誰かの知らない朝のこと

 高級なプライパン、怖。家庭裁判所預かりになって鑑別所にぶち込まれたと聞いていた灰谷蘭から、何故か四月の終わりに我が家宛に送られてきていたフライパンを使って料理をしてみた私の感想はそれに尽きる。
 誕生日プレゼントじゃないかと鶴蝶が言っていたのでそうだと信じて大人しく使わせていただいたけど、これって代金取られたりしないよね? あとなんで私の家の住所知ってるの? そもそもどうして私にフライパンを送り付けようと思ったの? 何一つ分からなくて怖い。灰谷蘭とかいう男、私の理解の範疇から外れすぎているのではないだろうか。


 今から三ヶ月ほど前、なんやかんやで撃たれてなんやかんやで救急搬送されなんやかんやで入院することになった私は、この度折れていた右肩も無事に骨がくっつき、ようやく料理をすることをエマに許された。実は少し前に「もう治ったよね」と言いながら鶴蝶と一緒に肩をぐるぐる回しているところを見られてしまい、許可をもぎ取るのにかなり苦労したという裏話がある。

 お医者さんに「ここまで回復が早い人を見たことがない」と言われるほどの回復力を見せ結果として鉛玉にも勝った私だが、従妹の叱責には負けた。イザナくんにご飯を作ってあげないといけないから料理をしないわけにはいかないと主張してもエマは「ダメ!」としか言わず、挙句の果てには渋るイザナくんをどんな風に言いくるめたのか横浜から渋谷まで連れてきて一緒に食卓を囲ませる始末。「ウチが作ってニィが食べるところ見てれば心配ないでしょ!」と何故か怒られたんだけど、どうしてこんなに強引なんだろう。


 ともかく退院してからもそんな風に諸々を制限されたまま日々は過ぎ、五月の終わりも見えてきた今日。平日ど真ん中なので世のほとんどの人たちは働いたり学校に行ったりしているんだろうけど、現在無期停学処分を食らっている私には何の関係もない。なので私は久々に料理をしている。イザナくんの家で、灰谷蘭にもらったフライパンを使って。日常にまで灰谷蘭が侵食してきてるよ。

 別にこれまでも粗悪品を使っていたつもりは無いけど、灰谷蘭がくれたフライパンなだけあって焦げ付かないしベタつかないしとにかく軽い。味見してみた感じだといつもよりもよく出来てる気もしたし、高級フライパンすごいな。私がイザナくんへの愛を込めて料理をしてるから美味しくなってるのもあるだろうけど、それはそれとして高級フライパンはすごい。
 火を止めてフライパンの中身を予め用意していた皿に移しながら、半身だけ振り返ってイザナくんに声を掛ける。イザナくんはというと、私たちが入院している間にベタの餌やりに来てくれていたエマが置いていったサボテンを眺めていたみたいだった。その反応を待たずに話を振る。

「このフライパンめちゃくちゃ使いやすいよ。今度コレでオムライス作って」
「自分でやれよ」
「あのねー、自分でやるんじゃ意味ないの。チキンライスを卵で包む天才のイザナくんが作ったオムライスが食べたいの」
「あれぐらいお前も出来んだろ」
「無理無理、私中華専門だから。あ、夜は餃子ね! 包むの手伝ってもらうから昼寝はあんまりしないでね」

 なにか文句を言っているイザナくんに「うんうん」と相槌を打ちながら、二人分の皿を手にキッチンを出る。今日は夜を豪華にするつもりなのでお昼は炒飯だけ。デパートで売ってるような、果物がごろごろ入ってるちょっとお高めのゼリーを祖父が持たせてくれたので、それをデザートにすることにした。


 イザナくんがチキンライスを卵で包む天才であると判明したのは数週間前のこと。その頃にはベタの餌やりだったり家まで連れてきてご飯を食べさせたりなんだったりでエマもすっかりイザナくんに懐いていて、イザナくんもイザナくんでそんなエマへの対応に戸惑いつつも無碍には出来なくなっていた。私と鶴蝶は「仲良くなってくれて嬉しいねー」と呑気に話しつつ肩をぐるぐる回して怒られていた。

 閑話休題。とにかく、イザナくんとエマはそうして現在も少しずつ兄と妹としての交流を復活させつつあり、その交流の中でイザナくんの知られざる才能が発覚したのだ。それがチキンライスを卵で包む才能である。かなり強請って作ってもらったオムライスが完璧な造形で出てきた時には私もエマも言葉を失った。

 中華専門を自称しここ数年中華ばかりを作ってきた私と、祖父が和食が好きなので和食を作るのが得意なエマ。そして絶品オムライスを作る洋食界の期待のホープことイザナくん。レシピを見ながらならだいたい何でも上手く作れる鶴蝶も加われば敵無しだ。


 そんなことを考えながらテーブルの上に皿を置き、エプロンを解きながらキッチンに戻って冷蔵庫を開ける。飲み物飲み物。

「紅茶もらうねー。イザナくんは何飲む?」
「ビール」
「まだお昼だし、この後買い物一緒に行く予定なんだからダメ! イザナくんそんなにお酒強くないでしょ」

 そもそも未成年が飲んでいいものじゃないんだからねと小言を言いつつ紅茶のペットボトルを二本手に取って冷蔵庫を閉めた。炒飯にビールが合うことは理解できるしちょっと口うるさいかなと思わなくもないけれど、ここでお酒を飲んで気持ちよく昼寝をされても困る。行き先が近所のスーパーだったとしてもイザナくんと一緒に行きたいという私の可愛らしい恋心を理解して欲しいものだ。
 何も言っていないのに取りに行ってくれたようでスプーンを両手に一本ずつ持ちながら私の言葉にぶすくれていたイザナくんの頬に冷えたペットボトルを当てる。そんな顔しても可愛いだけだからね。未来のお嫁さんである私はもうとっくにイザナくんのカッコ良さも可愛さも知ってるから、その顔は効かない。

 でもまあ可愛いものは可愛いし、ちょっと甘やかしたくなっちゃうのも仕方ないだろう。

「……もー、夜ね。夜なら飲んでもいいよ。でも一本だけ」
「三本」
「一本」
「二本」
「一本! あのねえ、お酒って飲みすぎると体に良くないんだからね⁉︎ 早死にしちゃったらどうするの! 私のこと置いて死ぬつもり⁉︎」
「酒なんかにオレが負けるわけねえだろ。お前も飲めば?」
「現役高校生に飲酒勧めないで! 炒飯冷める前に早く食べて買い物行くよ!」

 イザナくんだって未成年なんだから本当はダメなんだからねとペットボトルを使って背中を押して、そのままローテーブルの前に座らせる。数ヶ月前までは二人でソファーに座ってご飯を食べていたけど、現在イザナくんは模様替えを検討中らしくソファーの位置が変わっていた。なのでイザナくんの正面に座る。

 スプーンを受け取りながら、軽く部屋を見渡した。相変わらず物の少ない部屋だ。私が置いていったファンシーな兎の人形が明らかに浮いてる。ギターの隣にめちゃくちゃ大きいティディベアとか置いたらどうなるかな。ちょうど窓際だから外から見えて楽しいことになりそう。
 買ってからここまで運んでくるのが面倒だけど、それはそれとして脳内の買い物メモリストにティディベアを足していれば、とっくに炒飯を食べ始めていたイザナくんがスプーン片手にそう言えばとばかりに声を掛けてきた。

「来月中には引っ越したいから部屋も家具も早めに目星付けとけよ」
「りょーかーい……引っ越し⁉︎ え、イザナくん引っ越すの⁉︎」
「前に言ったろ」
「一切聞いてない!」
「じゃあ今言った」
「暴君! というかなんで引っ越すの? 私ここから見える景色好きなんだけど」
「だとしても二人で暮らすには狭い」

 突然の引っ越し話に私がギョッと目を見開いて僅かに腰を上げたのに対して、イザナくんはどこまでも冷静だ。そりゃそうだろう。イザナくんの中じゃ引っ越しはとっくに決定事項だったっぽいし。


 というか、イザナくんのその言い方だと、期待してしまうというか。逸る心臓を抑え込むように息すら止めて、正面に座るイザナくんを見つめる。若干目を伏せているせいでただでさえも長い睫毛が余計に長く見えるし、相変わらずこの世の何よりも美しくてクラクラしてくる。何も言わずに食べているってことは口に合ったということなんだろうか。それなら嬉しいけど、なんだか余計に期待してしまう。

 食事の手を止めてまじまじとイザナくんを見つめるだけになった私に何を思ったのかイザナくんは顔を上げ、そうして眉を寄せて怪訝そうな顔をした。

「嫌なのか」
「嫌ではない! でもちょっと待って……つまり、部屋とか家具とか、私も一緒に決めていいってこと?」
「決めたくねえなら別にいいけど後から文句言うなよ」
「違う違う! 違くて……それはあの……家具ならまだしも部屋まで一緒に決めちゃうと、なんというか、同棲するみたいにならない……?」
「……結婚するんだろ。なら一緒に暮らしてもおかしくない」

 視線を斜め下に向けて少し照れたような顔をするイザナくんを見つめて、その言葉を頭の中で反芻する。結婚。私がイザナくんと結婚。

 何も言わない私に何を思ったのかイザナくんはちらりと視線を上げ、途端に目を見開く。そのまま慌てたように名前を呼ばれて、その次の瞬間には鼻の奥がツンとして視界が歪んだ。涙がどんどん溢れてくる。

「おい、なんで泣くんだよ。泣くほど嫌か?」
「やじゃない。嬉しい」
「……嬉しくて泣いてんの?」
「だって、イザナくんが結婚してくれるって言うからあ」
「前にもしてやるって言ったろ」
「言ってたけど、言ってたけどさあ……ほんとに私でいいの? 私めんどくさいし、多分泣き虫だし、イザナくんが浮気したら許せないかも」
「お前がめんどくさいのなんてもうとっくに知ってるし、泣き虫なのは多分じゃねえし、お前がしねえならオレも浮気はしねえ。だから浮気はすんな。分かったな?」
「分かった」

 よく分からないけど分かった。私はイザナくん以外の人に恋をすることなんてもう出来ないから、私が浮気しなければイザナくんも浮気をしない。つまりイザナくんも私以外の人を好きになることはないって意味だ。多分。


 わざわざ私の隣まで移動してきてくれたイザナくんに涙を拭ってもらいながら、もう一度さっきの言葉を思い出す。イザナくんは私と結婚してくれるんだ。未来のお嫁さんにしてくれるというのは、私と結婚してくれるという意味だったのか。
 言われてみれば確かにそういう意味に決まっているけど、数ヶ月越しに未来のお嫁さんにしてくれるという約束と結婚が結び付いてつい泣いてしまう。ずっと家族に憧れていたイザナくんが、私と家族になることを選んでくれる。それがどれだけイザナくんにとって意味のあることなのか。私がきっと一番それをよく知っている。

 もしかして、たけみっちが言っていたことは本当だったんだろうか。これまで一緒にいるうちに刷り込まれた何かがあったからイザナくんは私を他の人より大切にしてくれたりそばにいさせてくれたりしたんじゃなくて、イザナくんは私を大事だと思ってくれているのか。私はイザナくんの大事な人になれていたのか。

 私の涙を拭いながら呆れたように笑っているイザナくんを見つめ、そして見つめ返されて、また少しだけ泣きながら口を開く。私がイザナくんに向き合いたいと思っているようにイザナくんも私に向き合おうとしてくれているのだとしたら、余計な言葉なんていらないと思った。

「イザナくんは私のこと大事? 私のこと、好き?」
「……前に言った気がする」
「聞いてない。それに聞いてたとしても何回でも聞きたいよ」

 私も何回でも言うからとイザナくんの手に触れながら言えば、イザナくんは一瞬躊躇ってから答えてくれた。

「大事に思ってなきゃあんな風に撃たれてまで庇ったりしないし、好きでもねえ女を嫁になんてしない」
「……私もイザナくんのこと大好き」
「知ってる。ほら、さっさと泣き止んで飯食え。買い出し行くんだろ」
「イザナくんも泣かない女の子のが好き?」
「はあ? ……別にどんだけ泣いたって嫌いになんてなんねえよ。っつーか一人で泣くぐらいならオレの前で泣け。お前がオレにそう言ったんだから、お前もそうしろ」
「……今からそうする」

 イザナくんの肩に顔を埋めて、そのピアスがからから揺れている音を聞きながら鼻を啜った。泣いてもいいと言ってくれる人がいるなんて思ってもいなかった。まさかそれをイザナくんに言ってもらえるなんて欠片も思っていなかったから、嬉しくて涙が出てくる。


 泣かない子の方が好きなわけじゃないんだ。男の人って、すぐ泣く女の子なんて嫌いなのかと思ってた。少なくとも真一郎はそうだった。
 だけどイザナくんと真一郎はそもそも別の人で、イザナくんは私が泣いても好きでいてくれるらしい。私がどれだけ泣いたって嫌いになんてならないんだって。そんな人がこの世にいるんだ。私の好きな人はそういう人なんだ。

 イザナくんと一緒にいるとこうして、少しずつ少しずつ真一郎に掛けられた呪いが解けていく。何でもかんでも真一郎が基準になってしまった私の世界をイザナくんは変えていってくれる。私が気付いていなかっただけで、きっと出会った時からそうだったんだろう。イザナくんは最初から私の呪いを解いてくれる人だった。やっぱり最初から、出会ったその時から、一目合って「この人だ」と思ったその瞬間から、私はイザナくんの全部に惹かれていた。今までずっとイザナくんの全てに救われていた。

 回された腕が背中を撫でてくれているうちに心臓もだんだん落ち着いてきて、その代わりにイザナくんへの好きが溢れてくる。この人に出会えて良かったと思うと、どうしようもなく幸せな気持ちになる。沢山の人を傷付けて、たった一人しか選べなかった私こんな風に幸せになっていいんだろうかという怯えさえ、イザナくんへの愛の前では霞んでしまう。
 そんな身勝手な私でも、エゴを貫き通した私でもいいと言ってくれるなら、私はイザナくんのそばにいたい。イザナくんと生きていたい。

「……私もまたピアス開けよっかな。前に開けてもらった穴は塞がっちゃったし」
「また停学になってもいいなら開けてやる」
「もう無期停学だし今更耳に穴空いてても空いてなくても別に変わらない気がする。……そうだ、一緒に暮らすのって冬から? 私一応今年いっぱいは高校生だし、毎日イザナくんに会いに横浜まで来てたら帰りたくなくなっちゃって卒業できなくなるかも」
「東京に部屋借りればいいだろ」
「……たまにでいいから学校まで迎えに来てくれる?」
「気が向いたらな」
「やった」

 こうして話していると分かるけど、どうやらイザナくんは本気で私と暮らすつもりでいてくれているらしい。そしてその先で私と結婚することも意識してくれている。

 東京に部屋を借りるって具体的にはどの辺りなんだろうとぼんやりと考えたり、結局私は卒業が危なくなる気しかしないなと思ってみたり。だけどそれも全部、今はどうでもいいことだった。イザナくんが私のそばで生きていくことを選んでくれたと言うだけで今は十分だ。
 イザナくんの肩に載せていた頭を上げてそのまま頬を掴み、鼻先にキスを落とす。顔を離した後にイザナくんを見たら少し驚いた顔をしていて笑えた。笑われたことにイラついたのか眉間に皺を寄せて伸ばされた手を上半身を捻ることで交わし、そのままの勢いでイザナくんに抱き着く。

「おい」
「なあに」
「すんなら口にしろ」
「それは恥ずかしいの。それよりイザナくん、一緒に暮らすんなら一緒に寝る? ベッドも買う? ベッドカバー恐竜とかにしてもいい?」
「ベッドは買うけど恐竜はないだろ。そもそも売ってんのか?」
「売ってるよ。恐竜ってね、イザナくんの次ぐらいにはかっこいいんだよ」
「なんでそんなに恐竜の評価が高いんだよ」
「かっこいいから」

 我が家にも何度か来たことがあるイザナくんは知ってるはずだけど、私の部屋には結構なサイズの恐竜のぬいぐるみがある。ケツァルコアトルスだ。めちゃくちゃかっこいい。
 幼馴染みたちはバイクだったり車だったり動物だったりが昔から好きだったけど、実は私は恐竜とファンシーグッズが好きだった。イザナくんの前で今までは少しだけ猫を被って「恐竜? うん、かっこいいよね。でも可愛いものの方が好きだよ」みたいなことを言っていたけど、これからは恐竜好きもアピールしていこう。一緒に暮らすなら知っていてもらわなくては。

「あ、でもイザナくんのがケツァルコアトルスよりもかっこいいからね。イザナくんの方が好きだよ」
「当たり前だろ」
「うん、当たり前。よし、早く食べてスーパー行こ。高級なフライパンで作る餃子、今までと違う味がしそうで楽しみだね」

 最後に一度イザナくんをぎゅっと抱き締めて身体を離し、手を伸ばしてイザナくんの分の炒飯の入った皿を引き寄せる。どうせだから並んで食べよう。隣にいてくれる方が嬉しいし、きっともっと美味しいと思える。


 やりたいことが沢山ある。スーパーに買い出しに行くのも、新しい部屋を選んだり家具を見たりするのも、こうしてイザナくんとご飯を食べるのも全部私にとってはやりたいことだ。一緒にどこかに遊びに行きたいし、いつになってもいいから真一郎の墓参りにもイザナくんと行きたい。夢なのか夢じゃないのかよく分からない場所で真一郎と話をしてあんな風に啖呵を切ってしまったんだから、私がイザナくんを幸せにするところをちゃんと見せてやらなければ。

 あとは、そう。まだその内容を教えてもらってはいないけれど、イザナくんが見つけたイザナくん自身のやりたいことをやっているところをそばで見ていたい。イザナくんのそばで生きていたい。


 どちらからも何も話し出さずに炒飯を食べ進めながら、隣に座るイザナくんの横顔を盗み見る。やっぱり美しい人だ。どんな宝石も花もこの人の美しさには敵わない。この世で一番美しい人。
 視線に気付いたのかイザナくんがこちらを見てくれて、それが嬉しくて頬が緩む。こんなに至近距離で見つめ合えるような関係になると七年前の私に言ったとしても「イザナくんの美しさに頭がやられてとうとう狂ったの?」としか返されず、決して信じては貰えないだろう。

 しかし、実際に私たちはこうして二人きりで食事をしているし、早ければ来月には一緒に暮らし始めるし、そう遠くない未来にきっと家族になる。言うなれば今の私たちは恋人のようなもの。私はイザナくんの人生のヒロインレースを見事に勝ち抜いたのだ。

 ニヤニヤしながら自分を見てくる私に気味悪そうにしているところですら愛おしく感じてしまうのだから困ったものだ。もしかしなくても、私はイザナくんのことがすごく好きみたい。

「炒飯どう? 美味しい?」
「まあそれなり」
「はー、いつもの辛口評価だ。じゃあ次は炒飯極めるか……」
「いい、もう美味い。今の時点で十分美味いから極める必要ねえ」
「いーや、私はとことんやるよ。灰谷蘭から貰ったフライパンがあればパラパラ炒飯を極められる自信がある」
「そんな自信捨てろ」
「やだよ、捨てないよ。イザナくんには美味しい中華食べて欲しいし」
「……中華以外も食べたい」
「えー! じゃあ作る!」

 それはそれとして炒飯も極めるし中華も作るけど!

 食育成功の兆しがだんだん見え始めたことに嬉しさを募らせつつ、でも中華以外にサッと作れるものがないんだよなと少し不安にもなった。ここ数年中華一筋でやってきたせいで、洋食や和食は全然なのだ。カレーとかシチューとか簡単なものなら作れるけど、それだけじゃすぐに飽きが来そう。

「スーパー行く前に本屋さん行こっか。レシピ本何冊か買うから、そこから食べたいもの選んで。他に今の時点で食べたいものとかある?」
「スペッツァティーノ」
「すぺ、え? なに?」
「ハンバーグ」
「それなら作れるけど、絶対さっきハンバーグって言ってなかったよね?」

 顔を背けて笑い出したイザナくんを覗き込もうとして避けられながら、「さっきの何」と聞き続ける。食べたいなら作るけど名前が分からないと作れないし、いきなりすぎて全然聞き取れなかった。笑ってるあたりハンバーグの別名でもなさそうだ。
 イザナくんは何も答えず、それどころか笑いすぎて涙目になり始めている。イザナくんがこうして楽しそうにしているところを見るとなんでも許してしまいそうになるけど、それとこれとは別だ。イザナくんの食育を任されたものとして、食に関しては譲れない。

「ねー、ほんとさっきの何? なんて言ってたの?」
「スペッツァティーノ」
「すぺっつぁ…………後で紙に書いて」

 イザナくんの食べたいものや好きなものはなんでも知りたいけど、難解な言葉は無理だ。イザナくんだって私がケツァルコアトルスの話をした時に「何言ってんだコイツ」という顔をしていたし、そういうものなんだと思う。ケツァルコアトルスもなかなか聞き取りにくい名前だけど、イザナくんの食べたがっているすぺっつぁなんたらかんたらも聞き取りにくい名前をしている。
 ともかく、そのすぺっつぁなんたらかんたらに関してはイザナくんに名前を紙に書いてもらってそれが一体どんな料理なのかを知るところから始めなくては。

 あーあ、またやりたいことが増えてしまった。しかもイザナくんに増やされちゃった。

「本屋さん行って、スーパー行って、餃子作って。あとは部屋もベッドも決めなきゃいけないし、他にもいろいろ買わなきゃダメだよね。やることいっぱいだ」

 残り少なくなってきた炒飯を口に運びつつ、やるべきことを指折り数えていく。個人的にやらなければいけないことも課題とかなんだとかで沢山あるし、やりたいことまで数え出したらキリがない。
 だけどどうしてだか、そうしてやりたいことが増えていっててんてこ舞いになってしまうのだと分かっていても、それが嬉しかった。これからイザナくんと生きていくというのはこういうことなのだと思うと、どんなことだって嬉しくなってきてしまう。


 ちらりと私を見たイザナくんを見つめ返す。その美しい瞳が私を見つめているのだと思うだけで、嬉しくて笑えてきてしまうのだから困りものだ。

 数年前、たった一人で悩んで迷って頭を抱えて結論を出すしかなかった私に「どうせ最後にはイザナくんのことが好きだって気持ちしか残らないよ」と教えてあげたくなった。というか、早くその気持ちに気付け。好きなら好きだと言えばいいし、そうやって向き合えばいい。

「イザナくん」
「なに」
「大好き」
「……知ってる」

 だって、好きだと言っただけでイザナくんはこんなに嬉しそうに笑ってくれる。そしてきっとそれだけで呪いは解けていくのだと、私たちはもう知っていた。

ふたつおりのひとひら