追い詰められた時に人は本性が出るというけれど、私もどうやらそうだったらしい。
散々馬鹿だアホだと貶してきた兄でも陥らなかったような留年の危機に対しても呑気に「まあどうにかなるでしょ」と笑っていた結果、にっちもさっちもいかなくなってきている。進級を賭けた二ヶ月遅れの学期末試験までもう十日もないのだ。特に英語と数学と物理基礎がヤバい。国語と社会系の科目は兄と蘭ちゃんが勘でもどうにかなると言ってくれたから勘を頼ることにしたが、問題は残りだ。
えんえん泣きながら教科書とワークに齧り付く私を見て哀れに思ったのか、お見舞いに来てくれたタケミっちと千冬は五分ほどたっぷり悩んでから「今までもどうにかなってきたなら今回もきっと大丈夫ですよ!」と声を揃えて言ってくれた。でも同席していたワンちゃんが「今までどうにかなってきてなかったから、今こんなことになってるんじゃねえのか」とか言ったせいでもう最悪。
私は余計に泣いて、タケミっちはそんな私の頭を撫でて慰め、千冬はなるほど確かにそうかもと何故か頷き、ワンちゃんはぼけっと窓の外を見ていた。で、そこに竜胆くんがちょうど尋ねてきてまたタケミっちと揉めて、結局揃って看護師さんに怒られた。ついてないったらありゃしない。
まあ今ヤバいのはそっちじゃなくて、学期末試験の方だ。流石に高校で留年はキツい。しかも目が覚めてから一ヶ月以上時間をもらって、勉強できる余裕は十分なぐらいあったのに留年するだなんてシャレにならない。
恥も外聞も何もかも捨てて本気で咽び泣いて縋り付いた結果、大寿くんの懐柔には半分成功した。私が本気で困っていることを察してくれたらしい。太寿くんはあれで私のことをめちゃくちゃデカくて手のかかるどうしようもなく馬鹿な妹みたいに思っているのかもとお見舞いに来てくれた三ツ谷くんが言っていたのを参考に兄たちにするみたいに駄々をこねたのが良かったのかもしれない。
にしても、三ツ谷くんのあの、明らかに彼の主観交じりの発言はなかなか私に失礼だったのでは? 好みの顔じゃなかったらさすがの私でも怒ってたぞ。
まあともかく、太寿くんの懐柔には半分成功したわけだ。どうして半分なのかというと、「全部教えるんじゃ本人のためにならないから」と意味の分からない真面目さをここで発揮してくれたから。分からないところだけ聞いてこいと言われた。全部分からないよと言ったら面倒だったのか一日五回までしか教えないと返されたせいで気落ちしてしまったことは言うまでもないだろう。
こうなってきて分かるのだが、周りに私に勉強を教えてくれる人があまりいないのだ。兄は論外で、上のきょうだいたちも考えるよりカンニングしろとか言い出しそうだからダメ。下のきょうだいたちはそもそもまだ中学生でこちらもダメ。
気軽にすぐに頼れる人で、同い年か年上で、ある程度勉強も出来る人。それで私に勉強を教えてくれる人となれば、大寿くんか竜胆くんか蘭ちゃんしかいない。改めて自分の交友関係の狭さに泣きそうだ。頼れる人が全然いないんだもの。
竜胆くんは優しいので、私が勉強を教えてくれといったらすぐに了承してくれた。なんなら私がお願いするよりも早く教えに来てくれたくらいで、聞いたところによると母と祖父に頼まれていたらしい。私は竜胆くんと一緒なら頑張るから、時間の許す限りは見張っていてくれと言われたんだとか。流石家族、私のことがよく分かっている。
とはいえ私もかなり焦っていたし、竜胆くんにだけ負担をかけるのも申し訳ない。そう考えて蘭ちゃんにもお願いはしたのだが、どうして自分が手を貸さなければならないのか心底分かりませんという顔で断られた。酷いよと泣きまねまでしたのだが一切効果がなく、「兄妹揃ってとんでもない馬鹿なんだな」と言われた私が傷付くだけで終わった。
蘭ちゃんは基本的に毒舌というか、全くもって誰に対しても容赦をしない人なのだ。お世辞も言わないから誉められたときは嬉しいけど、こうして貶されると心に響く。全部本音なのだと嫌でも分かってしまうから、私ってマジの馬鹿なんじゃんと認めないわけにはいかなかった。
それにしてもあの言い方は酷いよなあ。欠片も理解のできない英文に向かい合いながら、蘭ちゃんの毒舌っぷりを思い出して現実逃避をする。ワークはほとんど真っ白で、いくつか頑張って埋めた記号問題も全部勘だ。
教師もそこまで暇じゃないから私一人のための試験問題をそんな必死で作るとも思えないし、ほとんどワークと教科書からしか出さないだろうという太寿くんの言葉を信じた竜胆くんによってひたすらにワークを解かされているのが現状だ。まあ全く解けていないんだけどね。
私は日本人なのに、なんで英語なんてやらなきゃいけないんだろう。英語で誰かと会話する機会とか今後あるか? ないでしょ。あったとしても頑張ってジェスチャーとかで伝えるからさ。それでよくない?
自分が壊滅的なまでに英語を理解できていないことに対する絶望と全くもってワークが埋まらない焦燥感で苦しくなってきてそんなことを考えていたのだが、そんなことをしていたって答えが浮かび上がってくるはずもなかった。仕方がないので英文を指と目で追っていく。ふーん、なるほどね? 眠くなってきたわ。これは眠りを誘う未知の言語で確定。
ふざけていたけど本当に眠くなってきてしまって、ひとつ欠伸をしてぐっと腕を伸ばして背を軽く逸らした。寝ようかな。明日の私に全部任せるってことでどうだろう。今日の私は明日の私の代わりに寝てあげるってことで。
いや我ながら名案すぎるなと思ってワークを閉じようとしたのだが、横から伸びてきた手に動きを阻まれた。そのまま記号問題しか埋まってないページを覗き込まれる。
そうだよ忘れてたわけではないけど居たんじゃん。これを見られるのは流石にヤバい。ワークを無理矢理奪い取って隠そうとしたのだが、向こうが私からワークを遠ざける方が早かった。数秒の沈黙の後に目線がこちらに向けられる。
「リコ」
「……」
「これ全部間違ってる」
「うわあああ! もう無理! もうヤダ!」
なんとなくそんな気はしていたけど、それでも残酷すぎる竜胆くんの宣告に思わず絶叫して顔を伏せた。辛い。辛すぎる。四問程度の記号問題、全部同じ選択肢を選べば一問ぐらい当たるだろうと思ってAを選んだのに。もう二度とAは選ばない。
自分で文章を作ったり訳したりするのは絶望的な以上、私は記号問題でなんとか点数を稼ぐしかないのだ。数学は基礎問題で地道に稼いで、物理基礎に関しては公式だけ暗記してひたすらそれに当てはめて解くしかないと大寿くんに匙を投げられたけれど、どうにも絶望的なのがこの英語。幼稚園児の方がまだマシだと吐き捨てた大親友の顔を思い出して、また悲しくなってきた。
鼻を鳴らして泣いている私を哀れに思ったのか、竜胆くんが手を伸ばして頭を撫でてくれる。それからワークを見つめてなのか、ぽつりと呟かれた。
「結構簡単な問題ばっかだと思うけどなあ……」
「…………馬鹿でごめんね……」
「ああ待って、責めてるんじゃねえって。リコは他の教科はまあ、何とかなってるもんな。英語が苦手なだけだろ?」
竜胆くんそれあまりフォローになってないし、余計虚しくなってきたよ。他の教科もどうにかなってるとは言い難い自覚がこれでもあるの。中でも英語が特大級でヤバいからこうなってるだけで、他の教科は問題ないのかと言われれば別にそうではないのだ。
サイドテーブルに頬を押し付けて、ワークを閉じた竜胆くんを見上げる。目が合った後に、そっと笑ってくれた。
竜胆くんは頭がいい。蘭ちゃんもだ。本人たちに言わせれば「教科書や参考書を読めば理解出来る」らしくて、私と兄とは多分頭の作りからして違う。兄は教科書を読んでも理解が出来ないし、私は教科書を読んで理解が出来ても応用となると一気に詰む。だから英語みたいな、とにかく自分の力で読み解いていかなきゃいけない問題が苦手。
それでも絶対に私より馬鹿だと断言出来る兄がストレートで高校を卒業して、意識不明の期間があったとはいえ私が留年するのは嫌なのだ。兄に負けたくない。
だからそういう気持ちで私なりに頑張ってはいるのだけれども、もう既に投げ出したくなってきているし時間はないしで、中々先行きは絶望的だった。祖父に言われたのだが両親はもう私の留年は覚悟しているらしい。嫌なところで信用を寄せるのやめて。流石の私も悲しくなるから。
これで私の想像を超える頭の悪さに、自分がちゃんと教えなければ留年することになるという危機感を抱いているらしい竜胆くんは、理解出来るまでやり続けろスタイルをとっている。分からない問題があるなら分かるようになるまで説明して、理解出来たと判断したらまた解かせて、無理だったらまた説明のエンドレス。正直大寿くんよりスパルタだ。
しかし優しい人でもあるので、休憩の時間はちゃんと設けてくれる。無理矢理逃げたりやっておくようにと言われた分をやっていなかったりすると怒られるんだけどね。当たり前か。
もう既に心が折れそうな私に休憩を与えて甘やかしてくれる気になったのか、また頭を撫でられる。蘭ちゃんとお揃いで買ったという高そうな時計が目に入った。拳に握って殴ったらわりとダメージを与えられそう。以前蘭ちゃんにそう言ったらめちゃくちゃキレられたので、竜胆くんには言わないことにする。キレはしないだろうけど哀れみの視線を向けられそうだ。そっちの方が悲しい。
まあともかく今はせっかくの休憩時間なので、勉強という苦しみが戻ってくる前に楽しんでおきたかった。なので竜胆くんとお喋りをすることにする。
「もう入学してから半月ぐらい経ったでしょ。大学ってどう? やっぱり楽しい?」
「さあ。兄貴とリオは楽しんでるみたいだけど」
三人は高校に続いて大学も同じなのだ。学部は兄二人と竜胆くんとで違うらしいけれど、相変わらずの仲良し具合を見せ付けてくれる。やっぱりあのデブずるいな。私より竜胆くんと一緒にいるんじゃないの。
一応私に話せることがあるかどうか考えてくれているらしい竜胆くんが、蘭ちゃんや兄の話を聞かせてくれる。蘭ちゃんは早速女の子を引っ掛けていたらしい。流石だ。万人が惹かれる顔だもんね、アレは。
蘭ちゃんに聞かれればオレは顔だけかよと言われそうなことを考えつつも、私も頻繁に病室に顔を出してくれる兄の様子を思い出す。相変わらずのデブで、それから馬鹿だ。あの馬鹿が来ると私はつい「これなら私もいけるかもな」みたいな根拠のない自信を抱いてしまうからダメ。竜胆くんの言う通り大学はそれなりに満喫しているようだけれど、兄の浮いた話は聞かないな。
「一応聞いとくけど、お兄もモテてたりする?」
「んー、オレが知る限りだと全然じゃねえかな。アイツは女子にモテるって言うより男にモテるだろ。舎弟みたいなのは出来てた」
「流石デブ。引退したのに全然変わんないな。絶対厄介事に巻き込まないで欲しい……あ、竜胆くんは? モテてる?」
聞きたくないけど一応聞いておこう。彼女だし。大事な事だから二回言うけど、私は竜胆くんの彼女だしね。そういうのも知っておきたいというかなんというか。
「まあ告白はされた」
「う、うわあ! やだ、聞きたくない!」
「リコから聞いたのに?」
「私から聞いてもだよ! 竜胆くんはこんなにカッコイイから女の子が好きになっちゃうのは当然だとして、でも女の子が竜胆くんのこと好きになるの嫌なの……うう、威嚇したい…………」
百人の女の子がいたら百人の女の子全員が竜胆くんを好きになるレベルで竜胆くんはカッコイイし、素敵な人だ。竜胆くんを好きにならないなんておかしいとすら思う。こんなにカッコイイんだよ? それで優しくて、頭も良くて、私のこと大切にしてくれて、ちゃんと好きだって言ってくれて。まあ後半は私にだけ向けられるものなので私の勝ちなんだけどね。
有象無象の見たことも無い竜胆くんの同級生に勝ち誇りつつ、ベッドサイドテーブルから頭をあげる。そのまま竜胆くんに手を伸ばせば、同じように手を伸ばして繋いでくれた。はあ、好き。何がしたいのか分かって先にしてくれるとことか、手が暖かいところとか、私と同じぐらい触れたがりなところとか、大好き。
やっぱり竜胆くんがモテるのは当然のことだな。世の理ってやつ。
まあそれはそれとしてムカつくし、自分の存在をアピールしておきたいので威嚇はするけどね。
「退院したら大学までお迎えに行くからね。竜胆くんのめちゃくちゃ可愛い高校生の彼女ですってアピールして、女の子のこと威嚇するから」
「別にそんな事しなくても、オレ毎日ここに通ってるから結構噂になってるけど。兄貴とリオもなんか言ってるみたいだし」
「それじゃ足りないの。女の子ってね、ちょっと優しくされたり目が合ったりしただけで勘違いしちゃったりするんだよ。私も竜胆くんと目が合ったら勘違いしちゃいそう」
「いや、リコは勘違いじゃないだろ」
「……まあね?」
まあそうなんだよね。私は勘違いじゃなくて、本当に竜胆くんの彼女だからね。なんなら毎日目を合わせてるし、優しくされてるし、めちゃくちゃ愛されてますからね。
嬉しくなってきたのでふふんと鼻を鳴らして胸を張れば、竜胆くんもなんだか嬉しそうな表情で額にキスをしてくれた。お返しに私からも頬にキスをする。
こういうことを竜胆くんと出来るのは私だけで、ほかの女の子たちはいくら竜胆くんと手を繋ぎたいとか、ハグしたいとか、キスしたいとか思っても出来ない。そう思うと優越感を感じるというか、心の浅ましい部分が満たされるというか。
「変なサークルとか入らないでね。お酒飲んでも女の子とホテル行ったりしちゃダメだからね?」
「そんなことしねーって。するわけないだろ。オレにはリコだけなんだから」
「私にも竜胆くんだけだよ。あ、でも私あれやって見たい。あの、飲み会に迎えに行くやつ」
「……それオレがリコのこと迎えに行くんじゃなくて?」
「それだと早くても二年後とかになっちゃうじゃん」
暇だろうからと千冬が貸してくれた少女漫画でそういうシーンがあったのだ。まあ確かに竜胆くんの言う通り漫画の中だと彼氏が彼女を迎えに行くって感じだったけど、逆だとダメだなんてルールはないだろう。私だって竜胆くんのこと迎えに行きたい。
そう力説すれば、若干不服そうな顔はしつつも頷いてくれた。迎えに行っていいらしい。わーい。嬉しい。そういうベタなこともしてみたいんだよね。
「まあその前に、リハビリと学期末だな」
「……」
「嫌そうな顔すんなって。退院したら海連れてくから。約束してただろ?」
「……ん。頑張る」
リハビリに関しては一進一退と言った感じだ。竜胆くんもそれは分かっているのだろう。笑って頭を撫でてくれる。
学期末試験に関しては言わずもがななので、もういざとなったら留年する。したくないけど、覚悟はそろそろ決めておこう。正直リハビリよりもヤバい。
何でもかんでも楽観的になんとかなるで押し切れる期間は既に過ぎてしまったので、そろそろ私も現実を見る必要があるのだ。見る現実がこれって悲しいけどね。
留年に向けて覚悟を決めると共に一応竜胆くんにも聞いておきたいことがあった。
「竜胆くんは私が留年しても、変わらずに好きでいてくれる?」
「当たり前だろ。逆に聞きたいんだけど、そんなことで嫌いになると思うか? それにオレがついてるんだから留年は絶対にさせないし、もしリコが留年することになったら責任取って籍入れて養うよ」
「すごく魅力的な提案なんだけど、責任取ってって形は嫌だよー! それに竜胆くんのその言い方だと留年確定したら私高校辞めるみたいじゃん……」
「辞めちまえよ。大丈夫、苦労はさせないから」
「定職に就いてから言ってよぉ……」
「兄貴たちが就職面倒だから会社作るっつってるし、そこは心配しないでいいだろ。今度指輪渡すな」
「それは楽しみに待ってるね」
わりと本気で高校中退コースも見えてきてしまったので、頑張らなくては。本当に魅力的な提案ではあるんだけど、流石に高校ぐらいは出ておきたいし、今ここで中退したら大寿くんとの繋がりがなくなってしまいそうだ。というかオレが教えてやったのにこのザマかとか言って縁切られそう。そもそも留年したら縁を切るって言われてるし。
頑張ろうと意味もなく自分に言い聞かせるようにして呟いてから、竜胆くんが横に退けていたワークに手を伸ばし、サイドテーブルに広げた。休憩は終わりだ。
なんとか頑張れば理解出来なくもなさそうな英文をもう一度目で追っていく。三行ほど読んだだけでもう眠い。やっぱりダメな気がしてきた。
竜胆くんが寝そうな私に気遣っての親切心から英文を読み上げてくれるせいで余計に眠くなってきて、もう諦めようと意識を手放しそうになった時に、思いっきり引き戸が開かれた。飛び上がるようにして起きて、すわ敵襲かとバッと視線をそちらに向ける。
一輪の白い花を手にする制服姿の大寿くんとパチリと目が合った。そのまま一気に瞳が釣り上げられる。うわヤバ。
「寝てたな」
「寝てないよ。信じて」
「おい灰谷」
「ちょっと寝てたな」
「竜胆くんの馬鹿」
近寄ってきた大寿くんが私の前に広げられたワークを見下ろし、鼻で笑い、鷲掴んだワークで頭を叩いてきた。あまりにも酷い。暴力反対と声を上げたのだが、実際これで完璧に目が覚めたし大寿くんは手加減をしてくれていたしで、竜胆くんですら擁護してくれなかった。なに? 世界中の何もかもが私の敵になる感じ?
勉強中に寝るなって言ったよなとドスの効いた声で上から威圧され、か弱い小動物を思い浮かべながら怯んだフリをしたもののまた鼻で笑われた。助けを求めるように視線を向けた竜胆くんも微笑ましいものを見る目で私たちを見ている。味方がいないよ。
ひんひん泣き真似をしていれば、私には話が通じないと判断してくれたのか大寿くんはため息をついてワークをサイドテーブルに投げ出した。その上に花が落とされる。今日も大寿くんの隣の席に置かれていたらしい。
一応名目上は進級させてもらっている私は、二年生になっても大寿くんと同じクラスで咳が隣なんだそうだ。まあ新学期になってから一回も登校出来てなくて大寿くんから話を聞いただけなんだけど。
「そろそろ辞めにしろと伝えろ。わざわざ毎日ここまで来るのも面倒なんだよ」
「そうは言われても、私も連絡つかないから無理だって」
ワークの上に落とされた造花の茎の部分を掴み、くるくる回す。花の形を見ているに連れ、口角が緩んでいくのが自分でも分かる。造花だから香りなんてしないと分かっていても花びらに鼻を寄せた。
毎日毎日本当にご苦労なことだ。しかも花言葉まで丁寧に考えてくれるようで、私ももらった以上は調べないわけにもいかなくて花言葉に詳しくなってきている。
毎日私に勉強を教えに来てくれている竜胆くんも同じように花や花言葉に詳しくなりつつあり、今日の花もなにか分かったのだろう。まあ、今日のこれに関しては花の知識がなくても何となくわかるぐらいにはメジャーなものだけど。
「彼岸花?」
「うん、彼岸花。それも白のね」
特徴的な形をした花びらに触れる。今度は小さく声を上げて笑ってしまった。なかなか乙なことをしてくれるじゃないか。
「大寿くん、多分明日からはもう届かないと思うよ」
「ア?」
「白い彼岸花の花言葉って確か、また会う日を楽しみに、だからさ。回りくどいことするよねえ、ホントに」
まあ直接会いに来れない気持ちは分かるし、誰かに遭遇するリスクも分かるけどね。私は全然歓迎するけど、他のみんなは私のことをとても心配してくれているからそうはいかないだろうし。
大寿くんとはもう話していて花を贈ってくれる誰かさんに関しては、やっぱりアイツだよなあということで結論は出ているのだ。伝書鳩みたいなことをさせられるのは気に食わないらしいけど、大寿くんもアイツの気まずいと思う気持ちだったり、顔を出せない理由だったりは分かってくれたらしい。何も言わずに黙ってくれている。
竜胆くんも私と一緒に花言葉を調べるにつれ相手は分かっているようだけれども、私が何もしないでとお願いしたのだ。あれで一応私にとっては友人だし、私もエマも生きているし。エマがどうしても許せないからアイツを殴るって言うんなら私も一緒に殴られるぐらいの気持ちでこの花を受け取り続けている。
彼岸花から目を逸らし、窓際の棚に置かれたパキラを見た。これだけは造花でもドライフラワーでもなく、本物の観葉植物だ。一番最初にアイツが私に贈ることにしたもの。
「次だって勝つのは私だよ」
一度手にした勝利を手放してやれるほど無欲な女ではないのだ。いつになるかは分からないけれど、次会う時だって必ず私が勝ってやる。
分かりやすく鼻を鳴らして、また彼岸花をくるくる回す。逃げることを選んだのであれば絶対に捕まったりするなよと願うだけだ。それこそ、また会う日を楽しみにという言葉の通りに。
+
ミンミンミンミンと蝉が煩い。それから陽の光の照り返しがキツくて、エマに被せられた麦わら帽子の下で額の汗を拭った。左手で抱えている花を右手に持ち替える。
そう長くもない階段を昇って、これだけで息が上がる程になってしまった自分の体に落胆しつつも目指すはもう少し奥。似たような墓石ばかりが並ぶ区画を、ひとつずつ彫られた名前を確認しながら歩き進めていく。こんな暑い日の、それも太陽が一番上に昇っているような時間に来たのは失敗だったかもしれない。
蝉の煩い鳴き声の狭間で小さく暑い暑いと文句を言いながら、視界に入った目当ての苗字に息を吐いて歩幅を緩め、目の前で立ち止まる。無事に目的地に辿り着けたようだ。
ご両親やご親族の方々がよく訪れていると聞いていた通り、墓石周りはよく整えられていた。周囲に誰もいないことを意味もなく確認してからしゃがみこむ。抱えた彼岸花と顔が近付いて香りが一気に強くなった。
何から話そう。言いたいことは結構あるんだけど、ありすぎてないというか。一言目に困ってしまう。
でもまあ、今更コイツに遠慮なんてしてやる必要ないか。まずは自慢と自分語りから入ってやるかな。
「メガネにしたんだけど、どう? 似合う?」
コンタクトも選択肢にはあったんだけど目に物を入れるのはなんか怖くてと続けた。すごく見えないのは右目でちょっと見えないのが左目といった感じだったのに、右目に引きずられたのか左目の視力まで一気に低下して矯正が必要な状態になったのだ。多分勉強を頑張りすぎたせい。
フレームに関しては私は正直そこまで拘りがなかったから何でも良かったんだけど、イザナと蘭ちゃんが有り得ないぐらい拘ってあちこち連れ回された。これは微妙それは似合わないと何時間もフレームを合わせて外してを繰り返していたのに、最後は結局私を迎えに来てくれた鶴蝶くんが早く帰りたそうに適当に指差した丸いフレームのものに決まった。意味分かんないよね。
まあ私としては竜胆くんと似てるしお揃いって感じだなあとほんの少し喜んでいたんだけど、ちょうど同じ日に竜胆くんがコンタクトデビューしたので見事なすれ違いになった。
そんなことをくどくどと話しつつ、花の包装を解いていく。スタンダードに五本しか買っていないが、そこまで小ぶりな花でもないのでここに来るまでも案外スペースを取ったのだ。一応アイツの分も同じものを用意したし。
「彼岸花は毒があるって聞いたんだけど、まあ毒を以て毒を制すってことで」
私以前に訪れた人たちが供えた花の邪魔にならないように気遣いつつも、花立てに彼岸花をそれぞれ差し込む。色は同じだけど、一応片方が私で片方はアイツから。私も当分会えなさそうだけど元気に逃亡しているようなので代わりに持ってきたのだ。私よりアイツの方が来たがっているだろうしね。
包装紙を軽く畳みつつ、一つ息をついて再び額の汗を拭う。九月に入ったというのにかなり暑い。何ヶ月も病院で過ごしているうちに、ただでさえも好きでも得意でもなかった夏が余計に苦手になってしまった。
少し前にはプールに行きたいと駄々を捏ねてみんなに反対されたので、仕方なく佐野家にあった子供用のビニールプールに入ったのだ。小さいし浅いし一人だと全然楽しくなかったし、なんだかすごく惨めな気持ちになってすぐにやめた。一部始終を目撃していたイザナにはめちゃくちゃ笑われた。
別に聞かせてやるような話ではないけれど、ぽつりぽつりとそんなことを話す。ショルダーバッグから取り出したタオルで汗で濡れた首を拭いて、墓石を見上げた。こうやって見てみると苗字は綺麗なんだよなあ。
他になにか話すことなんてあったっけ。留年を回避した話? これだとちょっと楽しい話になるからダメだな。どうせならアイツにも聞かせてやりたいし。
もう特に与太話もないし、本題に入っていいか。
「アンタのこと、結局最後まで何にも分かんないままだった」
まあ理解する気がそもそもなかったわけだけど、と付け足して短く息を吐く。思い返すのは性格の悪そうな顔に浮かべられた自分は今何か企んでますよとばかりの笑顔とか、あの夕焼けの歩道橋でのこととか、そういう嫌なことばかりだ。気分が重くなってくる。
「アンタも私の理解者面してたけど、なんにも分かってなかったでしょ。理想を押し付けてただけ。そういうのを偶像崇拝って言うの。アンタのそれは、理解なんかじゃなかったよ」
人に自分の理想を押し付けて、思うように動かそうとして、勉強は出来たらしいけどやってることはただの馬鹿だ。私や兄よりも全然馬鹿。
私は残念だけどそこまで出来た人間ではないから、自分を理解してくれない人を理解しようとは思わない。最初から対話をする気すらなくて、隙あらば私を偶像崇拝の対象として祀りあげようとしていた時点で論外だ。人と人とのコミュニケーションに必要なのは対話と理解で、頑なに理想を押し付けて相手を見ようとしないのはエゴでしかない。
一旦口を止めて、呼吸をする。蝉は相変わらず煩いし、日差しはまだまだ眩しかった。
「もう全部手遅れかもしれないけど、良いこと教えてあげる。私はね、アンタが考えてるよりずっと俗っぽいの。年下のガキにはこればっかりは教えてやんないけど、好きな人と色んなことしたりしてるんだよ。聖女様には逆立ちしたってなれない。残念だったね」
神に身を捧げる聖女なんぞとは程遠いところに私はいるのだ。所詮ただの俗物だよ。聖女様に会いたいなら絵本でも読んでおけ。
「それに自分勝手だし、わがままだし、神に祈るぐらいなら自力で何とかする」
有象無象の幸せを願うことなんて出来ないし、誰かを贔屓するのだってやめられないだろう。元々聖女様なんて柄じゃない。コイツは本当に私のどこに聖女様の偶像を見出したのか全く分からない。そうして、分からないままだった。
何度も言うけれど、私は私を理解してくれない人を理解することは出来ない。私をちゃんと見てくれない人をちゃんと見てやることも出来ないのだ。だから残念だけど、アンタのことも見てやれないし理解してやれない。
「エマと私にしたことは何があっても許さないし、イザナと鶴蝶くんと竜胆くんのこと撃ったのも一生許したりなんてしない。この先永遠にアンタを本当の意味で理解してやれる日も来ないと思う」
アンタは私からすればただの年下のガキだけど、私たちをこんな風にした憎い相手でもある。お陰様でもう何もかもがめちゃくちゃだ。アンタの仕出かしたことのせいで私たちは大変なことになっているし、どうしようもなく苦しくて悲しくなって泣けて泣けて仕方が無い日も増えた。自分の無力さをずっと痛感している。
本当は今だって、墓石を蹴っ飛ばして怒鳴りつけてやりたいぐらいなのだ。死んで逃げやがってなんて言いたくはないけれど、実際そう思ってしまってもいる。生きて罪を償えとぶん殴ってやりたい。いつかボコボコにしてやると誓ったのに、その誓いすら果たせなくなってしまったし。
とは言え、コイツが死んでしまった以上私がもう何も出来ないのも事実なのだ。それと同じく、コイツだって私たちに二度とちょっかいを出せない。
ショルダーバッグの中からメールの受信音が聞こえた。今日は時計はしてきていないからすぐには確認出来ないけれど、もうそろそろ時間らしい。汗を再び拭って立ち上がる。軽く畳んだ包装紙は適当にバッグに詰め込んで、突然立ち上がったことによる若干の目眩を感じながらもしっかりと墓石を見下ろした。
「歯ァ食いしばって、アンタの聖女様がただの人間としてくたばるまでをそこで見てな。あの世でこそアンタのことボコボコにしてやるから」
覚悟しておけよと言い置いて踵を返す。ここまで車を出してくれた祖父を下で待たせているのだ。この後は途中で兄を拾って何か良いものを食べさせてくれるらしいし、さっさと帰ろう。言いたいことは多分全部言ったし。
相変わらずミンミンミンミンと煩い蝉の鳴き声に耳を塞ぎたくなりながら、ふと言い忘れていたことがあったのを思い出した。しかも結構大事なことだ。
歩いていた勢いのまま振り返れば、薄青色のワンピースの裾が揺れた。タイミング良く吹いた風に煽られて暫く揺れているそれを抑えながら、少し離れてしまったからちゃんと聞こえるようにと声を張る。
「仕方ないから、そのうち半間のことも連れてきてあげる! このままじゃ勝ち逃げされたみたいで気に食わないし。もうちょっと涼しくなったらまた顔出してやるから、それまで彼岸花の毒にでも苦しんでろよ、稀咲!」
ご先祖さまの前でやるには少し行儀が悪いかなと思いつつも中指を挑発するようにして立てて舌を出し、再び裾を翻して前を向いた。右手の薬指に填めた銀色の輪っかに意味もなく触れつつ、風にワンピースの裾がはためく音とセミの鳴き声に耳を澄ませた。こうしていると、夏はまだ終わっていないんだと思う。
ああは言ったけれど、半間の逃亡生活がちょっとはマシになるまで二人きりというのもそれこそ気に食わないので、次はタケミっちあたりを連れてこようかな。幸せに生きている私たちを見てあの世で悔しがっていればいいのだ。ばーか。
竜と心得たデブ