくないと思ってるなら、そばにいてよ。どうして苦しくて辛い方ばっかりに行っちゃうの。なんでそうやって一人になろうとするの。

「お願い、離れないで。どこにも行かないで。離れちゃったら、私たち、マンジローが苦しい時にマンジローを支えてあげられなくなっちゃう。辛い時にそばにいてあげられない。痛くてもすぐに気付けないよ」
「ごめん、本当にごめん……」
「謝んないで……謝ったりしないでよ……! 叩いて、殴ればいい? そしたらどこにも行かないで、ここにいてくれる? 約束したじゃん。ダメになりそうだったら呼んでよ。ねえ、お願い、止めてって言って……」

 マンジローが言ってくれなきゃ殴れないし、止められないよ。だって本当はそんなことしたくないの。大切な弟を殴りたいはずがないでしょ。大切で可愛くて、愛しい弟。どうしようもないぐらい馬鹿で、自分勝手で、なのに私たちのために、自分の大切な人たちのために犠牲になれてしまう。いくら引き止めたって振り向いてもくれない。


 私たちは絶対にマンジローの手を離したりなんてしない。そんなことは出来ない。引っ張って、重しになって、恥も何もかも捨ててここにいてと泣いて縋り付くことだってする。

 それでも、マンジローが私たちの手を振り解いて離れていってしまったらダメになってしまうのだ。今の私じゃマンジローに離れていかれてしまえば、その後を追い掛けられない。そしてその追い掛けられなかった少しの時間が、さらにマンジローを追い詰めて一人にさせる。


 もしもマンジローがそばにいて私たちを守らなければと思えば離れていかないのなら、私はほんの少し残った強さを捨てることへの苦しみや悲しみも全部なかったことにできる。弱さを盾にすればマンジローが一人になろうとしないなら、もう強さなんていらない。

 私がそばにいてどんな苦難からも守ってあげたい。全ての苦しみや痛みを遠ざけて、いつだって笑っていてほしい。そばにいて。離れようとなんてしないで。

 私たちの幸せを願ってくれているなら、自分だけ苦しい方に行こうとなんてしないでよ。

「私たちみんな、マンジローも一緒じゃなきゃ幸せになんてなれないよ」


 なんの言葉も返ってくることはなかった。

及ばぬデブのダイエット

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