年下の友人からの連絡はいつも突然で、突拍子もない。今日どこに遊びに行きたいという軽めなものから、家に泊まってもいいかという比較的重めなものまで。私も日々さして用事はないから大体了承するけれど、今日に限っては突然な上になかなか厳しい内容だった。

 携帯を耳に当てて冷蔵庫を覗き込んで、その後に壁に掛けた時計を見上げる。時刻は十九時少し前。既に部屋着に着替えているし、私にとってはもう既に今から家を出るのは避けたい時間だ。

「今卵切らしてるんだけど……」
『スーパーで買ってく!』
「……ねえ、明日じゃダメ? 明日なら一日空いてるよ」

 電話の向こう側って悩むように唸り出した友人の声を聞き流しながら、開きっぱなしにしていた冷蔵庫をまた覗く。ケチャップも鶏肉もあるしその他調味料にも欠けはないけれど、卵がないのが致命的だろう。持論という名の世論として語るならばオムライスに必要不可欠なものは卵なのだから。

 私の雑と丁寧の間を行ったり来たりしている料理を気に入ってくれている友人からの本日の連絡の主題は、オムライスが食べたい、という一言だった。食べたくなったし今からそっちに行くから作ってくれと。

 私とて自分の料理を気に入ってくれる人のリクエストに応えることは吝かではない。兄から寄越されるリクエストは曖昧で抽象的な「肉」「魚」とかの一言だけでいつも献立作成に苦労しているし、最近では家で夕飯を共にしていくことも増えつつあるイザナくんは「なんでもいい」とか「菜々帆の作りやすいもの」としか言ってくれなかったりする。そちらの方が難しいのだと言葉を重ねても、妙な気遣いをやめてくれないから困りものだ。
 その点で言えば、友人はしっかりと料理の品名を添えて希望を伝えてくれるので随分と作り手としてもやりやすい。ほんの少しの失敗なら気にせずにキラキラの笑顔を浮かべて美味い美味いと完食してくれるし、作りがいもある。

 とは言え今日はもう既に夕食は作り終えているし、肝心な卵がないし、この後イザナくんがご飯を食べに来る予定がある。近くまで来ているから顔を見たいと言われて嫌だと拒否するような仲ではないのだ。今日に関して言えば兄も帰りが遅いらしいし、イザナくんがいてくれれば無駄に時間を潰すこともなく、考えすぎることもない。
 だからイザナくんの申し出を受け入れて料理を作って、イザナくんの到着を待っていたのだけど。

『今から卵買って奈々帆の家行って、明日も遊ぶんじゃダメか?』
「別に私はそれでもいいよ? でも、前に千壽に卵買ってきてって頼んだら半分ぐらい割れてたでしょ」
『今度は大丈夫な気がしてる』
「あと、今日はこれからイザナくんも来るし、夕飯も作り終わってるのでオムライスは無理です。作るとしたら明日のお昼だよ」

 夕飯として用意したハンバーグは冷凍して後日に回そうと思って多めに作っていたから、千壽の分も用意できる。付け合わせも問題ないだろう。お米も足りるし、デザート用に切っておいた林檎も多分足りる。それに関しては千壽が来るならもう少し切り分けた方がいいだろうけど、まあ問題ない。

 問題があるとすれば、千壽とイザナくん自身だろう。実際に千壽もイザナくんがいると聞いた途端に黙ってしまったし、イザナくんだっていざ家に来てみて千壽が居たら露骨に嫌そうな顔をするのが簡単に想像出来る。二人は仲が悪いわけでは無いけど、決して良いわけでもないのだ。
 兄や兄の友人たちの前では借りてきた猫のように大人しくなってずっと私のそばにくっ付いているイザナくんが千壽には自分から絡みに行っているのも見るし、千壽が目下の目標として打倒イザナくんを掲げて日々頑張っていることも知っている。相性も悪くないのだと思う。でも、二人が揃うと騒がしいから落ち着かない。


 とは言え断る理由になるほどのことでもないので、無言で悩んでいるらしい千壽との通話は繋げたまま冷蔵庫を閉じて、テーブルの上に投げ出していた鍵を掴む。泊まるつもり満々の千壽と夜更かしした後に朝早く起きて卵を買いに行くのも面倒だし、どうせなら今のうちに買いに行ってしまおう。今は悩む姿勢を見せる千壽だって、一時間後にはきっとこの部屋でイザナくんと何かしらを言い争っているだろうし。

「泊まるつもりならちゃんと学校の課題も持ってきなよ。終わらせないと明日も遊びに行かないからね」
『……ン! なるべく早く卵も買ってそっち行く!』
「卵は私が買うからいいよ。千壽は課題だけ持っておいで」
『分かった。イザナよりも絶対早く着くから、デザートはジブンの多くして!』
「今からならイザナくんの方が早く着く気がするけど」
『えー⁉︎』
「まあ、デザートの林檎はいっぱいあるからゆっくりでいいよ。足りなかったらお兄ちゃんの分も出すから」

 その返事で満足してくれたのか、千壽はご機嫌に頷いた後にリズムを付けて数学数学と呟きながら電話を切った。どうやら今日持ち込まれるのは数学の課題らしい。私はあんまり理系科目は得意じゃないから、なんだかんだ言いつつ勉強の出来るイザナくんに教科書を渡して教えてあげるように頼むしかないだろう。中一の範囲ならいくら不得手とはいえ私でも何とかなりそうだけど、間違ったことを教えるわけにもいかないから念の為。


 兄に千壽も家に来ることになった旨を伝えるメールを送って、イザナくんにも少し家を空けると連絡しておく。鍵は閉めた後にポストに入れておくことも書いておけば、イザナくんなら先に入っていてくれるだろう。外で待たせるのも忍びないし、イザナくんを先にあげても変なことはしないことはこれまでの付き合いでもう分かっているから心配はしていない。

 結局今日は兄は帰ってくるのだろうかと思いながら適当に着替えてパーカーを羽織り家を出る。イザナくんへ連絡した通りに鍵はポストに入れておいた。十月に入ったこともあってか徐々に肌寒さを増してきた空気を肌で感じ、もうすっかり暗くなるのが早くなった空をしばらく見上げてから、周囲の部屋の住人の迷惑にならないように足音を殺して階段を駆け下りた。


 +


 無事に卵を購入し、明日の朝にでも千壽に食べさせてあげようと三連のプリンも買ってスーパーを出た。

 祖父母の家からこのアパートに越してきて既に一年と半年。すっかり歩き慣れた道のりを、イザナくんがもう家に着いているかは分からないけれど、着いていたなら一人きりで待たせるのも申し訳ないので足早に進む。まだ冬には早すぎるというのにもう既にパーカー一枚だと寒い。千壽が薄着で家を飛び出していませんようにと願って、更に歩調を早めて曲がり角を駆けるようにして曲がった時に誰かにぶつかった。かなりの衝撃によろめいた体が伸びてきた掌に支えられる。
 私よりもずっと背の高く体付きのがっしりとしたその人に顔を上げるよりも早くすみませんと咄嗟に謝って、そのままの流れで顔を跳ね上げると視界に飛び込んできたのはよく知ったクラスメイトだった。そちらもそちらで驚いたような顔をしている。

「龍宮寺?」
「やっぱりナナか。髪結んでっから分かんなかったわ」
「ちょっと買い足すものがあって家出てきただけだからね。龍宮寺は特服着てても分かりやすい」

 幼馴染みの一人であるマイキーの繋がりで中学入学以前から親交のあった龍宮寺は、中一の頃から二年連続私と同じクラスの所謂不良だ。私の周囲にいる男はほとんど皆揃って不良なので、特に嫌悪感も何も抱かないし恐れたりもしていない。龍宮寺なんて特に背が高いし目付きが悪いしで圧が強いところはあるけれど、これでとても良い奴なのだ。

 私がぶつかった衝撃で吹き飛ばないように支えてくれたことにお礼を言ってから、レジ袋の中身を確認する。すっかり辺りが暗くなってしまったせいで全部無事かは正確には分からないけれど、ひとまず大半の卵に問題は無さそうだ。これで割れてしまっていたらまたスーパーに引き返さなければならなくなるし、家に急いで帰って割れた卵を使って一品作り足さなければいけなくなる。

「急いでたから周り見てなかった。ごめんね」
「こっちこそ気付かなくて悪ぃな」
「全然平気。今から集会?」
「いや、今日は幹部で集まっただけだからもう終わって駄弁ってるとこ」
「へえ。あ、三ツ谷だ」

 縦に長い上に鍛えてもいるから横幅もそれなりにある龍宮寺の横から顔を出してその後ろを覗けば、すぐそこの公園で顔見知りの何人かが屯しているのが見えた。バイクが何台も停められていて、昼間は普通の公園だというのにこうしているとかなり治安が悪い。
 突然曲がり角で立ち止まった龍宮寺を訝しんでいたのか、こちらを見ていた三ツ谷と目が合ったので手を振っておく。こちらもまた幼馴染み経由で知り合った男だが、龍宮寺の話し相手が私だと分かって納得したのか笑みを浮かべてヒラヒラと手を振り返してくれた。

 いつも集会を行っている神社じゃなくてこの公園に集まっているあたり、もう解散もしていつものメンバーで集まっているというところか。多分龍宮寺はマイキーの気紛れでコンビニに使いっ走りに行かされてるとか、そんな感じだと予想してみる。
 三ツ谷が手を振ったことで私の存在に気付いたのか、公園の入口近辺で顔を付き合わせて何かを話していたらしい特服の集団が一気にこちらを見た。頭髪は賑やかな色をしているけれど着ているものは黒一色な上に揃いも揃って物騒な空気を醸し出しているから、街灯に照らされる姿がB級ホラーサスペンスに出てきそうだった。マイキーを先頭にしてこちらに向かってくるところも、何となくホラーサスペンス感がある。まあ私はホラーサスペンスなんて千壽が観たいと駄々を捏ねて地上波放送されていた映画を何本か観たぐらいの知識しかないけど。

 適当に結んでいた髪を解いてゴムを手首に通してから、改めてマイキーに手を振った。今日は龍宮寺と揃って学校をサボったようだから、会うのは昨日ぶりだ。その昨日も給食だけ食べて帰っていったし、基本的に留年のない義務教育に甘えすぎな気もする。

「ナナ? なんでこんなとこ居んの?」
「買い物帰り。明日オムライス作るんだけど、卵切らしちゃったから」

 ビニール袋を掲げてそう返して、あそこのスーパーは結構安いよなと呟いた三ツ谷に頷く。マイキーが総長として纏めあげている東卍の幹部陣で料理をするのは三ツ谷ぐらいだから、自然とこの面々の中で私と料理の話をするのは三ツ谷だけになる。マイキーとパーは食べるのが専門だし、龍宮寺やペーに関してはあまり興味が無いジャンルの話なのだろう。
 現に今も時短レシピのアイデア交換をしている私と三ツ谷を尻目に、残りの男連中はどこのチームが何だとか物騒な話しかしていない。三ツ谷と話しつつも僅かに漏れ聞こえてくるその話の中にはイザナくんやイザナくんの友だちから名前を聞いたことのあるチームや人名もあったけれど、私は東卍のメンバーでもなんでもないので口を出すのはやめておいた。どこで知ったのかと聞かれても返事に困るし。

 マイキーたちはイザナくんを見たことはあっても、イザナくんがどういう人なのかを知らないのだ。私も切り出すタイミングを見失って何も言えずにいるし、イザナくん自身がマイキーとの関わりを拒んでいる。私に出来るのは、イザナくんがそうしてくれたようにイザナくんの意志を尊重することだけ。

 そのイザナくんを待たせているかもしれないから早く帰りたいんだけど、三ツ谷との話が一段落した瞬間にマイキーに声を掛けられてしまった。黒々とした瞳が真っ直ぐに私を見る様と人懐っこく擦り寄ってくる様がどうにも噛み合わない。マイキーを見ていると心がざわついて掻き乱されるのは何も今に始まった話ではないけれど、このざわつきに慣れることは永遠になさそうだった。

「オレもナナのオムライス食いてーんだけど」
「明日は友達に作るから無理だよ。マイキーにはそのうちね、そのうち」
「えー。ナナ、最近オレん家あんま来てくんねえじゃん。場地だってナナに勉強教えてもらえないとまた来年も留年しちまいそうなのに」

 なんてことはないとばかりに核心を突かれて、咄嗟に笑顔を取り繕えなかった。斜め前のマイキーから目を逸らしたせいで私の正面に立っていた三ツ谷が僅かに顔を引き攣らせるのがよく見える。こんなにも表情がくっきりと見えるのは、ここが街灯の下だからだろう。それはつまり、私の表情もマイキーたちにはよく見えているということで。
 めちゃくちゃに叫び出して泣き喚きたくなるような衝動を押し殺すためにビニール袋を反対の手に持ち替えて、髪の毛先を摘む。胸の辺りまで伸ばしたっきりそのままにしているこの髪は、真ちゃんを亡くしたあの一年前の夏に私が伸ばしていたよりかは短く、冬にイザナくんとこの公園の近くで話したあの日よりかは長い。


 時間にすれば片手で収まるような、数秒の沈黙だ。だけどその沈黙に誰しもが居心地の悪さを感じている。
 私だってそうだ。居心地が悪いし、苦しいし悲しい。辛くて痛い。大切な幼馴染みに対してこれはどういう嫌がらせなのかと尋ねたくなるぐらいには足元が揺らぐ。


 最近家に来てくれないって、じゃあ私はどんな顔をしてマイキーの家に行けばいいの。真ちゃんの暮らしていたその家に、どんな表情を浮かべて向かえばいいの。そこに行っても真ちゃんはもう居なくて、もう私は二度と真ちゃんに会えなくて、余計に苦しくて悲しくて辛くなる。同じだけかそれ以上の痛みをマイキーだって感じているはずなのに。

 その意思が分からなくてマイキーを見つめた時に、龍宮寺が何かを言おうとしたのか息を吸った。それと同時、マイキーの後ろで気まずそうな顔をしていたもう一人の幼馴染みと目が合う。ぐるりと身体の奥の奥が回るような感覚と芯の部分が熱を帯びるような痛みがあって、次の瞬間には私は口を開いていた。

「圭介」
「……ンだよ」
「勉強、教えてあげる」

 理系科目は得意じゃないけれど、文系科目なら教えてあげられる。それに暗記すれば何とかなるものも多いし、もう最悪テスト対策と進級目的で一夜漬けだって仕方ない。

 出来るだけ優しく見えるように微笑んで見せれば、圭介は余計に気まずそうな顔をして今度は完全に顔を下に向けた。圭介を慕う後輩には見せられない姿だろう。まあ、どこまでも圭介を信じているあの子ならこんな姿を見せられてもずっと着いていくのかもしれないけれど。

「だって、昔もそうしてたもんね」

 返事はない。

「教えてあげるから、分からないところがあるなら聞いて。今度の休みはマイキーの家で集まって久々に三人で勉強会でもする?」

 圭介は何も答えない。


 自分の体の中で、ぐつぐつと何かが煮立っているような錯覚に陥る。グラグラ揺れているのは足元か視界か。そうしているとだんだんと、怒りと親愛と苦しみと恨みと憎しみがぐちゃぐちゃに混ざり合って形をなくしていくのだ。

「私たち、昔からそうだったもの。ずっとずっとそうだった。無理に変わる必要なんてないよね」

 本当に大切だったものはもう触れられないほど遠くに行ってしまってこの先一生奪われたままだけど、それ以外を変える必要なんてない。プラスすることはあっても、マイナスする必要は欠けらも無いのだ。これ以上何かが失われることは避けるべきだ。欠けた穴に注ぎ込むものはもう、恨みと憎しみしか残っていない。


 もう一度圭介の名前を呼べば、下に向けていた視線が躊躇いがちに私に向けられた。だからまた笑みを浮かべて返す。一年前の夏のあの日まで、私たちはこうして笑いあっていたはずだ。今も昔も前提は何も変わっていない。私とマイキーと圭介は幼馴染みで、友達だ。人生の半分以上を共に過ごしてきた大切な友人。

 ただ私が、友人を愛するのと同じだけ憎めてしまったというだけで。

 ふつふつと胃の底から沸きあがるこれは憎しみだ。そして恨みと怒り。私から、私の世界の全てから真ちゃんを奪った圭介へのどこまでも真っ直ぐな憎悪の感情。たとえ手を下したのが圭介ではなかったとしても、私は真ちゃんが殺されるのを防いでくれなかった圭介を憎んでいる。永遠に許せないと思っている。

 だからこそ微笑みかけるのだ。

「最近はお互い忙しくてあんまり会えてなかったし話せてなかったけど……ね? 私たち、幼馴染みでしょ。これからも仲良くしよう。昔みたいに……あの頃みたいに」

 私は圭介を許さない。許せない。
 でも突き放したりなんてしないし、嫌いになることも出来ないだろう。これ以上何かを失うことに耐えられないし、あの夏の日までの日々を限りなく完璧な形で繰り返し続けなければ、失わなくたって耐えられなくなってしまうからだ。そのためには私たちは永遠に友であり続けなければならない。私たちの間に跨るこの固い絆と友情は永遠に損なわれてはならない。

 同じように私を突き放すことの出来ない圭介をしばらく見つめてから、今度はマイキーを見た。その黒々とした瞳と見つめ合うと心がざわついて掻き乱される。私を見ないで。叫び出して泣き喚きたくなる。その目で私を見ないで。
 真ちゃんとマイキーは似ている。似すぎている。マイキーが笑うと真ちゃんを思い出す。マイキーを見ていると真ちゃんを思い出す。マイキーに名前を呼ばれると真ちゃんを思い出す。マイキーに見つめられると真ちゃんを思い出す。

 真ちゃん。約束ばっかり残していった大事な人。。未来の希望ばっかりを私にくれた大好きな人。でも約束は守られなかったし、未来だって二度と訪れない。だって真ちゃんは殺されてしまった。真ちゃんはもう居ない。もう私は真ちゃんに、

「奈々帆」
「……イザナくん……?」

 突然辺りに響いたその声に、見つめ合ったまま黙りこくった私とマイキーと、さっきから何も言わない圭介と、その場の空気に気圧されたようにして黙っていた他の数人とが、みんな揃ってそちらを見た。別に大声を出したわけでもないだろうに、目が覚めるぐらいによく聞こえる声だった。
 咄嗟に名前を呼んで、ひとつ向こうの街灯の下で立つイザナくんを見つめる。私が呼んだ名前に答えるようにして頷いた首元は相変わらず寒そうで、固く固く握り込まれた指先が冷たいことを私はもう知っていた。

 イザナくんの視線がこの場にいる面々を見渡すようにして彷徨い、私の斜め前のあたりをしばらく見つめた後にまたこちらに戻された。そのまま固まって動けない私たちを無視して足早にこちらに寄ってきて、人並みを無理矢理押し分けるようにして正面に立たれたかと思えば次の瞬間にはビニール袋を持っていない方の手を勢い良く掴まれる。あ、と思った。

「千壽がうるさいから、帰るぞ」
「……あの子、もう着いたの」
「オレがアパートに着いた時にはもう居たから家に押し込んできてる」

 そう言えば千壽には鍵をどこに入れているかの連絡をしていなかった。つい話し込んでしまったから、千壽のことは確実に待たせてしまっただろう。イザナくんはきっと鍵を開けて千壽を部屋に入れてから直ぐにここに来てくれたはずだから、あまり待ってないのもうかも。

 それにしても、握られた手が熱くていつものイザナくんらしくない。もしかして走ってきてくれたの。家からすぐのスーパーなのに帰りが遅いし、もしかしたら連絡も来ていたのに無視したのかもしれない。だから、私のためにここまで来てくれたのかな。


 予想していた指先の冷たさが訪れなかったことで、ぐるぐる回って絡まっていた思考がだんだん解けていく。手を引かれて何歩か前に進みながら、マイキーと圭介を振り返った。二人とも同じようにこちらを見ているけれど、それぞれの瞳に浮かぶ色が違う。圭介は私がこの場を去ることに露骨に安堵していて、マイキーはイザナくんに対しての疑問を浮かべている。

 イザナくんとマイキーが会ったのは、私が知る限りではこれまでに一度だけ。真ちゃんのお葬式の日だけだ。それでもあの時のイザナくんは兄と一緒にずっと私のそばに居てくれたから、兄の知り合いか何かだと思っていたのかもしれない。
 それ自体は間違いじゃない。間違いじゃないけど、でも、イザナくんはマイキーのお兄ちゃんだ。血は繋がってないけれど、それでも真ちゃんがあの時殺されることなく生きていて、いつかイザナくんと真ちゃんがちゃんと向き合えていたら、二人だって兄と弟を名乗っていたのだろう。
 その未来の可能性は奪われてしまったけれど、でも、可能性の何もかもが消し飛ばされたわけじゃない。私に叶えられるかもしれない唯一の約束。真ちゃんの夢見た形。私に唯一分かる、真ちゃんの望んだこと。

 でもそれは今ではない。今はまだダメだ。何より私が頑張れない。今の私にはその気力がない。イザナくんが手を引いてくれてやっと歩けるような状態なのだ。


 龍宮寺と三ツ谷のことも振り返って目礼しておく。荒らすだけ荒らして、引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、でもここで消えなきゃ多分もっと酷いことを言うだろう。それを分かってくれたのか、二人は揃って頷きを返してくれた。
 圭介にも今言えることはない。傷付けるようなことしか言えないと分かってしまったし、圭介だって傷付くことしかしてくれないだろう。それじゃあマイキーには何か、言えるのか。

「ナナ、そいつ誰?」

 考え込む私を引っ張ってくれていたイザナくんが、投げ掛けられたマイキーの言葉に足を止める。思わずマイキーから目を逸らしてイザナくんを見れば、血が出そうな程に強く唇が噛み締められていた。それが見ていられなくて、握られるままだった手を握り返す。イザナくんは何も言わずに宝石の色の瞳で私だけを小さく振り返った。

「迎えに来てくれてありがとう。帰ろう」
「……ン」
「マイキーごめんね、友達待たせてるからもう帰る。また学校で」

 もう一度イザナくんの手を強く握り返してからマイキーを振り返って、ビニール袋を持った方のイザナくんと繋いでいない手をそちらに向けて持ち上げる。次の瞬間にはイザナくんにサッとビニール袋を奪われたから手を振ることが出来た。

 マイキーは何も言わない。まあそうだろう。私はマイキーの問に答えなかったし、マイキーの望みも無視した。イザナくんのことを説明するのは今ではないし、私がかつてのように気軽に佐野家を訪れる日ももう来ない。マイキーにオムライスを作ってあげる日も、きっと来ないだろう。

「圭介も、いつでも連絡して。そのためなら時間作るから」

 それを目的にすれば、私はきっと佐野家に顔を出せる。真ちゃんに会うためという目的は永遠に失われたけれど、圭介のためと大義名分を掲げればあの敷地にだって踏み込める。
 だから圭介には申し訳ないけど、付き合ってもらうしかない。私は限りなく完璧に近い形であの日々を再現しなければいけない。そのためには佐野家にだって行かなければ、完璧に近いとは言えなくなってしまう。それは困るのだ。


 たとえ圭介が主犯でなかったとしても、実行犯でなかったとしても、あの場にいたという事実は覆らない。許してやってくれとマイキーに泣き付いた事実も消えやしない。その懇願がマイキーの優しさと圭介への親愛の情を利用したことも永遠に変わらない。
 そして私はきっと永遠に、それを許せない。
 私たちは幼馴染みで、大切な友人だ。私が圭介を永遠に許せないようにその事実も永遠に変わらないまま、変えられないまま。

 何か言いだけな顔のまま私を見ているマイキーから目を逸らして、歩き出したイザナくんに手を引かれたままその背を追った。身体の奥の奥で、どろどろの感情は煮詰められ続けている。
ふたつおりのひとひら