祖父が私を──正確に言えば私と兄を呼び出したのは、竜胆くんとお兄さんが逮捕されてから三日後のことだった。
結局あの後私は泣き疲れて眠ってしまったらしく、起きた時にはもう昼時で頭の上に生温いタオルが乗せられていた。私が起きたことに気付いたらしい母に促されて熱を測り、三十九度より少し低いぐらいだったそれを見て顔を顰めた母に何か食べるかと聞かれたもののそんな気力はなく、また眠った。どうも泣き過ぎて熱を出したらしい。
兄は私に何も聞かなかったが、不良の間で噂が回るスピードはかなり早い。その日中に灰谷兄弟逮捕の報は六本木どころか東京中に知れ渡り、兄も配下の馬鹿共に聞いてそれを知ったそうだ。日曜日の昼には少し熱が下がり、ちまちまとうどんを食べていた私の部屋に乱入してきた兄は私の抵抗を無視して同じ部屋で食事を取りはしたものの、やはり私に何も言わなかった。
かわりに、この間にでもガリ男とガリ子というあだ名を撤回しようぜと言ってきたぐらいだ。気遣っているのかそうでないのかよく分からないデブだが、しかし私としてもガリ子というあだ名は気に入らないのでそこはお願いしておくことにした。出所した頃にはそのあだ名が消えていて臍を噛めばいい。私との約束を破った復讐だ。お察しの通りこの時点で私の感情は怒りに天秤が傾きつつあった。
熱は微熱程度まで下がっていたが大事をとって月曜日も学校を休み、暑かったので兄と共に水浴びをしたせいで熱が振り返して火曜日も学校を休むことになり母に怒られ、なにか指示するまでベッドから降りるなと厳命された時にちょうど、祖父からの呼び出しが入ったのだ。歩いて一分もかからない、祖父の暮らす近所の別邸に放課後でいいから来れるかと聞かれ、熱が振り返しているし母にベッドから降りるなと言われたから難しいと私は素直に答えた。その結果、祖父は一頻り笑ってから今から自分がそちらに向かうと言って私の返事を待たずに電話を切ったのだった。
祖父が本当に訪ねてくるのかどうかを考えつつ、手を伸ばして取ったジャンヌ・ダルクの伝記をぱらぱら捲る。意外だとよく言われるのだが、私はあまり活字を読まない。反対にデブはよく活字を読み、部屋の本棚にも色々なジャンルの本が大量に入っている。その癖して中学一年生の一学期の中間テストで学年のほぼケツと言える順位をとるんだから、読書量と頭の良さは比例しないということなのかもしれないが、アイツは本物の馬鹿だ。しかも初めての試験だからとそれなりに気合を入れて勉強していて、その結果があれ。流石の私も気の毒になって、ここ最近は勉学面に関して触れるのは辞めている。
この伝記も今年の夏休みの宿題である読書感想文の題材として兄から寄越されたものであり、比較的簡単なものを選んだとは言われたがどうも私の頭に入って来なくて困っているものだった。毎年毎年読書感想文に手を焼くから今年は早めに書いておこうと思ったのだが、諦めた方が早いかもしれない。もう諦めてデブに代筆を頼もうかな。
そもそも実際に現実を生きた人の伝記よりも、私としては一から創作された話の方が読みやすい。前者は無駄に感情移入してしまってダメだ。やっぱり今年の読書感想文もコロッケかハンバーグで釣ってデブに書かせようと決意し、伝記は閉じて机に戻す。熱で重い頭をまわすのは面倒だし何もすることは無いし、もういっそのこと寝てしまおうかと布団をかけ直した時に、ドアが開いた。母かと思ってそちらを見たが、心配そうに笑う祖父だ。本当に来たらしい。
「今、大丈夫か?」
「へーきだよ。することなくて寝ようかと思ってたとこだから」
「そうか。にしてもリコが風邪を引くなんて珍しいな。リオは昔はよく体調を崩していたが」
「お母さんもそう言ってた。看病なんて久々だって」
「だよなあ。お前たちはもうすっかり風邪なんて引いてなかったし」
隻眼で着流し姿の祖父は相変わらずカタギには見えない。纏う空気も刺々しいし、そもそも目付きが悪いのだ。普通にしていても睨んでるように見える。実際に若い頃はヤンチャしていたらしく、隻眼もその頃に色々あったらしい。父は会ったことがあるという祖父の若い頃の友人も皆こんな感じだそうで、デブが不良になったのは間違いなく祖父に似たからだと酒の席で零していた。ってことはデブも何十年かすれば祖父のように落ち着いてダンディーなおじさまになるのかと少し期待したけれど、今のデブにそんな兆候は欠片も見られない。
母方の親戚はおらず、父方の親戚と言える親戚も祖父だけである我が家では、私たち兄妹は幼い頃から祖父に猫可愛がりされて育った。兄が不良の道に進んだ時も二言三言苦言は呈していたものの自由にやれと言った感じだったし、困ったことがあれば連絡を寄越せと含みのある言い方もされている。
そんな祖父が、忙しい合間を縫ってわざわざ私に会いに来るような事があったのか。ベッドの上で身を起こして、勉強机の方から持ってきた椅子に腰掛ける祖父をじっと見つめる。私も兄も祖父の世話になるようなことはしていない。となると、思い当たることは一つだけだった。
私の問い掛けの視線を無視して美味いゼリーを持ってきたから母に預けただの、夕飯も食べていくだのと一方的に話をした後に、漸く祖父が本題に移る。この時点で部屋に来てから二十分ほどが経っていた。
「六本木の灰谷んとこのが逮捕されたんだが、お前たちは知ってるよな」
「うん」
「何をしたのかも知ってるな」
「全部じゃないけど、知ってるよ」
祖父の問いとも言えない問いに肯定を返せば、ひとつため息をつかれる。私は私でやっぱり話ってそれかと思いつつ、祖父から目を逸らすことはしなかった。お前たちと言ったからには兄もそこに含まれているのだろう。どこで私たち兄妹が灰谷兄弟と親しくしていたことを知ったのかを探るのは野暮だ。祖父の元にはそういう情報が集まってくるようになっている。
全部じゃないと言ったからなのか何なのか、祖父はそのままあの夜にあったことを私に説明し始める。まだ小学五年生の孫に話すことではないのではここに父がいれば言っただろうけれど、祖父は所詮まだ子供でしかない私と兄を大人と対等に扱う節のある人だ。兄と、それから兄に巻き込まれる形とはいえ曲がりなりにも私も関わることになっている世界。そこに足を踏み入れているからにはそれ相応の責任と判断を背負えと、私たちは幼い頃から祖父に言い聞かされている。逃げることは許さないと。
わたしが次に発言権を与えられたのは、祖父が一通りの説明を終えてからだった。その頃には残っていた倦怠感や頭の重みも消えており、すっかり私の頭も体も祖父と話すためのモードに入っている。この人が私たちを対等に扱う限り、私たちはこの人と対等で居なければならない。普段の孫馬鹿な祖父は兎も角、「仕事」モードに入って私たちを対等に扱うこの人は生半可な状態で立ち向かえるような人では無いのだ。体の方がそれをよく理解している。
「で、逮捕されたってわけだ。今回の殺し以外にも色々やってたみたいだが、そっちの余罪は揉み消すだろうから出てこない。それでも年少に入るのは確実だ」
「竜胆くんのところもご家族にそういう人がいるの?」
「ンー……ま、似たようなもんではあるな。後ろ盾になってやるつもりは無さそうだが、あれで肉親だし、可愛いんだろ」
祖父は興味がなさそうにそう言って、手持ち無沙汰にペン立てから抜いたボールペンをくるくると回し始める。煙草が吸いたい時の癖だ。我が家は禁煙なので、祖父は私たちの前でこれを良くする。だからといって吸わせてあげることは出来ないのだが。
他に聞きたいことはと視線で問われるが、そうは言ってもどこまでを聞いていいものか。祖父も深くまで聞いたとしても答えてくれないだろうし、一体どれぐらいで出てくるのかと聞いたところで知らないと返されて終わりだろう。
祖父は多分、灰谷兄弟には欠片も興味が無いのだ。ただ灰谷兄弟と関わった私たち兄妹に言いたいことと聞きたいことがあってここに来ている。今話を聞かせて疑問にも答えようとしてくれているのは、この後に続く祖父から私への問いの際に余計な疑問点のせいで話が滞ることを防ぐためだけだろう。そういう人だと、知っている。
暫く聞きたいことを考えて、一つだけ思い当たった。聞きたいことというか、頼みたいことだけれども。
「手紙を書きたいんだけど」
「手紙ィ?」
「そう。竜胆くんに。少年院って確か、手紙は大丈夫だよね」
「大丈夫だが、手紙だけでいいのか? 面会もさせてやるが」
「それはいいよ」
だってお祖父ちゃんそんなこと言ったって、面会なんてさせる気ないものね。
そこまでは言わずに首を振る。竜胆くんとお兄さんは、祖父の定める踏み越えてはならないライン、つまり私たち兄妹が絶対に破らないと決めているそのラインを足並みを揃えて踏み越えた。
祖父は兄が不良の道に進み、私がそれに関わることを本当は良しとしていない。私たちを「普通」に引き摺り戻すタイミングを今か今かと伺っている。私たち兄妹は祖父という切り札を持ち合わせているが、その切り札を使った時が私たちの最後とも言える。その後の人生で不良だとか喧嘩だとか、「普通」ではないことに関わることは永遠に許されないだろう。祖父はそういう人なのだ。
だからそんな祖父にとって、私たち兄妹と親交を深めていた灰谷兄弟が逮捕されたという事実は朗報でしかなかったはずだ。私たちはまた一歩、祖父の望む「普通」へ近付かざるを得なくなったから。竜胆くんとの面会だなんて私が望めば、四親等以外の面会は不可能な少年院の規則までをも捻じ曲げて会いたがるということが祖父の提示するラインに触れて私どころか兄まで「普通」送り間違いなしだ。
祖父は目の前に提示されたエサにかからなかった私に目に見えて落胆し、肩を落とした。日頃私たちを可愛がってくれる祖父のこういう所を見ると申し訳なくも思うのだが、だからといって竜胆くんとの交友を捨ててまで祖父の思うように生きていたいとは思えない。竜胆くんは私のはじめての友達で、待っていると約束をした人だから。
「頑固なところは婆ちゃん譲りだな」
「それこの前お父さんにも言われた」
「倅がそう思ってことは本当に似てるってことなんだよなあ……まあ、最初からリコが引っ掛かるとはオレも思ってない。リオの方が狙い目だ」
「お兄もそこまで馬鹿じゃないよ。今回もお祖父ちゃんの負けってことで」
兄も馬鹿だけど、そこまで馬鹿ではないのだ。伊達に幼少期から祖父の妨害を掻い潜って不良を続けていない。他のところでその器量の良さと立ち回りの上手さを発揮しろよとは思うけれど、それでも私も兄のそういうところは信用している。
祖父がこれでも手加減をしてくれているということは私たちもしっかりと分かっている。いざとなれば力尽くで私たちを「普通」に戻すことも出来る人だ。それだけの力があって、それでも私たちと対等であろうとしてくれているのは祖父の思いやりであり愛なのだろう。だから私たち兄妹も祖父にきちんと向き合おうとしている。
私の言葉にスッと目を細めた祖父がまたくるくるとボールペンを回しながら、口を開く。
「オレがお前たちに教えた、絶対にやっちゃならねえことを覚えてるか」
「薬と、レイプと、殺し」
「そうだ。その三つばかりはオレが警察で、お前たちがオレの孫で、どれだけお前たちを愛してたってオレ自身が許せねえし庇えねえ。で、お前たちのダチはそのひとつを破ったわけだ」
「はい」
「リコ、お前のその竜胆ってガキと友達でいたいって気持ちは俺もオレ認めてやる。だがな、お前のダチが人殺しだってことを忘れてつるむのは絶対に許さん。これから先もダチで居てぇんなら、一生その罪一緒に背負ってく覚悟ぐらいは決めとけ。で、次にそれ踏み越えようとしたらぶん殴って手足潰してでも止めろ」
「はい」
「お前には優しいそのガキが、お前以外の誰かを殺せる人間だってことを忘れんな」
「……はい」
言いたいことはそれだけだと言って祖父は何度か私の頭を撫でてから部屋を出ていった。
+
兄もどうやら祖父との対談を乗り切ったようだった。夕食後に呼ばれてわざわざ別邸まで向かって行ったし二時間ほど帰ってこなかったから、祖父は本気で兄から落とそうとしていたのだろう。私たち兄妹はどちらかがラインを踏み外すか、祖父のエサに引っ掛かるかした瞬間にどちらとも「普通」確定の一蓮托生の兄妹なので、祖父の前では兄なら大丈夫だと言い切ったけれど普通に不安でソワソワしていた。
帰ってきた兄は体型に差異こそ無いものの目に見えて萎びていて、祖父から土産として持たされたというグレープフルーツを熱の下がった私に切らせるその勢いでバキュームのように食していた。私もその時ばかりは祖父の詰問を乗り切った兄に敬意を払い、グレープフルーツ切り係を受け入れた。デブが萎びて見えるだなんて余程である。
山ほどあったグレープフルーツの大半を食べてから今日はもう寝ると風呂に向かっていったデブと別れ、私も自室に戻る。散々泣いて熱を出し祖父と一対一で話した結果、自分でも分かるぐらい私のメンタルは復活していた。祖父の言葉が私に啓示をもたらしたともいえる。
椅子にかけて机の上に便箋を並べながら、祖父の言葉を何度も思い出す。あの時祖父は私に、次に竜胆くんがまた人を殺そうとした時、ぶん殴って手足を潰してボコボコにして二度と立ち上がる気力をなくさせてでも止めろといったはずだ。……いやそこまでは言ってなかったかもしれないけれど、そんなことは言っていたはず。うん、多分言ってた。
竜胆くんは兄よりも身長も低いし体も細いけれど、兄と同い年の男の子だ。成長期真っ只中で、これからもっと大きくなるだろう。力の差もより顕著になっていく。それに祖父の話だと狂極の副総長に対して関節技をキメて手足の骨を折っていたらしいし、本人も関節技が得意だと言っていた。多分今の竜胆くんにでも私は勝てない。今後力をつけて筋肉も増えれば余計に勝機は無くなるだろう。
なら私が、もっと強くなれば良い。
竜胆くんに抑え込まれないぐらい素早く動けるようになって、竜胆くんを殴り倒せるぐらいの力をつければいい。骨を強くするのはちょっと難しい気がするけれど、沢山牛乳を飲んで煮干しを食べてカルシウムを摂取する。簡単に折れないぐらい密度のある骨にすればいいのでは。祖父の家には使われていないランニングマシンがあったはず。あれを引き取ってきて毎日走る。辞めていたボクシングもまた習おう。竜胆くんに見切れないぐらい素早いパンチを打ち込んでやる。
あとは、確かイザナのお兄さんの実家が有名な空手道場だと聞いた記憶がある。空手は幼い頃に少し習っていただけだけれども、またやろうかな。瓦割り出来るぐらい力がつけば、素早いパンチは素早くて重いパンチになることだろうし。
馬鹿みたいにぐるぐると回り始めた思考で思いついたことをどんどん便箋に書き連ねていく。やばい。私天才かも。最強になれる気がする。
私は友達がいないしいつも会っていた竜胆くんは当分少年院から出てこれない。つまり放課後も土日も大体フリーだ。体を休める日を何日か作って、あとは修行修行修行修行。少年院で喧嘩も満足に出来ないであろう竜胆くんと、成長期の体で武術を修め鍛錬の日々を送る私。チャンスだ。勝てる。
数年後振り返ってみて思うのだが、この時の私は竜胆くんへの心配だとか怒りだとかがごちゃ混ぜになって意味のわからない境地に達していた。ハイになっていたとも言う。勢いのまま便箋片手に部屋を飛び出し階段を駆け下りリビングに突入し、娘の突然の暴走に驚く両親を無理矢理説き伏せてボクシングと空手を再び始めることを誓い、ついでに父に頼み込んで祖父の家からランニングマシンを譲ってきてもらった。
階下の騒ぎに反応したらしい兄がナイトキャップを被って腹を揺らしながらリビングに来たものだから、そこでまた閃きを得てしまった私は兄に飛び付き次から私も集会に行くことを一方的に宣言し。集会に出るということは兄のチームの関係者になるということだが、その分面倒な輩に絡まれることも増えるということだった。私はその面倒な輩との喧嘩で実戦経験を積んで竜胆くんをボコボコにできるぐらい強くなろうと思ったのだ。当時は天啓だと思っていたが、数年経ってから考えるとこの時の私は馬鹿だった。日頃兄や兄の配下の連中を馬鹿だ馬鹿だと罵っていたが、この時の私以上の馬鹿ではない。
数週間ほど経ってから遅れてこの騒ぎを知り、私が在らぬ方向に吹っ切れたことも同時に知った祖父は何故そうなると顔を覆って膝をついたという。その反応が正解だ。
兎も角、ここから私の暴走は始まった。
+
思い立ったら即行動がモットーの私がボクシングジムに通い始めて三週間。二年ぶりではあったがコーチの顔触れは変わっておらず、出戻ってきた私を歓迎してくれた。ブランクがあるとはいえ日頃からデブによって巻き込まれた喧嘩で人を殴り慣れている私はおかしな癖こそついていたものの、同年代に遅れをとることも無く、自分で言うのもなんだが順調に腕を上げている。
そもそも同年代の、親に無理矢理入れられて、だとか、興味があって、だとか、そういう失礼な言い方をするが少々甘っちょろい理由でジムに通っている連中と私とでは、目指すところが違っている。私の場合は下手したら人を殺しかねない前科持ちの友人を止めるため、ボコボコに殴り倒すために力を欲しているのだ。ヤンキー漫画とかでも道を踏み外しかけた友人を止めるために主人公は拳を振るうし、大抵夕焼けに照らされる河川敷で拳を突き合わせて彼らは再び不滅の友情を誓う。なんと美しい光景だろうか。私の目指すところはそこだ。デブにそれは違うと思うと言われたが、父の読んでいた漫画から得た知識だから間違いないはずだ。目指せ、河川敷で友情の再構築。
いや別に竜胆くんとの友情は再構築が必要なほど崩れてなくない? という声は置いておいて、私は河川敷で竜胆くんを殴り倒すために力を欲し、基本的に飽きっぽい自分にしては良くやるなと感心するぐらいには鍛錬中心の日々を送っている。
そうしてボクシングジムに通うことは私の生活に馴染み、兄のチームに顔を出すこともまあこれまでもあったことなので普通に日常の一部になってきた。つまり、少し余裕が出てきたのだ。じゃあどうするかって、前々から決めていたように空手も再び始めようと、私の中でやることリストが更新された。
最初は突然暴走し始めた私を心配していた両親も、はじめての友達である竜胆くんを今度こそ殴ってでも止めるために強くなりたいといえば涙ながらに頷いて私の修行を認めてくれた。デブと遅れてことを知った祖父は両親という後ろ盾を経て強くなるための礎を着々と築いていく私に青い顔をしていたが、祖父の示してくれたやり方が天啓だと気付いたのだと言えば項垂れるだけで何も言ってこなかった。この時点で私の中では既に、竜胆くんの犯した許されない罪への怒りと彼を咎める気持ちと、二度と再犯を許さないためにも武力を持って竜胆くんを制すればいいという決意と、そのためにはより力が必要だという力への意志が両立していた。それが祖父の示したやり方に則っていたから、一度自分が口にしたことである以上祖父ですら何も言えなかったのだろう。
もちろんこの私の決意を、きちんと友達としてイザナと鶴蝶くんにも手紙で宣言をした。イザナはお前の爺ちゃんが言いたかったことってそういうことじゃなくねだとかなんだとか言ってきたけれど、鶴蝶くんは文面から分かるぐらい健気に私を応援してくれたし、まあイザナもきっと私を応援してくれてるんだろうと私は解釈した。イザナのお兄さんの実家の空手道場に通いたいという申し出は無視だったが、まあ伝えてくれているだろう。だからそこの所の詳細を詰めるために私は数ヶ月ぶりに母と一緒に二人の暮らす施設に向かった、のだが。
顔見知りの施設長さんが数名の警察官に何度も頭を下げており、私を置いて駆け寄った母が何事か話を聞かされて顔色をぐんと悪くさせる。私は玄関の前で立ち尽くし、せめて出入りする警察の邪魔にならないようにと端に寄った。先程から強くなるばかりの嫌な予感を誤魔化そうと手をぎゅっと握る。手に怪我をすると修行に差し障るから爪を立てはしなかったが、もしも修行をしていなければ私の手は今頃爪で抉られて血まみれだったことだろう。
母は施設長さんの前に立つようにして何か警察と応酬を交わし、それから私を見た。つられるようにして施設長さんもこちらを見て、痛ましげに歪む表情を向けられれば、間もなくして嫌な予感は確信に変わった。胸の奥底から自制が聞かないぐらい感情が溢れ出し、足元がぐらぐらと揺れ始めた気すらする。握り締めた手が震えた。
「リコちゃん!」
「……鶴蝶くん」
どちらだとなんとか思考を回そうとするばかりで周囲が見えていなかったのか、ぎゅっと腰元に回された腕で現実に意識が戻ってくる。震える腕が縋るようにして私を抱き締め、見下ろして覗いた胸の位置にある瞳からは涙が溢れていた。ぐるぐるぐるぐると意味もなく回る思考と切り離すようにして、強く握り締めすぎて若干痺れている手で鶴蝶くんの頭を撫でる。それからその肩に腕を回した。これで鶴蝶くんの線は消えた。もう一人で確定だ。
母と施設長さんはまた警察と話している。鶴蝶くんは泣いている。何か言わなきゃとひとつの感情に支配されて真っ白な頭を必死に動かしていれば、私たちの後ろの、施設に出入りするための門の方からバイクの排気音が聞こえた。思わず緩慢な動作でそちらを振り返る。短い黒髪の男の人がバイクから転げ落ちるようにして降りて、開けっ放しの門から飛び込んできた。そのまま私と鶴蝶くんの真横を走り抜けて、施設長さんと母の傍に寄る。二言三言交わしてから、何度も頭を下げ始めた。
何度も話に聞いていたイザナのお兄さんだ、と他人事のようにその光景を見つめる。頭も心も、体中がひとつの感情に支配されていて他のことが上手く考えられない。手の震えが止まらなくて、鶴蝶くんが涙に濡れた瞳で私を心配そうに見つめてきた。誤魔化すように笑って、お兄さんのことを聞く。
「多分、イザナのお兄さんだと思う。何回か挨拶したことしかないけど……」
「へえ……イザナに似てるね…………ねえ鶴蝶くん、イザナ、何したの」
「……」
「悪いけど、私もどうしても知りたいから、教えてくれないなら今からあそこに突っ込んで警察に聞く」
これじゃあ脅しだ。震える声での脅しなんて情けないが、鶴蝶くんは俯いていたのに弾かれたように頭をあげた。じっと私を見つめて、ただでさえも悪かった顔色が徐々に悪くなっていく。曖昧に笑って見せたが、鶴蝶くんは私の心の内に気付いたようだった。
あわあわと視線を泳がせて、私の腰に回す腕の力を思いっきり強めて、顔色を伺いながら言葉を選ぶようにしてイザナの仕出かしたことと、それに至るまでの経緯が語られる。うんうんと相槌を挟んで、視線はまだ深く頭を下げているお兄さんに向けた。本当に、イザナに似ている。傍に並べばさぞ絵になる兄弟だろう。私もそれを見たかった。イザナは照れて私に今日までお兄さんも妹さんも紹介してはくれなかったけれど、私はイザナの口からイザナの家族を紹介されたかった。
それなのに。
「……つまり、脅したんだね。で、脅された子が死んじゃったと」
「……オレも人から聞いただけだけど……」
「いいよ。そこまで噂に尾びれ背びれつくような時間があったとも思えないし。鶴蝶くんが教えてくれた話が多分真実だ」
「うん……あの、リコちゃん、」
「鶴蝶くん。私がなんで修行を始めたか、手紙に書いたっけ」
手が震える。声も震える。視界が霞む。頭が上手く回らない。
鶴蝶くんはより顔色を悪くさせて、何度も頷いた。施設長さんと警察に席を外すようにと言われたのか母とお兄さんがこちらに向かってくる。その苦しそうで悲しそうな顔を見て、余計に震えが止まらなくなったし頭が真っ白になってきた。ぐつぐつと胃の奥底が煮立っていくかのような感覚。
「手紙はイザナも読んでたんだよね」
「う、うん」
「返事も寄こしたもんね」
「あの……」
何かを言おうとした鶴蝶くんを意図せず遮る形で母が私の名前を呼んだ。少し離れたところに立っているイザナのお兄さんが軽く頭を下げてくれたので、私もそれに応えた。和やかな自己紹介を出来る空気ではない。ひとまず私と母とイザナのお兄さんは職員室のような部屋に行くらしい。母は私にしがみついて離れない鶴蝶くんを見て何を思ったのか、鶴蝶くんにも一緒に行こうと声を掛けていた。うん、それがいいだろう。私もそう思う。今の私には鶴蝶くんが必要だ。
行こうと私たちを促して、母とイザナのお兄さんはまた何事か密やかに話しながら裏口の方へと歩いていく。そちらから入るようにと施設長さんに言われたのだろう。対する私と鶴蝶くんは一歩も動けない。指の一本でも動かしたらもう爆発しそうだ。正直気が狂いそう。
鶴蝶くんはまた瞳を涙で濡らしながら私の名前を呼ぶ。応えるように向けた笑顔はきっと強ばり、引き攣っていただろう。イザナが見たらブスだとからかってきそうな、出来損ないの笑顔。
私を指さして笑うイザナを思い浮かべた瞬間に、ぷつりと張り詰めていた糸が切れた。ぶちんといった。こんなになるのは六本木で灰谷兄弟と出会った日、兄が私よりも食を優先したのを目の当たりにしたあの日以来だ。二ヶ月ぶり、人生数回目。しかし、恐らくこの人生で一番の、怒り。
「私は手紙にちゃんと書いたよ。修行を始めたのは、大切な友達が道を踏み外した時に殴ってでも止めるためだって。ボコボコに殴り倒して、手足を潰して、二度と立ち上がる気がなくなるまで、武力で制圧するの。……鶴蝶くん、分かる?」
鶴蝶くんは首を横に振りながら泣き始めてしまう。弟のように思っている友人を泣かせるのは心が痛むが、あの馬鹿が悪い。やめてあげてよと鶴蝶くんは嗚咽混じりに言っているが、それでもやっぱりあの馬鹿が悪いのだ。
イザナとは違ってやっぱり鶴蝶くんは思慮深くて優しくて、賢い子だ。でもそんな鶴蝶くんが何を言ったとしても私は止まらないだろう。竜胆くんとお兄さんの時はまだ、私は殴ってでも止める決意をしていなかった。だけど今回は違う。とっくに決意をしているし、さらにそれを手紙でとはいえ宣誓した。まさかイザナも私のそれが竜胆くんにだけ向くだなんて甘い考えをしていないだろう。お前も対象に決まってるだろうが。
私に駆け寄ってきた時よりも泣いている鶴蝶くんの背を撫でるようにして押しながら、母とイザナのお兄さんに続く。鶴蝶くんが抑えてくれていなければもっと爆発していただろう。ありがとう鶴蝶くん。その優しさに応えるためにも、友達と一緒に今後を生きていくためにも、私は今後またイザナが道を踏み外すなら、イザナを殴り飛ばしてでも止めよう。
友達は友達の人生を変えられるんだと、私が絶対に証明してみせる。
デブは歩けば棒にあたる