Act.13 恋の味、愛の香り
「浮気調査、ですな?」
今、探偵事務所の来客用テーブルを挟んで私達と向かい合っているのは30代前半の女性。ここ最近の夫の動向が怪しいと言う。
残業が増え、同僚との飲みに行ってばかり。私服や髪型に気を遣うようになり、一緒に居てもすぐに携帯を持って外で電話を始めるので、自分なりに調べてみたところ通話履歴に知らない番号を発見。同僚の方にも探りを入れてみたが、夫とは特に飲みに行っていないらしい。
「離婚の為の決定的な証拠を集めて下さい」
「り……」
私は思わず声を発してしまった。目の前の女性の決意は固く、離婚の意思表示をしている。よくある依頼なので、哀牙さんは特に驚きを見せない。依頼人の目的はしっかりと決まっていたので、哀牙さんは彼女の依頼を受けることにした。
依頼人の話によれば、金曜日は毎週帰りが遅いらしい。仕事が終わる時間は18時、残業をすれば20時ぐらい。夫は今朝、『同僚との飲みで遅くなる』と言っていたから確実に浮気相手と会うはずだ、と依頼人は言った。
その言葉を頼りに、私達は早速金曜である今日、18時前にターゲットの会社の前で待機をしていた。私は私服に着替えさせて貰ったが、哀牙さんはいつもの格好のままだ。まさか、普段からその格好で調査をしているのだろうか。目立ちそうなのに、よく毎回依頼を遂行出来るものだ。
「名前殿、寒くはありませぬかな?」
「大丈夫です。あ、紅茶持ってきましたよ。飲みますか?」
是非、と言うので折りたたみカップに注いで一緒に飲む。やっぱり冬はミルクティーだね。淹れてきて大正解。お陰で体が少し温まった。
18時半、ようやくターゲットが会社から出てきた。スーツをビシッと着こなしている爽やかそうな男性だ。第一印象は『良い人そう』だったけど、彼が浮気をしていると思うと、どうにも前向きな気持ちで見ることは出来なかった。
「行きましょう、名前殿」
「はい」
私と哀牙さんはすぐに後を追った。
ターゲットは飲食店に入り、席に着く。私と哀牙さんは彼が見える位置のテーブル席に座った。
「名前殿、パンケエキは食べますかな?」
「いえ。結構です」
「ではストロベリイパフェでも」
「……哀牙さん、食べたいんですか?」
哀牙さんは返事をせず、呼び出しボタンを押して、やってきた店員に今言った2つのデザートを注文した。あ、やっぱり食べたいんだ。
しばらくすると見慣れぬ女性がターゲットのテーブルへ現れた。もちろん依頼人の女性ではない。やはり同僚との飲みなんて真っ赤な嘘だった。
こちらにもパンケーキとパフェが運ばれ、哀牙さんはナイフとフォークでパンケーキを切り分ける。添えられたフルーツとホイップクリームを乗せて、私の口元へ。
「名前殿、どうぞ」
「すみません、緊張でそれどころでは……むぐっ」
断ったにも関わらず、哀牙さんは半ば強制的に私の口に入れた。もう、今は仕事中なのに……パンケーキなんて、あったかくてふわふわで、甘くてとろける……。
「どうですかな?」
「……美味しいです」
「それは良かったですぞ。甘いものは緊張を解し、思考を手助けしてくれますからな」
「哀牙さん……。ありがとうございます」
そうか、探偵としての初仕事で緊張している私を和ませる為にしてくれたんだ。デザートだけでなく哀牙さんの気遣いによっても、私の心は落ち着きを取り戻し、やる気が出てきた。
30分後、ターゲット達は食事を済ませ、飲食店から出て行く。一定の距離を保って尾行をしていると、今度はお洒落なバーへ入って行った。
「さあれ名前殿! ここは貴女の見せ所でありますぞ。ぜひ彼奴らの近くの席に掛け、このボイスレコオダアとキャメラで証拠を掴んでみて下され」
「えっ、哀牙さんは……!?」
「我は時間を置いて参ります故、後程、相見えましょう」
いきなりそんな突き放すような事を言われて困惑する。けど哀牙さんは私を見込んで、今回の浮気調査に連れてきてくれたんだ。さっきの哀牙さんの優しさで勇気を貰えたし、頑張ろう。
そう意気込みながら重いドアを開けると、ジャズっぽい音楽が耳に流れ込んで来た。バーの中は、設定してあるのか照明が薄暗い。カウンターに7席と、テーブル席が3つ。モダンでシックなロココ調の置物が飾られ(よく分かっていない)、カウンターの向こうには数え切れないほどの種類のお酒とグラスが並んでいた。率直な感想を言うとすれば、『いかにもバーって感じ』だ。
見れば、ターゲットと浮気相手はカウンター席の奥の方に座っていた。私は1つ席を空けて隣に座る。コートのポケットにはボイスレコーダーがすでにオンになっているが、写真を撮るのは少し難しい。
ああ、哀牙さん早く来てくれないかなぁ。まだ1、2分しか経っていないのに、かれこれ20分くらいここに居るみたいだ。いつバレるか気が気でない。緊張でさっきのパンケーキが出てしまいそうだ。
するとバーテンダーさんが、私の前に琥珀色のカクテルを差し出した。
「アプリコット・フィズになります。意味は『振り向いてください』……あちらのお客様からです」
「は……、えっ?」
こんなドラマみたいなベタベタな事するのは誰だ、と"あちら"の方へ目を向けると、居ましたやっぱり哀牙さんです。カウンターの一番端の席に座っています。ウインクなんかしちゃって、本当にお茶目さんなんだから。
……って、『何やってんですか哀牙さん!』と口パクでツッコミを入れると、何を勘違いしたのか人差し指をひゅっと私に投げかけるジェスチャーをした。絶対会話になってないよこれ。
私はそっと立ち上がり、哀牙さんの傍へ行く。先に口を開いたのは哀牙さんだった。
「女性に優しい甘めのカクテルですぞ。仕事中などとお気になさらず、どうぞ味わってくだされ」
「へえ、そうなんですか! ありが……じゃなくてですね。さっきから何なんですか、哀牙さん!」
「勿論、我からのエエルですぞ。して、キャメラの方は如何かな?」
デジカメの事を言われ、私は口をつぐんだ。フラッシュをOFFにしているとはいえ、ターゲット達に気付かれるのが怖くてまだ1枚も撮れていない。正直にそう話すと哀牙さんは少し考えた後、私と席を交換するように言った。
哀牙さんから頂いたアプリコット・フィズに口を付けながら眺めていると、手慣れた様子でターゲット達の写真を撮っていた。成程、そう撮るのか。なかなか勉強になる。
20分程バーに居座った後、ターゲット達が次に入ったのはそのようなアレのホテルだった。私と哀牙さんは近くのビルの非常階段からホテルの入口を見張る。いよいよこの時が来たかと思うと、どこかに吹っ飛んだ緊張感が舞い戻ってきた。そんな私の気持ちを察してか、哀牙さんが優しく私の肩に触れる。
「名前殿、風邪を召されぬよう」
「はい。哀牙さんは大丈夫ですか?」
「我は名前殿がおりますので」
つまり……どういう事だろうか。相変わらず言葉の真意が掴めない。よくわからないけど、とりあえず「そうですか」とだけ返しておく。
2時間後、そのようなホテルからターゲット達が出てきたので、すぐに門前へ行く。そうしてついに決定的な写真が撮れた――2人が一緒にそのようなホテルから出てきた瞬間の写真。これは絶対に言い逃れが出来ないだろう。
満足感に浸る私達に全く気付かぬまま、ターゲットと浮気相手は別れてそれぞれの家に帰って行った。
「名前殿、本日はここまでにしましょう。明日は報告書作りですぞ」
「わかりました。お疲れ様です、哀牙さん」
その後、哀牙さんが家まで送ってくれたが、私はどうも心ここにあらずだった。……というのも、ホテルから出てきたターゲット達の楽しそうな笑顔を見たからだ。それを目にした瞬間、何とも言えない気持ち悪さに続き、少しばかりの悲しみが私の心を襲った。
翌日、私と哀牙さんは集めた資料を元に、依頼人に渡す報告書を作成した。写真を印刷し、パソコンで行動時間と見たままの事を入力、音声データはCDに焼いた。1日のみの調査だったので、夕方にはそれを依頼人に渡すことが出来た。
依頼人の女性は報告書を見ると眉間にしわを寄せて怒りを露わにした。その後は、ふっと悲しげな笑みを浮かべ、瞳に涙を浮かべる。しかしそれを零すことなく、書類を茶封筒にしまうと、立ち上がって私達に深々と頭を下げた。
「お二方、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。また証拠がご入用な時は、どうぞ、哀牙探偵事務所へ!」
別れの挨拶を交わし、依頼人は事務所から出て行った。彼女はこれで、更に離婚の意志を固めたのだろう。……そう思うと何だか複雑で、形容し難い気持ちでいっぱいになった。
一件落着し、紅茶を入れて2人でソファに掛ける。沈んだ気持ちでティーカップを手に取ると、哀牙さんが口を開いた。
「可愛らしいお顔が曇っておりますぞ、名前殿」
「哀牙さん……」
離婚は良くないだの何だの、他人の人生についてとやかく言う権利はない。ましてや結婚経験のない私が口にするなんておかしいかもしれない。それでもやっぱり、思わずにはいられないのだ。
「……愛を誓って結婚したはずなのに、どうして本気でもない相手とあんな風に笑えるんでしょうか」
私の目に焼き付いて離れない、2人のあの笑顔。思い返す度にふつふつと苛立ちが募る。……探偵事務所に勤めておきながら、なに子どもじみたことを言っているのだろうか。しかし哀牙さんは、私の言葉を微塵も笑うことなく言った。
「恋と愛の違い、ですな」
「恋と、愛……ですか?」
哀牙さんの放った言葉を、無意識に繰り返す。
彼は角砂糖を1つ取って紅茶に落とし、続いてミルクを入れるとスプーンで優しくかき混ぜる。
「左様。恋とは砂糖、愛とはミルクなのです」
哀牙さんの視線は一点に集中している。哀牙さんの優しい目は、まるでその瞳によって砂糖とミルクが溶かされているような錯覚すら覚える。
「砂糖は甘さのみを与えますが、ミルクはその身に溶け込み、飲みやすくしてくれるのですよ」
詩的な説明ではあるが、なんとなく哀牙さんの言いたい事はわかる気がする。恋愛を紅茶に例える哀牙さんは素敵だけど、今回の件に限っては素直にその言葉を飲み込む事が出来ない。
「では今回のターゲットは、砂糖だけが欲しかったんですね」
「……悲しいことに」
そう言い、哀牙さんは紅茶を喉に流し込んだ。
恋と愛を切り離して楽しむなんて、そんな器用で不誠実な真似、私には出来そうもないな。けれど、そう説明してくれた哀牙さんは出来る……のかな。私よりずっと年上だもの、きっと色んな恋愛を経験されているはずだ。私の知らない哀牙さんを知っている人が居るんだと思うと少しだけ妬ましいような、羨ましいような気持ちに駆られる。
そんな事を考えていると、紅茶を飲み干した哀牙さんがティーカップを丁寧に置いた。
「しかして名前殿。我は欲張りゆえ、砂糖もミルクも所望しますぞ」
それは"恋"も"愛"も、という事だろうか。哀牙さんの含みを帯びた笑みが気になって視線を下げると、紅茶だけでなく、砂糖とミルクの容れ物も空になっていた。
「……おかわり、ですか?」
「よろしいかな?」
いつもの、裏表のない優しい笑顔……を見て、何故かホッとした。
私は何を気にしていたんだろう。過去よりも今、そしてこれから先の未来、哀牙さんと一緒に居られれば、それで十分なんだ。
「はい!」
私は2人分のティーカップと、砂糖とミルクの容器をトレーに乗せて給湯室へ向かう。哀牙さんの言った『両方』とは、砂糖とミルク、恋と愛、どちらを指したのだろうか。……いや、どちらだろうと構わない。
哀牙さんに愛される人はきっと幸せだろうな、と私は密かに思った。
(20170206)
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Smotherd mate