誰も知らない朝のこと

 たとえば、すごく好きな人がいたとして。
 たとえば、その人には私なんかとは比べ物にならないぐらいに大切な人がいたとして。

 だけどその人の大切な人にはもっともっと大切な人がいて、私はそれを知っているけど、その人はそれをまだ知らない。

 そんな中でその人が望んでいるのが大切な人の「一番」になることだと知ってしまったら、どうすればいいのだろうか。その人がどれだけ望んだって大切な人の「一番」になれることはないのだと知ってしまったら、どうするのが正解なんだろうか。


 誰にも相談出来ずに何年も悩んで迷って頭を抱えて出した結論は、なんというかまあ、今思えばちょっと自暴自棄になっている。


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 友人であることと従姉弟であることは両立する。異性の友人で一番仲がいいのは誰かと聞かれれば、私は真っ先に従弟である万次郎の名前をあげるだろう。

 歳が近くて家も近くてついでにウマも合うとなれば、そりゃ仲良くもなるものだ。お互いの母親も義理の姉妹とは思えないほどに仲が良かったので、私たちは幼い頃から頻繁に互いの家を行き来していた。


 幼児にとって二歳の年齢差は大きいが、良くも悪くも私たちは馬鹿かつ元気だったのでそんなことは無問題とばかりに泥団子を投げ合い、奇声を上げて互いを追いかけ回し、夕飯の唐揚げを巡って大泣きした。争いは同レベルの者の間でしか発生しないと言うが、かつての私たちは同レベルの馬鹿だったということだ。今は私も成長したので違う。多分。
 はしゃぎ回って遊び倒すうちに私たちは当然の如く仲良くなり、保育園、小学校と進学を重ねながらも友人兼従姉弟として頻繁に顔を合わせては他愛ない時間を共に過ごしていた。まあそもそもの話、早くに父……つまり私にとっての伯父を亡くした万次郎たちと義理の姉を思った母が実家の近くに家を買ったこともあり、私たちは小学校も中学校も一緒だったわけだが。放課後に示し合わせて会う必要もなく、なんとなくで登下校も一緒だった。

 思い出す限り、十歳頃までの印象的な記憶のほとんどには万次郎の姿がある。いつからか「無敵のマイキー」なんて呼ばれて調子に乗り出したが、私からすれば万次郎はいつだって良きライバルで、そして大切な弟分であり友人であった。


 話は少々変わるが、私には万次郎の他にも二人の従兄妹がいる。従兄の方は真一郎といって、八歳上なので昔から妹のように可愛がってもらっていたが、私はコイツがあまり好きじゃなかった。何せ不良。何せリーゼント。極めつけには八歳も年上だとは思えないほどのクソガキっぷり。万次郎や従妹であるエマは真一郎を大変慕っていたが、私に言わせれば真一郎は年甲斐のないクソガキだ。下手したら私や万次郎以下。

 万次郎との思い出には高確率で真一郎とエマの姿もあるが、そのうちの八割で真一郎は私を妹のように可愛がってくれていた。しかしこの可愛がり方が可愛がり方で、私にとっては半ばトラウマのようになっている。思い出すとイライラしてくるので詳細に関する言及は避けるが、真一郎は万次郎とエマの思う百倍は大人げない奴だった。弟妹の前ではカッコつけていたようだが、奴の妹でも何でもなかった私はそれをよく知っている。


 ただ、そんな真一郎が齎した出会いによって私の世界が変わったこともまたひとつの事実である。そこだけは真一郎に感謝していなくもない。


 小学四年生、十歳の冬。雪の降るとある日。「会わせたい奴がいる」という真一郎に連れられて向かった横浜某所にて、私は黒川イザナという名の少年と運命の出会いを果たした。彼と一目合ったその瞬間に私の全身を貫いた落雷の如き衝撃は筆舌に尽くし難い。「好きかも」という曖昧な感情などではなく、「この人だ」と思った。
 相手は明らかに不機嫌なうえにずっと不満気な態度で私を邪険に扱い、それどころかその場には真一郎と自分の二人しかいないとばかりに振る舞ったが、そんなことはどうでもよかった。そもそもの話、目が合うだけで心臓はぶち壊れる寸前の洗濯機のように暴れ回ってうるさくなってしまうし、口を開けば「結婚してください」と言ってしまいそうになるしで私も彼とまともに話せそうにもなかったので逆にいないものとして扱われた方が楽だったのだ。流石に初手で不審者全開の行動は避けなくてはならないと考えるぐらいの常識は当時の私にもあった。

 黒川イザナという少年は、私とたった一歳差とは思えぬほど洗練された美の化身であり、その横顔にはどれだけ低く見積もっても五億はくだらない価値があった。高く通った鼻筋に形の良い薄い唇、そしてどんな宝石ですら敵わないと確信するほどに鮮やかな瞳。こんなに美しい人がこの世に存在しているのかと思うとクラクラして息も出来ない。

 その日私が彼の前で発した言葉と言えば「はじめまして」「うわ好き」の二言だけだったけれど、彼は私に敵意しか向けてくれなかったけれど、私は物の見事に恋に落ちた。もうそれからは寝ても醒めても黒川イザナという人のことばかり考えて、真一郎をせっついては会いに行き、本人にはガン無視され、もちろん緊張のあまりまともに喋れず、それでも何度も会いに行った。会いに行くのをやめれば二度と会えなくなると分かっていたので、会いに行くしかなかった。
 真一郎はそんな風に必死になる私に何を思ったのか黒川イザナという人のことを時折教えてくれたけれど、私はそのほとんどを聞き流した。何故ならば、好きな人の好きなものや好きなことは本人の口から聞きたかったからである。だいたい真一郎は語り手としては信用出来ない男なので、下手に真一郎から情報を得てそれが間違っていたりしたら目も当てられないことになるのが簡単に想像できたのだ。

 ともかく、私は真一郎に着いていく形で毎週末に横浜まで向かうようになった。そのせいで週末に母の実家に顔を出すことも無くなって万次郎とエマにはなんで最近は来ないのかと文句を言われたけれど、恋に夢中な私が二人に引き止められたぐらいで止まるはずもない。必死に通い詰めてなんとか声を掛けてようやくほんの少しならば会話が続くようになった頃にはもう半年以上経っていた。
 彼と私の共通の話題と言えば真一郎のことばかりで、あとは時折エマのことを話すぐらいだった。エマが彼の妹だと知ったのもその時だ。あまり真一郎のことが好きじゃない私としてはエマの話をしている方が楽しかったけれど、彼は真一郎の話をしたがったから私もそれに合わせる。そういう風にして、気付けば真一郎が席を外して二人きりになっても私たちは普通に話せるぐらいになっていた。当初の私からすればなんと大きな進歩だろう。よくやったと褒めてあげたいぐらいだ。

 普通に話せるようになって、目を合わせても心臓がぶち壊れる寸前の洗濯機みたいな挙動をしないようになって、そうなってくるとだんだん気付いてくる。あれ、私って自分で思ってるよりもこの人のことが好きかもしれない。いいや、好きだ。大好き。恥ずかしくて言えないけど。
 真一郎の弟というだけあってちょっと乱暴なところはある。でも無闇矢鱈に人を殴ったりしないし、誰彼構わず傷付けて回ったりしない。私が何も無いところで足を滑らせて転けた時も「なんでそこで転けるんだよ」と言って笑ったあとに「怪我は?」と聞いてくれる。目を見て話を聞いてくれて、相槌を打ってくれる。
 そういう他の人がするなら普通なことも、黒川イザナという人がしてくれれば全部が特別に思えた。真一郎がしたって特別には思えないようなことでも、彼がしてくれれば全部特別だった。

 そうして私はトントン拍子に黒川イザナという人の外見的な美しさだけではなく、内面的な部分にまで恋をしてしまった。

ふたつおりのひとひら