「明日は?」
「竜胆くんと動物園行く」
「明後日は?」
「ジム休みだから竜胆くんと蘭ちゃんとデブと海行く」
「……来週の日曜は?」
「竜胆くんと服買いに行く」
「…………再来週は?」
「まだちゃんと決めてないけど、竜胆くんと出掛ける予定」
「リンドーくんリンドーくんって、リコの予定リンドーくんばっかじゃん!」
「うん、まあ二年会えてなかったからね。ちょっとでも一緒にいたいっていうか」
「なら平日は⁉︎」
「月曜から、ボクシング、集会と竜胆くん、パルクール、竜胆くん、集会、ここで空手、竜胆くん」
「週に半分リンドーくんに会ってんの⁉︎ 柔道は⁉︎」
「隔週にしてもらった。竜胆くんが学校終わりに迎えに来てくれるからそのまま遊んで、道場まで送ってもらってる」
「オレと戦う時間も作れよ!」
「マンジローとの時間はこうやって今作ってんじゃん。ってか、マンジローと一戦やるだけで次の日起きられなくなるから当分嫌。竜胆くんと遊びに行けなくなる」
そのうちねと手を振って誤魔化せば、マンジローは地団駄を踏んで私を威嚇してきた。小六にもなってこれ。年下のエマちゃんの方が随分と大人びてる気がする。佐野家の若い男たちは良くいえばいつまでも少年の心を忘れず、悪くいえば子供っぽい奴らだ。
別にマンジローと竜胆くんを比べて竜胆くんの方が私の中での優先順位が上だと言っているわけではなくて、今はただ竜胆くんと少しでも長く一緒にいたいだけだ。竜胆くんも私と一緒にいたいと言ってくれてるし、何となく嘘でも機嫌を取ろうとしている訳でもないと分かるから、竜胆くんと一緒にいる方を選んでるって言うわけ。マンジローのことも大切にちゃんと思っている。
そもそもマンジローだってこんなことを言いつつ休みの日はろくすっぽ道場に顔を出さないで喧嘩に明け暮れてるくせに。今日だってお友だちのケンチンくんとどこかに繰り出して喧嘩をしていたらしく、私が本日分の鍛錬を終えてエマちゃんが作ってくれたお昼ご飯を食べている時に青アザを作って帰ってきた。殴られてるようじゃまだ弱いと言ったらこれだ。
食器を洗う私の後ろで地団駄を踏むマンジローを宥めることは諦めて、何か食べるかと聞く。シンイチローくんに何か届けに行くらしく先ほど家を出ていったエマちゃんに頼まれていたのだ。冷蔵庫にあるものを使っていいとのことだったし、さっき見たら袋焼きそばがあったからそれでいいだろう。
「食べる」
「オッケー、焼きそばね。人参キャベツ玉ねぎウインナー、あと何か入れる?」
「ベーコン」
「自分で冷蔵庫確認しな」
「……」
「なかったのね」
冷蔵庫を開けた後に無言で材料を取り出し始めたがベーコンは出していない。返事はないが眉を寄せているあたりなかったのだろう。ベーコンはまた今度だ。ウインナーでいいだろ。
マンジローはこれでよく食べるので、麺は二人前。野菜はまあ適当に入れて、栄養はきっちり取れるように。家で自分の昼食やデブの軽食として料理をするのとは違って、一応他人様の家の育ち盛りの少年に与える食事なのだということは意識する。鶴蝶くんはぐんぐん背が伸びて決して背が低いわけでは無い私を既に追い抜かしてしまったけれど、マンジローはまだ私より背が低いぐらいなのだ。いっぱい食べて大きくなって欲しい。
私の料理は基本計量も何も無いザ・適当メシなのだけれども、男連中には割と好評だ。特に道場はやめたけれどよく顔を出すケースケと、シンイチローくんのバイク屋に入り浸っているワンちゃんからの評価が高い。舌の肥えたデブと蘭ちゃんにもまあ食えると及第点はもらっているし、見た目と味より量と食べ応え重視で作ってるからね。竜胆くんは厳しくも優しいので失敗した料理もまあ食べれなくもないと言いながら食べてくれる。普通に出来た時は美味い美味いとおかわりまでしてくれるからめちゃくちゃ分かりやすいけど。シンイチローくんと鶴蝶くんもそのタイプだ。デブと蘭ちゃんはグルメなので失敗したものは絶対食べてくれない。
そしてマンジローはというと、直球で不味いとは言うが以外にも普通に食べてくれる。前に思い立ってオムライスを作ってぐちゃぐちゃにしてしまった時も、焦げてると言いながら完食しくれた。いや、あれはどうにか見た目を誤魔化そうと刺した旗効果かもしれないけれど。
適当に炒めて混ぜただけの野菜焼きそばを大皿にぶち込みマンジローに運ばせ、洗い物を済ませてから既に食べ始めているその向かいに座る。うーん、食べっぷり。作った甲斐が有る。暴飲暴食のデブとは違って、元気な男の子たちが味わいつつも勢いよく食べてくれるのは作り手としては凄く嬉しいし、見ていて楽しい。
じっとマンジローの食べっぷりを見つめていれば、食べづらいと不遜な顔で文句を言われる。そういう表情は変わらずイザナに似ているなと思った。まあイザナの場合は私が食べてるところを見つめていたりしたら殴りかかってきそうだけど。
竜胆くんと蘭ちゃんから聞いたイザナの少年院での悪行には流石の私もブチ切れて軽く殴った机にヒビをいれてしまったけれど、この二年間でまとまった考えは変わらなかったし決意も揺らがなかった。極悪の世代ってなんだよ。名前からしてもうやらかす気しかしないし、竜胆くんも蘭ちゃんもイザナのカリスマに惹かれているし、こっちとしては気が気じゃない。私の拳が炸裂してしまう。年々手加減が下手になってきているっていうのに。
祖父の話ではまあ秋には出てこれるだろうという話だったから、私もちゃんとイザナを殴り倒すイメージトレーニングを積んでいる。竜胆くんと河川敷で夕日に照らされながら友情の再構築をする件に関しては、駄々を捏ねた私に竜胆くんが折れる形で実施済みだ。竜胆くんが平気だといくら言っても私に手をあげようとしないので私の一方的な暴力になってしまいそうで早々にやめたけれど、ベタに拳を突きあわせることは出来たのでまあ目標達成とした。次にまた何かやらかした時は手加減せずに殴り飛ばすが。
その日のことを思い出して思わずニヤケてしまえば、マンジローが怪訝そうな顔をした。なんでもないよと首を振り、いつの間にか綺麗に空になった皿を洗うために腰をあげる。これを洗ったら今日はもう帰ろう。明日も早いし、最高のコンディションで竜胆くんと出掛けるために早めに寝たい。課題を片付けて食事をしたら夜更かしはせずに寝ようと決めた。
新しく買ったワンピースにサンダルに、と明日の服装をまた頭の中で思い浮かべる。竜胆くんは何を着ても可愛いと褒めてくれるけれど、その実ワンピースやスカートなどの女の子らしい服装が好きみたいで、最近の私の休日の服装はほとんどひらひらしている。喧嘩をしにくいのが難点だけれども、竜胆くんも強いし私は拳ひとつで何とか出来るのでまあ問題ない。竜胆くんに可愛いと言ってもらいたいし。
また褒めてもらえますようにと祈ったタイミングで、皿を運ぼうと伸ばしていた手が勢い良く掴まれた。マンジローの黒々とした瞳が私を見上げている。何か話したいことがあるのだとそれだけでよく分かった。
「何かあった?」
「いや別に」
「でも、何かあったって顔してるけど」
「……あのさ、リコはエマの……いや、やっぱりなんでもない」
「えー?」
「なんでもないって。皿はオレが洗うから、帰る準備しとけば」
「……まあ、何にもないならいいけどさあ」
なんかあったって顔してるくせに。私の手を離して、大皿を手にマンジローはさっさとキッチンに向かっていった。追求から逃げるようなその動きがらしくなくて、でもそうされてしまうと私としても踏み込めない。だからせめてその背中を目で追った。
マンジローのことが自分のことのようによく分かる分、どうしても踏み込んで欲しくないところもわかってしまう。それに、今マンジローの抱えていることが私の制圧対象になるようなことではないとも何となく分かるから、余計に何も出来なかった。
──そう遠くない未来、この時無理にでも話を聞き出しておかなかったことを後悔することになる。
+
日差しを反射して煌めく水面に、寄り添ってはしゃぐカップルたちに、駆け回る子供たち。あちらこちらから香る軽食の香ばしい匂いにデブの腹が鳴る。蘭ちゃんは水着姿の美女を見ていて、竜胆くんはぼんやりと海だと呟いた。
そう。ここは、そう!
「海だー! わーい! 海海海!」
「なあ、なんでガリ子こんなにテンション高いの?」
「海とかもう十年ぐらい来てないからじゃね」
「ねえ竜胆くんって泳げる⁉︎」
「まあ、人並みには?」
「すごい! 私クロールもできない! お兄浮き輪膨らませて! 早く!」
「ええ……疲れるからやりたくねえよ…………」
「デブの肺活量ここで活かしてよ! ねえお兄ってば! お願いお兄!」
「オレはデブじゃねえ!」
「うるせぇ兄妹だな……りんどー、オレたち先に着替えに行こうぜ〜」
「いやリコ、下に水着着てるからって流石にここで着替えんなって。ほら、海の家行こう」
「聞いてね〜」
幕間。
「つかれた……なんであの二人あんな元気なの?」
海の家で借りたパラソルの下、ビニールシートに転がって溶けそうになりながら呟く。見知らぬ人たちのチームに飛び入り参加してビーチバレーをするデブと蘭ちゃんを見つめることしか出来ない。
家から持参した浮き輪はデブに膨らませようとしたけれど穴が空いていて膨らまず、五分間膨らませようとチャレンジしていたデブが無駄に疲弊しただけで終わった。パラソルのついでに海の家で借りようかとデブは提案して来たけれどなんとなく今日なら泳げる気がしたからそれを断わり、浅瀬で竜胆くんに腕を引いてもらって泳ごうとして一分で諦め、そこからは集って砂の城を作っていた見知らぬ子供たちに混ざって砂遊びをして二時間ほど経過し。完成した超大作は人が集まってきて写真を撮るほどの出来だったが、私は神経を研ぎ澄ませて造形を行っていたためその頃にはもうヘロヘロだった。
そのままフラフラしながらビニールシートの方に戻って、一頻り竜胆くんや蘭ちゃんと遊び回って腹を空かせたらしく焼きそばを食べていたデブに少しそれを分けてもらって仮眠をとったのだ。少しでも体力が回復すればいいなと思ったんだけど、暑くてよく寝れなくて余計に疲労が溜まっただけだった。
目覚めてすぐ視界に入ってきたのはたこ焼きを食べながらじっと私を眺めていた竜胆くんだった。数秒見つめあってから、あ、と口を開ければたこ焼きが放り込まれて、かなり熱くて目が覚めた。出来たてだったらしい。
なんで私を見つめていたのかは分からないけれど荷物番兼私の見張り番をしてくれていたらしい竜胆くんにお礼はいったが起き上がる気力は湧き上がらず、ビーチバレーに励むデブと蘭ちゃんを見つめていた。デブはあの巨体で本当によく飛ぶ。そして敵チームの蘭ちゃんはそのデブの顔ばかりを狙っている。……仲良いよね、あの二人。
「リコ、鼻の頭赤くなってる」
「うええ……焼けたくない……日焼けは嫌だあ……」
たこ焼きを食べながら私を見下ろして呟いた竜胆くんの言葉に、のろのろと腕を伸ばして後ろ手で日焼け止めを探す。もう既に焼けてしまった以上意味は無いかもしれないけれど、これ以上焼けるのも嫌だから塗り直す。
私が掴んだものを竜胆くんがそれじゃない、それも違うと否定するシステムが完成した。全然見つからない。ここに来て直ぐに竜胆くんと塗り合いっこしたから多分転がってるはず。はずなんだけど。
見ないで探すのを諦めて大きく寝返りを打てば、何かが腕に当たった。ころころと転がっていくそれを目で追う。デブが膨らませて、蘭ちゃんが逃げるデブに向かって投げて遊んでいたビニールのボールだ。ビニールシートを抜けて私の歩幅でもそう歩かないぐらいの砂浜で止まった。……勝手に戻ってきてくれないかな。無理か。まあ無理だよね。
「はあ……あのボール取ってくるから日焼け止め探しといて」
「日焼け止めなら俺が持ってるけど」
「えー?」
さっき探してた意味。竜胆くん絶対分かってて私のおかしな動きを面白がってたでしょ。そういう所あるよ。
腕をついて体を起こし、じとりと竜胆くんを睨みつけながら立ち上がる。帰ってきたらたこ焼き奪おう。お腹空いてきたし、私をからかった罰だ。サンダルを引っ掛けてパラソルの下から出る。その瞬間にどっと暑くなった。肌が焼かれてる感触がする。焼肉になった気分だ。
よたよたと歩いてボールを回収し、指先が触れた砂が灼熱地獄のように熱くてすぐにパーカーの裾に手を引っこめる。ボールも一分ほど日に当たっただけでかなり熱を持っているし、今すぐ水をぶっかけたかった。夏が厄介すぎる。海に来てから数時間経過して言うのもなんだが私は夏が苦手なのだ。
そんな気力は正直ないけど暑すぎて死にそうだから、竜胆くんを誘って海に入ろうかな。お願いすれば一緒に入ってくれる気がする。そのうちあの二人も帰ってくるだろうし、そうしたら荷物番を任せて竜胆くんと海に行こう。うん、そうしよう。
ボールを拾うために屈めていた上半身を起こして顔をあげれば、正面にいた二人組の男と目が合った。……嫌な予感。
「キミ、一人?」
「……連れ待たせてるんで」
「えー、連れも女の子? てかキミちょー可愛いじゃん、お友だち一緒でいいからちょっと遊ばない?」
「連れは男ですね」
「あ、そーなん? じゃあさ、オレらと抜けちゃわね? こんな可愛い女の子放っとく奴といるよりも、オレたちと一緒の方が絶対たのしーって」
その発言にムッとする。こんな所で女に絡んでるオマエらと一緒にいるより絶対竜胆くんと一緒にいる方が楽しいし、ぶっちゃければ私は竜胆くんと一緒にいられるだけで楽しいのだ。竜胆くんと競おうなんて五億年早い。私が今暑さでやられてなきゃ間違いなく鼻の骨が折れてたからな、この暑さに感謝しろよ。
男越しに竜胆くんを見る。一応いつでもこちらに来れるように立ち上がって待っていてくれた。あっ、たこ焼きあと二つしかない。待って私も食べたかったのに。買いに行くの面倒だからちょっと分けてもらおうと思ってたのに!
絡んできたとはいえチーム関係でもないし、流石に親子連れやカップルだらけの休日の海で初対面の男を殴る趣味もないので勢い良く突き飛ばして道を開かせ、竜胆くんの元に駆け寄った。分かってたよとばかりに差し出されたたこ焼きをぱくりと口に入れ、咀嚼。普通のたこ焼きなのになんでこういう特別な場所で食べると美味しいんだろう。最後の一個も口元まで運んでくれたので甘んじて受け入れた。適当にビニールシートの上にボールは投げておく。たこ焼き美味し〜。
そういえばと思って振り返り、尻もちを着いて呆然とこちらを見上げてくる男たちを見た。連れがまさかこんな近くにいると思っていなかったのだろう。眼鏡の跡で日焼けすると嫌だからと今日は裸眼の竜胆くんはなんとなく柄が悪そうにも見えるし。まあ実際不良なんだけどね。
ナンパ野郎共に年下の女に突き飛ばされたという事実以上のダメージを与えるために、竜胆くんの腕に自分の腕を絡める。竜胆くんは一瞬肩をビクつかせたものの私に利用される気になってくれたのか、海に着いてからずっと着込んでいたパーカーのチャックを開けた。蘭ちゃんは早々と脱いでいたけれど、竜胆くんは下手に注目されても面倒だからといって脱がったのだ。結果的に日焼け対策でパーカーを着ている私とお揃いになったからそれで良かったけれど、竜胆くんのパーカーは日焼け対策ではない。少年院から出てきて直ぐにお兄さんと揃って上半身の半分ずつに入れた、スミを隠すためのものだ。
ナンパ野郎共の顔が引き攣る。ざまあみろ。
「この人が連れです。ナンパする相手ぐらい選びな」
語尾にハートが飛んだ。飛び上がるようにして逃げていったナンパ野郎共の背中に中指を立ててやれば、べちんと竜胆くんに軽く頭を叩かれる。絡ませた腕を解くことこそしないものの、呆れたようにため息をつかれてしまった。
「なんでそんな絡まれんだよ」
「……私が魅力的だから?」
「しかも面倒臭そうなのばっか引き寄せてくるし……」
「えーん、無視は悲しい。でもそれだと竜胆くんも面倒臭そうなのってことになっちゃうけど。最初に絡んできたの竜胆くんたちだし」
「……オレと兄貴は別でしょ」
「うん、まあそう。だって竜胆くんには私の方から寄ってってるし!」
ぎゅっと腕の力を強めれば、竜胆くんは目に見えてぎょっとして一歩引いた。最近近寄ると引いてくんだよね。蘭ちゃんは照れてるだけって言ってたから多分そうなんだろうけど、引かれたら引かれた分距離を詰めたくなってしまうのが私だ。今回も例に漏れず距離をもっと詰め、視界に入った竜胆くんのしっとりと汗ばんだ腹筋に触れた。右半身に綺麗に入っているスミをくるくるなぞり、綺麗に割れた腹筋も線を引くようにして撫でていく。私よりも綺麗に割れている気がしてなんかムカつく。
あわあわと口を閉じたり開いたりしながら顔を真っ赤にしている竜胆くんを見ないふりをしながら、自分のパーカーのチャックをガッと下ろして触って比べる。やっぱり、竜胆くんの方が綺麗に割れてる。私の方が割と熱心に鍛えてる気がするんだけどこの差はなんなんだろう。
「ま、待ってってリコ」
「ねえ竜胆くん、なんでこんなに綺麗に腹筋割れてるの? 何して鍛えてる?」
「リコちょっとやめて……」
「私も間接技極めようかな」
「頼むから……」
「私の腹筋触る?」
「いっ、や、う、さわっ、……ら、ない…………」
めちゃくちゃ迷うじゃん。ぎゅっと目を瞑って必死で真っ赤な顔を逸らす竜胆くんがなんだか可愛く見えてきて、思わず笑う。竜胆くんの新しい一面を知ってしまった。ビーチバレーを切り上げたらしいデブと蘭ちゃんが私たちを呼ぶ声が聞こえてきた。竜胆くんは必死で真っ赤な顔を仰いでいる。そういう所も可愛い。
はあ〜、幸せ。ずっとこの時間が続けばいいのに。竜胆くんの腕に絡み付く力を少し強めて、ぱちりと目を閉じた。
+
一瞬意識が飛んでいた。
意識が戻ってきたその時には伸びてきた腕に無遠慮に髪を鷲掴まれて、一瞬気がそちらに持っていかれた瞬間に頬を殴られて視界が真っ白になる。そのまま投げ飛ばすみたいに腕を離されて、背中からコンクリートの壁に叩きつけられた。ゴミ箱を薙ぎ倒しながらアスファルトに腕をついて、口の中に溜まった血を吐き出す。顔面に三発くらったせいで鼻血が止まらない。折れた奥歯で余計に口内がズタズタになっていて、もう血の味しかしなかった。
雨の音がうるさくて相手の息遣いも何も聞こえないのも面倒だ。自分のうるさいぐらいの心臓の音と、荒い息遣いだけが頭の中で木霊するように響いている。ああ、うるさい。
再び私を殴ろうと近付いてきたその体に、飛び上がる時の勢いを乗せて回転蹴りを決めた。どうやら顔に決まったようで、衝撃に押されてたたらを踏んだ瞬間を見逃さずに足払いをかける。悪手だと分かっていても正面から殴るために倒れ込んだその身体に足をかけて馬乗りになり、頬を思いっきり殴り付けた。雨で手が滑る。雨音が邪魔で思考がまとまらない。もう一発殴ろうと拳を振り上げたタイミングで胸ぐらを掴まれて今度は私が引き倒された。そのまま頬を全力で殴って顔を地面に押し付けられ、息をする間もなく首に手をかけられる。
お互いの睫毛の本数まで見えそうなぐらい近付いてきたバイオレットの瞳から止めどなく溢れる涙が頬を濡らす。雨とはまた違う生暖かいそれが私の目に入ってきて痛かった。噛み締められた唇から、それでも抑えられなかったであろう嗚咽がこんな大雨の中でも聞こえるのは単純に私たちの距離が近いからだ。
滂沱の如く涙を流して、嗚咽すら堪えられずに、泣いている。私の首を絞めても決定的な力は込めないままで、ずっと一人で泣いている。
「知ってたんだろ」
「ッ、あ、」
「オレが、シンイチローともエマとも、マンジローとも、血が繋がってないって、知ってたんだろ」
知らないよ、そんなの。徐々に私の首を絞める手に力を込めながら漏らされるその悲痛で血を吐くような追求に、今の私は首を振ることも出来ない。知らなかったと伝えるべきなのに、はくはくと開閉を繰り返す口から出てくるのは息を吸おうとして失敗するような音だけだ。
だんだんと回らなくなってきた頭で、シンイチローくんの笑う顔やマンジローの不遜な顔や、エマちゃんの照れた時の顔がぐるぐる回っている。血が繋がってない? そんなの有り得ない。だって三人とあんなに似てるのに。私はあの三人にいつも、いつもその面影を見ていたのに。
「リコに分かるわけない。家族が居て、帰る場所があって、自分だけの兄貴がいるリコに、オレの気持ちが分かるわけない」
分かんないよ。そんなの分かるわけない。私と鶴蝶くんはずっと待ってた。帰る場所で居ようとしてた。少なくとも私はずっと、家族だと思ってた。私のもう一人のお兄ちゃんだと、そう思っていた。エマちゃんだってニィに会いたいって私に言ってくれたし、シンイチローくんだって自分は二人の弟と一人の妹の兄ちゃんだからって何度もそう言ってた。
私たちはずっと、イザナを、家族だと思ってた。
「なにか言えよ!」
イザナは私の首を離して、胸ぐらを掴んで引き上げながら怒鳴る。塞がれていた気道が開放されたことで取り込めるようになった酸素を必死で体の中に取り込みながら、無理矢理上半身を起こされた体勢が苦しくて噎せてしまう。何か言わなきゃと思っているのに出てくるのは涙と咳だけだ。今更イザナに殴られ蹴られされた体が痛み出す。特に口の中が痛くて痛くて、咳をするたびに血が出て止まらなかった。
「イザ、ナ……」
「結局オレは一人だ……オレだけが一人で、幸せを奪われ続けて……」
「ちがう、ちがうよ、イザナ」
「何が違ぇんだよ!」
イザナは私の胸ぐらから腕を離して頭を覆って立ち上がり、後退る。今ここでイザナを一人にしちゃダメだ。力の入らない腕を支えに何とか震える足で立ち上がり、離れようとしていくイザナに手を伸ばす。怯えたような表情のイザナにその手を振り払われたと思った瞬間には、壁に強く背中と頭をぶつけていた。平衡感覚が一気に狂って地面がぐるぐる周り出す。耐えられなくなって座り込めば、後頭部と首筋を生温い何かが伝っていった。イザナを一人にしちゃダメだと分かっているのに、前のめりに上半身が倒れ込んでもう指の一本も動きそうにない。
鼻につく鉄臭さ。ぶつけた際に切ったらしい後頭部から流れる血が地面に落ちて雨と混ざって濁った池を作っていく。とうとう土下座のようになった体勢すらキツくて、必至で体を動かしてなんとか右半身を横にしてアスファルトに倒れ込んだ。背中が痛い。頭も痛いし顔も痛い。腕も足も、全身が痛い。でも多分、私よりもずっとイザナの方が痛いはずだ。
追い掛けなきゃ。イザナを追わなきゃ。一人にさせちゃダメ。誰かがそばにいないとダメ。だってイザナは泣いてた。あんなに苦しそうに泣いて、悲しんで、痛みを堪えられないって顔で私を見ていた。
血の繋がりがなければ家族ではないとイザナが言うなら、私は、私たちはイザナにそうではないのだと教えてあげなければいけない。血が繋がっていなくても、離れて暮らしていても、例えそばにいられなくても、人と人は家族で居られるんだと。
朦朧としてきた意識で、途切れ途切れの声でイザナを呼ぶ。イザナ。お願い、待ってイザナ。行かないで。一人で悲しまないで。私たちの愛を信じて。イザナ。
雨がいっそう強くなり寒さを覚え、どうかイザナが雨を凌げる場所に移動できていますようにと思ったその後のことは覚えていない。
触らぬデブに祟りなし