駒鳥はきっと死ねない

 イザナくんは「ミニマリスト」というやつなのかもしれない。

 玄関でローファーを脱ぎ揃えて靴箱の上の定位置に合鍵を置き、周囲を見渡してみる。既にこの時点で物が少ない。私が半年ぐらい前に棚の上に置いていった食玩の小さな人形が完全に浮いている。
 適当に買ってきた食材の詰まったスーパーの袋を抱え直しながら、今度はファンシーな人形でも買ってきて勝手に置いて帰ろうと強く誓った。イザナくんは自分からそういった類のものを買いはしないが、私が買ってきて置いていったものを捨てもしない。いつかこの殺風景な家をパステルカラーのファンシーグッズで埋め尽くしてやる。

 そうと決まれば一体どんな人形を買ってやろうかと思案しつつ開けっ放しの扉を通って部屋に入り、そのままキッチンに向かう。合鍵を貰えるぐらいには勝手知ったるこの家で今更畏まって家主に挨拶をするのもナンセンスだ。そもそも夕方と夜の狭間のこの時間、イザナくんはだいたいいつも寝ている。
 シンクで手を洗い、一週間来ないうちにスカスカになった冷蔵庫に冷蔵品を仕舞いつつ玄関同様に物の少ない部屋を振り返れば、家主は案の定ソファーでお休み中だった。玄関に脱ぎ散らかされた靴があったことから何となく察してはいたけど、私が入ってきても気付かないくらいの爆睡っぷりである。
 随分気持ち良さそうに寝てるみたいだし、今日も起こすのは後でいいや。先に夜ご飯を作ってしまおう。


 黒川イザナという人に出会った十歳の冬から既に六年半が経ち、私も十七歳になった。ひとつ年上のイザナくんに関してはもう十八歳。私たちは気付けば結婚出来る年齢になったわけだが、未だにイザナくんからプロポーズの言葉は貰えていない。胃袋はここ数年ですっかり掴んだ自信があるのだが、心の方は手強かった。

 何も出会ってからの六年半をずっと共に過ごしていたわけではないが、何年間も一緒にいれば必然的に距離も近くなる。最初の存在無視からは考えられないほどに私たちも親しくなり、今となってはイザナくんの暮らすこの部屋の合鍵は私の手中にある。ふはははは。私の作戦勝ちだ。
 高校に入学してから勝手に始めた毎週金曜日の夜から日曜日の昼まではイザナくんの部屋で過ごす生活にもすっかり慣れて、最初は不服そうな顔をして「来るな」と私を蹴っていたイザナくんも私が堂々と入室しても目を覚まさないぐらいには気を許してくれている。イザナくんの人生のヒロインレースは今のところ私の独走状態だろう。このままゴールまで駆け抜けたい。


 部屋着に着替えるか制服のままでいるか迷ったけれど、結局面倒臭さが勝って制服の上からエプロンの紐を結ぶ。一年半前、この家に通うことを決めた時には新婚っぽさを演出するために白レースやハートのエプロンにしようか迷ったけれど、敢えて無地のシンプルなエプロンを着用している。これもまた家庭的な妻感を演出するための私の作戦だ。白レースとかハートとかは本当にイザナくんの奥さんになってから着ればいいでしょ。

 彼女のポジションは別にいらない。欲しいのはイザナくんの奥さんの立場だ。告白はすっ飛ばしてくれていいから今この瞬間にでもプロポーズして欲しい。一も二もなく頷くし「イザナくんの妻です」と胸を張って名乗ることが出来るようになる。
 この二年間はとにかくイザナくんの奥さんになることを目指して頑張ってきたので、イザナくんの仲間の不良たちには「黒川イザナのヨメ」と認識してもらえている気がしている。これはある種の既成事実と言っても過言ではない。外堀の半分は埋めた。私が残り半分を埋めるのが先か、イザナくんが私にプロポーズをしてくれるのが先か。個人的には後者だと嬉しい。

 そんな感じで若干邪なことを考えながら適当に夜ご飯を作っていれば、後ろの方からイザナくんの唸り声が聞こえてきた。どうやらお目覚めらしい。まだちょっと時間かかりそうだから寝ててくれても良いんだけどな。

 起き上がってこちらに近付いてくる気配を感じながら、チャチャッと料理を進めていく。ここに通い始めた当初は凝った料理を作ったりもしていたけど、今はなるべく手早く作れて味に問題がなければそれでいいかなと思うようになってきた。新妻になったらまた凝った料理を作る予定だ。
 後ろから覗き込んできたイザナくんに「おはよう」と時間的に正しいのか正しくないのか微妙な挨拶をひとつして、視線を手元から横にずらす。

「寝癖ついてるよ。結構寝てたでしょ」
「……昼は食った」
「かなり寝てたな?」

 ちゃんとご飯食べてくれただけいいけどさ……。食べて寝ただけなら全然お腹空いてないんじゃないの。何も考えずに作ってるせいで結構な量になっている中華鍋の中を見下ろしながら、どうしようかなと少し考える。

「また麻婆豆腐かよ」
「うん。最近ハマってるの」
「先週も先々週も麻婆豆腐だった」
「ちょっとずつ味付けは変えてるし」

 不満気なイザナくんを適当にいなして、「ベタに餌あげたの」と注意を逸らす。他のものも作ろうかなとは思うんだけど、今の私は麻婆豆腐を作ることに夢中なので結局気付けば麻婆豆腐を作り出しているのだ。味は保証するから黙って食べて欲しい。麻婆豆腐の前は延々と回鍋肉を作っていたし、その前は狂ったようにエビチリばかり作る時期もあったので、飽きれば別のものを作るようになる。

 なんだかんだ言って押しに弱いしそこまで食に興味が無いイザナくんは、「明日は食わないからな」と言いながらもベタに餌をやることにしたようだった。私だって流石に明日まで麻婆豆腐にするつもりはない。一週間に一回同じものを食べてもらうならまだしも、連日同じものを食べさせてこれ以上食に興味を無くされても大変だ。言ってしまえば今の私はイザナくんの食育中なのである。
 この数年間「一人で食べるよりも誰かと食べる方が美味しい」「なんでもいいから食べてくれなきゃ困る」と言い募ってなんとなくでも丸め込んで、食育はついに「何が食べたいか教えてもらう」ステージに達した。「麻婆豆腐は嫌」も嬉しい意見として受け止めよう。まあ私が納得できる腕前になるまでは週一で麻婆豆腐を作り続ける習慣は続く訳だが。


 話している間に手を止めなかったからかいつもよりも手際よく作業を出来たからか、すぐに麻婆豆腐は完成した。水切りかごに入れっぱなしだった大皿に適当に移しながら、軽く摘む。うーん、辛い。もしかしなくても豆板醤入れ過ぎたわ。
 まあピリ辛と言える範囲内な気がするし……と思いながら、レタスをちぎって適当に盛り付けただけのサラダを作り、卵を溶いてコンソメで味を付ける簡単中華スープも作る。手抜きと言うなかれ。私だって授業終わりに一時間かけてここまで来てるから結構疲れてるし、こういうそこまで手が込んでなくても家庭的な料理の方が奥さん感が出る。彼女感を出すよりも奥さん感を出した方がイザナくんも「コイツと結婚してたかも……」と勘違いしてくれる可能性が高い。

 だいたい作り終えたのでじゃあデザートは何にしようかなと思ったけれど、麻婆豆腐、サラダ、スープとどれもこれも二人で食べるには量が多いことにようやく気付いた。完全に作り過ぎてる。

「ねーイザナくん、作りすぎちゃったかも。鶴蝶のこと呼んでいい?」

 エプロンを解きながらキッチンから顔を出し、今すぐに呼び出せそうで、ついでに来てくれそうなのって鶴蝶ぐらいだよねと続ければ、餌やりを終えてベタを眺めていたイザナくんが顔を上げる。そのままキッチンに入ってきたイザナくんは、ちょっと難しい顔になった。

「アイツが食うほどないだろ」
「追加で作るよ」
「……米は?」
「あっ」
「……」
「……」
「…………お米炊いてる間になんか作るから一時間後ぐらいに来てって鶴蝶に連絡しておいて……」

 なんとも情けない凡ミスである。三十分ほどで顔を出してくれた鶴蝶と久々に一緒に料理をするのは楽しかったけど、お米の炊き忘れでイザナくんに妻ポイントをマイナスされたかもと思うと悲しかった。それに鶴蝶は料理が趣味だというだけあってやっぱり手際が良くて、多分コイツが今のところ私の一番のライバルだと思う。弟分だからって私は手を抜かないからな。覚悟しろ。

ふたつおりのひとひら