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 曰く、それが始まったのは三ヶ月ほど前。日常的に視線を感じるところから始まった。当時は仕事が立て込んでいたし視線を感じるだけだったので放置していたが、ひと月経つ頃には視線だけではなく常に自分に追従するような足音を感じるようにもなり、やがて黒い影のようなものも視界に入るようになった。

 その影は視線や足音とリンクしていて、いつどこにいても現れる。職場での会議中に室内を延々と歩き回るような足音が聞こえたり、入浴中に壁すら歩く──這うような音が聞こえてくるならばまだしも、とうとう夢の中で足音と影に追い回されたそうだ。そうなってくるとろくに眠ることも出来ず、いくつかの神社に然るべき相談をした後に退治屋シロクロへと話を持ち込んだ。


 本気で助けを乞う声音で語られた話にイザナはわざとらしく長々と息をつき、聞いているのか聞いていないのか毛先を指に巻き付けることに夢中になっている茉白に一度チラリと視線を向けた。そのまま男に向かって不躾に言葉を投げる。

「黒い影に足音、ねえ。アンタが最初に持ち込んだ話だと視線を感じるだけっつー話じゃなかったか?」
「それは……すみません。馴染みの神社に相談を持ち込んだ時にそれを話したらうちでは無理だと言われたんです。こちらでもそれを話せば断られてしまうかと思いまして……」
「話していただかなくても断る気でしたけどね」

 あははと茉白が呑気に笑って、気まずい沈黙が広がる。イザナはため息をつくだけで肯定も否定もせずに、胡乱気な視線を男に向けた。そのまま身を乗り出すようにして頬杖をつき、上から下まで眺めるようにして男を見遣る。そんな視線を向けられた男はと言えば、茉白の言葉に一体どこまで人は顔色を悪く出来るのかチャレンジに参加していますとばかりにまた顔色を悪くさせ、縮こまって隠れるようにして背を丸めていた。

 敢えて笑うだけ笑って携帯を取り出して、イザナの妹へ少し到着が遅れそうな旨を伝えるメールを送った茉白は、相変わらず楽しそうに綻んだ顔のまま男へと視線を向けた。携帯の閉じられる音がしんと静まり返った店内には良く響く。


 その瞬間に、僅かばかりの和やかさを残していた店内の空気の全てが男を糾弾するものへとガラリと変わった。綻ぶ顔は美しいがわざとらしくもあり、春の陽だまりのような生温さの影に見ているだけで芯から凍りついていくような冷たさを隠してもいる。知らず知らずのうちに男の背筋を冷や汗が伝い落ちていった。

 気付けばテレビも電源を切られて水の流れる音も消えた店内で、誰かが唾を飲む音がした後にまるで測ったかのように茉白が口を開く。

「心当たりがあるんでしょ」
「……え?」
「まあ、それはどうでもいいんですよ。心当たりがあろうがなかろうが、原因を知っていようが知っていまいが、どうでもいいです。だって結局のところ私たちの仕事は霊を祓うことですから。でもね、だからって中途半端な情報を開示されて、嘘を並べ立てられて、分かりました祓いましょうってなると思います?」

 一拍。十月も半ばに差し掛かったそう暑くもない店内で、何故か額に浮かんだ汗を余裕なく指先で拭う男を見て、茉白はより一層笑みを深めた。これは押せば行ける。やはり無礼ポイントを稼ぐことこそが依頼者都合で辞退させる上で最も有効な手。高笑いしたい気分だ。

 イザナもイザナで、茉白が捲し立てるに連れて元々無かった余裕を更に無くしていく男を見つめ続けながらひっそりと口端を吊り上げて意地の悪い笑みを浮かべた。常に男がそばにいるせいで未だ言葉は交していないが、この案件を面倒に思う気持ちは二人揃ってのものなのだ。現状金には困っていないし、仕事を選ぶ余裕もある。そんな状況でわざわざ色々な意味で面倒な案件を抱える理由はどこにもない。


 そう。コイツら、この依頼を断るためだけに敢えて依頼者の男を追い詰めているのだ。お前の不正も嘘も隠したいことも全部知っているぞとばかりの態度で高圧的に接して、どうにか相手に「やっぱりいいです」と言わせようとしている。


 痛いところを突かれた男は既に冷や汗がダラダラで、かつ分かりやすく目を泳がせている。ここからはもう嫌味ったらしく言葉を重ねて無礼ポイントを稼ぎに稼いで追い返すだけだ。店主にも申し訳ないし短期決戦で決めようと決意した茉白は、絵画に描かれた慈母ような隙のない笑みを浮かべて真っ直ぐに男の目を覗き込んだ。併せて追い打ちをかけるようにイザナも男から目を離しはしない。
 そうして二対の紫色の瞳にまじまじと見つめられてゆっくりひとひらずつ隠し事と本音は暴かれていく。暴かれた先にあるのはそこの見えない崖だけだ。

「金を払えばいいとでも思いましたか」

 まあ大体の案件は金を積まれれば請け負う。金払いの良い案件ならば、ある程度厳しくても受けてしまう現金さは二人にだってあるのだ。何せ金で買えないものの方が少ないとよく知ってしまっているのだから、仕方のないことだろう。

「それとも、退治屋シロクロなら何でもするとでも聞きました?」

 相当金払いがいい依頼者に頼まれたら買い物の手伝いや除雪作業ぐらいはする。この前は障子の張替えもした。

 千円の案件を十件受けて一万円の利益を出すよりも、一千万の案件を一件受けるついでに依頼者のご機嫌取りもして追加で五万円のお小遣いを貰う方がいい。誰だってその二択ならば後者を選ぶだろう。しかも後者の方がリピーターになりやすいのだ。


 結局金だ。金さえ払ってもらえれば、否、十分な対価さえ支払われるなら茉白もイザナも大体のことはする。

「至極当然な話ではありますが、我々がやっているのは慈善事業ではない」

 それはその通り。何となくで始めて何となくで続けているとはいえ、慈善事業のつもりは欠けらも無い。
 祓うのならば対価は必要だと思っているし、界隈全体の基本方針としても対価の徴収は必須とされている。退治屋シロクロは分かりやすく金銭という形で報酬を求めてはいるが、祓うことに見合う対価であるならば食べ物でも装飾品でも構わないと言うのが実の所の話である。

 何せ茉白もイザナも、どれだけ簡単な案件だろうと体を張っていることに変わりはないわけだ。体を張って、常に命を賭けている。人が人ならざるものに有利な場に飛び込んで、強制的に人ならざるもののルールに従わされて、そうしていれば不利になるのは人なのだ。当たり前の話だろう。


 たとえ数秒で終わる案件だったとしても、一挙一動にほんの少しの油断やミスがあれば一瞬で死ぬ。実際に何人も死んできている。そこに経験の差なんてものはない。あったとしても咄嗟の判断力に出るか否か。ベテランも素人も関係なく、死ぬ時は死ぬし生き残れない人間は生き残れないのがこの界隈だ。

 だからこそ評価の基準は「生き残ること」のみ。何を自称しようが誇ろうが、結果は全て生存という一点のみに終着する。弱ければ殺されるし、強ければ生き残る。必要とされているのは強い者だけ。


 その界隈で二人は評価を得て、駆け込み寺にも頼みの綱にもなれている。本格的に除霊師を名乗り出して二年近く、それ以前にもチマチマと都心部の人ならざるものを祓うこと十一年。通算十三年生存している事実は、入れ替わりの激しいこの界隈で評価を受けるには十分過ぎると言える。
 見えているのに十三年五体満足な健康体で生き残った。それだけで十分素晴らしいのに、二人揃って祓う力も申し分ない。そりゃあ界隈で重宝もされるし、頼みの綱にもされるわけだ。

 見える見えない祓える祓えないは全て、生まれた時に持ち合わせたものだけで何もかもが決まる。見える人は生まれた時から見えるし、見えない人は生まれた時から見えない。祓える人は生まれた時から祓えるし、祓えない人は生まれた時から祓えない。勿論後天的に見えて祓えるようになる人間も居るには居るが、数えるのも馬鹿らしくなるほどの極小数。
 しかもその極小数ですら元々素質があったのではと推測されることが大半なのだから、本当の意味で後天的に力を得る者は限りなくゼロに近いどころか存在すら危うい。戦力として数えるだけ無駄だ。


 そんな圧倒的に戦力の少ない界隈での貴重な若手。今後を担っていけるだけの人材。山導茉白と黒川イザナは、「使える」人間だ。


 その「使える」二人にはもちろん周囲から山のように情報が寄せられる。当然だろう。意味もなく潰れてもらっては困るし、死なれたらせっかくの戦力が欠けてしまう。それに連絡ひとつでどこへでも駆け付けることを売りにする若人二人に任せておけば楽が出来る案件が山ほどあるのだ。もし二人が死んでその全てが自分たちに回ってきたら忙しくなってしまう。要は打算だ。
 ある意味では可愛がられていると言うべきか、もしくは良いように利用されていると言うべきか。まあどちらにしろ寄せられる情報には価値があって、何があってもその価値が損なわれることはない。情報ひとつあるのとないのとでは、前準備や心構えなど生存に直結する部分に大きな違いが出てくることは説明するまでもないだろう。


 トンと一度机を人差し指で叩いて、茉白は依頼者の男を仕方ないものを見るような目で見つめた。イザナも頬杖をついたまま、似たような視線を男に向けている。それぞれ微妙に色の違う紫色の瞳は美しく、そして恐ろしい。怪物が緑の目をしているのであれば、きっと獣は紫の目をしていると揶揄したのは誰だったか。常に強欲であり続ける紫の目をした美しい獣。

 二人から向けられる視線は人によっては馬鹿にされていると感じてもおかしくないほどには憐れみの篭ったものだが、その視線を正面から向けられている男が今感じているのは追い詰められた時の絶望感に近いだろう。後ろは崖で、正面には紫色の目をした獣二匹。更には首に己のものではない影が纏わりついている。見渡す限りどこにも救いがない。

「依頼をしてもらう上で私たちがそちら側に求めているものは二つ。対価と誠意。それだけ」
「今回の案件、オレらは対価に関しては文句はねえ。要は金寄越せって話だよ。アンタだって金には困ってないからオレらに話持ち込んだんだろ?」

 ピースサインをするように立てた右手の人差し指と中指を左手で一本ずつ順番に抑えながら、いつも通り緊張感のない茉白の声が告げた。それに続けてイザナも口を開き、一時間近く椅子に座りっぱなしなせいで凝り固まった背中を解すようにして両腕を天に向けて伸ばす。そのまま男の背後に目を向けながら息をつき、己の肩で茉白の肩を小突いた。
茉白も分かってるよと短く呟いて、興味がなさそうにしながらも男の背中の向こう側を見る。それから面倒なんですけどとばかりの表情で深々とため息をついた。

 男はそんな二人の反応にビクリと肩を跳ねさせて飛び上がるようにして後ろを振り返り、何も見えなかったのだろうが警戒するように左右も見渡した。それでも見えるものは何もいない。いたとしても、見えないだろう。見えないからこそ各方面に話を持ち込み、今こうやって退治屋シロクロに行き着いているのだ。


 そしてそうやって何も見えないことが更に男の焦りや恐怖を盛り立てる。いつの時代だって見えないものこそ恐ろしく感じるのが人というものだ。見えないもの、形のないもの、居るのか居ないのか分からないもの。もちろんイザナにも、それこそ茉白にもそれらを怖がる気持ちはある。見えて祓える二人ですらそうなのだから、元より見る力も祓う力もない男が恐怖するのは当たり前のことだろう。


 明確なことは何も言わず依頼に対しても一貫して拒否の姿勢を示す二人にとうとう痺れを切らしたのか、男は椅子を蹴っ飛ばすようにして立ち上がると机に勢い良く両手を叩き付けた。自分よりも一回りは若いであろう二人を見下ろす視線は血走っており、額や首筋から流れ落ちる汗は目視できるほどだ。戦慄く唇からこぼされる吐息も哀れな程に震え、本当ならば他人には見せたくないであろう怯えを隠すことに意識を向けることすら出来ていない。

 そんな男の様子に目を合わせた二人は、一人はどうしようもないとばかりに肩を竦め、もう一人はなんとも嫌そうに顔を顰めた。長年の付き合い故の無言での意思疎通。責任の押し付け合い。
 二人としては言葉を交わさずにお互い考えていることを目線や顔付きで伝えあっているだけなのだが、それが分からず理解できないものには恐怖を煽られているという感覚しか齎されないものだ。案の定、男も恐怖に支配された声音で叫ぶ。

「金なら払う! 頼むからこれをどうにかしてくれ!」
「パス」
「無理」
「何故だ! 金以外の何なら満足するんだよっ!」

 まるで数十分前の焼き増しのような二人の答えに男は気でも狂ったかのように机を叩きながら叫び散らす。それに対してイザナはあからさまに面倒臭そうな顔で「店に迷惑だからやめろ」とだけ呟き、茉白も同じように面倒臭そうな表情をしながら、男の暴走に巻き込まれて倒れないようにと避難させていたプラスチック製のコップに口を付けた。


 最早無礼ポイント獲得戦は男の一人勝ち状態だ。さしもの二人も馴染みの店で狂ったように暴れたりはしない。それぐらいの分別は持ち合わせているタイプの無礼者なのだ。

 シンバルを叩くチンパンジーのおもちゃの人間バージョンですとばかりに男がバンバンと机を叩く音が聞こえたのか、厨房の方から店主が顔を覗かせる。気配でそれに気付いたイザナと茉白は揃って頭を下げて、気にするなと笑って再び厨房に引っ込んで行った店主に対しての申し訳なさや不甲斐なさで揃ってため息をつく。自分たちの食欲を優先してこの男をここに連れてきたのは間違いなく失敗だった、と二人の考えが重なった。
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