机を挟んで二脚ずつ並べられた椅子の、男の座っていなかった方。茉白のちょうど真正面に当たるそこには見るからに上等なものだと分かる男の革製の鞄が乗せられている。程よく艶が出て目に付く傷もないあたり、愛用はしているが普段から手入れを怠らず丁寧に扱っているのだろう。
高級品にあまり興味のない二人も、依頼者に高所得者が多い関係からこうしたものはよく目にする。次第に審美眼でも磨かれつつあるのか、所有者に気に入られ大切にされている物は何となく分かるのだ。
だからこそ、可哀想な鞄だなと店外で男に声を掛けられた瞬間に茉白は思った。ストーカーの如く自分たちを付け回す存在に気付いていてなにかしてきたら鼻っ面をへし折ってやろうと思っていたイザナですらも、男が大切そうに持っていた鞄に同情した。可哀想だ。大切にされて愛されてきたのに。
興奮した状態のまま喚きながらも茉白の示す先を視線で追った男が、不自然に動きを止めてヒュッと喉を鳴らす。息を吸い損ねたような音。はくはくと開閉が繰り返される口からはろくな音は出て来ず、代わりに滝のような汗が流れ出す。それを見たイザナが汗をかいてばかりで脱水症状にならなければいいのにと場違いな心配をしたのと同じようなタイミングで、茉白が可哀想と呟いた。
「ちがう、これは」
「なんにも違くなんてないでしょ? ずっと大切に育てられて、丁寧な扱いを受けて、愛されてきたのに、その結果としてこんなことになっちゃってるのは可哀想。本当はあなたもそう思ってるんじゃないの?」
「なんで」
「なんで? もしかして、私たちに分からないだろうとでも思ってた? もしそう思ってたなら残念だけど、最初から分かってたよ。だからあなたの依頼はどこに行っても断られたし、私たちもあなたの依頼を断る」
立ちくらみにでも襲われたのか男が今度は縋るようにして机に手をつき、それでも立っていられずに床に膝までついた。その姿を見つめながら茉白は椅子に深く座り込んだまま淡々と言葉を続けていく。
そんな男と茉白の対照的な姿をただただ見つめながら、イザナはひっそりと誰にも気付かれぬように息を吐いた。恐ろしい女だ。誰よりも自分が一番それを知っていると自信を持って言えるが、この女は恐ろしい。山導茉白は希少な宝石のように美しく、春の陽だまりのように生温く、そうであるが故に恐ろしい。
人の心を持たぬ化生と、人の心を持つ獣。退治屋シロクロが普段相手取るのは前者だが、イザナの幼馴染みであり相棒であり唯一無二である茉白は後者なのだ。イザナはそんな茉白を慈しみ、慕い、愛している。
向けられるのは呆れを帯びた表情ながらにその紫の瞳に耐えぬ情の炎が燃えていることには本人はもちろん茉白も男も気付かぬまま、純粋無垢を装った糾弾は熱を帯びていく。悪意を押し隠して誰かを先の見えぬ崖から突き落とそうとするのは茉白の得意技だ。見掛けの美しさにだけ目を向けていれば、擬態をした獣に喉元を喰いちぎって崖から落とされる。
「言ったはず。私たちが依頼者に求めるのは対価と誠意。この場合の私たちは、我々除霊師の全てを指している。誠意を持たない他人のために命を賭けるほど優しい人間の集まりじゃないんだよ」
「つまりだ。テメェがオレらどころかこれまで訪ねた除霊師ンところでずっと誠意を持たずに嘘をつき続けてたっつー情報は、もうとっくにオレらンところに回ってきてんだよ」
「あなたの依頼内容が我々では手に負えないものだったから先達は依頼を断ったのかと言うと、そうではないってわけ。あなたが嘘をついて、我々を騙そうとし、誠意を捨てたから。だから私たちはあなたの依頼を受けない。我々はあなたにどんな対価を払われようと、あなたのソレを祓うことはしない」
息のあった二人の掛け合いに分かりやすく絶望に満ちた表情を浮かべた男が、力なく床に座り込んで頭を抱える。持ち主がそうして情けない姿を晒そうと鞄は美しいまま、可哀想なまま。
男が打ちのめされてしまったことで生まれた沈黙を誤魔化すための余談だが、二人は食の嗜好や物事の捉え方考え方が似通っていても、執着心の表し方は違う。だからこそ今も、可哀想だと憐れむ気持ちは一致していてもそこからはそれぞれ違うことを考えている。
触れないこと、手に入れないこと、見ているだけでその執着心を満たす茉白は男の手に渡ってしまったが故にこんなことになってしまったのだと同情しているし、触れて、手に入れて、見ているだけでは決して満たされない執着心を抱えるイザナはそれほどに求め慕う有り様に尊敬すらしている。そこまで違うことを考えていたとしても、まあ結局「可哀想」に終着するわけだが。
そんな風にそれぞれ思考に耽っていたのは数秒か数分か。先に思考を切り上げたイザナがそろそろ店にも本格的に迷惑になるとばかりに茉白の肩を叩き、それに応じるように茉白も頷いた。無礼ポイント獲得戦は残念なことに男の一人勝ちになってしまったが、せっかくだし最後まで責任を持って無礼ポイントを稼ぎながら終わりにしよう。今回の依頼者に関しては特に、イザナのすっぱり切り捨てて崖下に蹴り落とすようなやり方よりも茉白のネチネチネチネチと嫌味ったらしく言葉を重ねていくやり方の方が効くようだし。
すっかり空になったコップを敢えて音を立てて机の上に戻し、椅子を引き摺って立ち上がる。そのまま茉白は机に両手をついて身を乗り出してガタガタ震えながら頭を抱える男を見下ろし、最終宣告を落とした。
「このままじゃあなた以外の全部が可哀想だから、お情けの助言です。その鞄の中身をどうにかした方がいい。まあ、もう遅いかもしれないけど」
助言か死刑宣告かどちらかにすればいいのにとは思ったものの、ここで口を挟むような無粋なことをするイザナではない。全面的に茉白の言葉に同意であるし、それが事実だ。何もかもが可哀想で、もう遅い。初動を間違えたのか、それ以前から間違えを重ね続けていたのか。男がそれを語らなかった以上は全て二人の推測でしかないが、恐らく前者であり後者でもあるのだ。もう何もかもを間違えてしまっていて、引き返すポイントすらとっくに通り過ぎた後。
つまり、今更どうにもならない。
本人もそれを悟ってしまったのか蒼白な顔面とこの世の終わりのような表情のままよろよろと立ち上がって、抱えるようにして鞄を持って店外へと向かっていく。頼りない足取りのままだし四方八方に肩や足をぶつけてはいるが、既に二人と男との間に関係は皆無。退治屋と依頼不成立で終わった元依頼者になんの関係もなければ縁もない。よって、帰宅までを見届けてやる義理もない。
それでも一応立て付けの悪い引き戸が開かれて閉じられる音までを聞き終えてから、茉白は再び椅子に深く座り込む。そしてべったりと上半身を机に倒し、大きなため息を吐き出した。労うようにその背に手を置いたイザナも机の下で行儀悪く足を伸ばす。二人の表情に共通するものは疲労だ。
「つっかれたあ……なんであんな執拗いのあの人……」
「相当追い込まれてンだろーな。お前が食えって奨めた時の躊躇いっぷりからして普段は飯もろくに食えてねえみたいだったし、話してたことはほとんど事実だろ。アレ関係でよく聞く話ばっかだった」
「や、それは私も分かるよ? 被害……被害? まあ、霊障にあってるのはホントなんでしょ。解決して欲しい、お金はいくらでも出すっていうのもホント」
上半身は机に張り付けたまま、イザナを見上げながら分かりやすくぶすくれて茉白は思い出すように言葉を紡いでいく。頷くまでもなくそれを聞くイザナも遠くを見るように目を細めながら、男の繰り返した説明を思い出していた。
「だけど、言っちゃ悪いけど私たちに頼むことじゃないでしょ。って言うかおばけ退治が専門の私たちに頼んだところで本当の意味での解決にはならないってことぐらい、ちょっと考えれば分かると思うんだけど」
「まあ、確かに」
「心当たりがあるんでしょって言った時にバレちゃったって顔してたから、考える余裕はあったと思うの」
普段はとにかくぶん殴って人ならざるものを祓う必殺全力脳筋スタイルが主なのに、今日に限って頭を回したせいで疲れが出てきているのか、ぶすくれたまま茉白は駄々を捏ねるようにして言葉を募る。先程までの突き刺すような美しさと獣性が鳴りを潜め、その姿はただの普通のわがままな女の子だ。そしてそんな茉白にこそ、いつだってイザナはついつい振り回されてしまうのだ。分かっていたところでそれは防ぎようもなければ、そもそも本人に防ぐ気もあまりない。
なので今回も仕方がなく、強調するために繰り返すが仕方がなく甘やかすように背を撫でてやりながら、頑固な茉白が素直に受け入れるような言葉を探した。男の持ち込んだ案件に関してはもう二人の中では原因も割れてとっくに結論も出ている。今の茉白はただただ、元依頼者の男の非礼と無礼を咎めたいだけなのだ。言葉を選んで言い聞かせ、納得さえさせれば大人しくなる。
「お前も分かるだろ? 追い詰められた人間が縋るのも、武器にするのも、理屈でも道理でもねえんだよ。感情だ。で、あのオッサンには考える余裕があっても認める余裕はなかったし、そもそも受け入れる気すらなかった」
「……」
「じゃなきゃここまでアレを放置したりしねえし、そもそもこんなことになってねえ」
「……じゃあ、やっばりあの人以外の全部が可哀想」
イザナの言葉に納得はしたのか、茉白はグッと勢い付けで上半身を起こすと先程まで鞄が置かれていた自分の真正面の椅子を見つめる。何度も繰り返された「可哀想」の意味を、きっとあの男は正確に理解してはいないのだろう。
だから余計に可哀想で、憐れみの気持ちを隠せない。形に残る大切なものを自分のものにすることを躊躇い、自分のものにしないことで執着心を満たす茉白だからこそ、可哀想で可哀想で自分さえ悲しくなってしまう。
「あんまり感情移入しねえようにしとけよ。普段は引き摺られなくても今回は引き摺られてもおかしくねえし」
「うん。イザナもね」
人と人ならざるものとの境界は大切であり、同時に曖昧だ。だから、人ならざるものに想いを傾け過ぎればそちらに引き摺り込まれかねない。常に自我が強く引き摺り込まれるなんて有り得ない茉白とイザナであれど、今回の件に関しては様々な意味で「可哀想」を感じ過ぎていて危ういのだ。それがお互いに分かっているから、お互いに釘を刺す。アレはアレで、自分たちは自分たちなのだと。
茉白は深々とため息をつきながらも立ち上がり、椅子の背もたれの端に掛けていた鞄から財布を取り出して入口近くのレジへと向かう。残された鞄とアウターを手に取ったイザナも後に続き、厨房の奥へと声を掛けた。そのまま厨房から出てきた店主に時間を掛けたことと騒いだことを詫びたりなんだかんだと話したりしつつ、きっちり三人分の代金を払う。元依頼者の男は結果として無銭飲食をして行ったことになるわけだが、食事代を要求するのも今更かつ面倒だ。どうせ次の案件でまとまった金は手に入るのだし、忘れてしまうに限る。
会計を終えて今度はいつまで東京に居れるのかだとか、どこそこの地区で人ならざるものが関わっていそうな噂を聞いただとか三人で話をしながら、茉白はさっさとイザナに手渡されたアウターを羽織って鞄も肩に掛け身支度を整えてしまう。この後はイザナの妹の実家で一泊する予定だし、歳の近い女子同士募る話はあるものだ。この定食屋も居心地のいい空間ではあるが、無礼ポイント獲得戦で疲れた脳を癒すためにも早くそちらに向かいたい。
そんな茉白の様子に店主とイザナも話を切り上げた。店主からしたら二人は小学校に入学したような頃から見守ってきた孫のような存在だ。レジ横の小さなカゴに入れていた飴をたんまりと握らせて、店を出るまでついて行っていつものように二人を見送る。
いつも通りイザナの運転するバイクの後ろに乗った茉白はそんな店主に手を振って、目の前にあるエンジンを温めているイザナの背中を見ながらそういえばとばかりに口を開いた。
「私たちには全然見えなかったんだけど、なにか見えた?」
「いや、さっぱり。お前たち二人に見えないものがオレに見えるわけもないだろ。強いて言えばあの鞄に呪いかなんかの痕跡はあったが、あそこまで育つと今更祓うも何も無い」
引き戸に凭れて憮然とそう返す店主に、茉白もイザナも似たようなタイミングで頷いた。自分たち以外の見える人、それも自分たちに幼い頃色々と教えてくれた師のような人。その人も見えていないと言うあたり、やはり茉白とイザナの推測で当たりなようだ。
「どの道、水子の供養はお前らの仕事じゃないさ」
「まあやってくれって頼まれてもオレらにゃ出来ねえよ。退治屋の仕事は霊を退治することで、除霊師の仕事は霊を祓うことなんだからな」
「違いない」
いつだったか教えられた通りに繰り返したイザナに満足そうに頷いた店主は、褒美だとばかりにもうひとつ飴玉をイザナに握らせる。受け取ったそれはいちごミルクであることを確認してから茉白の口に入れられて、茉白はもごもごと口を動かした。そのまま、グリップを握れと言われることは分かっていてもイザナの腹に両腕を回して背に頬を押し付ける。
見上げた先にいる店主も、いざ運転するとなるまでは茉白を引き剥がそうとはしないイザナも、それから茉白本人も、今思っていることはきっと一緒だ。
「おばけが憑いてないのに祓ってくれって言われたって、そんなの無理に決まってるのにね」
だからこそ可哀想で堪らない。ずっと大切に育てられて、丁寧な扱いを受けて、愛されてきたはずなのに。それなのに、父親がアレだっただけでこんなことになってしまった。母も子も、そばにあったせいで呪いの寄せ所になってしまったあの鞄も、あの男以外の全部が可哀想。
徐々に近付いてくる冬を運ぶかのようにして吹き付ける、肌寒さを感じるにはまだ弱い風を浴びて、誰かが小さく可哀想だと呟いた。