夏は気付いたら終わって、秋が来た。その秋もいつの間にか終わって、今の季節は冬。あと数日で、真ちゃんが殺された日から半年経つ。早いのか遅いのかは、よく分からない。

 相変わらず私は、これ以上何かが欠けて日常が変わってしまうことのないようにする努力だけは続けながら、その他のことは疎かにして生きている。


 兄と二人で暮らすアパートはそう広くないけれど、兄がよく友人を連れて帰ってくるからいつだって賑やかで退屈することがなかった。お酒を飲んで声が大きくなる兄たちにご近所迷惑だよと怒っても、ご機嫌そうに笑って私を抱きかかえるのが常だ。兄の友人の手前やめてよとは言うけれど、私も嫌ではないから毎度毎度受け入れている。

 今日も兄の友人とその友人とはまた別の友人の妹──私のほとんど唯一の友人と言っても差し支えない年下の女の子を連れてくると聞いていたから、夕飯は大勢で囲える鍋に最初から決めていた。この寒い冬にわざわざ長時間キッチンに立つのも面倒で、最近は鍋や丼物などで夕飯は済ませることが多い。だから冷蔵庫の中にもそれらに使える材料がいつも通り入っていたけれど、今日は白菜だけが足りなかった。白菜のない鍋というのも物足りない気がして、兄たちが帰ってくるまで十分に時間があることを確認してから買い出しのために家を出てきたのだ。


 コートを着てマフラーをぐるぐるに巻いて、出来る限り外気に触れることのないような格好で道を歩く。灰色の空を眺めていると天気がいいとは言い難く、いつ雪が降り出してもおかしくないように思えた。天気予報でも確か、今日の午後から都心でも雪が降るかもしれないと言っていたはずだ。
 寒いのは好きじゃないけど嫌いでもない。雪も好きでも嫌いでもない。ただ、真ちゃんたちと雪遊びをしたことを当たり前のように思い出す。
 佐野家の広い庭で私と圭介が走り回って騒いで、マイキーがそんな私たちに薄ら積もった雪を固めて投げつけてきて、そこからは三人で追い掛けて追い掛けられて、雪玉を投げつけあって遊んだんだっけ。東京で雪が積もることはそう多くないから、あれはもう何年も前のことだと思う。最終的にはエマも混ざって、四人まとめて真ちゃんに「せめて手袋ぐらいしろ」と怒られた。でもその真ちゃんの顔にマイキーが雪玉をぶつけて、また大騒ぎになって。

 もう絶対に戻ってくることのない日常だ。今の私たちはあれだけの騒ぎをするには大きくなりすぎてしまったし、大人に近付きすぎてしまった。それなのにずっと子どものままだから、私たちの氷みたいに冷えて赤くなった手をまとめて取って諌めてくれる真ちゃんがいなければ、引き際さえ分からないふりを続けて雪遊びに耽ってしまう。


 あの日々を思い出してそういうことを考えてしまうから、冬も雪も今年からは好きでも嫌いでもなくなった。真ちゃんのいた日々を思い出すと幸福と絶望がぐちゃぐちゃに混ざり合って、叫び出して泣き喚きたくなる。思い出の中の真ちゃんに会えることは幸福で、思い出の外に真ちゃんはもう居ないのだと知ることには絶望が伴うのだ。


 白菜と友人用のパックのいちごミルクだけを入れたビニール袋を揺らしながら、最寄りのスーパーから家までのそう遠くもない道を進む。五歳の頃から中学に上がるまで暮らしていた祖父母の家から比べれば、今のアパートは佐野家と少し距離が空いた。だけど中学の学区は変わっていないし、至る所に真ちゃんと過ごした思い出があって、それに救われるのと同じだけ苦しめられる。私の記憶の中の真ちゃんはこの先どんどん曖昧になっていってしまって、だけど中途半端で曖昧になっていく記憶はただこの街で生きているだけで揺り起こされるのだろう。
 そんなことをぼんやりと考えながら、口元まで巻いていたのにズレてきたマフラーをぐっと掴んで引き上げた。漏れた吐息が白くなる。その吐息を目で追うようにして視線を横に逸らした時に、ちょうど通り掛かる形になった公園の中によく知る人を見つけた。思わず足を止めてその感情のない横顔を見つめていれば、視線か気配のどちらかを感じたのか、徐に視線が寄越された。

「……奈々帆?」

 休日の昼時だと言うのに今にも雪が降りそうな天候の問題か、公園にはその人以外誰もいなかった。お互い案外入口の近くにいたこともあって、小さく呼ばれた名前もよく聞こえる。何度か瞳が瞬かれたのを見て、特に何を思ったわけでもないけれど私はそちらに足を向けた。問い掛けの返事はそれで十分だろう。

 公園の入口の車止めはするりと避けて、そのすぐ側の今は何も咲いていない花壇の前で突っ立っていたその人の正面に回り込む。私が何故ここにいるのか分からないとばかりに依然として瞬きを繰り返しているが、ここは私の家の近くなのだ。私が最近は少しはマシになってきたとは言え一時は学校に通えないレベルで外に出ることを拒絶していたことを加味したとしても、ここに居ても何もおかしくはないだろう。
 そう思いつつビニール袋を持っていない方の手を伸ばして頬に触れれば、私の冷え切った手でも分かるぐらいにヒヤリとしていた。一体どれぐらいの時間をここで過ごしていたのだろうか。行きはいなかったような気がするけれど、そこまで周囲に気を配って歩いているわけじゃないから断言はできない。

「風邪引くよ」
「そんなずっと居たわけじゃねえし、もう帰ろうと思ってたから……」
「ホントに?」
「ホントに」

 私の問いにこくりと頷いて、その人──イザナくんは、躊躇いつつも頬に当てたままだった私の手に自分の手を重ねて顔を顰める。コートのポケットにずっと突っ込んでいたのかイザナくんの手は熱くて、冷え切った私の手に触れられると痛いぐらいだ。

「お前こそ風邪引くぞ」
「私も今帰るとこだから平気なんだよ」
「買い出し?」
「うん。白菜といちごミルク」
「送る」

 買い物内容にまでは興味がなかったのか曖昧にへえと呟いて、さっと私の手から自分の手を離したイザナくんはそのままビニール袋を奪って歩き出す。何度も来ているから家の場所も、この公園からほんの数分で到着する程度の距離だということも分かっていて、それでも家まで送ってくれるらしい。優しい人だ。
 足早に歩を進めるイザナくんの斜め後ろに駆け足になりつつも近寄れば、それに気付いたのか歩幅が見るからに狭められて歩調もゆっくりとしたものになった。着いてきていることを確認するように振り返られたので、そっと頷いて応じてみせる。またすぐに目を逸らすようにしてイザナくんは前を向いたけれど、ゆっくりとした歩調はほんの少しも早まることはなかった。

 このほんの少しの応酬からも分かるように、イザナくんはどうしようもないぐらいに優しい人なのだ。簡単に人を傷付けらてそれをなんとも思わないような人を優しいだなんて言うのは間違っているという意見もあるのかもしれないけれど、それでもイザナくんは誰かを慈しんで大切に思う心だって持ち合わせている。私が色々あってしつこく食い下がった時だって、一度私を殴った後に泣きそうな顔で謝ってくれた。ただ少し自分の気持ちが抑え切れない時があるだけの不器用な人。

 その優しいイザナくんのあまりに頼りない防寒の仕方を斜め後ろからじっと見つめる。視線に気付いてはいるだろうに何も言わないということはそのまま見ていてもいいということだと楽観的に受け取って、伸びた毛先が風に吹かれて揺れて見るからに寒そうな首筋を案じた。本当に風邪を引いてしまいそうだ。
 とは言え、寒そうだしそのままじゃ風邪を引くと言ったところで先程のように別に平気だと返されて終わってしまうだろう。イザナくんは甘受よりも拒絶の方が得意だ。

「髪、伸びたね。伸ばすことにしたの?」
「いや。切るのが面倒なだけで別に伸ばしてるってわけじゃねえ。まあ、夏が来る前には切るだろうけど」
「夏は長いと熱が篭って余計暑くなるもんね」

 ビニール袋を持っていない方の手で毛先を摘んで引っ張ってから離して、それだけでこちらを振り返るような視線が寄越される。

「奈々帆は?」
「髪のこと?」
「ン。伸ばしてただろ……あー…………夏ぐらいまで」

 私が答えるまでもなく、イザナくんは自分の問に対する答えを見つけたらしい。なんの返事をしなくとも文句のひとつも言わなかったし、歩を早めることも緩めることもせずに僅かにこちらに向けていた視線を真っ直ぐ前に固定した。私はそれを見つつ、先程のイザナくんに倣ってマフラーに収まりきらずに飛び出した髪の毛先を指と指で摘んで持ち上げ、手放す。肩より少し伸びた程度の、今のイザナくんと同じぐらいの長さしかない髪はそう広がりもせずに落ちていった。


 失恋した女の子が髪を切るのは、少女漫画の定番だ。永遠の失恋を突き付けられた私もそれに倣い、毎日手入れして長々と伸ばし続けていた髪を切った。兄はその事には何も言わなかったけれど、短いのも似合ってるとまじまじと私を見つめながら呟きはしたものだから、ほんの少し恥ずかしさを覚えるのと同時に胸が軽くて重くなったのを覚えている。

 真ちゃんは告白してフラれてを繰り返す人だった。私はその話を聞く度に傷付いたり悲しんだりしたけれど、いつからだったか、真ちゃんの告白した女の人たちのファッションや髪型を真似してみれば彼の理想に近付けるのではと思いついたのだ。そうして髪を伸ばして大人っぽい格好をして、ただひたすらに真ちゃんに好きになってもらえるような自分を目指した。必死で目指して、その結果が現れるよりもずっと早くに真ちゃんを失った。

 もう髪を伸ばす意味なんてなくなってしまったのだ。だから切ったし、伸ばすのはやめた。長いのも短いのも似合っていると兄も友人も言ってくれたから、それなら伸ばさないで短いままにしていても問題はないだろう。短いのは似合わないと言われたならまだしも、似合うと言われて変える必要が無い。

 そこまでつらつらと理由を語ればイザナくんが気まずそうな顔をするのは見なくても分かったので、黙ってその後ろを歩く。優しいイザナくんに気まずい思いをさせるのもその心を傷付けるのも本意ではない。イザナくんは真ちゃんの大切な弟で、実ることのなかった私と真ちゃんの約束と永遠に私が抱え続けなければいけない秘密のうち、唯一私一人でもどうにか出来る可能性のある約束と秘密を担う人なのだ。
 イザナくんをそのために利用するのは気が引けるし申し訳なく思う。自分を最低最悪のクズだと罵りたくもなる。だけど、せめて真ちゃんと二人だけの約束と秘密をどうにか出来るまでは縁が切れるようなことは避けたかった。

 でもこの沈黙が続くのは少し気まずい。家までの道はそう遠くないけれど、無言のままでも気にならない距離かと言われるとそうではないのだ。

「イザナくんは……伸ばした方がいいと思う?」
「……髪を?」
「そう」

 紫色の、私は名前も知らない宝石の色をした瞳が今度ははっきりとこちらを見た。私のために緩められていた歩調も完全に止まり、イザナくんは振り返って、驚いたような、何かを訝しむかのような顔で私を見つめている。
 何故自分にそれを聞くのかと言外に尋ねてきているようだが、実際のところただ気まずさを誤魔化すためにすぎない。私はきっとイザナくんが何を言ったってもうあの夏のように髪を伸ばしはしないし、肩より少し伸びた程度のこの髪が胸に届く長さになる前にまた今よりも短く切ることだろう。イザナくんはそれを分かっていて、だからこそ私の問い掛けの意味が分からないという顔をするのだ。

「……奈々帆の好きにすればいいと思うけど」
「じゃあこのままにしよっかな」

 歩みを止めたイザナくんに従うようにして私も止まったから、二人揃って道のど真ん中で止まるおかしな人たちになってしまった。今日が陽射しの眩しい真夏の一日で周囲に大勢の人がいなくて助かった。住宅街の中心だったとしても、私たちを見ている人は一人もいない。
 可もなく不可もなくとばかりの返答に何を思うでもなく頷いて、人気のない住宅街を軽く見渡した。この道もかつて真ちゃんと並んで歩いた。まだ夏が来る少し前。もう時間も遅いからと店から家まで送ってくれて、私の話すくだらない話に真ちゃんはずっと楽しそうに相槌を打ってくれていたっけ。

 そんなことを考えて息もできないぐらいの苦しみと悲しみで痛む胸を抑えた時に、ふと、立ち止まってこちらを振り返っていたイザナくんの右手がこちらに伸ばされた。避けるまでもなく、繊細なガラス細工で縁取られた価値のあるものに触れるようにして私の髪の毛先をイザナくんは指で梳く。その手付きは真ちゃんよりもずっと丁寧で、何かを恐れるような物々しさを内包しているように思えた。
 毛先を梳くだけで何も言わないイザナくんに背中の辺りがむず痒くなってきて、見上げるようにしつつその名前を呼んだ。

「あの、イザナくん? どうかした?」
「……伸ばしてもいいと思う」
「…………」

 思わず息を詰めた私を見下ろして、すぐに少し迷うようにして目線を在らぬところに逸らした後に、イザナくんはまた私を見た。外気に触れてすっかり冷たくなった指の先が髪を梳くついでに僅かに頬を撫でていくものだから、私は何も言えなかった。

「短いのも似合ってる。けど長いのだって似合ってたし、エマと揃いの髪型だって出来てねえんだろ?」
「それはまあ、そうだけど……」

 目標まで伸ばしきれずに切ってしまったから、結局エマとお揃いの髪型には出来ていない。そのエマだって私が髪を切った理由は分かっていたはずで、名残惜しそうな顔を一度見せたっきり何も言いはしなかった。思い返してみるとあの時のエマは寂しそうで、でも私に気遣って何も言えなかったのだろう。あの子も、兄であるイザナくんと同じようにすごく優しいから。
 でも、その優しいエマに気を遣わせて悲しそうな顔をさせて、だからってじゃあ髪を伸ばしますとはならないのだ。結局最後まで、最期まで真ちゃんに長い方が可愛いとか、そっちの方が好きだとか、期待していた言葉は言ってもらえなかった。たとえ兄でも友人でも幼馴染みでも、他の誰が期待していた言葉を今更言ってくれたって意味はない。真ちゃんじゃなきゃ意味なんてなかった。

 そう思っていると鼻の奥がツンとして、先程とはまた違った意味で息が詰まった。イザナくんの冷たい掌が頬に触れて、迷うようにしつつもそのまま肩と腕を通って下へ下がる。そうして私の左手をきつくきつく握って、名前も知らない宝石色の瞳が滲む視界の中でも分かるぐらいに惑いながら私を真っ直ぐに見つめた。イザナくんの掌の冷たさと、私の掌の曖昧な生温い温度が混ざり合ってそのどちらでもなくなる。

「オレは」
「……」
「オレは……長いのも、好きだった。だから、最後は奈々帆の好きにすりゃいいと思うけど、それでもいつか伸ばしたくなった時はオレのことを理由にして伸ばせばいい」
「……私は、イザナくんのこと、真ちゃんの代わりになんてしたくないよ」

 好きな人の代わりにその人の弟を充てるなんて有り得ない。イザナくんはイザナくんで、真ちゃんは真ちゃんだ。何より、イザナくんを真ちゃんの代わりにしてこれ以上最低で最悪な女になりたくない。

 それは出来ないと首を横に振っていれば、イザナくんは小さく吐息を漏らして握ったままだった私の手を軽く引いた。存外近くにあったらしい整ったその顔が離れていって、イザナくんは再び前を向いて歩き出す。相変わらず潤んだ視界のままで、相変わらず寒そうな首筋と揺れる毛先を追った。

「代わりとか、そういうんじゃない」
「じゃあ、何?」
「ただオレが、髪を伸ばした奈々帆を見てえだけ。だから奈々帆がもしまた髪を伸ばしたくなった時は、オレがそう思ってるってことを思い出してオレを理由にしちまえよ」

 イザナくんはさっきよりも歩調を早めてぐんぐん前へ行く。それでも私の足がもつれないぐらいのスピードを維持しながら、頑なに振り返りはしなかった。
 だから私は悲しいという気持ちも苦しいという気持ちもめちゃくちゃになって、真ちゃんに会いたくて堪らなくて、こんなに優しいイザナくんを利用するみたいにしている自分が嫌で嫌で、手を引かれて歩きながら少しだけ泣いた。

 私が真ちゃんを呼びながら泣いてもイザナくんは何も言わなかったし振り返らなかったけれど、アパートに着いた時にはほんの少し躊躇いながらもあの何もかもを失った夏の朝みたいに涙を拭って泣くなと言ってくれたから、私は自分の首に巻いていたマフラーを無理矢理イザナくんの首に巻き付けて、そうしてまた少しだけ泣いた。

 イザナくんは冷えきった指先で私の涙を拭い続けながら、それでもずっとそばにいてくれた。
ふたつおりのひとひら