幕間 嘘つきなわたしたちの夢の話

 夢かな、と思った。気付いた時には月明かりに照らされながら私はゆっくりとブランコを漕いでいて、斜め前、ブランコを囲うように設置されたポールの上に浅く腰掛けながら真一郎が煙草を吸っている。最後に会った日と同じように店名の入ったツナギは上半身だけ脱いでいて、白いTシャツが眩しい。今でも忘れられない煙草の匂いが風もないのによく届く。


 私たちは、こんな風にして二人で夜の公園に来たことなんてあったっけ。軽く見渡しただけでもお互いの家の近所の公園だということは分かったけれど、二人だけでここに来た覚えはない。いつだって万次郎かエマが一緒だったはずだ。

 なら今この時間は何なんだろう。真一郎に聞けば分かるだろうかと思ったけれど、何をどう聞けばいいのかも分からなかった。視線を向けた先でぼんやりと月を見ている真一郎の目線を追って、私も月を見上げる。今日は満月みたいだ。

 ああでもさっきまで私は横浜にいたはずだし、雪が降っていた気もする。夕方から夜にかけて雪が降ると天気予報で言われていて、だから私はなるべく暖かいコートを着て家を出た。だけどそのコートも血に濡れたり穴が空いたりでダメにしてしまったはずだ。
 雲に遮られることなく輝き続ける月を見上げるのをやめて自分を見下ろす。羽織っているコートはやっぱり血で濡れているし、右肩と右脇腹にはそれぞれ穴が空いている。だと言うのに撃たれたはずの箇所は全くと言っていいほど痛くなかった。思わずブランコを漕ぐのを止めて服の上から肩と脇腹に触れてみたけど、服に穴が空いているだけで体には風穴ひとつ空いていない。


 なにこれ。というか、どこだここ。

 鏡がないから確認は出来ないけど触れた感じ額には包帯が巻かれているし、コートを赤く染める血はまだまだ乾いていない。つまりここにいるのはイザナくんのチームと万次郎のチームとの抗争に乗り込んで撃たれた直後の私だということになる。
 でもそれならどうして真一郎がここにいるのかが分からない。

 夢ならば真一郎との思い出をなぞるはずで、こんな風に十七歳の私と二十三歳の真一郎が同じ空間にいるはずがない。かと言って私はあのまま死んでしまって今いるここは死後の世界なのかと言われると、それも違う気がする。死んで見た事は無いから分からないけれど、でもここはそういうのじゃない。今まで見てきた夢に近い。

 真一郎ならばここがどこか分かるのだろうか。聞いてみようと顔を上げ、いきなり目が合ってしまって思わず黙る。真一郎は煙草の煙をくゆらせながら、薄く微笑んで私を見つめていた。何その顔。そんな顔で、そんな目で私を見たことがこれまでにあった?

 何とも言い難い居心地の悪さを感じて目を逸らし、地面を蹴ってブランコを揺らした。私のような十代後半の人間が使用することを想定されていないブランコは、器用に膝を折らなければつま先が直ぐに地面に触れてしまう。おろしたばかりのブーツに傷が付かないように気をつけながら、しばらくそうして無言のままブランコを漕ぎ続けた。


 ここがどこなのかという問題はさておき、イザナくんと鶴蝶は無事なのだろうか。二人とも撃たれて血を吐いていたし、特にイザナくんは場所が場所だった。助かってくれていなきゃ嫌だし助かっているはずだと信じているけど、それでも当分の間は固形物は食べられないのかもしれない。せっかく最近はあれが食べたいこれが食べたいとリクエストしてくれるようになっていたのに。……しばらく固形物が食べられなさそうなのは私もか。
 イザナくんとホワイトデーに最近話題のパンケーキを食べに行く約束を取り付けていたけど、約束を達成するのはだいぶ後になりそうだ。重傷者が複数人出た以上警察の介入は確定だろうし、私が病院を抜け出して向かった先が向かった先なので午前中の件と抗争が結び付けられる可能性も高い。クソ眼鏡は少年院入りは確定だとして、イザナくんたちにもそれなりの処罰は下るだろう。私も最低でも停学にはなる。

 ゆらゆらゆらゆら揺れながらそんなことを考えて、そう考えると現役時代の真一郎はそこまで大きな問題を起こさなかったんだなと気付いた。日本一のチームになるだなんて夢みたいなことを成し遂げたのに、当時真一郎のチームにいた人たちは逮捕歴もない。莫大な借金を作って現在進行形で弟妹に迷惑をかけてる人はいるけど。
 真一郎を介して知り合ったその人たちのことを思い出す。私に不良の作るチームの是非は分からないけど、初代黒龍はいいチームだったんだろう。みんながみんな真一郎のことが大好きだった。たまに真一郎に集会に連れられて行った時は私なんかにも親切にしてくれたし、今だって会えば声を掛けてご飯を食べさせてくれたりする。それもこれも全部、真一郎が慕われていた証拠だ。

 誰にだって慕われていた真一郎。その意思は今も引き継がれている。初代黒龍の影を、真一郎の影を追い続けている人が今もまだ沢山いる。


 揺れる影をしばらく見つめ、そのまま視線を足元から動かさずに口を開いた。どうしても聞きたいことがあった。

「真一郎はさ、万次郎のこと、好き?」
「ああ」

 風も吹いていないのに煙草の匂いが強くなって、それがなんだか染みる気がして目を瞑った。途端に視界を占めるのは黒一色になる。真一郎はもう見えなかった。
 だけどなぜだか、さっき見た笑顔は頭から消えてはくれない。振り切るようにしてまた問い掛けをぶつける。

「イザナくんのことも好き?」
「もちろん」

 当然だろうとばかりに答える声を聞きながら、これは私に都合のいい夢なのかもしれないと思った。正面にいる真一郎は私の脳みそが作り出した私に都合のいい真一郎ではないんだろうか。「エマのことは?」「おじいちゃんのことは?」「桜子ちゃんのことは?」と質問を繰り返し、その全てに一切迷うことなく文字通り即答する真一郎の声だけを聞きながら考え続ける。今目の前にいる人は、私に都合のいい真一郎なんだろうか。

 一度無言になれば、既に漕ぐことをやめてこれまでの勢いだけで勝手に動いているだけになったブランコの金具が軋む音だけが響いた。風が吹かず車の排気音も近所の家々の環境音もしない夜の公園で、私たちはただただそれを聞いている。

 結局これは夢なのか、そうではないのか。閉じた視界の中、それでも目の前でポールに浅く腰かけて私を見つめているであろう真一郎は、なんなのか。その答えを知りたいようでもあり、知りたくないようでもあった。
 だけど私はここに居続けるわけにはいかない。ここから先を一緒に生きていきたい人がいる。これから先もそばにいたいと思った人がいる。それは決して真一郎ではないのだ。私はそれをよく知っていた。


 何度か息を吸って、意を決して目を開き顔を上げた。薄く笑んだままの真一郎を見つめる。あれだけ一緒にいたはずなのに、今真一郎が何を思っているか分からない。だけど聞かないわけにもいかない。
 これで真一郎が迷うことなく私の言葉に頷いてくれたなら、目の前にいるのは私に都合のいい真一郎だ。真一郎のフリをした偽物だ。きっとこれは、私の夢だ。

「真一郎は、私のこと妹にしてくれる?」

 相変わらず微笑んだまま、真一郎は僅かに目を細めてゆっくり瞬きをした。それだけで私はもう、その先に続く言葉が分かってしまった。その表情は知っている。今もまだ覚えている。

「ごめんな」

 申し訳なさそうに、だけど迷わずに返された言葉に「そんな遠回りに言わないでよ」と言ってやりたくなりながらも大人しく頷いた。頷くしかできなかった、ともいう。

 私に都合のいいままではいてくれなかった真一郎を見つめながら、ブランコを漕ぐのをやめてからもついつい曲げ続けていた膝を伸ばし、地面に両足を着いた。靴越しに伝わってくる砂利の感覚。両手で握っていた鎖から手を離した時の微かな鉄臭さ。真一郎の微笑みと煙草の匂い。これは夢じゃない。

「どうして」
「好きだから」

 たった五文字で私をまた裏切って、真一郎は笑い続ける。私は少しだけ泣きたくなりながらも立ち上がって、たった今まで座っていたブランコの後ろ側に回り、真一郎と同じようにポールに浅く腰を預けた。さっきよりも距離は開けたけれど、それでも確かに正面にいる真一郎を再び見つめ返す。

 夢であればいいとも思ったし、夢でなければいいとも思っていた。でも夢だったとしてもそうじゃなかったとしても、私はここにはいられない。真一郎のそばでは生きていけない。
 ここに残れば真一郎と一緒にいられると言われても、私はここには残らないだろう。一人でいるとすぐに嫌な方向にばかり考えを運ぶ人が、私を待っている。私と生きることを選んで、私のそばにいてくれる。私はその人をもう二度とひとりにはしたくない。
 だから迷いも後悔もなかった。あるのはいつもの寂しさと悲しさだけ。

「真一郎」
「どうした?」
「私は真一郎のこと、大っ嫌いだった」

 ここに来て真一郎ははじめて微笑みを崩した上に即答してくれなかった。それを見ていたら、どうしてだか一度視界が大きく歪んだ後に頬を涙が伝い落ちていく。どうして今更そんなに傷付いた顔するのと言いたくなる。もう全部、本当に全部今更でしかないのに。

 たとえこの先何があったって私と真一郎は一緒には生きていけないし、私は真一郎の妹にはなれない。真一郎は私のお兄ちゃんにはなってくれない。私は真一郎に、何より望む形では選んではもらえない。

 これまで沢山傷付けられて酷いことをされて、今さっきまたその傷を抉られた。新しい呪いを私にかけた。なんてことはない顔で微笑みながら、当たり前のように私に酷いことをした。生きていた頃となんにも変わってなんていない。

 だけど私は馬鹿だから、真一郎のそういうところが大嫌いで、でも大好きだった。憎んでもいるし恨んでもいるのに、悲しくなってくるぐらいには今もずっと大好きなままだった。

 きっとこの先もずっと大好きなままだ。


 でもそれを直接真一郎に言ってやるのは負けのような気がして、代わりに最後の復讐をしてやることにした。ポールを掴んでいた手を離した反動を使って体を起こして立ち上がり、溢れて止まらない涙を無理矢理手の甲で拭ってから顔を上げる。悲しそうな顔でそれでも笑っている真一郎を見たらなんだか笑えた。私に嫌いって言われただけでそんな顔になってしまうなら、大事な弟妹たちに嫌いだなんて言われたらどうなってしまうんだろう、コイツ。

「そんな顔すんな、ばーーか!」

 拭っても拭っても溢れてくる涙はそのままに、思いっきり笑ってやった。突然子どもみたいな罵倒をされたことに驚いたのか表情を崩して目を見開いた真一郎をまた笑ってやって、そうしているうちに震え始めた声を誤魔化すみたいに更に笑う。

 誰が素直に泣いてやるか。誰が素直にお別れなんてしてやるか。

「言っとくけど、私絶ッ対に許さないから! これからもずーっと許さない! だからそこでイザナくんが私の旦那さんになるとこ黙って見てろ!」

 アンタのもう一人の大事な弟を私がアンタの呪いから奪い取ってやるから、私たちを置いて死んだことをせいぜい後悔していればいい。置いていかれた私たちがどれだけ悲しかったか、今もまだ呪いに苦しんでいるか、会えない寂しさを持て余しているかを知ればいいのだ。自分で思ってるよりも自分が好かれていたことに気付いて今更遅いんだと嘆いてしまえ。


 託されたものを守ろうとしている人が、真一郎が他の何もかもを投げ出してまで救った人をこれから先も守り続けようとしている人がいるんだから、これぐらいの復讐は許されるでしょ。私の人生を「好きだから」の一言で何度だってめちゃくちゃにした対価だ。私がこれからも真一郎にめちゃくちゃにされた人生を真一郎を大好きなままで生きていくんだから、真一郎はそれを見てればいい。それが私の復讐。

 まだまだ驚いた顔をしている真一郎を笑いながら、馬鹿にするみたいにべーっと舌を出す。きっとこれが最後なんだから好き勝手やってやる。伝えることは伝えて、アンタの呪いはこうして解けていくんだって見せ付けるみたいに泣いて、笑顔を一番に思い出してくれるように笑ってやる。

「臭いから煙草吸うのやめろばか! そんなんだから結局彼女出来なかったんだよ! ばかばかばーーか!」

 何を言われたのか反芻するように驚いた顔のまま何度か瞬きをした真一郎が、一度ぎゅっと目を細めて今にも泣き出しそうな泣きそうな顔で笑った。コイツはほんとに笑顔のバリエーションが多すぎて困る。昔は私のことを小馬鹿にするみたいに笑って沢山からかってきたくせに、最後の最後に見せてくるのはこれだ。調子が狂うじゃないか。
 でもそんなことは言ってやらない。普通に笑ってる方が好きだなんて絶対に言ってやらない。沢山泣かされたのにそんなことを言ってあげるほど私は真一郎に優しくない。

 もう一度涙を拭って、せめて私は楽しく笑ってやろうと思う。泣いてお別れだなんてそれこそ今更過ぎる。二年半前に葬儀場から逃げた時に泣いてお別れする機会からも一緒に逃げたのだ。だからもうそれは望まない。私たちは私たちに相応しいお別れをする。

「じゃあね、真一郎! アンタのこと大っ嫌い!」
「それでもオレはお前のことが好きだ」
「私は真一郎のこと大好きだから私の勝ち! ばーかばーか! 負け犬はそこら辺で吠えてろ!」

 兄妹にはなれず、従兄妹としてもいまいち正しくなれなくて、それなのに秘密を共有することは出来てしまった。そんな私たちにはこんな歪なお別れがお似合いだ。

 私の言葉に呆気に取られた顔をした真一郎が間抜け面すぎて笑えて笑えて、ちょっとだけ泣いた。

ふたつおりのひとひら