好きな人が殺された。工具で後ろから頭を殴り付けられて、即死だったそうだ。

 私が警察を振り切って店に飛び込んだ時にはもう血溜まりしか残されていなかったし、精神状態を加味してだとか見ない方がいいだとか医者と兄に言われて、結局葬儀の日まであの人の遺体を見ることすら叶わなかった。棺桶の中で目を閉じたあの人は私のよく知っている、私の好きなあの人のままで、だけどもう何もかもが違ったことは覚えている。

 意味も分からずに触れたくなって伸ばした手は兄とイザナくんに止められ、名前も知らない白い花がその代わりとばかりに添えられて、どうやらそこで私たちとあの人とはお別れをしたらしい。私にはもう何が何だかと言った感じで、何もかもがよく分からなかった。でも兄に言わせれば、私たちはあの時あの人とお別れをした、らしい。


 目が覚めて、ほんの少し布団の中で何を思うまでもなく時間を消化してから起き上がる。兄よりも起床が早ければ朝ごはんを作って、遅ければ兄の作ってくれた朝ごはんを食べる。夏休みの宿題をお昼まで片付けて、気まぐれに散歩に行ったり友人と遊んだりする。お昼ご飯は私の担当で、夜ご飯は兄の担当。これ好きだろって私の好物ばっかり夜は食卓に並ぶから、お昼は兄の好きな物をなるべく出すようにしている。夜ご飯が食べ終わって入浴も終えたらテレビを見たり本を読んだりして、眠くなったら寝る。そしてまた、朝になったら起きる。

 それが私の日々の過ごし方で、それはあの人とお別れをする前も、した後も特に変わっていない。強いて言えば、あの人の店に行かなくなった。幼馴染みとも全然連絡を取っていない。食材の買い出し以外では家から出る気力が湧き上がらない日々が続いている。兄がよく家にいてくれるようになった。イザナくんも頻繁に会いに来てくれるし連絡は毎日くれる。でも朝は上手く起きれなくて、夜も上手く寝付けない。何かを楽しいと感じることが減った。

 それから、あの人に会わない。会えない。あの人の声が聞こえない。あの人がもういない。あの人が、死んでしまった。


 だけど、それでも私は普通に生きていると言える。もっと正確に言うなら、私は普通を保つ努力が出来ている。
 決して難しい話じゃない。そっくりそのままこれまで通りの日常を送ることは困難になってしまったけれど、これまで通りの日常を大幅に崩すようなことはしたくなかった。そうすると、どうしてもあの人の影が生活から失われていくから。


 こうなってしまうと認めざるを得ないことのひとつめが、あの人が死んでしまったこと。ふたつめが、あの人と交わした約束は永遠に守られないこと。みっつめは、あの人との未来はもう二度と私に訪れないこと。


 生きてるんじゃないの、とか、これは全部夢なんじゃないのかな、とか。朝目が覚めて一番最初に思うのはいつも決まってそんなことだけど、そう思えば思うほど棺桶の中でただただ静かに目を閉じていたあの人と、その作り物みたいに真っ白で偽物みたいに冷たそうに見えた頬を思い出す。そうすると二年前の母の葬儀で触れた氷みたいに冷たい肌のことも思い出して、死者の温度の無さと私たち生者の滑稽なまでの温かさというものを嫌でも比較してしまう。そうしてだんだんと記憶の中のあの人の温もりが失われて、大好きな掌の温もりが思い出せなくなっていく。

 あの人は死んでしまった。その死を認めるのは、意外なことにそこまで難しくなかった。だから私はあの人の死を理解して認めていて、だけど同時に理解していないし認めていない。頭と心は別物で、頭は目に見えても心は目に見えないから、食い違ってめちゃくちゃになって上手く息ができない。
 だって、こんな突然奪われていい人じゃなかったのだ。意味もなくその命を奪われていい人なんかじゃなかった。馬鹿げた理由で殺されていい人じゃなかった。生きているべき人だった。生きていて欲しかった。

 あの人は、真ちゃんは素敵な人で、私たちの太陽だった。私のお日様。生きる上で必要不可欠な人。真ちゃんがいなければ私はどちらが前でどちらが後ろかも分からない。何も見えなくなってしまう。真ちゃんがいないと、もう何もかもが分からなくなってしまうのだ。


 これがもしも元から与えられていなくて、遠くから見ていただけの幸福だったなら、命だったなら、私は「奪われた」だなんて思わなかった。
 どうせなら手にしなければよかった。与えられないままだったらよかった。知らないままでいたかった。そうすれば失った時の痛みなんてなくて、奪われた時の憎しみも悲しみも苦しみもなくて、会えない痛みなんて知らないで済んだのに。

 でも今更そんなことを言ったところでもう遅い。私はもう二度と真ちゃんに会えない。真ちゃんは死んでしまった。殺されてしまった。心底馬鹿げた阿呆らしくてくだらない理由で、そんな理由だけを振り翳して世界から真ちゃんを奪われた。


 私は、私から真ちゃんを奪った人たちをこの目で見た。だけど何があったのかは覚えてない。何をしたのかも、何を言ったのかもよく思い出せない。ただ、真ちゃんの店の前に集まった野次馬を掻き分けた時に商店街の人たちから向けられた同情的な視線とか、見ない方がいいと言う言葉とか、そういうものは中途半端に覚えている。

 幼馴染みの、真ちゃんの弟のマイキーも多分人混みの中にいた。誰かを見て何かを言っていた。何があったのと聞こうとして、それで確かマイキーと目が合ったのだ。その後に何が何だか分からないまま、パトカーの方に連行されていく二人組を目で追った。
 何があったの。どうしたの。真ちゃんは? なんで警察とか、救急車とか、そもそもこんなに人がいるの。ねえ、真ちゃんは?
 そのどれもが言葉にならなくて、でも私はその二人組と目が合ったその時に、多分何かを言ったのだと思う。二人に向けてか、マイキーに向けてか、それとも真ちゃんに向けてか。もしかしたら野次馬に向けてだったのかもしれないし、警察に向けてだったのかもしれない。その内容までは覚えてないけれど、何かを言いはした。

 どうにもならないぐらい嫌な予感がして、手も足もガクガク震えて、止めようとしてくる警察を振り払って、真ちゃんの店に飛び込んだはずだ。所々乾いた血溜まりのあの鮮烈な赤と空気に触れて色の変わった生々しい色の赤とがぐちゃぐちゃに混ざり合って、もうそこからは本当に何も覚えていないけれど。


 気付いたら病院の中待合にいて私の服は記憶にあるものと違ったから、多分覚えていない間にも何かをしてはいたのだろう。その時のことを知っているらしい兄とマイキーは覚えていないならそれでと言葉を濁したし、その後に会った精神科の先生もカウンセラーの人も無理に思い出す必要は無いとしか言わなかった。

 病院ではマイキーが泣いていないのに泣いているみたいな顔で突っ立っていて、エマは声をあげて泣いていて、佐野のおじいちゃんは顔を強ばらせて色んな人と話をしていた。兄は怒ったり泣きそうな顔をしたり改まったりして複数の人にずっと電話をしていて、真ちゃんと兄の友人たちも何人も駆け付けて泣いたり怒ったりしていた。そして私は、それをただ見ていた。
 強盗にとか、工具がとか、靄がかかったような思考でもそういう単語は聞き取れたからそれらをひとつひとつ組み合わせて言って、見たような見ていないような夢だったのではないかとすら思ってしまいそうな真ちゃんの店の状況だとかも思い出して。駆け付けたうちの何度か会ったことのある怖そうなお兄さんが「なんで真一郎が殺されなきゃいけないんだ」って叫ぶみたいに泣き出した時に、ようやく、結論が出た。出てしまった。


 真ちゃんは死んでしまった。殺されてしまった。


 でも結論として導き出された言葉の意味がその時の私にはよく分からなくて、慌ただしい中待合をこっそり抜け出して階段の裏でイザナくんに電話を掛けたのだ。イザナくんも真ちゃんの家族で弟なんだからここにいなきゃおかしいだろうという短慮な思考で、依然として震え続ける指先で何度も何度も携帯のボタンを押し間違えながら、私はイザナくんにそれを伝えようとした。

 あのね。真ちゃんが殺されちゃったの。強盗に工具で殴られたんだって。病院の住所はこれで、今みんな揃ってるから、イザナくんにも来て欲しい。家族だから、来た方がいいよ。
 本当ならそういうはずだった。普段の私なら多分そう伝えられた。ただあの時の私は、その少し前からもう普段の私なんてものではなくなっていて、普段の私はきっと真ちゃんと一緒に死んでしまったから、何も言葉になんて出来ずにただ泣くことしか出来なかった。


 自分だって辛いだろうにすぐに行くからと言う言葉の通りに駆け付けてくれたイザナくんは、どうすればいいのか分からないという分かりやすいほどの困惑と突然大切な人を奪われた際限ないほどに大きな絶望を隠すことこそ出来ていなかったけれど、そらでもずっと私のそばにいてくれた。
 イザナくんに手を引かれて連れ出された病院の外で、色が落ちて雨風で汚れた壁にもたれ掛かって涙が枯れるんじゃないかってぐらいに泣いて、私を探しに来た兄とイザナくんが何かを話していた時も泣いて、そうしてずっと泣き続けて、でも真ちゃんは私にもう何も言ってくれなかった。

 真ちゃんは私にとっては好きな人ではあったけれど、兄みたいな人でもあった。実の兄とは七年近く頻繁に会うだけで一緒に暮らしていなかったし、そんな私にとって真ちゃんは兄代わりでもあったのだ。兄に会いたくて泣いていた私を慰めてくれたのも、兄に会えるように取り計らってくれたのも、泣くなと言って泣き止ませてくれたのも真ちゃんだった。真ちゃんは私の全てだった。
 なのに突然その真ちゃんが居なくなってしまって、じゃあこれから私はどうすればいいんだろう。何をして、何を見て生きていけばいいのか。何を思っていればいいのか。


 真ちゃんが居なくなってしまう前と同じような生活をすることは簡単だ。私が努力をすればいい。普通の顔をして、笑って、何にもおかしいことはないのだと、これが当たり前で普通なんだと思い込めばいい。
 だけどそんなことをしたって真ちゃんはどこにもいないし、私は真ちゃんにもう二度と会えない。私たちはお別れをした。心の準備も覚悟も出来ていなかったのに、お別れをしなければいけなくなってしまった。


 それもこれもどれも全部、あんな馬鹿げた理由で真ちゃんを殺した人達が悪い。誰かのためにして人を殺せる人達が悪いのだ。誰かにとっての大切な人を殺したくせに、自分たちは法に守られてこれから先ものうのうと生きていくことを許された人達。

 この先、彼らが誰かに恋をして愛して結ばれて、誰かを大切に思って生きていくのだろうかと思うと吐き気がする。私の大切な人からはその機会を奪っておいて、普通の顔をして生きていくのか。真ちゃんを殺したのに、自分たちは当たり前に生きようとするのか。

 未成年だから、殺すつもりはなかったから、被害者の弟が減刑を求めているから?
 マイキーは圭介に頼まれたから、それ以外分からなくなってそう言っているだけだろう。当たり前に混乱して悲しんで苦しんでいるのに、大切な幼馴染みがそう言ったから、大好きな幼馴染みがそう求めてきたから、必死でそれに応じようとしているだけだ。
 そんなの優しさの搾取でしかない。大切に思う気持ちを人質にして憎む機会も悲しむ機会も奪われているだけ。マイキー自身の、万次郎自身の感情はどこに行ってしまうのか。

 圭介が真ちゃんを殺した男を許してくれとマイキーに泣きついたように、私もマイキーに泣きついて真ちゃんを殺した屑を絶対に許さないでとでも言えばいいのならば、圭介との友情をドブに捨てたって私はそうするだろう。だけどそれじゃあやっぱり意味がない。私までマイキーの、万次郎だけの感情を外から操って自分の思うようにしてしまうことは許されないのだ。


 でも、私はマイキーの感情を自分のもののように扱うことだけは絶対にしないけれど、だからといって同じように真ちゃんを殺した男の罪が軽くなればとは絶対に思わないし、圭介に何を言われたって永遠に許さない。憎しみ続けて、恨み続けて、呪い続ける。その不幸を願い続けて祈り続けてやる。

 圭介のことだって、きっと私は永遠に本当の意味で許せはしないだろう。怒鳴りつけて詰る気力ももうどこにもないけれど、だからといって許す気力も理由もどこにもない。大切な幼馴染みで友人だ。真ちゃんが殺されてしまうまでの日々を限りなく完璧な状態で繰り返すためにこれからも幼馴染みで友人のままで居続ける。これからも大切だと思い続ける。

 だけど許さない。許せそうにない。


 真ちゃんは私の世界の全てだった。真ちゃんを失った私の世界にはもう何も無い。
 だからもうこれ以上苦しくて悲しくて辛いなんて思わなくて済むように、この張り裂けそうな痛みが少しでもなくなるように、これまで通りの日々を繰り返して演じ続けるのだ。たとえ何かが付け足されることはあっても、これ以上失われることなんてないように努力して、そうして繰り返して繰り返して繰り返して、繕っていなければ。前も後ろも何も分からないんだから、そうすることでしかもう生きていけそうにもない。


 願いも祈りも誰にも届かなかった。こんなもの、届かなければ意味なんてないのに。
ふたつおりのひとひら